アメリカ・ニューメキシコ州で起きた女子大学生の失踪事件は、一枚のポラロイド写真の発見で全国的に知られることとなる。謎めいた未解決事件として長らく議論されてきたが、35年後、地元捜査当局は捜査の終結を発表した。
概要
1988年9月20日(火)、ニューメキシコ州バレンシア郡ベレンに住むニューメキシコ大学バレンシア・カレッジの2年生タラ・リー・キャリコ(当時19歳)は大学へ行くため9時半頃に家を出た。
彼女の自転車は数日前に故障していたため、その日はピンク色のハフィー・マウンテンバイク(未舗装路も走行可能なタイヤ幅の広いマウンテンバイク)を母親から借りていった。ブルッグストリートにある自宅から州道47号線を南下し、キャンパスまでは自転車でおよそ15分の道程である。
その日は12時半からボーイフレンドとのテニスの約束があり、「正午までには家に帰るから。戻らなければ、またどこかで自転車が故障してるかもだから迎えに来てね」と冗談交じりに母親パティさんに伝えていた。しかし彼女は実際に帰宅せず、母親は昼過ぎに通学路を二往復し、近隣を捜し回ったがマウンテンバイクさえ見当たらず。結局、タラはテニスにも午後の授業にも姿を現さなかった。
ベレンは南北に細長い小さな町で、東西は荒涼とした乾燥地帯に囲まれており、大学生といえども行き先はごく限られていた。事故を疑って病院や救急などに確認を取ったが消息は掴めず、心配したパティさんは15時頃に警察に通報する。娘は以前に車で後をつけられたことを母親に相談したこともあった。

失踪当時のタラ・キャリコの情報は以下。
1969年2月生まれの白人女性
身長5フィート7インチ(約170センチ)、体重115-120ポンド(50数キロ)
髪色はブラウン、右の額に「逆毛」の特徴がある
瞳は、緑がかった栗色で乱視だった
右肩の後ろに古い大きな傷痕、片足の後ろに硬貨大の茶色い痣があった
奥歯に詰め物が被せてあった
着衣は、「ベーリン第一国立銀行」のプリントTシャツ、緑色の縞の入った白い短パン、白いアンクルソックス、白いテニスシューズ
装飾品は、ダイヤ入りの金色のバタフライリング、ゴールドアメジストの指輪、ハーフインチ(約1.5センチ)大のループイヤリング
持参していた私物の詳細は分かっていない
そのほか、彼女は社交性を生かして上記銀行の窓口業務で働いており、将来は心理学者や精神科医の道を目指していたとされる。
周辺では7人の目撃者が見つかり、保安局はタラが11時半から45分頃にかけて47号線を自宅のある北方向へ向かってマウンテンバイクを漕いでいたことを確認する。自宅からおよそ2マイル(3.2キロ)東で目撃情報は途切れていた。
それぞれ別の地点にいた目撃者5人は「古いピックアップトラックが彼女の真後ろを追走していた」と述べた。トラックの後部には手製のキャンピング・セルが付いていた、車種は1953年型のフォード車ではないかとの情報もあった。車内にいた人物は彼女の顔見知りだったのか、見知らぬ相手だったかは分からない。だが彼女は耳にイヤホンをしており、背後のトラックの存在に気づいていないように見えたと言う。
タラはその日のうちに行方不明者登録された。トラブルや連れ去りの現場を見た目撃者はいなかったが、拉致・誘拐など不正行為に巻き込まれたおそれがあると通知が加えられた。犯人は白昼堂々、大通り沿いで彼女を連れ去ったのであろうか。
地元保安局、州警察、軍部隊、数百名もの市民ボランティアを動員して2週間にも及ぶ大規模な捜索活動が続けられた。だが悪天候もあって捜索は困難を極め、発見できたのは、州道47号線から路肩へ逸れたことを示す自転車のタイヤ痕と、タラが携行していたウォークマンラジカセと彼女が好んだロックバンド「ボストン」のカセットテープだけだった。
保安官によれば自転車のタイヤ痕はトラブルを思わせるものだったと言う。またウォークマンとカセットテープが落ちていたのは47号線から東に30キロも外れたマンツァーの山脈の麓にある「ジョン・F・ケネディキャンプ場近く」だった。不毛の低木帯を30キロも移動してなぜ山へ向かっていたのか。
母パティさんは目撃地点やタイヤ痕の現場から外れていることから、タラは何者かに拉致され、連れ去られる道中で自身の位置情報を知らせるためにウォークマンを投げ捨てたのではないかと推測している。乗っていたマウンテンバイクも見ればそれと分かる特徴を備えていたことから、発覚を恐れた犯人が持ち去った可能性が考えられた。
謎のポラロイド写真
ジョンさんがパティさんと再婚したのはタラが6歳のときで、10数年来、わが子として生活を共にしてきた。失踪当初はナーバスになり「警察を含む多くの人々をかなり緊張させていたと思う」と自身も反省するほどの剣幕で、再会のためにあらゆる手立てを尽くさんと各方面に捜索協力を訴えて奔走していた。
失踪から約10か月後、タラの継父ジョン・ドエルさんの元に友人から連絡が入った。
「『A Current Affair(FOXのワイドショー番組)』を見ていたら、フロリダで見つかった不審なポラロイド写真のニュースが紹介された。そこにきみの娘さんとそっくりな女の子が映っていたんだ」
1989年7月28日、ジョンさんは捜査機関に連絡して、番組で紹介されたポラロイドに関する情報確認を求めた。ポラロイドは自宅から1500マイル近く(2400キロ強)離れたフロリダ州ポート・セント・ジョーのコンビニエンスストア駐車場で見つかったものと分かった。
ポート・セント・ジョーは人口およそ一万人規模のコミュニティで、大きく栄えてはいない。穏やかな内海メキシコビーチに面しており、ヨットなどのマリンリゾートを楽しみに遠方からも人が訪れる小さな観光地である。
現地の報告書によれば、89年6月15日に隣の敷地に住む女性が発見したもので、写真発見前、口ひげを生やした30歳代男性が窓のない白色の貨物バンをその場に停めていたとされる。写真撮影は、駐車されていた窓のないバンの後部室のように思われた。女性がポラを見つけたときにはすでに車はなく、たまたま車内から落ちたものなのか、運転者が意図して置いていったものかは判別がつかない。

写真には、失踪時にタラが着ていたものとは異なるが、Tシャツに短パン姿をした10代後半らしき少女が横たわっている。はっきりと分からないがその顔立ちは確かにタラとよく似ていた。また隣には10歳前後と思しき短髪の白人少年らしき人物が映っている。共に口にダクトテープを貼られ、おそらく後ろ手に拘束された状態で寝具の上で険しい表情を浮かべる彼らは、どう考えても拉致・監禁の被害者にしか見えなかった。
犯罪者が自らの犯行歴を刻む“メモリアル”として、被害者の所持品を収集したり、撮影すること自体はそれほど珍しいことではないかもしれない。だがそうした犯罪者の“コレクション”が流出するというのは実に奇妙に思われた。写真の信憑性を疑い、悪質ないたずらではないかとする見方は今日まで存在する。
「私たちはただただ唖然としました」
フロリダ州ガルフ郡の保安官は発見時の心境をそう振り返る。彼らの目から見て、とてもそれが単なるいたずらのようには思えなかったという。
周辺で聞き込みを行うと、写真発見と同じ日、ポート・セント・ジョー周辺のビーチで10代の少女が数人の年配の白人男性と一緒にいたとの目撃情報があった。彼らは海岸沿いで少女に何か命令しているような様子だったという。それと聞くと不審な印象を受けるが、家族や親戚との同行を煙たがる反抗期のティーンエイジャーだったかもしれず、少年に関する目撃はなかった。目撃された少女が写真の少女だったかは判別しきれず、彼らの人間関係や少女の意志に反して拘束を受けていたのか等は分かっていない。
車両発見のため交通規制を実施したが時すでに遅く、フロリダ周辺での失踪者との照合も行われたが合致する人物は浮かばなかった。
保安官は「(タラの)失踪事件から一年近く経って写真がもたらされたのは奇妙なことだが、誰かが手掛かりを送ろうとしているのであれば、私たちが行動できる写真を送ってほしい」とメディアを通じて犯人に呼び掛けた。車の中に少年少女が匿われていることを示唆してはいたが、彼らがどこの誰なのか、何の目的で撮影されたものなのかも判断がつきかねた。
謎のポラロイド、そして関連が疑われる同年代の行方不明者たちは、全米で高い人気を誇ったトークショー『オプラ・ウィンフリー・ショー』や『アメリカズ・モスト・ウォンテッド(アメリカ最重要指名手配)』など多くの犯罪捜査番組、全国紙でも度々取り上げられ、全米で広く知られることとなった。
「少女はタラ・キャリコにちがいない」「犯人は故意にポラロイドを残して社会不安を煽ろうとした愉快犯ではないか」と様々な憶測が飛び交った。

タラの母親パティ・ドエルさんはこめかみのくせ毛や耳の形などから被写体となったのは連れ去られたわが娘だと信じていた。情報提供があれば全国各地に足を運び、各地の法執行機関に周っては捜査協力を求め、テレビカメラの前で10年にも渡って愛する娘のことを語り続けた。情報が途絶えれば霊能力者を頼ったことも一度や二度の話ではなかった。私たちにそうした行動を逸脱だと非難する権限はない。
継父ジョン・ドエルさんは「彼女の失踪にだれが責任を負うかではなく、何が起こったのかを知りたいだけなのです」「パティは『もし遺体が出てきたら、そのときは受け入れる』と話しています。私たちは何年もそうした“代替案”を受け入れてはきました。しかし可能性は高くはありませんが、私たちは今でも希望を失ってはいません」と再会の日を信じた。1998年、家族はパティの「法的死亡」手続きに合意し、裁判所は彼女の死を「殺人」と裁定して、事件捜査の継続を促した。
2003年、パティさんは「ここではタラのことを思い出さずにはいられない」と長年暮らしたニューメキシコ州の自宅を離れ、フロリダ州ポート・シャーロットへと転居した。娘の使っていたベッドと再会の暁に開けてもらうつもりで用意していたプレゼントと一緒に。しかし脳卒中を繰り返し、思い半ばにして2006年に永い眠りについた。
善良な家族はコミュニティからも信頼があり、人々は公私ともに捜索を支援した。初期の捜索活動を手伝った近隣住民ビリーさんは、タラの通学ルート周辺の荒れ地で延々と続く低木の茂みを探し尽くしたことを振り返る。「しかし自分たちが果たして何を探しているのかも分かりませんでした。手がかりもなく堪え切れなくなって、ドエルの家の電話番やビラ配りに回りました」。
パティさんは警察に何か情報が届いたらすぐに知らせてほしいと要請しており、ビリーさんもおよそ2年の間にわたって彼女の傍に寄り添って報告を受けた。「同じ母親として、パティがそのような経験をしているのを見ると悲痛で言葉もありません」。“無事の発見”という吉報だけを心待ちにしながらも、彼女は連日のように身元不明遺体や真偽不明な情報、心の痛むような明らかなデマを聞かされ続けねばならなかった。
タラの高校の同級生でマーチングバンド仲間として青春時代を共に過ごしたメリンダ・エスキベル氏は、ロサンゼルスのエンターテインメント業界に就職し、フィルムメーカーとなった。2000年代後半からタラの家族とも連携し、彼女の捜索支援のために動画制作や独自取材を交えたポッドキャストを公開し、幅広い支援の輪を今日につないできた。一人の人間の失踪は、家族のみならず知人、友人の人生にも大きな影響を及ぼし、地域社会にも安全に対する強い危機意識をもたらした。
事件当時、高校2年生だったタラの義理の妹ミシェル・ドエルさんは、母パティさん亡きあと、その意志を継いで捜索の表舞台に立つようになった。後年のインタビューでは「当初はきっと見つかると確信がありました。郡のだれもが捜索を手伝ってくれ、これほどの助けがあれば見つけられない場所なんてないように思えたほどです」と振り返る。
その後、ポラロイドの発見があり「みんなからは“映っているのは彼女なの?”と聞かれ、イエスかノーか選択を迫られるようになった。けれど意味はあるのでしょうか?いいえ、私が何を答えたところで彼女にはたどり着けません」、「これは単なる都市伝説などではないのです」とときに憤りを見せた。
「みなさんに覚えておいてもらいたいことは」
ひとつ屋根の下、タラと共に成長し、彼女の失踪後も家族の背中を見続けてきたミシェルは語る。
「もしいなくなったのがタラではなく、私たち家族や大切な友人、近くにいる人だったとしたら、彼女はきっと手を差し伸べ、諦めることなく探し続けるような人間だったということです」。

10年来、メディアで何度となく取り上げられたタラ・キャリコの失踪はインターネット普及後も様々なフォーラムで議題となり意見交換がなされた。各地で発見される身元不明遺体との照合も続けられてはいたが、捜査の進展は久しく途絶えた。
マイケル・ヘンリーの失踪
一緒に写っている少年に関する初期の仮説として、マイケル・ヘンリー・ジュニア(当時9歳)ではないかと考えられた。
ヘンリーは88年4月21日に父やその友人たちに連れられてニューメキシコ州のズニ山脈オソ尾根近くで七面鳥を狩るためキャンプをしに訪れた。しかし大人たちが荷物整理に追われる間、到着からわずか20分のうちに忽然と姿を消してしまった。
少年の父親はすぐに行方不明を通報し、ボランティア、州警官や軍兵ら最大で400人を動員して、半径16マイルの荒野を一週間くまなく捜索したが手掛かりは見つからなかった(雪中に足跡が見つかったが、捜索隊の履物だった可能性もあり、少年の靴跡かは断定できなかった)。直後には吹雪に見舞われて警察犬も役に立たなくなってしまい、ヘリでの上空捜索も行われたが山の天候不良で中断を余儀なくされた。
生還は絶望視され、専門家は行方不明のハイカーは低体温症などの影響により、岩の隙間や閉鎖空間に身を潜めようとする「終末潜行」と呼ばれる行動を示すことがあると解説した。

「怯えているみたいだ。怖がってはいるが、体は大丈夫そうに見える。その点には感謝したい」
ポラロイド写真の存在を聞き知ったヘンリーの両親は一目見てわが子に違いないと確信し、奇跡の存命を知って喜びのあまり号泣した。タラの母親パティさんも「奇妙に思われるかもしれませんが」と前置きしたうえで、彼らと写真発見の喜びを分かち、画面越しに犯人に向けてメッセージを送った。
「私たちと同じように、子どもたちを大切に扱ってくれることを願います」
タラの失踪したベレンとマイケル少年が消えたズニ山脈のキャンプ地との距離はおよそ50マイル、車で2~3時間である。犯人はキャンプ客や旅行者を装い、各地で犯行を繰り返していたのだろうか。性別も背格好も異なる彼らを攫う目的としては、奴隷として傍に置いておくか、人身売買などが想定された。
キャンプ場や広域公園のような、遠方から客が訪れ、人目の行き渡らない屋外行楽地は犯罪者のホットスポットにされる傾向があると犯罪学者は指摘する。これはスマートフォンや防犯カメラが普及した今日でも適合する犯罪理論である。
ポラロイド写真は、州のFBI犯罪研究所で人相測定に掛けられることとなり、両家族も自宅にあった子どもの写真をかき集めて比較検証の試料に提出した。ポラロイド写真はぼやけていて分かりづらいが、少年少女の周りに「プラスチックカップ」「水鉄砲」「本」が映り込んでいた。
憶測の域を出ないが、カップや水鉄砲はキャンプなどの行楽を想起させる。あるいは彼らが横たわる後部室の寝具も車中泊のために持ち込まれたと推測できなくもない。仮説のひとつとして、DV気質な親がわが子たちを折檻したといった解釈も可能である。
本は1982年に出版されたV.C.アンドリュース著『My Sweet Audrina(邦題・オードリナ)』で、アンドリュース本人による唯一の単著にして北米でベストセラーとなった(アンドリュースは86年に亡くなるも、複数の覆面作家により同名義が使用され作品は死後も発表されている)。内容は1960~70年代を舞台とするゴシックホラーの世界観で、登場人物の洗脳や家族の近親相姦や異常性愛を描いている。
母親によれば「タラも同じ作家の本を読んでいた」が、彼女は失踪時に自分の本を持ち歩いていなかったという。だが長期監禁事案では犯人が被害者に対して限定的に「娯楽」を提供することもしばしば報告されている。たとえば1990年から2000年にかけて新潟で起きた少女監禁事件でも男は自分好みの雑誌やラジオなどを分け与えて話し相手にさせようとしていたことが報告されている。犯人がお気に入りの本を小さな娯楽として与えていたのだろうか。
あるいはその本の内容と照らせば、猟奇趣味な犯罪者が「お前もこういう世界に連れて行ってやる」と少女を当惑せしめるために与えた、そして彼女もその絶望的状況からの心的逃避、自己防衛のために物語世界に没入して現実の苦難を乗り越えていたとも想像される。
「It was inconclusive.(結論には至りませんでした)」
アルバカーキ現地事務所のFBI特別捜査官ダグ・ベルトン氏は、研究所では写真の人物が行方不明者と一致するか否か判断不能と報告した。だがポラロイド社の協力により、89年5月以降に販売されたフィルムの使用が明らかとされた。つまり写真は撮影からそれほど間を置かずに発見に至ったことになる。
スコットランドヤードへも調査協力が依頼され、顔認証の専門家は写真の少女がタラである可能性が高い、その一致は85%の確度と進言した。完全一致とまではいかなくとも相当に高い数値である。
※だがどのような経緯でスコットランドヤードが調査を受諾したものか、具体的にどのような識別作業があったのか、といった経緯や詳細な情報はネット上では見当たらない。テレビの企画などで行われたものだろうか。
しかしポラロイド発見から1年後の1990年6月、ズニ山脈近郊のシボラ郡にあるマツやスギなどの針葉樹林帯で、牧場主の男性が小さな白骨遺体と衣服の一部を発見する。こどもは医療記録などが少ないこともあり鑑定に5日もの時間を要したが、歯の治療痕などから2年前に失踪したマイケル・ヘンリーのものと特定された。見つかったのはキャンプ地からおよそ11キロ離れた地点とされ、山中ではぐれて遭難したものとみられ、死因は低体温症と推測された。
法医鑑定の結果を報告した保安官は「マイケルが生きて山を下りたことを示唆するものは今のところ何もない」と付け加え、連れ去りの可能性を排除した。7月、少年の地元教会で追悼式が催された。
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マイケル・ヘンリーの遺体発見の報は、少年の家族はもちろんのこと、彼らと希望を共有していたタラの家族にとっても大きなショックだったと思われる。鑑定結果は、“決定的”に思えても、写真一枚だけでは人定すら困難であることを世間に示した。また写真の少年との不一致は、親であってもわが子を見間違えるということ、生存を強く期待する心的作用から免れられない認知の揺らぎを引き起こすことを意味した。
その後、連邦最高峰の頭脳が集まる先端科学技術の総合研究所「ロスアラモス国立研究所」でもポラロイドの認証解析が実施されるが、結果的に「写真の少女はタラではない」と結論付けられた。
それでも尚、パティさんは「もしかして」でも「おそらく」でもなく、被写体の少女は間違いなく自分の娘タラだと信じ続けた。現代病理学において彼女の心理状態はおそらく「複雑な悲しみ」「病的悲嘆」と呼ばれ、治療を要するうつ病の一種と診断される可能性がある。だが夫や世の理解者たちは、それを母親の不屈の愛情として受け容れたのである。
写真の奥に映った少年がヘンリーでないことは特定されたが、彼の名前や所在は現在も分かっていない。いまだ認知されていない誘拐事件だとすれば恐るべきことである。ネット上では、「少年」のように見えるが実際には「少年のように」短髪に刈られた少女の可能性はないかといった仮説も提起されている。
フランクリン・フロイド犯行説
犯人像に合致しそうな人物として、Webフォーラムでは2002年11月に死刑判決を受けて話題となったフランクリン・フロイドの名がしばしば挙がる。
詳細は別エントリに譲るが、フロイドは妻の連れ子だった女児を誘拐して、いくつもの偽名を駆使しながら15年近くにわたって全米各地を転々とし、大小の犯罪を重ねた元死刑囚である。彼は攫った女児を表向きは自分の「娘」としながら、ときに家政婦、ときに性奴隷、成長してからはストリップダンサーや売春婦として金づるにしていた。
89年に「娘」の同僚女性を殺害したことから、捜査の目を欺くために名前を変えて結婚し、男女は「父娘」から「夫婦」へと関係を変えた。その「妻」も90年4月に保険金を掛けて殺害された疑惑がある。フロイドは育児を放棄していたため、彼女の赤ん坊は福祉局に保護されて養子に出された。その後、男は「息子」の剥奪は違法だと主張して面会を求めたが、鑑定により両者の間に生物学的な父子関係が認められず、裁判で親権を正式に抹消された。ことはそれで収まらず、94年に男は小学校に押し掛けて「息子」を連れ去った。だが2か月後に逮捕されたとき、フロイドは連れ去った子どもを同行していなかった。男は子どもの所在を明らかにしようとせず、殺害も否認し続けた。
フロイドは児童誘拐等の罪により50年以上の懲役刑を受けたが、殺人罪立証の決定的な証拠がなかったため死刑を免れた。しかし95年3月になってフロイドが誘拐時に強奪した車両が見つかり、その中から「娘」のヌードや拷問中の女性の写真の切り抜きが多数発見される。拷問写真の女性はすぐには特定できなかったが、フロイド周辺の捜査を継続した結果、同時期にフロリダで発見された白骨遺体が「父娘」と交際のあったシェリル・コメッソだと特定されるきっかけとなった。2002年に再び裁判が開かれ、改めて男には第一種殺人罪での死刑判決が下された。
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本件の起きた88年、フロイドは「娘」のシャロンを連れてフロリダ州に流れ着いていた。シャロンはタンパにあるストリップクラブ「モン・ヴィーナス」に勤め始めた。その年の3月にシャロンは男児を出産。彼女は11月下旬まで働き、年末にケンタッキー州ルイビルで自殺未遂を起こしたとされる。翌89年1月にタンパに戻りストリップダンサーに復帰したが、5月になると暮らしていたトレーラーハウスを出たきり「父娘」は姿を消す。同僚シェリル・コメッソは、二人の失踪より少し前、4月上旬から行方不明となっていた。
95年に発見された写真の切り抜きは97枚で、主だった被写体は「娘」シャロン、オクラホマ時代に近隣で暮らしていた女児、フロイドがかつて乗っていたボート、フロリダ時代のベビーシッターの少女、拷問を受けたシェリルとされており、ポラロイドに映っていた少年少女に該当する報告はない。
フロイドは全米を股にかけており、大小幾つの余罪があるやら分からない凶悪犯で、「記念撮影」を行っていたことからも嫌疑をかけられても当然の人物だ。そしていずれの裁判でも男は虚偽証言で身を固め、あらゆる詭弁によって決して殺害だけは認めようとせず、死刑回避のため再審理を訴え続けていた。男がようやく殺害を認める供述をしたのは逮捕から20年後の2014年だった。
捜査機関も写真に映った暴行被害女性をシェリルと特定するまで執念の捜査を行っており、死刑確定後も国立行方不明児童搾取センター(NCMEC)が捜査を引き継いでいた。すでに広く知られていた「謎のポラロイド」の少年少女についても当然検証の俎上に上がっていると考えられる。
89年6月15日のポラ発見当日、フロイドは「娘」としてきた少女と偽名を使い、ルイジアナ州ニューオリンズで結婚している。彼女もタラと同じ19歳だった。ニューオリンズは発見現場のポート・セント・ジョーから360マイル、車を使えばおよそ6時間で移動可能な距離である。
だが88年9月の本件発生当時は1800マイル(2900キロ)離れたフロリダ州タンパで暮らしていた時期に当たる。赤ん坊を抱えた「娘」を家に残し、飛行機や長距離バス移動などをすれば物理的に不可能とまでは言えない。ただし金銭的余裕はなく、フロイドの壮年期の犯行にはある程度の計画性が垣間見え、そこまで大胆な動きを取ったかと考えると大いに疑問が残る。その後「息子」を誘拐する際に、男は学校長を銃で脅して拉致したが、拘束の際にはダクトテープではなく手錠が使用されていた。
フロイドの誘拐の主目的は快楽殺人などではなく、女性や子どもを隷属させることにあったと捉えられている。裁判では雇われていたベビーシッターが「父娘」の当時の暮らしぶりなどを証言しているが、フロイドが長期間家を不在にしたり、少女を家に連れ帰った等の報告はされていない。捜査機関でも情況証拠の積み重ねによる死刑求刑のために男の余罪追及や行動把握は入念に行ったに違いなく、タラに接触した可能性は低いと考えられる。
しかし誘拐犯の目的が殺人ではなかった場合、自分の子どもや妻になりすませて身近に拘束するという事例は検討する価値があるだろう。疑い出せばきりはないが、ひょっとすると人付き合いの少ない親子や訳ありげな夫婦になりすまして潜伏しているかもしれない。
そして前述のポラロイド以外にも「虐待被害が疑われる少女」の写真がその後2度発見されている。1つは南カルフォルニア・モンテシトの建設現場で発見され、青い縞模様のシーツの上で口をダクトテープで覆われた少女の顔がぼやけて映っていた。もう一つは、長距離列車の車内に座り、腕を縛られ、隣の男に拘束されている大きな眼鏡をかけた女性が映っていた。いずれもタラとは断定しうるものではなく、前述のポラロイドに触発された悪質ないたずらか、事件性のない写真だと考えられている。


ジェイシー・デュガードの誘拐
全米を驚かせた別の長期誘拐事件として、2009年に発見されたジェイシー・デュガードの事案が知られている。
1991年6月10日、カルフォルニア州エルドラド郡の田舎町マイヤーズで、当時小学5年生、11歳だったジェイシーはいつものようにスクールバスのバス停に向かっていた。すると上り坂の途中で灰色の車が近づいてきたことに気づき、道でも聞かれるのかと思って足を止めた。車が横付けされた瞬間、窓から運転手がスタンガンを当てて少女は意識を失い、そのまま車内に引きずり込まれた。通学途中のクラスメートも遠巻きに彼女が車に乗せられる場面を目撃していた。
母親テリーさんは早くに勤めに出ており、ジェイシーが7歳のときに継父となったカール・プロビンはちょうど通勤に出ようとしたところだった。「連れ去った灰色の車を見た」「自転車で追いかけたが追いつけなかった」と主張したが、当初は疑いの目を向けられ、容疑を晴らすためにポリグラフ検査を受けなくてはならなかった。ジェイシーの実父に当たるケン・スレイトンにも捜査は及んだが、彼はテリーさんと79年に短期間関係を持っただけで、ジェイシーを生んだことさえ知らされていなかった。

継父やクラスメートたちの目の前で起きたショッキングな誘拐事件は全国にも報じられ、4日後にはFOX「アメリカズ・モスト・ウォンテッド」でも緊急特集が組まれて広く情報提供を求められた。一家はこの地に移住してまだ1年も経たなかったが、地元住民らは積極的に捜索活動を支援した。失踪時のジェイシーはお気に入りの全身ピンク色の服装だったこともあり、チャリティイベント等では支援の意思を示すピンク色のリボンが街中に掲げられた。チャイルドクエスト・インターナショナルと国立行方不明搾取児童センターも取り組みに参加し、何年にも渡って継続的な捜索努力が続けられたが、捜査に大きな進展はなかった。
誘拐が引き金となり、その後プロビン夫妻は破局を迎え、騒動も下火になっていった。
事件から18年後、2009年の8月24日、ある男がFBIサンフランシスコ事務所を訪れ、不可解なレポートを署員に提出した。文面は宗教とセクシュアリティに関する内容で、過去の自らの問題・逸脱行動をどのようにして乗り越えたのかが説明され、統合失調患者の暴力衝動や性犯罪者の性衝動のセルフコントロールに役立つと記されていた。
同日、男は娘2人を連れ立ってカルフォルニア大学バークレー校を訪れ、「神の望み」であるとしてイベントの開催許可を求めた。大学関係者が話を聞くことになったが、その要望は「常軌を逸して」おり、一緒にいる娘たちの肌は妙に青白く、男に対してひどく「不機嫌で従順」に見え、翌日にも面談を行ったが不信感は却って増し、警察に通報を入れた。
連絡を受けた警察が確認を取ると、男は誘拐と強姦の罪で仮釈放中だった登録性犯罪者フィリップ・ガリドであることが確認された。その晩、仮釈放事務所の職員がガリドの家を訪れて同行を求めた。家には老いた母親と妻ナンシーがいた。未成年者との交際を禁じられていたガリドに少女たちとの関係を尋ねると、兄の娘たちを同意の元で預かっていると説明したが、ガリドの兄に娘はなかった。翌日、彼女たちを連れて再度出頭するように命じられた。
26日、ガリドは妻ナンシー、二人の娘、その母親「アリッサ」を連れて仮釈放事務所を訪れた。アリッサに事情を聴くと、彼女はガリドが有罪判決を受けた性犯罪者であることを認識していると語り、「変わった人」だが「素晴らしい人」で「子どもたちとも付き合い上手」だと述べた。だが身分証明を求めると女性は興奮して「極度に防御的」態度を取り、なぜ自分が尋問されねばならないのかと紛糾し、自分は夫のDVを逃れてきたと発言した。最終的に仮釈放事務所からコンコード警察に通報された。
取り調べを受けたガリドは「アリッサ」を誘拐してレイプしたことを認め、二人の娘は自分と「アリッサ」の間にできたと自白する。やがて女性は「アリッサ」ではなく、通学途中で連れ去られたジェイシー・デュガードであると自らの正しい認識を取り戻した。人間は生存のメカニズムとしてあり得ないと思われるような選択をも自らに信じ込ませることがある。いわゆるストックホルム症候群の兆候である。恐怖と虐待への防衛本能から犯人に共感や愛情を抱き、男が求める「家族」へと自らを適応させていった。そして二人の娘たちも父親ガリドの逮捕を知ると泣き崩れたという。
2011年、ガリド夫妻は拉致誘拐と強姦などの容疑を認め、フィリップ・ガリドは懲役431年、妻ナンシーも拉致や監禁虐待の共犯として懲役36年が言い渡された。デュガードさんは娘たちの親権を保持し、セラピー治療の一環として自らに起きた出来事を本として出版し、基金を創設してキッドナップ・サバイバーとしての講演や捜索活動への協力、児童トラウマに対するケア事業を続けている。
デュガードの発見は人々に衝撃を持って受け止められ、被害者の心身への深刻な虐待とその影響は当然懸念されたが、一方で長期行方不明者の生還の希望ともなった。また監視対象の性犯罪者だったフィリップ・ガリドに対する法執行機関の処置の不手際も大きな問題となった。過去にも彼の性犯罪歴を知る住民らから「ガリド家の裏で子どもたちがテントを張って生活している」「ガソリンスタンドでガリドが行方不明者情報を念入りに見ている」といった通報があったが、充分な対応が為されずに救出が遅れたことが指摘されている。
一度は洗脳下に置かれたデュガードさんの生還は貴重なレアケースと言えるかもしれない。だが先のフランク・フロイドのケースと同様、自力で逃げ出すことや声を上げることができずに「家族化」して延命している可能性を示唆した。
捜査の進捗
タラ・キャリコの話に戻そう。2008年9月14日発行のニューメキシコ州の地元紙「アルバカーキ・ジャーナル」は、バレンシア郡保安官レネ・リベラ氏へのインタビュー取材を紹介して物議を醸した。
リベラ氏によれば、「加害者は何年も前から浮上している」「タラ・キャリコと面識があった人物だ」と語り、関与したのは彼女の高校の後輩にあたる少年グループだと明かした。事件当時の目撃情報を辿った結果、捜査機関関係者の親をもつ当時18歳だった息子の名前が浮上していたことを伝えている。
件の青年は1991年に21歳で死亡しており、原因は自殺かロシアンルーレットの失敗によるものとされる。しかし青年の父親は「息子は殺害されたと信じている」と記者に語ったという。犯罪の隠匿に堪え切れなくなった青年が仲間内で「口止め」のために消されたとでもいうのだろうか。
スポーツもでき才色兼備だったタラは地元では注目の的で、日頃からナンパの標的になっていた。事件当日、青年たちも自転車で帰宅しようとする彼女を見かけてトラックを幅寄せし、声を掛けたり、直接触ろうと手を伸ばしたりしてちょっかいを出そうとしていたと想定される。だが運転を誤ってか脅かすつもりがあったのか、彼女と衝突し、最悪の事態が生じた。遺体処理やその後の隠蔽には青年たちの家族が関わっている、捜査記録にはすでに主犯格の元少年2人と共犯者2人、家族らの名前や情報が書き連ねてある、とリベラ氏は明かす。
なぜそこまで分かっていながら逮捕に至らないかと言えば、タラの死体がなく、ストーリーラインを裏付ける証拠は揃っているが、決定的な殺害の証拠にたどり着いていないため、裁判所からのGOサインが出ないためだという。リベラ保安官は「時間の経過により事件への抵抗感が薄れ、新たな証言が出てくる可能性がある」としている。
「何が起こったのか知っている人間はたくさんいるはずなのにもどかしい」
タラの継父は検挙や発見につながらない不確定情報を表に出すべきではなかったと、保安官発言を否定的に受け止めた。
この報道は、ロサンゼルスで暮らしていた元同級生メリンダ・エスキベルにも届けられた。クリスマス休暇に帰省してみると、旧友たちは「誰がやったのかは町中の人間が知っている」と語り、彼女を震撼させた。犯人が分かっているのに逮捕されない理不尽に立ち向かうため、カメラを手に事件を追い、レコーダーを持って関係者を回った。パティがあの日から生涯をかけて続けたことを引き継ぎ、発見とその供養を願う家族とともに、彼女にふさわしい“正義”の結末に向けてメディアでの発表を続けている。
2009年、ポート・セント・ジョー警察署に6月10日と8月10日ニューメキシコ州アルバカーキの消印付で不審な手紙がもたらされて注目を集めた。
一通目は、砂茶色の髪をした幼い少年の写真のコピーで、口元が黒インクで帯状に塗り潰されていた。二通目にはその少年のオリジナル写真が含まれていた。遅れて地元「スター新聞」にも8月10日アルバカーキ消印の「黒インク少年」の手紙が届いた。いずれも差出人情報は記されておらず、少年の情報も記されてはいなかった。

かつて世間を騒がせたあのポラロイド写真を喚起させる意図が読み取れ、愉快犯によるイタズラとも思われたが、ポラロイドの発見から20年が間近に迫っており、犯人のメモリアル・メッセージと解釈できなくもない。署は少年の写真とポラロイドの少年との同一性は不明としている。消印にあったアルバカーキはタラの故郷ベレンからおよそ35マイル(56キロ強)とそれほど離れていない。しかしその後、ポラロイドの少年との一致は報告されていない。
FOXニュースは、ポラ発見当時から勤めるガルフ郡保安官ジョー・ヌージェント氏の報告を取り上げている。「スター」紙から保安事務所に手紙を提出された同日にさる女性から電話があったという。その女性は、何年もの間、この事件に関するビジョンを見ており、「カリフォルニアにキャリコが埋葬されているのではないか」と語った。
女性はカリフォルニアのストリップクラブで一緒に働いていた家出人女性が殺害され埋葬されていた事件とタラ失踪との関連を疑った。彼女は明晰夢で水色の古い車とタラ・キャリコの名前を目にしたと述べた。
New Letters Stir 20-Year-Old Unsolved Mystery of Apparent Child Abduction Photos | Fox News
ヌージェント保安官は「彼女の電話と手紙の届いたタイミングの一致は実に奇妙だ。すべてがとても奇妙なんだ」と目を丸くした。手紙は指紋やDNA型鑑定のためフロリダ州法執行部の研究所に送られた。
通報した女性の名前は明らかにされていないが、前述の連続誘拐殺人犯フランクリン・フロイドによるシェリル・コメッソ殺害との関連を疑う元同僚ヘザー・レーンさんではないかと考えられる。彼女は2022年のNetflix映画『Girls in the picture』に出演し、殺害されたシェリルやフロイドの「娘」シャロンについて証言を寄せている。彼女が善意の証言者であることに疑いはないが、発言の全てを正確な事実として鵜呑みにするのは控えるべきであろう。
FBIは本件に関する有力情報の提供者に2万ドルの報奨金を長年維持している。2013年にはバレンシア郡保安事務所、アルバカーキ警察署、ベルナリーロ郡保安事務所から6人の職員による対策本部が発足され、再調査が始動した。彼らの報告書では、ある人物が臨終の間際になって重要な目撃証言をもたらしたとされる。自転車は地元の廃品置き場に投棄され、被害者は殺害されて池に投げ込まれたというものだった。
証言者はだれかなどの詳細は伝えられてはいないが、その内容が事実とすれば証言者は単なる傍観者ではなく、遺棄などを手助けしていた共犯者ということになる。しかしそれほどの重要証言者がいながら自転車も遺体も出てこないというのでは、やはり裏付けがない証言ということになる。
事件で共犯者を立てることができ、35年にわたって口止めが可能だったと考えると、社会的身分の高い、それこそリベラ保安官がリークした地元警察の息子とも合致する。
しかし一方で、そうした社会的身分のある人物だからこそ、政敵や仕事柄怨みをもたれる機会も考えられ、
2021年にバレンシア郡保安官事務所は新たな手掛かりとなりうる証拠があると報告したが、第13司法地方裁判所シンディ・マーサー判事は事件に関する捜索令状を凍結させ、嫌疑の対象者等の内容は公表されなかった。
2023年1月、タラの義父ジョン・ドエルさんが家族に看取られながらこの世を去った。
2023年6月13日、当局は「法執行機関は現時点で、潜在的な容疑者の審査のためにこの調査を地方検事局に提出するのに十分な証拠があると信じている」と述べ、35年目にして捜査の終結を宣言した。より厳格な捜査令状や逮捕状を発令するなど、事件の進展の責任を裁判所の判断に委ねる格好である。
捜査関係者の息子説の出処や真偽を測る材料は私たちに提示されてはいないが、事件後に青酸化合物により死亡した「白バイ機動隊隊員の息子」に疑惑が向けられた、かの「三億円事件」を彷彿とさせるものがある。判事には捜査関係者への忖度めいたものがあったのか、あまりに証拠不十分な捜査状況だったのかは分からない。今後、その判断が覆るか、判事の交代で再び俎上に上げられるかは見通しがついていない状況である。
タラの4人のきょうだいたちは、今も失踪の解明を待ち続けている。
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35 Years Later: Tara Calico Disappearance - Valencia County News-Bulletin

