アナタハンの女王事件

第二次世界大戦末期の動乱により生じた統治の空白地帯で起こった、島でたった一人の女性を巡って男たちによる殺戮が繰り返された事件である。
1972年にグアム島から横井庄一さん、74年にフィリピン・ルバング島から小野田寛郎(ひろお)さんが帰還し大きなニュースとなったが、軍人としてある種の英雄視さえされた戦争引揚者とは異なる文脈で注目を集めたのが、“アナタハンの女王”こと比嘉和子さんである。
 

■帰国

1951(昭和26)年6月、19人の男たちが米軍の船で帰国した。男たちは戦中に米軍の攻撃を受けてフィリピン海北マリアナ諸島の小島・アナタハン島に漂着した徴用船の船員と乗り組み海兵の生き残りであった。
終戦後、米軍機は拡声器などで投降を呼び掛けたが長らく「敗戦」を受け入れず、彼らは島で自給自足に近い共同生活を送っていた。ようやく達成された7年ぶりとなる奇跡の生還は日本中の耳目を集めた。
 
戦中戦後の動乱にあって帰還者たちを待ち受けていた現実も人それぞれであった。もはや“帰らぬ人”とみなされ墓を建てられており、苦笑いしながら自らの「墓参り」をする者もいれば、内地に残した妻がすでに別の男性と再婚しており悲嘆に暮れる者もあったという。殊更彼らに限った話ではなく、戦後まもなくはそうした事例は少なくなかった。
何より人々を驚かせたのは、「島には当初32人の男と1人の女がいた」が、その1人の女性を奪い合うようにして男たちが殺し合ったという告白である。
 

■日本の南洋諸島統治

地図だけ見ると「なぜこんな遠くに日本人が?」と思う方もいるかもしれない。かつてサイパン島など南洋諸島はドイツ領に属していた。第一次大戦後、国連が接収し日本が委任統治することとなり、次々と内地資本が進出した。しかし折しも世界恐慌のタイミングと重なって初期の進出企業は経営に行き詰まり、1000人規模の移民が取り残され飢餓に苦しんでいた。
1921年、松江春次は移民救済と南洋での製糖事業を見込んで準国策企業「南洋興発」を立ち上げ、沖縄からの入植者を増員してサイパン島テニアン島の開拓とサトウキビ農場経営を推進した。ニューギニア島スラウェシ島パラオポンペイなどへの進出、日本の移民政策と合わせて農業、鉱業、食品加工業、貿易など多岐にわたって事業拡大を続ける。
サイパン島は内地からの玄関口として栄え、南洋開発の一大拠点および太平洋戦線の要衝とされた。1930年代の従業員・家族らは約48000人に及び、南洋群島の全人口の約半数を占めるほどであった。南洋興発は“北の満鉄、南の南興”、“海の満鉄”などとも呼ばれ、1944年6月のアメリカ軍上陸まで継続された。
 

アナタハン

サイパンから北方117キロに位置するアナタハン島でも南洋興発によってヤシ園が営まれていた。上司にあたる比嘉菊一郎、技師の比嘉正一、和子夫妻と原住民従業員50名余が暮らしていた。戦火は周辺諸島にも広がっており、空襲被害をおそれた正一はバカン島へ親族を迎えに行くと言って島を離れたきり戻らなかった。やがて菊一郎と和子は夫婦同然の体裁で暮らすようになる。
44年6月、米軍の爆撃を受けた徴用船3隻の乗組員らが島へ漂着。漂着した漁業者、海兵ら30人は殆どが20歳前後の若い男たちであった。サイパン島アメリカ軍の手に陥落され、南興からの食料供給は絶たれた。米軍機が終戦を報せ、日本の占領を解かれたことを知った原住民らは島を去る。漂着した若者たちと島に居合わせた陸軍兵を合わせた「32人の男と1人の女」だけが投降の呼びかけに応じることなく島での共同生活を続けた。
年間を通じて気温差の少ない“常夏”の熱帯性海洋気候で一年中海に入ることができ、幸いにして海産物やヤシに恵まれ、若い男たちはイモの自作を行うなどにより自給自足を営むことができた。元の船団ごとに寝食を共にし、蛇やトカゲを狩って食べることもあった。明るく人好きな和子は男たちを惹きつけた。そのうち「和子と菊一郎は実の夫婦ではない、空襲で生き別れたらしい」と噂が立った。陸軍二等兵田中秀吉はその噂に危険を察知し、菊一郎と和子を避難させたがそれだけではことは収まらなかった。
 
46年、2人の船員が島に墜落したB29機の残骸から拳銃を発見する。その後、2人と不仲だった男が「木から落ちて」死亡したとされるも、目撃者は件の2人だけで遺体は始末されていた。2人は拳銃を手に菊一郎を脅迫し、和子の引き渡しを要求。和子は従ったが、復讐を恐れてか菊一郎は射殺された。菊一郎を殺した「第3の夫」も「第4の夫」に刺殺された。
しかし「夫」だけが和子と性交渉を持つことが許されていたという訳ではない。後に和子が語るには、夫がいる期間も「望まれれば誰とも密通」したと明かしている。彼女が性に奔放という見方もできるだろうが、それではなぜ奪い合いが起きたのか。はたして男たちの目的は肉欲以外にもあったというのだろうか。
不審死や行方不明が相次ぐ状況を改善しようと思案した秀吉は「会議」で和子の夫を取り決めようとした。しかし統治する権力のない無法地帯で、話し合いによる解決を求められようはずもない。誰しもが少なからず和子を我がものにしたいと思えども、夫になれば「島で唯一の女」を妬まれ命ごと奪われる。やがて彼らは諍いの元凶は和子だとして、究極の解決策「和子殺し」こそ生き延びる術ではないかと考えるに至った。
処刑の前夜、和子の寝床にオオタニワタリの葉に書かれたメモが投げ込まれる。
「スグニゲロ殺される」
和子は逃げのびジャングルへ身を潜める。33日後、米船を発見するとあらん限りに手を振った。1950年8月、和子は単身投降し、グアム島経由で11日に沖縄小禄飛行場へと送られ念願の帰国が叶った。和子の陳情などにより国政も動き、翌年男たちも帰還が実現した。

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帰還前にもサイパン島の引揚者などから、島で30人ほどの男と1人の女がロビンソン・クルーソーさながらの原始生活を送っていると風の噂は漏れ伝わっていた。だが帰還後、太田良博氏らによるインタビュー記事などにより島で男たちの闘争があったことが報じられると、和子は「アナタハン島の女王蜂」、いわば男たちを狂わせた魔性の女として好奇の目に晒されることになる。
帰国した同年には兵助丸一等水兵だった丸山通郎により『アナタハン』が出版され、あとがきの島内での死者への追悼の中に、「ひとりの女をめぐって若い情熱を傾け尽くして花火のように生命を散らしてしまった」といった表現があったこと、他の帰還者らは和子を巡る人間関係について多くを語ろうとしなかったことなどから、人々の関心は島内での男女関係へと向かうこととなった。翌52年、丸山は同じ出版社から海鳳丸乗組みの陸軍二等兵田中秀吉との共著『アナタハンの告白』を出版。世間の期待に応じるがごとく和子をめぐる死闘が多数あったことを伝えた。
戦後、島はアメリカの統治へと移った。戦争末期は文字通りの治外法権とみなされ「女をめぐる死闘」の罪は歴史の空白に埋もれることとなった。そのため犠牲者たちは喧嘩や事故で亡くなったのか、和子の奪い合いで殺しに発展したのかは捜査されておらず、生還者たちの証言しか証拠はない。
“女王蜂”の御姿を一目見んとブロマイドは飛ぶように売れ、和子は一躍時の人となったことを利用して飲食店経営などを行った。53年には自身が主演する映画『アナタハン島の真相はこれだ』が公開されている。内容や演技は酷評だったが、物語に関心を示したジョセフ・フォン・スタンバーグ監督により映画『アナタハン』が制作された。
しかし興行は振るわずブームが沈静化に向かうと、和子はストリップダンサーや仲居を勤めるなどした後、故郷沖縄へ帰り再婚した。子連れの夫とたこ焼き屋を営んだとされ、74(昭和49)年3月、52歳でその数奇な生涯の幕を下ろした。
 

■文学

19世紀に人気を博した冒険小説、似たようなシチュエーションの孤島漂着ものとして、児童文学者にしてSFの父とも称されるフランス人作家ジュール・ヴェルヌによる『十五少年漂流記』が広く知られている。その名の通り、オークランドの寄宿学生ら15人の少年たちが離島で力を合わせての冒険や知恵を絞って自治をしながら共同生活を送る2年間の物語となっている。
その派生形にして対極とされるのがイギリス人作家ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』である。1911年、イングランド南端のコーンウォールで生まれたウィリアムは幼い頃から軍事基地を間近に見、教師となった後も海軍の志願兵としてノルマンディー上陸作戦などに参加した。2つの大戦と隣り合わせに生きてきた彼の作品の根底には、人間のもつ本能的な残酷さや倫理、「悪」に対する実存的関心が貫かれている。同作では未来の大戦下における孤島を舞台に少年たちの対立や憎しみ合いが描かれ、破滅的なエンディングを迎える。当然ウィリアムの意図として、物語を次なる「大戦」と重ねることを狙ったと見ることができる。
桐野夏生の小説『東京島』は、『蠅の王』やアナタハン事件をモチーフにした現代風の寓話で、孤島で男たちに求められる女性の生きざま・悲喜を描いている。こうした作品を実験的と捉えるか、リアリティを感じるかは読み手次第である。期せずして孤島に取り残されたとき、男たちの中に女一人になったとき、自分には何ができるのか。はたしてどんな行動が取れるのか。
 

■「女王」は存在したのか

『戦前昭和の猟奇事件』の著者で古今の事件史に詳しいジャーナリスト小池新氏は報道分析的手法により、「アナタハンの女王」の需要と供給のされ方を捉え直す。
小池氏は、和子が自己防衛のためか美化した内容を語っていたことを踏まえつつ、ブームも下火になりつつあった1952年12月10日号サンデー毎日に掲載されたインタビューが「最も彼女の本音に近いように思える」としている。和子はインタビューで、自分のために殺されたのは第三の夫ら「2人しかありません」と語り、「世間に広がっている話には多くの誤解と誇張がある」「自分は被害者」と述べている。
また和子らが「沖縄人」であったことから戦後の内地のニュース需要には沖縄蔑視の感情も含まれていたのではないか、そもそも漂着した男たちの側にも「現地妻に近い意識があったのでは」と述べる。更に女性差別的な視点として、戦争で女こどもを苦しめてきたことに対する男たちの呵責の念、自分たちがしてきたことに対する後ろめたさの表れだったのではないか、と鋭い指摘をしている。
男たち(あるいは「メディア」と言い換えてもよいかもしれない)にくすぶる戦争を止められず敗戦を招いた罪の意識が翻って、心なくも和子を「女王蜂」とすることで“被害者”意識を共有しようとした深層心理が働いていた可能性は大いにあるだろう。「自分は被害者」と訴えた和子の脳裏には、島で男たちに支配される側だった記憶があったのか、誤った報道や偏った需要のされ方による二次被害が思い浮かんでいたのか。
僅かながらの帰国後の顛末を見ても彼女が肉欲を以て男たちを従えた「女王」だったとは些か考えにくい。慰安婦のごとき滅私奉公と生き抜くための器量とが島で彼女の身を守るための唯一の術だった。物珍しい戦争奇談などではなく、その本質はやはり悲話にほかならない。生き延びることは人から非難されるような悪いことでは決してない。
ささやかながら和子さんのご冥福をお祈りしたい。