いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

連続強姦魔・小平義雄事件

「強盗強姦は日本軍隊につきものですよ」戦争は男たちを狂わせ、女子どもを苦しめた。その後遺症は男の異常性欲を開花させ、戦後の混乱期に大きな影を落とした。

発覚と逮捕

1946年(昭和21年)8月17日、東京・芝の増上寺・西向観音の裏山で木の伐採を依頼された業者が若い女性の全裸遺体を見つけて通報した。
更にその10数m傍らの草むらからも別の女性の白骨化した遺体が発見される。
 
白骨化した遺体は半袖シャツにスカートを身に着けており、ポケットに神田「サロン松」の女給募集の切り抜きが唯一見つかり、7月19日の新聞広告であることが判明したものの身元の特定にはつながらなかった。
死亡時期の違いから同一犯による連続殺人も疑われ、警視庁は愛宕署に捜査本部を設置。全裸遺体の女性は身体的特徴などから捜索願の出されていた緑川柳子さん(17)と判明する。行司・式守伊三郎の三女で銀座の喫茶店に勤めていたが、8月6日から消息が分からなくなっていた。
事情を聞くに、行方不明になる2日前、自宅にとある中年男が彼女を訪ねてきたことを家族が記憶していた。柳子さんの日記には男と会う約束が記されていたことからすぐに捜査の手が及んだ。
 
8月20日、捜査本部は渋谷在住で進駐軍のランドリー兵舎で雑役夫をしていた小平義雄(42歳)を殺人などの容疑で逮捕。取調に素直に応じ、自供を開始する。
駅で知り合った柳子さんが別の働き口を探している口ぶりだったことから「占領軍の仕事を斡旋してあげる」等の口実で気を引くと住所を交換したという。8月6日、公園におびき出して強姦、殺害に及んだと自白。
男は職場から盗んだ「進駐軍の腕章」を見せ、相手はまんまとそれを信用してしまったのである。
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だが余罪について追及を続けると小平は武勇伝さながらに次々と語り始め、犯行は2件どころでは収まらなかった。
判明したものだけで合わせて10件の強姦殺人で起訴。うち容疑をはっきりと認めた7件で有罪とされ、1948年11月16日、死刑判決が確定する。
翌年10月5日に宮城刑務所で刑が執行された。東京に処刑場がなかった当時、死刑囚が宮城刑務所に送られることを「仙台送り」と言った。
 
・1945年5月25日、勤務先の海軍衣糧廠の女子寮に住む工員(19)を強姦ののち絞殺。防空壕に遺棄。
・6月、新栃木駅で石川ヨリ(31)を山林に誘い、3度強姦したのちに絞殺、現金70円と腕時計を強奪。
・7月12日、渋谷駅で中村光子(32)を山林に誘い絞殺。現金40円入りの財布と腕時計を強奪。
・7月15日、池袋駅で紺藤和子(21)を雑木林に連れ込んで強姦、絞殺。現金60円と下駄1足を強奪。
 ・9月28日、東京駅で松下ヨシエ(21)を山村に連れ出して強姦・絞殺。現金300円と縮緬洋服を強奪。
・12月30日、浅草雷門駅で馬場寛子(18)を山村に連れ出して強姦・絞殺。現金130円とリュックを強奪。
 
その手口や発端が明らかにされると、世間は男の猟奇性と混沌の時代を憂いた。
男は女性たちに「これからコメの買い付けに行くのだが一緒に行かないか。いいところを知っている」等と言っておびき出し、山村やひと気のない場所へと連れ込んだと語った。
 
東京、栃木での嫌疑は多数浮かび上がったが、証拠不十分で起訴できなかった事案、発見の遅れで白骨化し行き倒れ(行旅死亡人)として処理されてしまった事案など、起訴できなかったものを含めればその数30件以上とされる。ひと気のない林野で野蛮な性獣に生殺与奪を握られ、生きるか死ぬかの選択を迫られた女性たちの多くはその要求に従って命をつないだ。
見栄えのしない中年男の嘘になぜそれほど多くの女性たちが容易くたぶらかされてしまったのかという向きもあるが、それだけ切羽詰まった食糧事情によって惑わされてしまった側面が強い。また公判での小平の証言によれば、殺害された女性たちは小平の性的要求を聞き入れなかった、抵抗したために殺したものだという。生き残った被害者も犠牲者も生き延びようと必死だった。それを非難するのは大きな的外れである。
 

食糧事情とヤミ市

1945年11月、幣原内閣で大蔵大臣を務めていた渋沢敬三は米国UP通信記者に対して、1946年度内に餓死・病死により1000万人の死者が見込まれると推測値を語った。当時の人口が約7200万人であることから見ても凄まじい数字であり、終戦を迎えても尚、慢性的飢餓状態に置かれていた国民は死と隣り合わせの危機的窮乏が続いていた。
GHQ公衆衛生福祉局長クロフォード・サムスは渋沢発言に対して「食糧援助を引き出すため、故意に事実を捻じ曲げた流言である」と批判的な捉え方をしたが、46年5月には皇居前で最大25万人規模ともいわれる食糧メーデーへとつながっていく。
国は1050kcal(今日の成人一人当たりに必要な栄養摂取量の約半分)にまで絞って食糧援助を要請。アメリカ側も事態を放置すれば治安の悪化につながりかねないとして救援を承諾した。
 
大戦直後のアメリカではヨーロッパ向けの支援団体しか存在せず、盛岡出身の日系アメリカ人ジャーナリスト浅野七之助らを中心に日本難民救済会が結成され、公認団体となって支援物資を募った。46年11月から届けられた食糧や衣類など生活必需品の支援は、アジア救援公認団体Licensed Agencies for Relief in Asiaの頭文字をとって「ララ物資」と呼ばれた。支援物資は1952年まで続けられ、学校給食の再開にも大きく寄与した。

戦中から食料や生活必需品の大半は配給統制が敷かれており、物資の不足から公定価格に依らない「ヤミ市」が各地で横行する。従軍で男手を取られたことによる生産力の低下に加え、戦後は満州をはじめとする資源供給地を失ったことやGHQ占領下の半無政府状態も手伝って、物資不足はますます深刻化する。
有楽町、新橋、渋谷、新宿など防空壕を埋め立てた広場に数百もの無許可露店が公然と立ち並び、人だかりをつくった。警察もGHQの指示で取締りに駆り出されたが、壊滅させるほど徹底した検挙もせず目こぼしを行ったとされている。無論、全員を収容できる施設の余裕もなかった。
 
行商人に紛れて、地方で品々を買いあさってヤミに流す、今で言うところの「転売ヤー」のごとき生業をする「担ぎ屋」の姿も戦中戦後の駅ではよく見られた。小平も「富山の薬売り」を真似た時期があったが稼ぎにはならなかったという。だがヤミに流すための物盗りではなく、売りつける側を試みていることからも口のうまさには自覚があったのであろう。
農村部から持ち込まれた食料や占領軍の流出品、焼け跡から集められた盗品などを売買、物々交換して糊口をしのぐ足しにしなければ乗り切れない時代であり、職や行き場を失った復員兵や戦火に焼け出された人々も金や食い物になる仕事を求めて市をさまよった。そうした市が基となって、50年代以降は上野・アメヤ横丁、新宿・ゴールデン街などの商店街や繁華街が形成されていく。

刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史 (新潮文庫)

肉100匁(約375g)が公定価格1円50~60銭のところ、ヤミでは100~150円。とうもろこし4本10円、握り飯1ヶ8円、リンゴ1つ5円、二級酒1升(約1800ml)公定価格8円のところ350円、と物価の混乱を物語っている。
当時の貨幣価値を現在の価値に換算するのは難しいが、1946年の大卒国家公務員の初任給が540円の頃である。一般市民には肉など夢のまた夢の食材であった。代用品ではないが、進駐軍の残飯を煮込んだいわゆる「戦後シチュー」またの名を「残飯シチュー」が一杯10円で腹の膨れる貴重なたんぱく源として人気を博したとされる。
昭和の名刑事と謳われた平塚八兵衛の聞き語りを佐々木嘉信が著した回想録『刑事一代』では、高輪署で進駐軍の残り物(食べ残しの残飯ではなく調理の残り)をドラム缶で煮込んだものが夜食としてふるまわれたエピソードが登場する。味が浸みてうまいうまいとみんなで箸を伸ばしていたが、捜査員の一人が「なかなか食いっちぎれねえ」と言ったので硬いスジ肉か何かかと思った。吐き出してみると衛生サック(コンドーム)が混じっていたという。
残飯廃棄物やヤミ市で出回る食べ物にゴミが混じることは事実あったと想像されるが、「コンドームが出てきた」は小平のわいせつ犯行に引っ掛けた質の悪いジョークと思われる。
 
当時の食糧難を象徴する人物として、東京区裁判所判事・山口良忠の名が知られている。経済事犯専任の判事であった山口は、食糧事情の悪化と取り締まり強化によって食糧管理法違反の事案を数多く担当していた。
裁判官の社会的地位は今日に比べて非常に低く、給与も充分ではなかったことから弁護士への鞍替えが後を絶たなかった。山口も日々の食事に困窮したが、自身がヤミに手を染めれば被告人たちを厳正に裁くことができないと考えて法令順守の信念を固めた。配給の多くは3歳と6歳の二児に充て、自分はほとんど汁ばかりの粥をすすり、畑で芋の栽培など栄養改善の努力はしていたものの、過労と栄養失調で体調は悪化。家族を支えるため弱った体で勤めを続け、47年8月に倒れて故郷・佐賀県杵島郡白石で療養することとなった。ようやく配給以外の食事も口にできるようになったが回復には至らず、10月11日、栄養失調による肺浸潤により息を引き取った。享年33歳。
 
その後、新聞は彼の死を「食糧統制に死の抗議」と銘打って報じ、父親から渡された死の床で山口が綴ったとする日記の一部を伝えた。記事を書いた分部秋成は、自身を鼓舞するために書いたものではないかとしている。
食糧統制法は悪法だ、しかし法律としてある以上、國民は絶対にこれに服從せねばならない自分はどれほど苦しくともヤミ買出しなんかは絶対にやらない、從つてこれをおかすものは断固として処断せねばならない、自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している、今日法治國の國民にはとくにこの精神が必要だ、自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ敢然ヤミと闘つて餓死するのだ自分の日々の生活は全く死の行進であつた、判検事の中にもひそかにヤミ買して何知らぬ顔で役所に出ているのに、自分だけは今かくして清い死の行進を続けていることを思うと全く病苦を忘れていゝ気持だ〔1947年11月5日、朝日新聞
だが山口の妻は日記の存在や他の判事を糾弾するような文面について疑念を示しており、生前の彼は次のように話していたと回想している。
人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない。闇にかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信がもてないだろう。これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい。
山口の死は人々に衝撃を与え、多くの場合は同情的に捉えられたが、中にはその馬鹿正直さに呆れたり、捏造を疑う声もあった。米ワシントンポストニューヨークタイムズ紙では彼の高潔さに最大限の敬意の言葉でその早すぎる死を悼んだ。事件の影響を受け、マッカーサーは裁判官の給与改善を指示したとも伝えられる。
日記の真偽を追及する手立てはないが、日本のメディアや野党側には動乱を煽情する「火種」に彼の死を利用しようとした可能性は十分考えられる。少なくとも配給だけではもはや人々の暮らしが成り立たないところまで切迫していたのは事実である。生きていくためにヤミに手を出すのは当たり前。「貧すれば鈍する」といった慣用句もあるが、人々は家族の食べ物を得るために盗みや横領さえ厭わない、「背に腹は代えられない」を地でいく時代だった。
 

半生

小平義雄は1905年(明治38年)に栃木県日光の商人宿『橋本屋』の第6子(三男)として生まれた。父方は精神異常の気が強い家系とされ、小平の兄弟も6人のうち3人が地元では精神薄弱と性的放縦で知られていた。かつては当地でも有数の宿とされていたが父親の代で家業は傾き財産の多くを手離した。
小平の小学校での成績は23人中21番、「不注意」「不熱心」「粗野にして乱暴」と辛辣な査定が記録されている。
東京や栃木で工員や食品店員などの職を経て、23年に横須賀海兵団に志願入隊。当時は人気のない職業で、機関兵としてオーストラリア、ヨーロッパへ遠洋航海に出向することもあった。吃音症で女性経験のなかった小平は入隊後に性的放埓の味を覚えていった。
 
当時、大陸では広東を基盤とした中国国民党が勢力を増し、孫文の後を受けた蒋介石が北伐を進めていた。1927年、北伐軍は南京を占領し、一部強硬派によって日本を含む各国領事館も攻撃を受ける。当初は幣原外交により不干渉主義を採ったが、4月に憲政会・若槻内閣が倒れ、立憲政友会田中義一が首相(外相を兼任)の座に就くと、反共姿勢を強めるイギリス、フランス、ドイツら欧州列強との協調路線に転換。
5月27日、山東省の日本権益と居留邦人およそ2万人の保護、治安維持の名目で派兵を決める。(翌28年に張作霖爆殺、31年に満州事変と、大陸への進出に大きく舵を切る転換期であった。)
小平は、27年の第二次山東出兵、28年の済南事変に際して海軍陸戦隊の一員として日清紡工場の防備に当たり、市街戦を経験した。小平は戦地で経験した日本軍の蛮行を次のように語っている。
太沽(タークー)では強姦のちょっとすごいことをやりました。仲間4、5人で支那人の民家へ行って父親を縛りあげて、戸棚の中へ入れちまって、姑娘(クウニャン)を出せといって出させます。それから関係して真珠を取ってきてしまうんです。強盗強姦は日本軍隊のつきものですよ。銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で刺して子供を出したりしました。私も5、6人はやっています。わしも相当残酷なことをしたもんです。〔予審調書〕
29年5月、24歳で三等機関兵曹に昇進、戦時の功で勲八等旭日章を受けて除隊した。
栃木県足尾の精銅所に勤めたが、親戚の娘を孕ませて私生児を産ませた。32年に地元の神主の家の娘と結婚するも、私生児の存在を知られて4か月で実家に逃げられる。妻に復縁を断られて逆上し、妻の実家に押し掛けた小平は鉄の棒で妻の父親を殺害、6人にけがを負わせた。この事件で懲役15年を言い渡され、小菅刑務所に服役した。
 
二度の恩赦により8年後に仮出所すると、サイパンで飛行場の建設作業をした。
帰国後の44年には前科を隠して再婚し、翌年2月には男児を授かった。妻は毎晩セックスを求められ、年齢に比して頻繁だと感じていたが変態行為を求められたりということもないので、まさかそんな事件を起こすとは思ってもみなかったという。周囲からは愛妻家で子煩悩な小心者と思われていた。
 
大戦末期、小平は妻子を富山に疎開させ、品川の海軍衣糧廠で住み込みの釜たき仕事に勤しんだ。海軍とはいえ内地に男手は残っておらず、多くの者が疎開しており、女子寮での開放的な空気が小心者の淫欲に再び火を点けた。男は風呂場の目隠しに穴を開けての品定めするのを密かな愉楽としていた。
45年5月25日の昼、工員の宮崎光子がボイラー室にいた小平に別れを告げに訪れた。盲腸の手術を受けるために一時的に上京して寮にいたが、疎開先に戻ることになったので挨拶回りをしているという。
以前、宮崎から「手術明けで湯舟に入れないから体を拭くのに湯を貰いたい」と頼まれて以来、小平の中で彼女は特別な関心の対象になっていた。小平は後を付けて彼女の部屋に行き、関係を求めたが断られた。抵抗されたことから首を絞めて失神させ、力づくで欲望を遂げた。改めて絞め殺すと遺体を防空壕に隠したまま、小平は通常業務を続けた。
7月になって遺体はようやく発見され、軍隊での事件なので憲兵隊が独自に調査を行ったが、そのまま終戦を迎えて捜査は打ち切りとなった。
男の犯行が判明したのは、当時の解剖を担当した慶応大学・中館久平教授が小平の連続犯行を聞きつけて所見の類似性に気づいた46年8月の終わりになってのことであった。
 
精神鑑定を行った内村教授は、強姦殺人でも一年以上にわたって犯行を反復的に繰り返していることから、突発的というより意識的・計画的といえ、自制しうる理性・判断力はあったと判断。強烈な性的衝動や残虐な暴力性を備えた精神病質ではあるが刑事責任を問えるとした。
 
男は犯行様態について次のように述べた。
私が女たちを殺害した理由は、女の死に顔を見て喜ぶとか、死の苦しみを見て喜ぶといったことではないのです。第一には、女は殺さねばいうことをきかない。殺してからゆっくり楽しんでやろうと思うのです。第二には、女を絞めて弱らせると手足を伸ばしてしまいますが、そのとき両方の足を広げて下を見て、それから関係するのがいいのです。第三には、女が死んでから下を見ようという好奇心があったのです。陰部を見る楽しみはこんどの犯行以来です。M子以来です。普通のやり方より強姦のほうがいいです。自由になりますから。女を横にして下を見ながら関係しようとする瞬間が、なんともいえないのです。殺されてもいいと思う時があります。日本刀でうしろから首を斬られてもかまいません。そんなによいのです。100%以上です。死体でも同じことです
 
「衣糧廠に一年半もいましたから女人操縦はずいぶん研究しました」と男は逮捕後に振り返っている。
女に気に入られるには衣装でも買ってやるのが一番です。私は相手のスタイルを見て話しかけるのです」。『大映で衣装着付けをやっていたんだよ』等とでたらめを言って『あんたは紺色のブラウスを着て白いスカートを履いたら曲線美が素晴らしくなるよ』とか言ってやると女は100%有頂天になってしまいますね。しかし終戦前後は何といっても食料が女の心を一番動かしました。私はそれを利用したのです。中村など渋谷に切符を買いに来て、わざわざ栃木まで私の後をついてきたのですからね。 〔内村祐之『稀有なる凌辱殺人事件の精神鑑定記録』〕
 
「自分は荘厳な気持ちですべてを清算し、静かな気持ちで死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うしてください」なる遺書と、「亡きみ霊、赦し給へし過去の罪、今日を最後に深く果てなん」という辞世の句を残している。享年42。
 
 
◆所感
同時期の1946~47年にかけて埼玉県の大宮駅周辺で「就職口を斡旋する」と女性を誘い出し、山林で殺害する事件が頻発し、その手口から「第二小平事件」と呼ばれた。目撃されていた不審者の人相などから犯人は特定され、5件を自供。こちらは金品の強奪が目的とされ、殺人および強盗殺人の3件で死刑判決を受けた。
後の1971年3~5月にかけて群馬県で16~21歳の若い女性を狙って車から声を掛け、立て続けに8人を殺害した連続強姦殺人魔・大久保清元死刑囚はメディアで「群馬の小平」とも呼ばれた。
相手の心情や個人の尊厳を踏みにじる強姦魔・連続わいせつ犯の心理は、常人には一見理解しがたい。だが小平の遺書に書かれたあまりにも身勝手な「清算」という言葉がその全てを表しているようにも思える。彼らにとって強姦やわいせつ行為は、犯罪ではなく生理的プロセス、自慰行為に過ぎないのである。
 
小平は時代の混乱に乗じて「味をしめた」とも言えるが、果たしてそうとも言い切れない。彼のような異常性欲者はいつの時代にも少なからず存在する。一線を越えるか越えないかは環境因子に大きく左右される。
かつては「ナンパ師」等と呼ばれる輩が「引っかからなくて当たり前。食い付く相手に会えるまで繰り返せ」とまるで魚釣りか何かのように教示するさまをテレビなどでも目にしたものだが、己の肉欲を満たすために被害者を顧みない横暴なやり口はほとんど犯罪者の手口と変わりない。
レイプドラッグ、セックスドラッグと称される違法薬物が濫用される昨今、ナンパや声掛けはより危険や狂気と背中合わせであることを年齢・性別問わず自覚されたい。これは第二、第三の小平へと変貌しかねない諸君への忠告でもある。
 
 
被害者のご冥福と、性被害に遭われた方々の心の安寧を祈ります。