岩手~宮城を股に掛けた容疑者は17歳の少女を殺害後、その行方をくらませた。
警察は現在も指名手配で被害者の元恋人の男を追っているが、元刑事ジャーナリスト黒木昭雄さんの告発が契機となり、容疑者の殺害前後の不可解な行動が伝えられ、単純な恋愛絡みの事件ではないのではないかと疑問がもたれている。
事件の発生
2008年(平成20年)7月1日16時半ごろ、岩手県下閉伊(しもへい)郡川井村(現・宮古市)松章沢の山間部、県道171号線に架かる「下鼻井沢橋」を通りがかった近くの道路工事作業員が若い女性の遺体を発見した。
女性は水深10~20センチの浅瀬にうつ伏せ状態で見つかり、死因は扼殺(「手」で首を絞められたことによる窒息)と見られ、橋の上から遺棄されたものとみられた。
7月3日に家族が本人確認を行い、被害者は宮城県登米市に住む無職佐藤梢さん(17歳)と特定される。
岩手県警は、同じく7月3日に岩手県田野畑村で消息を絶った無職小原勝幸(26歳)を捜索したが発見できず、梢さんの殺人容疑で指名手配とした。梢さんの死亡推定時刻は6月28日深夜から7月1日までと発表された。
事件の翌年、テレビ番組の取材を通じて事件に疑念を抱いた黒木昭雄氏はその後も独自調査を続けた。岩手医科大学による死体検案書では、死後硬直や胃の内容物から6月30日から7月1日を死亡推定としていた。警察はなぜ被害者の死亡推定時刻を2日間も繰り上げなければならなかったのか?
経緯
被害者と小原勝幸について時系列を振り返る。
二人の出会いは2007年2月、宮城県登米市のショッピングセンターで小原と後輩男性が二人組の少女をナンパしたことから始まった。少女二人はともに佐藤梢という同姓同名の同級生だという。後輩たちは親密交際には至らず関係は途絶えたが、小原と佐藤梢さんは交際に発展した。小原たちはすぐに同棲を始め、高校を辞めたこともあってもう一方の佐藤梢さんとは疎遠になっていく。しかし本件で殺害されたのは、容疑者の交際相手ではない“もう一方の”佐藤梢さんだった。
以下、便宜上、小原の交際相手を「梢Aさん」、死亡した被害者を「梢Bさん」と表記する。
2007年5月1日、小原は弟(三男)と共に知人男性・Z氏のもとに詫びを入れに行った。小原は前年秋にZ氏から型枠大工の職を世話してもらっていたものの一週間で逃げ出しており、紹介したZ氏は「面子を潰された」として関係が悪化していた。三男の証言によれば、Z氏は以前「家を焼くように言われている」と言って実家に訪れたこともあったという。
立腹したZ氏は小原の口に日本刀を入れ、「出刃包丁で指を詰めろ」と恐喝し、迷惑料として120万円の借用書を請求。さらに「保証人」を求められた小原は交際していた梢Aさんの電話番号を渡す(このとき梢さんAはZ氏と直接会っておらず車で待機していた)。
小原は迷惑料を支払うあてもなく、車中泊生活を送って逃亡することになる。その後、Z氏は人探し専門の携帯掲示板サイト(08年7月閉鎖)に顔写真・実名・身体的特徴などをカキコミして小原の行方を追っていた。尚、後年の黒木氏からの聞き取りに対して、請求した金額は10万円で、日本刀の使用はなく2、3発殴っただけだとして恐喝行為は否定している。
2008年6月3日、掲示板カキコミの存在を知った小原は身の危険を感じ、梢Aさんを伴って岩手県久慈署に被害届を提出して事態の仲裁を求めた。同月22日には、一緒にZ氏の元を訪れた三男も久慈署・千葉警部補から事情聴取を受け、恐喝行為に遭ったことを説明した。
事件前後のながれ
2008年6月27日、小原と梢Aさんは盛岡競馬場近辺で寝泊まりしていた。以前から粗暴な小原と別れたいと考えていた梢さんは、28日午前10時ごろ、小原が寝ている隙を見て電車で宮城の実家へ逃げ帰る。小原の残金やガソリンの残りが乏しくすぐに追ってこられないことを事前に確認していたという。このとき小原の右手に怪我はなかった。
小原がいつ梢さんが逃げ帰ったことに気づいたかは分からないが、同日14時すぎ以降、「よりを戻したい」と電話やメールを繰り返した。「被害届を取り下げたい」「一緒じゃないと取り下げができないと言われた。お母さんと一緒でもいいから来てくれ」としつこく食い下がるも、梢さんは自分を呼び出す口実と思い、面会に応じようとはしなかった。
「家に着いたらワン切りしてくれ」という懇願に対して、宮城に戻って親の迎えを待っていた21時頃に小原の携帯にワン切りを入れた(「ワン切り(ワンコール)」は通話目的ではなく携帯電話に「合図」として1~2秒間だけ鳴らして知らせる行為のこと)。
時同じくして6月28日21時頃、小原は「恋の悩みについて相談したい」と“もう一方の”佐藤梢Bさんに連絡を取っていた。やりとりの内容は明らかではないが梢Bさんは、このとき同棲していた男性に冗談めかした口調で「私、殺されるかも。そのときは電話するね」と意味深な発言を残していた。
22時頃、梢Bさんは実家に逃げ戻った梢Aさんに久しぶりに電話を入れたという。23時ごろ、小原の呼び出しを受けた梢Bさんが宮城県登米市コンビニの防犯カメラに確認されている。梢さんたちは29日0時半まで電話やメールでやり取りを続けたが、その後、梢Bさんからの返信は途絶え、ここから7月1日に遺体となって発見されるまでの彼女の消息は不明である。
6月29日午前2時すぎ、岩手県盛岡市内のガソリンスタンドの防犯カメラに小原の姿が捉えられていた。右手には白い布が巻いてあった。朝7時頃、小原は元交際相手の梢Aさんに対して自撮りメールを送信。このとき右手に白い布を巻いておらず、拳が潰れたような外傷が映り込んでいた。28日朝に彼女が逃げのびる前にはそのような怪我はしていなかったという。
9時頃、小原は地元田野畑村に戻り、弟(次男)宅へ。19時、弟夫妻と岩泉町・済生病院へ往診に訪れて、拳の怪我を診てもらい、怪我の原因を「酔ってコンクリート壁とケンカした」と説明した。担当医師は、右手は機能障害が出るほどの重症(握る・開くことができない状態)とし、専門外科がないため他院での診療を勧めたと証言する。小原の父・一司さんも、息子の右手の様子を人差し指と中指で煙草を挟むこともままならなかったと話している。
30日昼頃、小原は久慈署・千葉警部補に「被害届の取り下げ」を申し出るが退けられる。高校時代の恩師(下の動画、山田さん)宅を訪問し、その夜も次男宅へ戻った。小原は一司さんを説得し、一司さんからも警察へ被害届取り下げを再度求めに行ったが、「あと2、3日で逮捕するから被害届は取り下げないでほしい」「家族の身の安全は保証するから」と要請は却下されてしまう。
7月1日、小原は朝から再び恩師のもとへ。同日16時半頃、岩手県川井村の河川で女性の遺体発見される。翌日の朝刊では「10代後半から30代前半の身元不明の女性」と報道されただけで、その時点で犯人以外に梢Bさんと知る術はなかった。
田野畑村から遺体発見現場までは車で約2時間の距離だが、黒木氏によれば、小原が6月29日以降で4時間以上にわたって村を離れた事実はないとされる。
1日17時ごろ、登米市の佐藤梢Bさんの両親が捜索願を届ける。
1日21時半頃、羅賀から北山崎に至る県道44号線で小原が乗った車が電柱に正面衝突。偶々車で通りがかった地元男性(下動画、田所さん)が目撃し、小原を実家まで送り届けた。膨れ上がった右手の傷について聞くと「事故じゃない、女を殴った」と答え、酔っ払った状態で「もうおしまいだ、死ぬしかない」と口走っていたという。
また小原から「仙台で裏デリヘルをやっている」「今は仙台に住んでいるが、仕事関係がうまくいっていなくて、いろんな組関係者と揉めている」という発言もあったという(2008年7月12日産経)。男性はその後、小原が指名手配されたことを知って、自ら情報提供に出向いたが、警察の捜査の杜撰さに疑念を抱いている。
7月2日5時頃、宮古署の警官を名乗る人物から元交際相手・梢Aさん宅に安否確認の電話が入る。まだ遺体の身元が判明する前であり、どういう目的で安否確認がなされたのかは明らかではない。
同7時すぎ、小原は親類に頼んで鵜ノ巣断崖近く(断崖から約3キロ地点)まで送ってもらう。その後、断崖の写真を添付して、梢Aさんに「俺、死ぬから」、弟に「サヨウナラ、迷惑なことばかりでごめんね」等と自殺を匂わせるメールを、友人に「飛び降りる」と電話を掛けていた。知らせを受けて断崖に駆け付けた件の恩師は、正午近くに携帯電話でだれかと談笑している小原の姿を見つけて安心し、缶コーヒーを渡して別れたという。これが最後の小原目撃情報となった。
同17時頃、宮古署・千葉警部補から梢Aさんに「小原が鵜の巣にいるから確認しに行ってほしい」と言われるが、梢さんは赴かず。
同7月2日の夕方頃、前日発見された女性の遺体の確認を求める連絡が梢Bさんの家族の元に入り、翌3日午前、遺体の身元が特定された。
3日夕方、清掃に訪れた村職員が小原の財布・サンダル・ハンカチ・免許証・タバコ・車のキー・携帯のバッテリーを発見する。当然自殺が真っ先に疑われる状況だが、通報時すでに日没近かったため翌朝からの捜索となった。
しかし、黒木氏の調べによるとサンダルは本人のものではなく、親類によれば2日朝に車で送っていった段階でタバコを所持していなかったとされる。どこかで購入したというのか、それとも誰かと接触し差し入れてもらったのか。
4日、地元警官15人で周辺捜索。父親は警察犬の動員で行方を探せないかと訴えたが、警官からは「警察犬は分単位で金がかかる」と説明されたという。地元男性田所さんの届け出により、事故車両から女性ものの靴、血痕のある発泡酒の缶などが押収された。
だが黒木氏の調べによると、殺害された梢Bさんが履いていたのは「キティちゃんのサンダル」であり発見されたものとは異なるという。共に1年近く車中泊を続けていた梢Aさんのものだったのか。
7月5日、遺留品以外に飛び降りの痕跡が発見されず、遺体が上がらないことなどから県警は“偽装自殺“と判断する。
同月29日、小原勝幸を殺人容疑で全国指名手配。情報提供ビラには「17歳の少女を殺害した犯人です」と記載。翌年、家族らの訴えにより犯人と断定する表記が斥けられ、「17歳の少女が殺害された事件です」と表記が変更された。
10月31日、捜査特別報奨金制度で上限100万円と公告される。事件発生から3か月足らずでの報奨金対象は当時としては異例ともいえる早さだった。
ジャーナリストの死
2008年9月にテレビ番組の取材で本件と係わりをもった黒木昭雄氏は、翌09年、Yahooブログに『黒木昭雄の「たった一人の捜査本部」』を立ち上げ、警察リリースやマスコミが報じてこなかった独自取材を公開。週刊朝日での執筆、関係者証言をYouTube動画で発信するなどし「警察の誤りと再捜査」を広く世に問うた。
氏は警視庁在籍23年で23回の警視総監賞を受賞した元巡査部長で、探偵業のほか、捜査するジャーナリストとして「栃木リンチ事件」「秋田連続児童殺害事件」などを執筆。『警察はなぜ堕落したのか』など警察組織の隠ぺい体質、裏金問題等を追及し、批判的な立場を貫いた。そうしたポリシーの表れか「俺が死んだら警察に殺されたと思ってくれ」と周囲に口癖のように語っていたという。
さらに2009年5月13日、小原の親族・被害者遺族、小原の元交際相手佐藤梢Aさんら関係者8名と岩手県警・公安委員会らに対し70枚に及ぶ情報提供書を提出。記者会見を開き、事件の再捜査と真相の究明を訴えた。
2010年5月、『ザ・スクープ』の特集が放映される。同年6月30日、小原の父・一司さんらが県や国に対して指名手配差し止めと賠償を求める訴訟を起こすも、11月1日、捜査特別報奨金の上限が300万円に増額される。
翌11月2日、千葉県市原市の寺院駐車場の車内で黒木氏の遺体が発見される。現場状況から練炭自殺と断定され、司法解剖は行われなかった。
未解決事件には数多の尾ひれがつきもので、2010年11月の黒木氏の自殺も組織や警察による謀殺であるかのように流布されている。
【転載・拡散】本日、手配中の容疑者小原勝幸の懸賞金が300万円に増額されました。岩手県警の請託を受けた警察庁が隠したかったのはこの事実です。税金が警察の犯罪隠しに使われています。皆さん、追及の声を上げて下さい。お願い申し上げます。http://bit.ly/cpQ993
— 黒木昭雄 (@kuroki_akio) 2010年11月1日
長い時間、私財を削って警察の不正究明に明け暮れた黒木氏であったが、大手マスコミのバックアップも容易に得られず、リサーチに打ち込むほどに生活は困窮した。どれだけ奔走しても義憤で人は駆られない、真実で組織は動かせない、この世に正しさなんて必要とされていないのではないか。上のtweetは氏の最後のつぶやきであり、公に向けて放たれた最期の言葉である。
黒木氏は、小原の父・一司さんらと共に裁判に立った清水勉弁護士に宛てて遺書を送っている。自分の正義に懸ける思いが家族にも大きな負担を強いてしまっていること、自分の活動が警察組織の前ではなしのつぶてに過ぎないという絶望感によって精神的苦境に陥っていた。おそらく自分の命を懸けることで、人々の事件への関心につながればという予断もどこかで過ったのかも分からない。
2014年4月11日、盛岡地裁は一司さんらの請求を棄却。指名手配ポスターの小原を「犯人」と決めつけた表記については「無罪推定に反する」と結論付けるも、公開捜査の相当性を認め、現在も指名手配者として公示されている。控訴はされなかった。
黒木氏の意志はジャーナリスト長野智子氏ら一部の仲間たちに継承されたが、はたして岩手県警やマスメディア全体を動かす大きな力とはなっておらず、事件の全容はいまだ見えていない。黒木氏の知見が全て詳らかにされている訳ではなく、その見解が事件の真相であったと断定することはできない。しかし氏の活動がなかったとしたら、残された人たちは「警察の描いた絵」を鵜吞みにし、口を閉ざす以外なかった。警察が語る以上のことを私たちは知ることも考えることも許されなかった。
「梢ちゃんは私とまったく同じ名前だったばっかりに、恐喝事件に巻き込まれて、私の身代わりに殺されてしまったんだと思います」
「彼女がなぜ死ななければならなかったのか。私は真相が知りたいんです」
事件の一年後、小原の元交際相手・佐藤梢さんのことばである。
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筆者は、黒木氏が提示した情報にはある程度の信憑性があると考えているが、どこまで全容を掴んでいたのか、推測の域を出て真犯人にたどり着いていたのか等については些かの疑問も抱いている。関係者の証言についても、それまでの黒木氏とのやりとりを踏まえた上での発言(黒木氏の見立てに沿った内容)とも考えられる。だが警察組織の杜撰な捜査は事実であろうと考えている。
以下では、小原は殺害遺棄に関与していなかったのではないかという考えについて記したい。
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下は被害者のプロフサイトのTOP画像である。
「年収 昔のぁたしだったら500万前後」
「前の仕事ゃってたら金に不自由しなかっただろぅな」
唐突にこんなウソをつくとも思えず、レジ打ちなどの一般的なバイトとは考えにくい。明確にされてはいないが、法外な稼ぎ口があったことを仄めかしているように思える。
452 :203:2010/05/27(木) 02:03:41 ID:ui8z3A17 さっき載せたブログからの引用だが
>さらに男は「仙台で裏デリヘルやっている」「今は仙台に住んでるが、仕事がうまくいって
なくて、いろんな組関係者ともめている」などと身の上を話し・・・
と、梢さんの
> ぁたしゎぁんたらの玩具ぢゃなぃょ?誰にでも股開くゎけじゃなぃょ?
(三月二十六日)
どうしよ・・・ 今日妊娠検査薬ゃってみたら陽性だた・・・
(四月一日)
苦しいよ~ 昨日結局95錠飲んじゃった リスカ(リストカット)も
しちゃった~はぁ~ まぢ具合悪
(四月二十五日)
○○○のぉ父さんと初めて話した ちょっと近づけた気がしたぁ 産婦人
科行ってくる また注射だ 痛す
(五月八日)
が、なんか頭に残ってしまう。
警察はこれチェックしたんでしょうかね?
黒木さんは、この辺どう思っているんだろう?
同姓同名や被害届とはまた別のトラブルがあったのかも。
どちらも、視点が小原或いはZに対して集中しすぎていてる気がす。
こちらは被害者のブログ(現在は閉鎖)を読んだ人物(452)による掲示板カキコミ。
地元男性田所さんの証言も全て鵜呑みにはできないが、自殺未遂にせよ偶発的な事故にせよ、疲労困憊の体で飲酒運転という自暴自棄に近い行動を取り、憔悴しきっていた小原に救いの手を差し伸べてくれた人物に「本音」を漏らした可能性は大いにあるだろう。
07年5月のZ氏恐喝から08年6月被害届提出までの1年間、車中泊での逃亡生活の資金の出処は明言されていないが、小原が“裏デリヘル”の女衒だったとすれば納得は行く。プロフの発言にどれほどの信憑性があるのか、単なる冗談のようにも思えるが、そうした点と点をつなぎ合わせると少女たちの関与していた可能性が浮かび上がる。
だとすれば黒木氏が事件の核心部を語らず、未成年の少女たちの尊厳を守るためにセンセーショナルな話題にせず、「警察の不祥事」として再捜査を訴え続けていたことにも合点がいくのである。
根拠のない妄想だが、東北にネットワークを持つ反社会組織等がデリヘルやケータイ向け出会い系サイト(実質的売春サイト)を運営しており、カタギの仕事が続かない小原はその末端としてスカウトや送迎役をしていたのではなかろうか。欲が出たのか、Z氏からの逃走資金捻出のためか、知り合った少女らを動員して個人(闇)で営業を取るようになった。
所持金が尽きた小原は盛岡で客を取った。小原が待機している隙に、元交際相手は実家に逃走。所持金も金づるもなくして万事休した小原は元いた組織の人間に金を借りられないかと連絡を取る。小原の闇営業を把握していた組織は、二度と同じような真似はしないように脅迫。小原の右手を潰し、今までのカタとして「逃げた女」を連れてくるように要求。小原は逃げた元交際相手を誘い出すことができず、タイムリミットが迫って、やむなくもう一人の梢Bさんをコンビニへ呼び出した、というのが筆者の見立てである。
ここで被害者について、452のカキコミと残存する魚拓等の断片的な情報とを照らし合わせてみる。
被害者は、2007年年末に彼氏ができたが08年元日にフラれてリスカ、2月には新彼氏ができてリスカ、36錠服薬(薬種不明)、3月半ばにフラれ、“やり目”の男ばかりで憤慨し「自分って何なんだろ?ぁたしわ体だけの女なのかな?体だけか…」と苦悩。妊娠が発覚。4月半ば、事件当時の交際相手あつしさんと「大事にしたい人ができました 幸せになりたいです」と宣言。その3日後、95錠服薬、リスカ。5月に産婦人科、という流れになる。長らく情緒不安定で自傷傾向にあったことが窺える。交際相手(多くは“やり目”)を立て続けに変えていたことで妊娠の相手が判然としなかったからか、精神的不安もあって堕胎に至ったと推察される。
被害者がいつまで小原と係わっていたかは想像の域を出ないが、下のブログコピペなどは売春に際しての事柄ではないかと思われる。
213 :名無しさん@九周年[]:2008/07/08(火) 10:22:39 ID:nqUimGvo0
被害者ブログより - 塩釜の男に蹴りをいれられた記事
2008/02/02 16:28 痛LI★★
今日ゎ朝から最悪。
塩釜の人が なんか 機嫌悪くなて
ぅちに 「てめ-ぉもて出ろゃ」 って言ってきた-
で 出る前に 階段から落ち 腰と尻負傷。
で 外に出て 口論しながら少し歩ぃた
そして坂を下ってる時 壁に突き飛ばされた
ぶつかった 蹴りが膝に。
流血 内出血
涙,足の震ぇが 止まらなぃ
なんでぁたしが ここまでされなきゃぃけなぃの? って思った。
てか まず女に暴力振る-とかなしだょね-
男として最低だょね-
まぢ 足の震ぇるし
暴力振る-奴ゎ 大嫌ぃだ
ぁあ 痛ぃ
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同棲相手がどのような人物で、どこまで彼女を理解し、行動を容認していたかについては知る由もない。梢Bさんは情緒不安な面があり、そのとき小原の誘いに乗ってしまい、盛岡に拉致されたものと考えられる。小原は少女と引き換えに、ガソリン代とひとときの自由を得た。
小原は身代わりであることがバレないと考えていたのか、だれでもよかったのか。もしかすると人違いと分かれば帰してもらえるものと甘く考えていたかもしれない。組織は少女を風俗に沈めようとしたのか、一時的な人質として預かったのかは分からない。だが別人だと分かってもタダで野放しにすることもできず、口封じに殺害された。あるいは扼殺という殺害方法や野ざらしでの遺棄から、「少女の逃走」「激しい抵抗」などに対する突発的な犯行だったかもしれない。遺体は小原への見せしめとして、田野畑との中間地点である松草沢に遺棄された。
金づるを失った小原はしばらく地元で金を稼がなければならなくなり、これ以上Z氏から逃げ続ける訳にいかず被害届を取り下げようと躍起だった。希望的観測をするならば、金をつくって身代わりの少女を取り戻そうとしていたのかもしれない。
しかし7月1日夕方、小原の元に連絡が入り、翌朝、方々へ自殺をほのめかして急に姿を消すことになる。その「逃げ」の性分を鑑みるに、急に断崖から飛び降りる決意が固まったとは想像しづらいものがあり、仮に殺害遺棄に関与していたとすればこれ以上の「逃走」ではなく「自首」を選ぶように思われる。
1日夕方、組織は梢Bさんの殺害を小原に伝え、代償として小原自身に責任を取らせるために偽装自殺を命じたのではないか。組織側は高飛びや匿うことなどを約束して、遺留品を残して小原を断崖から連れ去った。生きて国内にいれば家族や知人に連絡をとらずにはいられない性分と考えられ、事故や事件によりすでに生存していない可能性は高いと推測する。
岩手県田野畑を地図で見ると、東は険しい三陸海岸、周囲は山に囲まれた“陸の孤島”であり、見たところ漁港も小規模で産業に乏しいように思われる。仕事が長続きしない小原は親兄弟や旧友を頼りつつその日暮らし、地元で頼れる相手は10年以上前の地元恩師か、顔の広い先輩(Z氏)。佐藤梢Aさんの地元・宮城県栗原市は地図上だと仙台市などにも近いが、市の半分は栗駒高原、残りは広大な田畑がほとんどを占め、人口統計を見ると人口は急速に減り続けている(大都市が近い分、人口流出が著しい)。
被害者の夢が「大阪でひとりぐらし」だった点を見ても、彼女たちにとってやはり地元は“何もない田舎”だった。2人の梢さんは高校を1年でドロップアウト、いわゆる“ヤンキー”や“ギャル”の風体をしていた。事件後、彼女たちのプロフや画像が流出すると、ネット掲示板等では揶揄や罵倒、自業自得といった非難が相次いだ。
だが当時の彼らに社会不適合者のようなレッテルを張ることはできない。学業や就職でミスマッチが起きたときにやり直せる場所や機会、選択肢、就業支援などの社会的受け皿が充分にないことも事件の背景・遠因だと感じられる。家庭の事情までは分からないが救済できるだけの余裕がなかったのであろう。
都市部であればバンドや演劇といったサークル活動、オタクや引きこもり、フリースクールや短期労働者など、なにか他の選択肢、生き方もあったかもしれない。だが田舎の不自由な、小さな日常から脱出するための手段はヤンキーやギャルになって外に出ることだった。もちろんそうした経歴でも就業して成功したり、平穏な家庭を築いたりといった若者は現在も多く存在する。
地方社会とのミスマッチ、手早く金を稼ぎたいといった共通項が彼らを接近させ、悲劇に向かわせてしまった印象がある。黒木氏の調査や恩師の証言などを聞いても、地元警察とヤンキー(家出少女も含まれる)との係わり方は、監視の目を光らせつつも一人一人に救済の手を差し伸べるでもない、つかず離れずといった特異な“距離・近さ”を保っている。
警察にそれを望むのは間違いかもしれないが、非行少年少女≒犯罪者予備軍として扱うではなく、たとえば就業支援団体や職業訓練施設、シェルター等へつなぐなど、若者が危険に嵌らないような、道標となる支援があれば地域の未来を育むことにもつながる。少年少女が不自由に悶え、将来への不安を抱えたとき、その声を掬い上げられる場所がこれからの社会にはもっと必要になる。
小原が生きていれば加害者・共謀者として大なり小なり事件の責任を問われることになるが、彼もまた社会から見過ごされてきた・見放されてきた被害者といえないだろうか。被害者のご冥福をお祈りします。