いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ヒンターカイフェック事件の謎

姿なき犯人は辺鄙な農場で6人を皆殺しにしたばかりか、その前後にも異様な行動をとっていた。真の狙いは何だったのか――ドイツ最大のミステリーとして、100年以上経った今も世界中で議論されている。

 

◆概要

1922年4月4日の夜、ワイマール共和国の南端、オーストリアに近接するオーバーバイエルン州ヴァンゲン市でヒンターカイフェック農場を営むグルーバー一家5人とメイド1人が遺体となって発見される。子どもや赤ん坊までもがツルハシで頭を割られるなど、その犯行は凄惨極まりないものだった。

犠牲者は次の6人。

アンドレアス・グルーバー(1858生。63歳)…農夫。1885年にツィツェーリアと結婚。

ツェツィーリア・グルーバー(1849生、旧姓サンヒュター。72歳)…アンドレアスの妻。

ビクトリア・ガブリエル(1887生、旧姓グルーバー。35歳)…グルーバー夫妻の娘、農場の所有者。チリとヨーゼフの母親、未亡人。

ツェツィーリア(チリ)・ガブリエル(7歳半)…ビクトリアの娘、グルーバー夫妻の孫。(祖母のツェツィーリア・グルーバーとの混同を避けるため、以下は愛称の「チリ」で表記する。)

ヨーゼフ・グルーバー(2歳半)…ビクトリアの息子。グルーバー夫妻の孫。

マリア・バウムガルトナー(1876生。45歳)…新任のメイド。

惨劇は3月31日夜から4月1日未明にかけて発生したと推定されている。一家は相当の資産家と思われていたが、吝嗇(けち)で知られ、地元では変わり者扱いされていた。

邸は集落から離れた僻地にあり、一家は村人とあまり交流をもたなかった。そのため交友関係や盗品被害なども定かでなく、動機のあぶり出しや容疑者の絞り込みは難航した。

しかしアンドレアス・グルーバーは事件直前に何者かによる侵入被害を訴えており、それを裏付けるように、事件後、屋根裏には何者かが潜伏していた痕跡が見つかる。また発見まで4日を要したにも関わらず、飼い犬や牛たちは直近までだれかに世話されていたかに思われた。侵入者は屋根裏から一家を観察し、皆殺しにした後も邸内に留まり続けていたというのだろうか?

また家に男手はアンドレアス一人だったが屈強な体躯の持ち主だった。彼を相手にするのは相当なリスクを伴うように思えたが、犯人はどうやって住人全員を手に掛け、逃げおおせることができたのか。

第二次世界大戦アウクスブルクの多くのファイルが焼失・散逸したが、その後も捜査は再開された。数十年にわたる捜査で容疑者リストは延べ100人以上にも膨らんだが、だれひとり起訴されることはなかった。

本稿では、先にヒンターカイフェック専門の調査ウェブサイトHinterkaifeck.netで公開されている当事者証言、捜査情報を基として再構成し、後半で様々な疑惑、仮説について触れていく。

尚、当時の資料にも、関係者や捜査員の事実誤認や表現のちがいが多く含まれており、混乱を避けるため、筆者による修正や加筆を適宜加えた。理解を深めたい方は、以下のリンクを参照されたい。

www.hinterkaifeck.net

 

◆事件の発覚

1922年4月4日(火)の朝9時ごろ、ヒャーツハウゼンに住む機械工のアルベルト・ホフナーは自転車で片道2時間かけてヒンターカイフェック農場を訪れた。エンジン修理の依頼を受けており、前の週に訪問する予定だったが、雪や降雨で先延ばしになっていた。

到着してみると庭のゲートは閉じたままになっており、牛や犬の鳴き声がするだけで、住人の気配がしない。窓を覗いても人影はなく、農作業に出掛けたとなればすぐには戻らないかもしれない。

エンジンルームを見ると小さな南京錠だけだったので、やむなくドア枠のフックを曲げて扉を外し、勝手に作業に取り掛かった。驚かせるといけないので、こちらの存在を知らせるために指笛や鼻歌を歌ったりしていたが、作業中もだれも現れなかった。水が必要になるため試運転こそできなかったものの、修理は4時間半ほどで完了した。

エンジンルームのカギを元通りにして、建物の裏手に回ると納屋の扉が大きく開いているのに気づいた。覗いてみたがやはりひと気はないようなので、建物内には入らなかった。玄関先につながれた犬はひどく吠えていたが、訪問先ではよくあることなので気に留めず、午後2時半ごろに農場から退去した。

近くで行き会った女性2人に、ヒンターカイフェックの人に修繕の完了を言伝してくれるように頼み、グローベルンの集落まで戻った。その足で次の訪問先に回り、「午前中にヒンターカイフェックに行ったがだれもいなかった」旨を話すと、「薪割りをしに森に入って夕方まで帰らないこともある」と聞かされ、ホフナーは納得した。

邸と中庭。建物左手が住居、中央が牛舎、右手が厩舎、その奥が脱穀場の納屋

その話を耳にした隣の敷地に暮らすグローベルン地区の顔役ロレンツ・シュリッテンバウアーは、グルーバー邸の様子を見てくるようにと息子2人を走らせた。戻った息子たちは邸内に人の気配がしないことを伝えた。

シュリッテンバウアーは隣人のミヒャエル・ペルとヤコブジーグルに「ガブリエル夫人の邸で何かがあったようだ。首を括っているか、それとも何か変事が起きているのかも」と声を掛け、午後5時ごろ、ヒンターカイフェック農場を訪れた。

住居と厩舎が連結した邸は、納屋の通路以外すべて施錠されていた。戸をこじ開けて中に入ると、グルーバー夫妻ら6人の遺体を発見する。

第一発見者ロレンツ・シュリッテンバウアーの証言(1922年4月5日付)をまとめると、以下のようになる。

-3人は邸内にひと気がなく、納屋の通路に入る扉以外はすべて施錠されていることを確認し、通路から脱穀場(飼料庫)へと通じる扉を強引にこじ開けた。

-中は薄暗く、リードでつながれていない牛が脱出しかけているのが目に留まった。牛舎に戻そうとシュリッテンバウアーが先に進んだところ、足元の干し草につまづいた。後ろに居たペルが「おい、人の足だ!」と気づき、引きずり出すとアンドレアス・グルーバーだと分かった。

-さらに干し草で覆われた板の下から、老夫人ツェツィーリア・グルーバー、未亡人のヴィクトリア・ガブリエルと娘のチリが見つかった。4人とも血まみれで、いずれも生存の兆候はなかった。

脱穀場。撮影は解剖後に行われ、死体の位置は発見時と異なる。

-シュリッテンバウアーは脱穀場に赤ん坊が見当たらないことに気づき、牛舎を通って住居スペースに向かった。このとき牛舎に立てかけられたツルハシを見た。内側から玄関を開け、表に回り込んだペルとジーグルを住居スペースへ招き入れた。

-寝室に入ると、ベビーカー兼ベッドの中で頭を割られたヨーゼフが見つかった。上部の日よけ屋根ごと突き破られていた。

-台所脇の小部屋は、床にベッドマットが落ちていた。持ち上げてみると下から女性の遺体が出てきたが、その顔に見覚えはなかった。脇に荷物が詰まったままのバックパックが置かれていたため、遠方から訪ねてきた身内かだれかかと思った。

-邸内の確認を一通り終えると、表で待たせていた息子に命じ、ヴァンゲン市長ゲオルク・グルーバーの所へ事件を知らせに行かせた。ペルとジーグルは警察への通報を手配しに集落へ戻った。

-その間、シュリッテンバウアー本人は見張り役として現場に残り、覗きに来る野次馬を遠のけたり、家畜の餌やりなどをしていた。その後、市長と憲兵が現れたので現場を引き継いだ。

建物の配置と遺体発見場所


-心当たりとして、30日(木)午前11時ごろ、最後に会ったアンドレアス・グルーバーは浮かない表情だった。聞けば「泥棒に機械室のカギを破壊された」と言い、「新雪の上に侵入者の足跡が残されていたが、盗まれたものは何もなかった」「立ち去った足跡は見当たらず、どこへ逃げていったかは分からない」「脱穀場の扉にバールで叩いた痕跡があった」と話していた。

-グルーバー家は、倹約家で働き者、そして裕福だった。10万マルク以上の現金を持っていたと思われ、硬貨や証券資産も保有していたはずだが、どこに保管していたかまでは分からない。

-容疑者や一家の敵対者、親しい友人や知人、頻繁な訪問者に心当たりはない。

-内向的で引きこもりがちな暮らしをしており、近頃はそれほど多くの収入があったとは思えない。

-息子の話では、チリは4月1日(土)から学校に来ていなかったという。

-アンドレアスと女児は下着とシャツのみで、女性たちは服を着ていたことと併せて考えると、4月1日の夜に殺害されたのではと思う。

ビクトリアの寝室。手前がベビーカー兼ベッド

台所脇の小部屋で亡くなっていた女性は、所持品からキューバッハ出身の家政婦マリア・バウムガルトナー(45歳)と特定された。遺体の確認をした妹のフランツィスカによれば、マリアは3月31日にヒンターカイフェックに到着したばかりだった。

少し前にメイドの問い合わせをくれたビクトリア夫人が3月30日に自宅を訪ねてきたが、そのとき当のマリアが不在だったため、31日午後5時ごろに農場まで送り届けたと証言。到着時は老婦人だけが在宅で、その後、作業先からビクトリア夫人が戻ったので、そこで別れを告げたという。これが生前の最終目撃とされた。

またフランツィスカは、「農場では何も気づきませんでした。ただ、信じられないほど寂しそうで、私が帰宅してから姉から電話が入って、握手をせがまれたことが少し奇妙に感じられました」と証言している。

マリアには軽度の知的障害と、足が短く歩行に難があり、障害者カードを所持していた。生涯未婚で、両親が亡くなって以来、約18年間は親戚の手伝いやメイド働きに出ていたが、障害が原因で雇止めになることもあった。

聞き取り調査で、4月2日の日曜礼拝にグルーバー家はだれも参加していなかったことなどが分かり、3月31日夜から4月1日未明にかけての犯行と断定された。

 

◆現場状況と検死

4月4日午後6時ごろ、駆けつけた憲兵はただちに事件性を認めて現場保存を行った。ミュンヘン警察に通報されたのが午後6時15分。管轄のホーエンヴァルト警察から警察犬2頭を含む捜査員・鑑識官6人が派遣され、5日午前1時半に集落に到着。夜明けを待ってから現場捜査が開始された。

現場状況については、ゲオルク・ゴールドファー刑事による報告、コンラッド・ヴィースナー上級地方判事の報告(ともに1922年4月6日付)から一部参照する。

-脱穀場の四遺体は当初、高さ50cmほどに積まれた干し草の下に横たわっていた。

-裁判所は、犯人が「何らかの方法で、住居から脱穀場まで人々を誘い出し、扉の前で次々と殴り殺した」、すなわち殺害現場を脱穀場と判断する。建物のほかの場所で相当する多量の血痕は見当たらず、引きずって移動させてきた形跡もなかった。

-住居から脱穀場に至る導線は、一人ずつしか通れず、たとえ四人同時に脱穀場に向かってきたとしても、狭すぎて襲撃を避けようとしたり庇ったりもできない。

-検証により、脱穀場で叫び声をあげても、住居スペース(寝室やメイド部屋、リビング)までは全く聞こえないことを確認した。

-4人を殺害した犯人はおそらく牛舎を通って住居に侵入し、台所、メイド室、赤ん坊の眠る寝室を検索したと思われる。

-メイド室東側のストーブの上に、約0.5ポンドの鉛の弾丸が入った小さな紙袋が置かれていた。賃金袋で、「シェパッハ・ルパート、職種D2 No.54 2日分の賃金、1920年2月8日付」とラベルが貼ってあった。

(*シェパッハ・ルパートは弾丸工場に勤める機械工で、事件の約2年前にライフル銃の修理のため、ヒンターカイフェックに出入りがあったことが判明する。ついでに弾丸の購入を求められ、自分の給料袋に入れて届けたと証言した。結果的に事件とは無関係だった。)

メイド室。マリアはまだ荷ほどきも済んでいなかった

-犯人は寝室内で何かを詮索したと思われるが、実際には何も荒らされてはいなかった。ベッドの下に、数枚の為替手形やその他の書類、ノート、空の財布、婦人用腕時計が隠されていた。紙幣は見当たらず奪われたとも考えられるが、現金や貴重品の被害総額は不明。

-また司法委員会は、金貨、銀貨、500万ポンド紙幣、トークン硬貨、そして様々な抵当証券、貴重品、貯金通帳を発見した。(*回収された金貨は1880マルク、銀貨327マルク。算定できないが額面よりはるかに大きな資産価値がある。)

-玄関前室のハシゴから小さな屋根裏小屋に行くことができる。床にわらの山が散らばっており、一人ないし複数人が長時間横たわっていたような跡が見られた。

-キッチン上の屋根裏には燻製スペースがあり、燻製肉が10-12切れほどぶら下がっており、肉片のひとつは半分に切断されていた。

-黄色いスピッツを飼っており、普段は夜になると厩舎に入れられていた。警戒心が強く、見知らぬ人が手を出すと噛みつこうとする。右目が少し濁って腫れていることから、殴られたにちがいない。

-施錠状況から見て、犯人は侵入時と同様に、納屋と機械室を通って敷地を出たはずである。移動の妨げにならないように、また視野に入らないように、遺体を干し草で覆ったと考えられる。

-納屋と住居部分の屋根裏二か所で、中庭が見えるように屋根瓦が剥がされていたことが判明した。下に重なる瓦の色はまだ鮮やかで風化しておらず、ごく最近剥がされたばかり。

-牛舎の給餌台に重いツルハシが立てかけられていた。牛が舐めていたものの、鉄部分に血痕、長さ1mほどの柄の部分にも血痕様のシミが残されていた。

(*検察官ピエルマイヤーの1926年11月6日付の報告では「家畜に舐められていたため、血痕はなかった」と記されている。) 

-納屋の北側の扉近くに、指ほどの太さのロープが垂れ下がっており、その上部は成人男性でも降りられるほどしっかりと結ばれていた。(屋根裏から納屋に移動できる状況を示唆する)

そのほか、台所には洗われていない食器が残されていたことから、犯行はアンドレアスとチリが先に就寝し、女性たちだけが起きていた時間帯に発生したと考えられた。

邸の捜査が先に行われ、屋外の鑑識作業、石膏による足型採取は8日に行われた。しかし8日朝に降雨があったことや、複数の住民、捜査関係者の出入りがあったためか、犯人性を示す足跡を判別することはできなかった。

スピッツ犬以外の家畜は、〔雄牛2頭、雄牛2頭、雌牛4頭、雌牛3頭、子牛2頭、 鶏25羽〕 が柵で分けて飼育されていた。

6基の棺〔1953、Weltbild〕

検死報告書の原本は欠落しており、関係者の証言やメモから次のことが分かっている。

-邸の中庭に解剖台を設置し、6日と7日にかけて、地方裁判所医師ヨハン・バプティスト・アウミュラー博士と助手ハインリッヒ・ネイにより各日3体ずつ検死が行われた。

■チリ・ガブリエル…頭部に複数の打撃を受け、頭蓋骨は粉砕され、重度の損傷を負っていた。首は横向きに大きな裂傷。顔の右側、鼻の横の二カ所に円形の傷。あごに特に大きな傷。手には頭髪の束が付着しており、首には指の痕が残っていた。

苦痛のあまり首を押さえ、毛を搔きむしったものと見られ、襲撃後2-3時間は存命だったと考えられた。医師は「すぐに見つかっていればこの子は救えていたかもしれない」と口にした。

■ツェツィーリア・グルーバー…右目の辺りを7発の殴打痕。さらに絞殺痕と、三角形の頭部の殴打もあった。頭蓋骨の頭頂部にひびが入っていた。

■ビクトリア・ガブリエル…頭部に9カ所の星形の傷が認められた(「鋭利な刃物による小さな丸い傷」とも)。頭蓋骨は粉砕されていた。首を絞められた痕跡。妊娠の兆候なし。

■マリア・バウムガルトナー…頭部を十字状に殴打されて死亡していた。助手を務めたネイは、おそらく鋭い鍬で刺されたと推量され、深さ4cmの穴があったと証言した。

■ジョセフ・グルーバー…ベビーカーに寝ていたところを頭部に目掛けて強烈な一撃で即死。日よけ屋根ごとツルハシで破壊されており、脳漿や血肉が飛散していた。

アンドレアス・グルーバー…頭蓋骨が割れ、顔の右側面が粉砕され、頬骨が突き出ていた。

尚、絞殺の痕跡については、資料によって食いちがいがあり、ツィツェーリア・グルーバーかビクトリア・ガブリエルかのいずれか一人と見られているが、残存資料から確認はできないため併記した。

内務省は4月8日に犯人検挙につながる情報提供に対して10万マルクの懸賞金を掲げ、広くその情報を求めた。

外傷の激しかった頭部は切断されてミュンヘン大学に移送されたが新事実は追加報告されず、霊媒師にも意見を求めたが具体的な容疑者には結びつかなかった。頭蓋骨はアウクスブルクの裁判所により埋葬されたが、第二次世界大戦の戦火により破壊された。首のない遺体はヴァイトホーフェン墓地に埋葬されている。

凶器のひとつとみられるツルハシ

事件後、グルーバー家の資産は、半分をツェツィーリア・グルーバー夫人と亡夫との娘ツェツィーリア・スターリンガーが受け取り、残る半分をめぐって、親族10名により法廷で争われた。一家の死亡順序がはっきりしないため、最終的な所有権がだれに移るか不確かだったことが原因とされる。

最終的には法廷外で和解がなされ、ヒンターカイフェック農場は、ビクトリアの前夫でチリの実父カール・ガブリエルの父親が手にした。事件から約10か月が経ち、住民らの協力を得て邸宅の解体が始まった。

解体中の23年2月、ロイトハウエ(ロイト製の斧)が見つかった。ミュンヘン警察での鑑定で指紋は採取できなかったが、付着した血痕は「ほぼ確実に人血」とされ、獣毛のほか、人毛の付着も確認された。

一般公開してその所有者を捜すと、ゲオルク・ジーグルが、アンドレアス自ら木製の柄をつくり、刃を取り付けていたのを見ていたと証言した。正式な木工訓練を受けていないアンドレアスが削った柄は特徴的な形状で、ねじ止めから1cm超は長いネジが使われていた。ジーグルは、豚の屠殺に使うため、あえてネジが突起状になるように仕上げていたと説明した。

そのほか3月29日に納屋の解体跡からポケットナイフ、血にまみれた鉄のバンド(帯鉄、平鋼。樽の締め具などに用いられる)が見つかった。元メイドのリーガーは、アンドレアスが日常的にポケットナイフを携行していたと語っており、犯人に抵抗しようとした可能性を思わせた。

被害者たちの遺体には複数種の傷があったことから、先のツルハシと合わせて4点が使用凶器と推認された。

 

◆ヒンターカイフェックとグルーバー家

「ヒンターカイフェック」は、1863年ごろ、人口60人ほどで構成されるグレーベルン地区のはずれに拓かれた農場(牧場)の呼称である。敷地の三方を森で仕切られており、現場となった邸は、集落の中心部から南西におよそ500m離れていた。住居、牛舎、脱穀室(飼料庫)と、後から増築された機関室(トラクター保管庫)の大きく四棟が連なるかたちで構成される。

もともと農場はツェツィーリアの前夫ヨーゼフ・アサムの親が所有していた土地のひとつで、1877年に結婚した際、夫妻に相続されて移住してきた。経営は順調に進んだが、85年にヨーゼフが肺炎で亡くなり、幼子を抱えて寡婦となったツェツィーリアは、農場で働いていた9歳年下の農夫アンドレアスと再婚した。

翌年、グルーバー夫妻はビクトリアを授かり、ヨーゼフとの間に生まれた長男マルティン、長女ツェツィーリアと共に育てた(ほかの子どもたちは生まれてすぐに亡くなっている)。長男マルティンは生涯未婚で、1915年に徴兵され、翌年8月に戦死。長女ツィツェーリアは1902年にヨーゼフ・シュターリンガーと結婚。実家を離れたが、農繁期には手伝いに訪れていた。

実家に残ったビクトリアは27歳まで未婚で過ごしたが、男性嫌悪者ではなかったとされる。教会の聖歌隊ではリードボーカルを務めており、少なくとも3人の男性が彼女に好意を持っていたことが判明している。

ビクトリアは1914年4月に近村のカール・ガブリエルと結婚し、グルーバー夫妻から農場を相続した。しかし直後に第一次世界大戦が勃発し、カールは両親の暮らす実家に戻ると、同年8月に兵役を志願。12月にヌーヴィルの前線で偵察任務中に戦死した。戦争未亡人となった彼女は、翌15年1月、長女チリ・ガブリエルを出産する。

グルーバー家の略図。橙色で囲んだ5人とメイドが事件で亡くなった

この時期、アンドレアス・グルーバーとビクトリアの間に近親相姦があったとして「不道徳罪」で告発されていたことには注目せねばならない。当時の裁判資料や告発状は公開されておらず、告発者の名は明らかではないが、ヒンターカイフェック事件の4人目の担当者リチャード・ピエルマイヤー検事は次のように報告している(1926年11月6日付)。

ビクトリア・ガブリエル(旧姓グルーバー)は、結婚前の1907年から1910年夏まで、すなわち20歳の時から実父アンドレアス・グルーバーと婚外性交を行っており、

1915年5月28日のノイブルク地方裁判所刑事部の審判によりアンドレアス・グルーバーは懲役1年、ビクトリア・ガブリエルは懲役1ヶ月の判決を受け、
両者とも刑期を務めた。(ノイブルク地方裁判所ファイル Str.P.Reg.No.105/15)。

その後、ビクトリアは再婚しなかったが、1919年に妊娠が判明し、同年9月に長男ヨーゼフを出産する。彼女は隣家のそり職人(そして後年事件の第一発見者となる)ロレンツ・シュリッテンバウアーに赤ん坊の認知を求めた。彼は前年7月にガンで妻を亡くし、ほどなくビクトリアとの間に幾度かの肉体関係を結んでいた。

しかし村では出産前から「種親は実父アンドレアスではないか」とする噂が立った。シュリッテンバウアーは私生児としての認知を拒み、逆にグルーバー父娘を近親相姦で告発した。

しかしシュリッテンバウアーは証言を度々変遷させ、15日後には告訴そのものを取り下げた。最終的に彼はヨーゼフを非嫡出子として認知したが、わずか1800マルクの和解金だけで養育義務や養育費の支払いは免除され、祖父に当たるアンドレアスが赤ん坊の後見人となることで話はまとまった。

リチャード検事は、この裁判について「名目上の和解に過ぎず、(グルーバー家が)自ら和解金を支払ったためと思われる」と追記している(後述)

尚、事件直後のシュリッテンバウアーの証言では、ビクトリアを「未亡人」「赤ん坊の未婚の母親」とし、ヨーゼフを「自分の息子」で私生児であることを包み隠さず警察に説明している。

赤色が「ヒンターカイフェック」と呼ばれた農場敷地〔バイエルン王立測量局〕

現在の地図との位置関係〔グーグルアース〕

一家の内情については、1920年11月から21年8月末までメイドとして勤めていたクレッツェンツ・リーガーの証言が貴重な情報源となる。

事件当時の証言(22年4月24日付)によれば、「父娘が一緒にベッドで寝ている姿を見たことはありませんが、夜の7時から8時の間に、二人がわらの上に横たわり、性交しているのを一度だけ見かけました。後になってガブリエル夫人は、私が納屋に入ってくることが分かっていればあの晩は行かなかったのに、と話していました」と述べており、少なくとも事件の数か月前まで近親相姦が続いていたことを裏付けた。

リーガーは着任当時23-24歳で、「グルーバーは私に性交を求めたことはありません。それでも、ガブリエル夫人が私に嫉妬しているような印象を受けました」と語っている。

-赴任当時、リーガーは元交際相手との子を宿しており、21年3月にヒンターカイフェックで女児を出産した。赤ん坊は適切な養育を受けられず、医師の指示で里子に出された。

-着任当初から、工場働きや雇われ農夫をしていたアントン・ビヒラー(当時30歳)が夜な夜な部屋の窓を叩き、求愛のアプローチを受けた。グルーバー夫妻らに相談すると、その男は以前から服や食料をくすねる盗人だから付き合わないようにと釘を刺された。彼女も男女関係を望まなかったので、部屋の中に通すことはなかった。

-しかしガブリエル夫人は数週間おきに彼を雇い入れ、収穫や脱穀などの作業を手伝わせていた。アントンはグルーバー家が資産家であるのを知っており、提供される食事に文句をつけ、リーガーにこの家の仕事を辞めるように勧めていた。「パンを焦がすくらいの苦労しか知らないくせに、こんなに大金持ちだなんて」と一家の陰口を叩くこともあった。

-リーガーは地元住民からも、アントンが彼女に下心がある様子を聞かされ、農場労働者のゲオルク・シーグルと一緒に「カイフェックの一族は皆殺しにされるべきだ」と口にしていたとの忠告も耳にした。その話をガブリエル夫人に進言すると、「一度食べられてしまえば、彼一人にそんなに怯えることもないでしょうに」と返した。その雇用主の言葉はリーガーを傷つけ、アントンへの恐怖心もあって退職を決意させた。

-チリにも噛みつく凶暴な犬だったが、なぜかアントンには吠え立てることもなかった。事件を知ったときは、アントンと彼の弟カールやゲオルク・シーグルの仕業ではないかと思った。

-シーグルと直接面識はなかったが、11月初旬(リーガーの雇用より前)に邸に盗みに入った話を聞かされた。棒を足場にして窓から侵入し、大量の燻製肉や卵、パン、衣類といったものを盗んでいき、ガブリエル夫人たちは森に逃走していく姿を目撃したという。

 -訴訟沙汰があったにもかかわらず、アンドレアス・グルーバーとロレンツ・シュリッテンバウアーは互いに話をすることはあったが、女性たちはシュリッテンバウアーに接することはなかった。アンドレアスが彼のことを「雄牛」呼ばわりするのを一度聞いたことがある。

それ以外の一家の交流関係について、「彼らは見知らぬ人に何も与えず、家に入れることもしませんでした。一度だけ、疲れた様子でブラックベリーを摘んでいたと思われる老人が一夜を過ごしたことがありました。 グルーバー夫妻に敵意を持つ人に会ったことはありません。彼らはケチだったので、とても不人気で、誰からも好かれていませんでした。親戚は、スターリンガー夫人(ツィツェーリア・スターリンガー)が訪ねてきただけでした」と語っている。

 

◆事件の予兆

新雪の足跡

雪上に残されていた足跡について、その証言がシュリッテンバウアーひとりであれば、偽証のようにも思われるかもしれない。屋根裏に人がいた痕跡があったというのも誤認ではないかと疑いたくもなるが、おそらくそうではない。

グレーベルン集落の複数人がアンドレアス・グルーバーから侵入者の話を聞かされていたと報告されている。また4月1日の午後、周辺で狩猟をしていた三人組も、ヒンターカイフェックの邸方向に向かう足跡を目にしたことを証言している。

徒歩で1時間ほどの距離にあるホーエンリート教区の牧師は、毎週木曜日にシュロベンハウゼンに通っており、道中でヒンターカイフェックの人々と顔を合わせる機会がよくあったという。やはり事件前の木曜日(シュリッテンバウアーと同じ3月30日)、グルーバー老は納屋に通じる道ができていたが戻る道はなかったと話していたという。足跡がひとり分だったか、ふたり分だったかは記憶にないとした。

新聞配達

郵便配達夫ヨーゼフ・マイヤーは、老夫妻と戦争未亡人への年金の通知や、(月)(水)(金)には地方新聞『シュロベンハウゼン・ウィークリー』を定期的に届けていた。しばしば顔を合わせることもあり、内向的な家族ではあったが時折話す分には親しみやすかったと語っている(1952年1月10日付)。

-1922年3月の事件の直前、グルーバー老とガブリエル夫人は「敷地に何者かがいる」と考えていたらしく、「誰かを見掛けなかったか」と尋ねられたことがあった。

-アンドレアス・グルーバーは敷地内で「ミュンヘン新聞」を見つけたらしく、マイヤーに落としていかなかったか、この辺りでミュンヘン新聞の購読者を知らないかと尋問したという。該当地域に購読者はおらず、外部から持ち込まれたと考えるのが自然だった。彼らは雪の中で納屋に続く足跡を見つけたと言い、ぬかるみの中を捜索していた。

-最後に会ったのは3月31日(金)で、北側の井戸で水汲みをしていたグルーバー老に直接新聞を手渡した。

-次の配達は4月3日(月)だったが、だれとも会わなかった。台所のドアが半開きで、いつも台所脇にあるベビーカーが見えないことに気づいた。彼は日頃、赤ん坊の顔を覗き見るのが習慣になっていたという。

-巷間では、「3月31日の新聞が台所の窓に挟まったままだった」と噂されているが誤りである。グルーバー家は新聞の到着を待っていることが多く、もし以前の新聞がそのまま残されていたならば、不審に思って自分が邸の周囲を見回したはずです、と話している。

-また、事件直後に憲兵将校ゴールドホーファー氏にも全く同じ説明をしたが、新聞の偽装工作をした疑いは払拭されなかったという。

若い二人組

ヴェスターバッハに住む農夫兼肉屋のシモン・ライスレンダーは4月1日午前3時半ごろに、ヒンターカイフェックからおよそ8km北に離れた別の農場付近で若者二人組を見掛けたと通報した。

ライスレンダーは婚約者の家から自転車で帰宅途中だった。20歳前後と見られる男は、暗闇の中、溝端で誰かを待っていたようで、ライスレンダーの接近に気づくと驚いて顔を背け、帽子で顔を隠した。すると森の方から小柄な別の男が現れた。身なりはきちんとしていたため労働者とも思われなかったが、深夜にひと気のない農道で屯するのは不審に思われた。

小柄な男はカール・ビヒラー、背の高い男は鍛冶屋の見習いをしていたゲオルク・マーダーと見て、取り調べが行われた。

パン焼き窯

-レンガ職人のロレンツ・ベッケンレヒナーは次のように述べた。「事件の発覚から数日後、私はシューベラーハウゼンの宿に滞在していました。見知らぬ作業員から、ヴァイトホーフェン出身の大工の話を聞かされました。大工がグローベルンからカイフェックを通ってヴァイトホーヘンへ向かう途中、敷地の裏手にある窯小屋からかなり背の高い男が現れ、顔にライトを向けられた、と。その後、男は無言のまま窯の方へ消えていったそうです」(ロレンツ・ベッケンレヒナーによる証言、1922年6月1日)

-4月1日(土)の朝と夕方にヒンターカイフェックを通りかかったミヒャエル・プレックル氏は、午前中は炉の扉が閉まっていたのに、夕方には半分ほど開いていたのを目撃し、夕方には煙突からかすかに煙が出ていたことに気づいたとされる。また、邸宅付近の道路近くまで広がる森の中で、懐中電灯のような閃光を見たとも述べている。(検察官リチャード・ピエルマイヤーによる報告、1926年11月6日付)

グルーバー邸からやや離れた通り沿いに一家の洗濯小屋とパン焼き窯が設けてあった。人伝の話と、聞き取り調査による報告で、その具体性や印象はやや異なるが、なぜ「男」は邸内のストーブ類ではなく、通りに近いパン焼き窯を熾す必要があったのか。事件直後に犯人はパンでも焼いていたとでもいうのか、それとも血に塗れた着衣を処分していたのか。

匿名の寄付

事件の2週間前、ヴァイトホーヘン教会のハース牧師は告解室に700金マルクの金貨が入った封筒を見つけたとされている。住民の経済状況などから鑑みて、グルーバー家が寄付したものにちがいないと思われた。

ハース牧師はビクトリア・ガブリエルを呼び出して問いただしたところ、ためらいながらも布教に役立ててほしいと寄付を認めたとされる。

しかしこの報告は、初期の捜査に参加していなかったザフェル・メイエンドルス刑事の記憶を頼りに、1948年にバイエルン州警察が追加した項目で、その真偽については評価が困難とされている。

事実だとしても、はたして事件と関連する出来事なのかははっきりしない。

 

◆いくつかの試論

悪名高い事件の話に「尾ひれ」がつくのは今も昔も変わらない。この事件はあまりにも不確定な情報が多すぎることで人を惑わせる。証言者たちは作為的に嘘をついておらずとも、その人間関係や既知の情報によって悪意なく証言を歪ませているようにも見える。決定的な証拠に乏しいなか、捜査員たちも当時の見立てに基づく捜査や誘導的な聞き取りが行われたものと思量される。

元メイドへの疑い

ある者は、窓越しに現れた謎の人物が元メイドに前もって危険を知らせていたとの噂を広めた。メイドは奇妙な家族の内情を知る数少ない外部の人間と見なされ、犯行を指南した(強盗の片棒を担ぐ内部関係者、いわゆる「引き込み女」)との見方もあり、元メイドのリーガーは度々の聴取で説明に追われた。

リーガーがヒンターカイフェックで生んだ赤ん坊を里子に出さねばならなかったことも動機のひとつに疑われた。グルーバー家の日頃のふるまいから、赤ん坊には充分な食事が与えられなかったことを想起され、あるいは一家がメイドをこき使うために、医者に口添えして引き離した可能性さえ感じさせた。

ビヒラー兄弟

夜な夜なメイド部屋に通ったアントン・ビヒラーは、酒場で自らリーガーとの情交をほのめかしていたことも災いして、「羊飼いから犬を大人しくさせるコツを習っていた」「メイドが出産する8日前にも関係を持ったと吹聴していた」などと実しやかな告発が寄せられた。

アントン自身は、グルーバー家の臨時仕事でふるまわれる簡素な食事や扱いに不満を述べていたのは事実だが、強盗を具体的に計画したことはないと主張した。

「リーガーと男女関係を持ちたかった」のは事実だが、「部屋に入れてもらえたのは一度きりだった」と述べ、「犬が吠えなかった」というのも事実ではないとしている(1922年5月4日供述)。

アントンの弟カール・ビヒラーも窃盗の常習で知られ、知人のミカエルと農作業の帰り道で金儲けの話題になった際、「もし我々がヒンターカイフェックに押し入ったらどうなる?グルーバー老にはてこずるだろうが、あとの女たちは我々に金を差し出すのではないか」といった強盗計画をほのめかしたことがあったという。

調べを受けたカールは「金が欲しい、汚れ仕事はもうまっぴらだという趣旨の発言はしたかもしれないが、芋の収穫作業はこりごりだという意味だ」と述べ、鶏泥棒などいくつかの余罪は認めたものの、一家殺害への関与は否定した。

ビヒラー兄弟は事件当夜、別の地域で手伝い仕事に従事しており、アリバイがあったと見なされている。だがこうした噂が流れること自体、ヒンターカイフェック農場でこき使われた不定職の労働者たちは些細な不満を蓄積していたこと、不定労働者の生活環境は「富める者から奪う」という着想に至りやすいことを示唆している。

グンプ兄弟

1952年、ホーエンリート教区の牧師は、11年前に臨終の床に招かれた女性から、ヒンターカイフェックの真犯人としてグンプ兄弟の名を聞かされたと証言した。

彼女は死期を悟っており、精神的に正常な印象で、良心の呵責から解放されたかったように感じられたという。彼女はグンプ兄弟の実の姉で、後から聞けば同じ教会の別の牧師にも同様の告発を行っていた。

2歳違いの兄アントン、弟アドルフ・グンプは、第一次世界大戦で従軍した後、義勇軍(民兵組織)に参加して各地の戦線で活動した。ヒンターカイフェック事件直後の1922年4月9日にはゲオルク・ライングルーバー刑事も弟アドルフに目を付け、戦時外で殺人を犯したとして逮捕状を発行したが、これは失敗に終わった。

兄アントンはインゴルシュタットで研磨工として働いた。アドルフは妻子とともにかご職人として全国を放浪。第二次世界大戦で再び従軍を志願し、年齢を理由に度々断られたが、1942年に52歳で許可された。捕虜収容所の警備などに配属されたが、44年に自転車事故が元で死亡したとされる。

牧師の告発を受けて検察官アンドレアス・ポップは、グンプ兄弟犯行説を追い、すでに65歳で年金暮らしのアントンに尋問したが、6週間にわたる取り調べも成果にはつながらなかった。牧師がアドルフの戦死前に告発していれば、もっと追及できたとして巷間にも議論が起こった。

通例、告解師が職権で得た秘密を元に犯罪の告発することは、つみびと(懺悔の告白をした人)に対する裏切りであり、いかなる理由であっても許されていない。彼女の末期の証言は告解に当たるとして、聖職者の守秘義務をめぐり法学者や教会関係者の間でも批判が起こり、事件は30年目にして再び国民的注目を集めた。

一方で、過去の容疑者リストには、敵対者から虚偽の告発を受けた素行不良者が少なくなかった。行き過ぎた親子喧嘩の果てに、あるいは悪い別れ方をした恋人への報復として、あるいは捕まらずにシャバにいる元相棒を売るかたちで、この事件は度々利用されもした。

彼女が弟たちの不正の証拠をどの程度つかんでそうした証言につながったのかは明らかではない(拡大解釈すれば、それが真に彼女の告発だったかを確かめるすべもない)。不幸中の幸いというべきは、証拠不十分としてだれも起訴されなかったことである。

カール・ガブリエル

戦死したビクトリアの夫カール・ガブリエルも永遠の眠りから呼び覚まされた。

彼は第一次世界大戦で亡くなり戦没者墓地に埋葬されていたが、戦後も目撃したとの報告が複数聞かれていた。事件後、警察は記録照合だけでなく、戦地で死亡を確認したという元同僚兵への聞き取りまで行って事実確認している。

周辺住民らは、夫婦のごく短い結婚生活やカールが帰郷した理由について、老夫妻からの虐待、あるいは父娘の近親相姦を知ってしまったことが原因ではないかと勘繰っていた。帰郷に妻を伴わなかったことから、カールとビクトリアは愛し合ってはいなかった、グローバー家の資産目当ての結婚だとする見方もある。ビクトリアの長男ヨーゼフ同様、長女チリの父親(子種)についても疑念が抱かれるのも自然のなりゆきである。

ロシアで抑留され、戦死と思われながら何年も経って帰還するという話は、当時としては各地で好まれた実話や定型的噂話のひとつだったかもしれない。命からがら帰還して妻が私生児を抱いていれば、一家皆殺しのスイッチが入ったとて不思議はない、と。それとも事件そのものが奇妙なあまり、「亡霊による呪い」のように映ったものなのか。

家族関係では、故ヨーゼフ・アサムとツィツェーリアの息子マルティンも1916年に戦死している。異父妹ビクトリアより7歳年長だった彼が農場を相続しなかった理由ははっきりしていないマルティン本人の意志だったのか、両親と確執があったのか、家族内でのビクトリアの特権的な立場を示しているのか。

「強盗」に関する疑念

倹約と勤勉さ、さらに第一次世界大戦の戦時国債ハイパーインフレによって、農民たちの中には過去の負債を減らし、グルーバー夫妻のように財を成す者さえあった。警察は、ベッドの下に隠されていた大量の金貨・銀貨を見つけたが、紙幣が見当たらないことから「犯人は紙幣だけを奪って逃げた」と見立てていた。

しかし抜け目のない夫婦が税金逃れのために額面上の貨幣価値が小さなコインに換えていた、あるいは再びインフレで紙幣の価値が目減りすることを恐れ、金貨や銀貨に換えて蓄財していたとも充分考えられる。一家を皆殺しにしておきながら、時計や宝飾品が手つかずなことからも「盗品被害は全くなかった」と見る向きもある。

蓄財の一方で、嫁に出た義姉ツィツェーリア・スターリンガーによれば、ビクトリアは農業機械の修理や購入のために複数回借金をしていたとされる。これもインフレで貨幣価値が下がれば容易に返済できるという財テクのひとつだったのか、それとも両親が金を使わせなかったために頼れる人が他になかったのか、単にスターリンガーが相続権を得るための方便だったのかは今一つはっきりしない。

警察は、親戚縁者、周辺住民らに対して継続的に調査を重ね、経済状況に目を光らせていたが、貨幣価値と物価の変動によってその動向も見落とされてしまったのだろうか。

滞在者

犯人はどれほどの間、現場に滞在していたのだろうか。

4月4日の朝、機械工のアルベルト・ホフナーがエンジン修理に訪れた際、玄関先に犬が吠えていたと証言している。事件が3月31日の夜更けに起きたと想定すると、犯行当時、犬は小屋の中に入れられていたはずである。

つい数日前まで雨や雪がちらつく寒い時期のこと、おそらく犯人は空模様を見て、やかましい犬を玄関先に出してやったのだ。何日も外につながれっぱなしで餌も与えられていなければ衰弱していようものだが、そうではなかった。

屋根裏の滞在者は、4月4日に機械工アルベルト・ホフナーが訪問するまでその家に潜んでいたのではないかというのが筆者の見立てである。修理の金属音や鼻歌に気づいた犯人は、どうやらホフナーが郵便配達夫のようにすぐには立ち去らないことを懸念した。相手はハンマーなどの工具を持っており、ひょっとすると安否を確認しに屋内に入って来るかもしれない。

屋根瓦を一部剥がしたのは、上方からホフナーの位置を計ろうとしていたのであろう。建物の南西側にだれもいないのを確認すると、屋根裏から縄ひもで脱穀場に降り、気づかれぬように立ち去ったように思えてならない。

初動捜査への疑念

シュロベンハウゼン憲兵局の元警官ヨハン・アンネザーは、事件直後の4月5日から現場捜査に参加していた。後年、彼は、1930年まで事件の主任警部を務めたミュンヘン警察のゲオルク・ラインクルーバーが捜査を混乱に導いたとして、検察庁に批判的告発を行っている(1949年2月29日のレター)。

アンネザーによれば、ラインクルーバー警部は到着して遺体を見るや、即座に「ガイゼンフェルトのパン屋のベルトルが犯人だ」と断言したといい、その名前は長年捜査リストの上位を占めた。

ベルトルはガイゼルフェルト出身のパン屋見習いだったが、1916年から大戦終結まで2年半の兵役に就いた。退役後は警官になりすまして金銭を騙し取ったり、高利貸や結婚斡旋業などで悪事を繰り返した。19年の終わりにエーベンハウゼンの農民アドラーに対する強盗殺人が起き、その容疑で男は検挙された。しかし拘留中に食事を摂らなくなり、拘禁症の疑いでサナトリウムに移送され、21年に逃亡したまま、行方をくらませていた。

警部がその名を挙げた理由は、6人の頭を叩き割る手口の異常性、執拗さを精神異常者に当てはめた「刑事の直感」によるものと考えられ、下級警官の目には証拠や裏付けのない単なるこじつけか、あるいは功績を挙げたいだけの見込み捜査に思われた。ベルトルは詐欺師で悪名を馳せた人物あり、アドラー殺害さえ事実だったかどうかも今や確かめようがない。

また「31日(金)-1日(土)にかけて殺害された」との見解はその後も広く定着したが、アンネザーは土曜の夜に起こった可能性も排除しきれないと言い、1日のずれがあれば多くの容疑者のアリバイが引っくり返されると主張した。この指摘が的を得たものかは分からないが、初動捜査の見誤りによって、真犯人が目こぼしされて野放しになるということは往々にして起こりうる。

2025年に新設された現場のモニュメント
ロレンツ・シュリッテンバウアー

本件で最も犯人視されたと言って過言ではないのが、第一発見者ロレンツ・シュリッテンバウアーであろう。少なくとも集落では「奇妙な一家」と長年の交流がありつつも、遺恨のある間柄と捉えられた。

事件の数週間前、彼の新妻アンナは赤ん坊を出産したが、3月26日に息を引き取った。このタイミングの一致は単なる偶然なのか。その不幸に奇妙な隣人が余計な放言を投げかけ、意気消沈していた橇職人が激情を引き起こしたのではないか。

事件発生から3年半後、彼はシュロベンハウス地域の週報に次の告知を掲載した。

国民への警告

私がヒンターカイフェック殺人事件に関与していたという噂を広めるのはやめてください。今後、そのような噂を流布する者には、富裕層であろうとなかろうと法的措置をとります。人の名誉は悪口によっても奪われますし、そうした人間が人の名誉を取り戻すことは決してできないというのが私の考えです。

グローベルン、1926年1月26日
ローレンツ・シュリッテンバウアー

正確な時期は不明だが、同じく第一発見者となったヤコブジーグルは事件当初の証言を覆し、「シュリッテンバウアーから『カイフェックの人たちが皆殺しにされたらしい』と言って呼び出された」「彼がポケットからカギを出して開けた」と発言して、シュリッテンバウアーを犯人視する疑惑を周囲に広めたとされる。

1925年から26年にかけて両者の間で訴訟沙汰となった。ジーグルの主張と共に、「グルーバー老は事件の数日前から自宅のカギを失くしたと話していた」との噂も広まり、周辺地域ではシュリッテンバウアー犯行説が定着していく。

事件から9年後、ミュンヘン警察から尋問を受けたシュリッテンバウアーの証言(1931年3月31日付)を見てみよう。彼は生まれた頃からグルーバー家を知っているとし、13歳年下の未亡人ビクトリアについて次のように語った。

ビクトリア・ガブリエルは、概して簡単にセックスの相手をしてくれました。夫(カール)の死後間もなく、彼女と一緒に衣装を運んだ時のことでした。私のワゴン車で一緒にドライブしていた時、彼女はすぐに私にせまってきました。「今すぐ私を捕まえてもいいわよ」と彼女は言いました。

しかし、私は当時はまだ結婚していたので、その言葉には乗りませんでした。

妻が亡くなった後(1918年10月15日)、ある日、干し草置き場にビクトリア・ガブリエルがやって来て、待ち伏せしながらアプローチしてきました。妻が亡くなってから2週間ほど経っていました。私は「ノー」とは言いませんでした。結局のところ、自分の家財のためにも(新たな)妻が必要だと思っていたからです。

彼女は私が何も望まぬうちに、すぐに性交を申し出てきました。彼女は私をつかみ、干し草の上に身を投げ出しました。これが彼女との最初の性交でした。その後もこのようなことが何度か起こりました。

ある時、私たちがガチョウを選別している時に、彼女は「結婚しましょう」と言い、小屋に連れて行き、性交を申し出ました。私はそれまで、女性からあんな風に誘われるような経験をしたことがありませんでした。彼女と性交したのは、合計で5回ほどだったでしょう。

それから彼女は、結婚について彼女の父親(アンドレアス・グルーバー)に話すように勧めてきました。それがいつのことだったかは正確には覚えていませんが、後になって彼女がすでに妊娠していた時期だと分かりました。彼女はそのことについて何も話してくれませんでした。

私は彼女と結婚できると心から信じていたので、グルーバー老人のところへ行き、結婚の申し出をしました。彼も娘も同意してくれました。その上で私は、もちろん一つ条件を付けました。それは、娘との性交渉をやめることです。

「罪を悔い改め、私があなたの娘を正しい道に導きます。自分は良きクリスチャンであり、そのようなことは我慢できない」とも言いました。彼は「様子を見ましょう」と答えました。

その後すぐにビクトリアと再会した時、彼女は妊娠を告げ、私が父親だと言いました。私は「でも、あなたの父親が関わっているんじゃないか」と疑念をぶつけると、彼女はこう答えました。

「『お父さんも一緒にいさせてください。でないと、私は彼に殺されてしまいます』なんて言えるはずないじゃないの」

また、グルーバー老はもう結婚に乗り気ではないけれど、私には赤ん坊の父親になってほしいとも言いました。

グルーバー老人とも再度話をしたが、婚約を反故にし、金銭まで要求してきたので失礼に思い、近親相姦を告発したとその経緯を語った。係争中、ビクトリアから泣きながら懇願されたため、言い分を変えたと言い、赤ん坊を認知さえしてくれれば養育費はいらないという譲歩がなされ、和解金を渡されたと述べている。

長くなるが、その後の質疑についても見ておこう。

質問:あなたは本当にビクトリア・ガブリエルの子供の父親だと感じていますか?
回答:分かりません。答えられません。

質問:その子の名前は何でしたか?
回答:ヨーゼフです。

質問:その後、あなたはハンザールのことしか話さなくなったのですか?
回答:そうは思いません。いつも「私の小さな息子」と呼んでいました。

質問:あなたはその子に頻繁に会いに行きましたか?
回答:いいえ、ですが時々顔を合わせました。畑仕事のときに時々声を掛けてやると、子どもが駆け寄ってきました。その後、グルーバー老とも話すようになりました。(和解のために支払われた)金を返すと、私たちはまた仲良くなりました。

質問:つまり、お金が返ってくるまで仲が悪かったということですか?
回答:最長8日間ほど仲が悪かったのですが、すぐに仲良くなりました

質問:しかし、グルーバー老夫人とビクトリア・ガブリエルはシュリッテンバウアーと二度と親しくならなかったと人々は主張していますが?
回答:これ以上は何も言えません。敵意はありませんでした。

質問:シュリッテンバウアーさん、あなたは理性的ですか?そして真実を語っていますか?あなたは父親の問題についてひどく動揺していましたね?
回答:もちろん、父親の問題について私は激怒しました。息子は私を非難しました…
(シュリッテンバウアーは振り返り、それから説明を続ける)私が動揺していたというのは事実ではありません。私は人生で誰かを憎んで動揺したことはありません。地域社会全体が私を良い人間と呼んでいます。

質問:殺人がどのようにして発覚したのか教えてください!
(シュリッテンバウアーは、遺体発見時の詳細などを語る。以前の発言と完全に一致しているため、省略。)

質問:一人で馬小屋から家の中に入ったとき、怖くありませんでしたか?
回答:興奮しすぎて何も考えられなくなっていました。息子(ヨーゼフ)が飢えているに違いないと思ったからです。自分の子ではないことは確かでしたが、かわいそうで、すぐにでも会いたかったです。興奮のあまり、邪魔をする者なら誰であろうと引き受けていたでしょう。

質問:あなたは、中にあった鍵を使って玄関のドアを内側から開けたと説明しましたね。グルーバー老が家の鍵をなくし、かんぬきでしか施錠できないと言っていたのに、どう説明しますか?
回答:それは私には謎です。鍵は1つしかなかったことは確かだからです。

質問:鍵が内側にあったとしたら、犯人はどうやって家から脱出したと思いますか?
回答:馬車小屋の上からロープが垂れ下がっていて、犯人は干し草置き場を通って馬車小屋まで登ったのだと思います。上から通ることができたので、ロープを使って降りていったのです。

質問:グルーバー老夫人とビクトリア・ガブリエルの遺体に何か気づきましたか?絞殺の跡は見ましたか?
回答:いいえ、はっきりとは見えませんでした。

質問:あなたは、殺人の1、2日前に、あなたとグルーバー老が新雪の上に2人の足跡を見たと証言しました。その足跡は機関室のそばの飼料室に通じていましたが、そこからは戻ってきませんでした。別の証言者は、グルーバーが自分の土地で何度か男性の足跡を見たと自分に話したと述べています。
回答:それについては何も知りません。確かに2人の足跡を見ました。

質問:その後、あなたはジーグルと数件の訴訟を起こしましたね。結果はどうなりましたか?
回答: ジーグルは私を殺人犯と呼び、私は彼を名誉毀損で訴え、彼は40マルクの罰金を科されました。当時、彼は息子のヨハンにまで私に不利な証言をさせようとしました。そこで私は、ジーグルが息子に偽証をそそのかしたとして告発しました。このことで私は3回罰せられました。彼が本当に息子をそそのかしたのだと証明することもできましたが、私は彼を哀れに思い、自分で罰を受けることを選びました。

市書記官のデルシュもパブで公然と、私をヒンターカイフェックの殺人者と呼びましたが、私は彼を訴えませんでした。訴えても何の得にもならず、ただ損害を与えるだけだから。そして不当な扱いにも辛抱強く耐えるべきだと思ったのです。

質問:あなたはデルシュに燻製肉を持って行って、そのような主張をやめるように頼んだのですか?
回答:それは嘘です。私は当時、彼が私をそのような形で中傷したことにひどく腹を立てました。特にパブにいる全員の前でですが。しかし、私は彼を追及しませんでした。

質問:また、犯行当時、あなたは家におらず、干し草の上で寝ていたとも言われていますね?
回答:どうしてそんなことが言えるのでしょう。何も聞きたくありません。それは事実ではありません。私は妻と一緒でした。

質問:8年前にヒンターカイフェックの家が取り壊されたとき、あなたが瓦礫を掘っている、というか捜索しているのを目撃されていますね。
回答:はい、その通りです。グルーバー老に貸したままになっていた刈取り用の車輪を探していたんです。

質問:イブラガー先生(小学校教諭)もかつて、あの家のあった場所であなたに会ったことがあるそうですね。そのとき「犯人が穴を掘ったようだ」と先生に話していましたね?
回答:はい、その通りです。委員会が到着した翌日、遺体が発見された場所近くのシュターデルフィアテルで、シャベルほどの大きさの穴が掘られている場所を見つけました。掘り起こされたばかりで、藁で覆われていました。犯人は遺体を埋めようとしたのでしょうが、地面が固すぎたのでしょう。

質問:パブで自分のことを犯人と呼んだと聞きましたが?
回答:はい、冗談で。パブでズボンを破いてしまい、隣の人に繕ってもらったことがありましたデルシュが私をヒンターカイフェックの殺人犯呼ばわりしたばかりだったので、「これでヒンターカイフェックの殺人犯のズボンを繕ったことになるな」と言いました。

彼は6人を皆殺しにしたうえで9年経っても言い逃れを続ける大悪党なのだろうか、実際の所はよく分からない。彼も多くの子を育て、何人かの子に先立たれていたが、婚外子ヨゼフ・グルーバーに対してどういう関係性を築けばよいのか、戸惑っていたようにも見える。

小集落のだれもが顔なじみという関係性において、自分が疑われないためにはだれかを「生贄に捧げる」というのが安全への近道になる。ジーグルの記憶が事実だったかどうか、憶測混じりの発言だったのか、聞いた人々が感じた疑念が本物だったのかどうかは確かめようもない。ただ犯人さえ見つかれば、自分たちは容疑者でなくなるという防衛心理からそうした噂に飛びついたようにも思われる。

 

ロレンツ・シュリッテンバウアーはその後も現地に居を構え、1941年5月に世を去った。彼の息子、娘たちもひどいいじめや中傷を受け続けたとされ、長年、マスコミとは距離を置いた。

筆者が注目するのは、シュリッテンバウアーは「ワゴン車」を運転できたという点である。事件当時の所有は明言されていないが、そり職人という仕事柄、資材運搬のために自動車は必要不可欠だったと推測できる。

彼の自宅からグルーバー家までは350m程の距離であり、自動車があれば尚更のこと、その場に凶器を捨て置かないのではないか。また自ら進んで「第一発見者」を偽装する必要性はなく、別の訪問者(郵便配達夫、訪問販売人など)に発見させることもできたはずだ。

彼が犯人であれば、粗探しすれば金品さえ見つけられたにちがいなく(大半は夫妻の寝室の戸棚にあった)、強盗犯にカモフラージュする時間的余裕はあった。

シュリッテンバウアーは喘息持ちで、妻子があり、すでに長女を嫁に出し、経済状況も安定して、村の顔役とされた人物である。二人目の妻マリアとは旧知ではあったが、交際から三週間で婚約に至っていることからも、決して愚かな人物ではない。

証言のすべてが真実とは限らないが、少なくともグルーバー家との私生児問題、ジーグルらとの犯人視騒動に対しても暴力的解決ではなく訴訟や広告といった民主的かつ穏当な対処を心得たまっとうな社会人と見受けられる。

取り調べの場で動揺を隠しきれない彼に、2歳半の息子の頭を叩き割ることができただろうか。仮に、理性を失うほどの半狂乱に陥ってそれほどの残虐性を露呈したならば、涙ながらに自首してくるような人物に思えるのは筆者の見込み違いだろうか。

 

2007年、フュルステンフェルトブルック応用科学大学(行政法学専攻)の警察学生15人が学生研究プロジェクトの一環として事件を再調査している。

資料を再検証し、すでに指紋採取が一般的だった当時においてもいかに杜撰な捜査であったか、現代の捜査技術であれば有罪に導くことができた可能性を明らかにした。メンバー全員がある容疑者の関与に同意したが、親族関係者への道徳的配慮としてその名を公表してはいない。

しかしこのプロジェクトは多くの根本的な危険性を孕んだ試みであり、15人の学生が数週間かけてたどり着いた結論が「正解」とは限らないことには留意が必要である。彼らが最善を尽くした研究を過小評価するつもりはないが、盲目的に過大評価し、「真実」と結論づけてはいけない。

アクセス可能な捜査ファイルは戦火紛失などでそもそも欠落があること、そして基となる資料は事件を未完に終わらせた情報であり、文書や写真の一部に限定されている(当事者の不在)。100の証拠から導き出した結論が、101つ目の証拠によって覆されることもあることは多くの冤罪事件を知る人々ならご承知のことと思う。

現代と85年前の捜査技術にちがいがあるように、今から85年後の捜査技術によって導き出せる仮説もまたちがってくる可能性は大いにある。

尚、学生たちの指導教官には、シュリッテンバウアー犯行説に数十年来固執してきた元刑事捜査委員会コンラッドミュラー氏も含まれていたことを指摘しておこう。彼が誘導的な指導をしたとまでは言わないが、学生たちは彼の影響下にあったことは確かである。

 

二人組の外部犯など様々な犯人像、複雑なシチュエーションが想起されるものの、現場状況にフォーカスすれば、アンドレアス・グルーバーによる無理心中という構図も思い浮かぶ。

ひとつは、ほぼ密室状態だった邸宅について、中からカギを閉めるのが最も容易であること。

また着衣や脱穀場の状況からは、アンドレアスがチリを手籠めにしようとしていた場面を想起させられまいか。彼は虐待的人物であり、その凶行に気づいて止めに入ろうとした妻、娘に対して衝動的に首を絞め、手近な農機具で殴りつけるなどして殺害に至っても不思議はない。

騒ぎに気付いたメイドは部屋に逃げのびたが撲殺されてしまったか。男は自らの過ちがもたらした惨憺たる状況に、赤ん坊や少女だけを生かしておくのも忍びなく無理心中に向かったのではないか。

検死を行ったアウミュラー博士は当時45歳、法医学者の認可を受けた人物だが、そのキャリアの大半は精神科医として勤め、裁判所医師となってから1年半であった。当時の法医学界全体の学術的蓄積に加え、検死報告書の欠落、博士のキャリアも死亡状況の不鮮明さにつながっているとの見解もある。

全員頭を割られていたのは、残虐性というより強い恐怖心と罪悪感から息の根を止めにかかり、上から目隠しで覆ったと見る。外部犯であれば、凶器はナイフや鉈など携行できるものが限られる。主要凶器からも内部犯の疑いは濃くなり、アンドレアスは動物の屠殺で重い農機具を使い慣れていたのは明らかである。

この仮説では「侵入者」が説明できなくなるが、事件とは無関係に、農家に忍び込もうとしたコソ泥や、あまりの寒さを納屋でやり過ごそうと考えた浮浪者、近親相姦を期待したのぞき魔、新たなメイドにちょっかいを掛けに来た色男など、不審者はいくらでも思い浮かぶ。

付近で見つかったとされるミュンヘン新聞も、食べ物などの包み紙や腹巻き代わりに暖を取るなど、それこそ狩猟者や山仕事をする人々にとって利用手段はいくらでもあった。

ポケットナイフでは死にきれず、屋根裏からか梁まで登って転落して頭を割り、家族と共に失血死を待つ男の壮絶な最期が筆者には思い浮かぶ。

ヒンターカイフェック事件の物語は、ありえなさそうな出来事と見誤った真実、人々の想像力によって生み出された「玉虫色」の多重殺人である。ふたつの大戦によって多くの家族が離散し、郷土とのつながりは失われ、新たな生き方が模索された時代の転換期を象徴する事件だったように思う。

 

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