いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

朝倉少年祖母刺殺事件について

 

事件の概要

1979年(昭和54年)1月14日(日)正午ごろ、東京都世田谷区砧の自宅で同居する祖母(67歳)を殺害し、その直後に加害少年が投身自殺するというショッキングな事件が起きた。

第一発見者となったのは、2階の書斎で悲鳴や物音を聞きつけた少年の祖父だった。

書斎に通じるドアの手前で妻が倒れており、「孫の泉にやられました」と言って事切れた。祖母の寝室には血痕が飛び散り、凶器に使われた金づち、キリ、果物ナイフが残されていた。

母と妹は直前まで少年と一緒に昼食をとっていた。階段から駆け降りる足音を耳にし、その直後、表の方から「うわーっ」という叫び声を何度か聞いたが、それが少年の雄たけびとははっきり気づいていなかった。

祖父は救急に連絡し、祖母は病院に搬送されたが出血多量が元で半日後に死亡した。

 

12時17分頃、女性の孫で私立早稲田大学高等学院1年の朝倉泉(16歳)が自ら命を絶った。最寄駅の小田急祖師ヶ谷大蔵から2駅離れた辻堂駅北口にあるビル14階のゴミ置き場から身を乗り出して落下。ビル3階屋根部分に叩きつけられて全身打撲により即死だった。

死後、少年の部屋にあった大学ノート2冊から延べ41ページ分の遺書、犯行声明ともいえる内容の録音カセットテープが見つかり、祖母殺害や自殺が全て彼のシナリオ通りであったことが判明する。

事件の3日後に行われた葬儀では、祖父が喪主を務め、祖母と朝倉少年の遺影が並んだ。

 

遺書

4ページの犯行計画、41ページの遺書の原本は部屋に残されていたが、全国紙3社に宛てるようなかたちで綴られており、天井裏のボストンバッグに送付用に準備したとみられるコピーも発見された。遺書の日付は実行4日前の「一月十日」であった。

 

「さてこの遺書を今読もうとしている人へ言っておきたいことがある。あなたが教養があって、インテリと言える人なら、程度の差こそあれこれからあとの文に対して共感を覚えるはずである。だから頭からこの文を拒否した姿勢はとらないでいただきたい」

朝倉少年によれば事件の動機は大きく3つあるという。

1,エリートをねたむ貧相で無教養で下品で無神経で低能な大衆・劣等生どもが憎いから。そしてこういう馬鹿を一人でも減らすため。

2,1の動機を大衆・劣等生に知らせて少しでも不愉快にさせるため。

3,父親に殺されたあの開成高生に対して低能大衆がエリートにくさのあまりおこなったエリート批判に対するエリートからの報復攻撃。

さらに少年はわざわざ新聞各社に自由に様々な著作物へ引用してほしいとまで記している。

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少年は自身を「エリート」とカテゴライズし、勉強のできない劣等生はエリートを憎み、劣等生を抱える家はエリート家庭を妬むと唱え、エリート批判に熱中する低能大衆を見下して罵詈雑言を並べ立てる。

学歴偏重、受験戦争、乱塾時代といった教育批判の風潮は、大衆の屁理屈による自己正当化にすぎず、不良・暴走族・ディスコに仲間と群れ集って安心し、数の論理で社会を動かしている気になっている、と少年は捉えていた。

ただな、こういうふうにきさまら馬鹿の心理を理解することはできるんだぜ。でもそれはおまえらの言う「わかる」とはちがうだろう。おまえらの言う「わかる」とは、つまり「共感できる」という意味なのだ。この低能めが。きさまらの嫉妬や劣等感にエリートが共感できてたまるか。

母千筆は『週刊朝日』のインタビューの中で、階級差別的な進学塾の指導方針や講師たちの煽情的な発言による刷り込みが泉の価値観に悪影響を与えたと話し、すぐに辞めさせられなかったことを後悔している。

 

泉は1977年10月に起きた開成高校生殺害事件を引き合いに出し、自分は家庭内暴力を繰り返し、自ら破滅の道を選ばざるをえなかった男子生徒の怒りがよく理解できるという。そして憎むべき父親の手に掛かって死んだ無念ばかりか、その死さえも大衆の手によって都合よくエリート批判に使われてしまったことを嘆いている。「彼の恨みを今、私が晴らしてやる」と。

 

家族と来歴

少年の祖父朝倉季雄はフランス文学・フランス語学を専門とする東大名誉教授だった。モーパッサンバルザックなどの翻訳のほか、『フランス文法辞典』(白水社)など文法書を手掛け、テレビのフランス語講座の講師を務めるなど戦後日本でのフランス語普及に尽力した。東大教授を定年退官後は中央大学でも教鞭を振るっていた。

父親中川信(まこと)は東大仏文科の弟子筋にあたり、ヴォルテールの翻訳、研究で知られている。1961年に季雄の長女・千筆と結婚。事実上の見合いではあったが、千筆は乗り気でなく、信が自殺未遂を起こすなどしていた。翌年に長男・泉、67年に長女を授かった。事件当時はお茶の水大学で教授職に就いていた。

母親朝倉千筆は朝倉家の二人姉妹の長女で、津田塾大学英文科を卒業。長女出産の前に第二子を流産、長女出産のあと第四子を身ごもるも体調不良で中絶した。長女の手が離れると、36歳でシナリオライターの道を志し、ドラマ『太陽にほえろ!』やアニメ『魔法使いサリー』などの脚本を担当した。

 

長女が生まれたのは泉が物心つくかつかぬかという頃で、母は赤ん坊にかかりきりになった。一方で自身が男児に恵まれなかった祖母は泉を殊更に猫かわいがりし、千筆から男児を奪って代理養母にならんとした。信・千筆夫婦は朝倉家の敷地に別棟を建てて暮らしていたが、1974年頃に母屋を改築して同居が始まった。祖母は泉の部屋の隣を自室とし、自由に出入りできるように引き戸をつくらせた。

泉は国立市にある難関私立校桐朋中学を受験するが失敗し、区立桜ケ丘中学に進学。体育を除いて5段階評価の5ばかりという優秀な成績だった。だが授業に熱意はなく、周りに非行少年はいなかったが、教師へのヤジや無駄話をしすぎて職員や保護者から問題視される生徒のひとりであった。

2年に上がると周囲との軋轢も目立ち、水泳大会に不参加。教室の窓を割り、床の凸凹で躓いて割ったと弁明したが、周囲から批判を浴び、クラス全員でガラス代を負担しようという申し出に対して「自分一人で払う。払やいいんだろう」などと言い、反発を浴びた。

筒井康隆の小説を耽溺し、母親に読ませて感想を求めた。その後、クラスメイト達が全員死んでいくショートショート小説「みんな死んだ」等を即席で書いて学友らに読ませていた。3年に進級する時期に進学塾に通い始めた。千筆はこの頃辺りまで母子関係は良好だったと言い、泉は褒められるといい気になって映画の話や本の話を何時間でも喋り続けていたという。

しかし信・千筆の夫婦関係は破綻を迎えており、1977年10月に離婚。子どもたちはそのまま母親と共に朝倉の家に残った。千筆としては、母子でアパートを借りての貧乏暮らしをさせるよりは賢明な選択だと思ったと後に振り返っている。また後述する開成高校生絞殺事件がこの時期に起こり、泉は事件の切り抜きを集めていた。

学校も塾も中学3年での成績は落ちる一方で、希望するような都立高校は厳しいとして受験は私立高校に絞り、早稲田大学高等学院に合格した。都下でも有数の難関私立校だが、泉はぎりぎりで合格したのだろうと劣等感を抱いていた。卒業文集には「みんな死んでしまえ。建物は壊れてしまえ」と破滅的な願望を書き、春休み中も解放感はなく、ベッドで本ばかり読んで過ごしていた。

高校では入学当初から発破をかけられたらしく、母親が「ほどほどにしたら」というのも聞かず「このくらいやらなきゃ、皆に追いつけない」とがむしゃらに勉強に打ち込み、自ら「河合塾」の模試を受けて実力を測っておきたいと申し出たという。

一学期の間は太宰治に傾倒したが再び筒井康隆に関心は戻った。だが食事を摂らなくなり、夏の終わりに会った中学時代の同級生に細くなった腕を見せて「俺、自殺しようと思うんだ。いま、死に方を研究しているんだよ。新聞にでっかく出るような死に方って何かな」と口にしたと言う。

 

両親の離婚は家庭の経済状況にも影響を及ぼした。稼ぎ頭を失ったことで、母子のパワーバランスは相対的に弱くなり、以前にもまして祖母は母子関係に口を挟むようになった。泉もそれを気にしながら、祖母と母親の関係悪化を避けたい心情だった。

泉の遺書によれば、祖母は薬の服用管理や昼食代を渡す役目をもって主従支配を確認し、他の家族には内緒で夜食を与えて「秘密の共有」を企て、少年が第二次性徴を迎えても風呂場を覗き、深夜にも「寝相が悪い」「まだまだ手がかかる」と布団を直し、不在の折には公然と部屋を漁っていたという。

泉は常に祖母の監視下にある極度の過保護に息が詰まる思いを強いられていた。思春期を概ね終えた少年にとって祖母の愛情は、いつまでも半人前のこどもであるかのように刷り込もうとする虐待に他ならなかった。泉の心情など省みず、都立高校の受験問題を見せて「何点取れるか試しに解いてみたら」と言い、早稲田出身の三田誠二の小説を読ませようとしたりして事あるごとに気分を害した。

祖父は朝倉家における長老格で書斎にこもって家庭の問題に口出しをしてこなかったが、泉本人は家長として尊敬し、畏怖していた。泉が祖母に対して不満をあらわにすると、彼女は虎の威を借る狐のように「じゃあおじいちゃまのところへ行こう」と言って彼を黙らせるのが常套手段だった。

少年は祖母の過保護を「変態的愛情」と言って蔑み、彼女に対する憎悪を「グランドマザー・コンプレックス」と呼んでいる。

 

泉は母親について「わがままに育てられ、たいへん勝気」と評し、女性らしいたおやかさや慎ましさがない、男性気取りの「ペニス願望」が、自分のような神経質な人間には無神経に思えてならないという。要は細かいことを気に掛けない母親の奔放な気質が自分とそりが合わないというのだ。

それは家庭に縛られずシナリオライターを目指し、不満があれば夫と離婚してきた、自由意思に従って生きる母親に対する「妬み」にさえ思えるものだ。泉もおそらくはそれに気付きながらも、素直に羨望を向けることができず、彼女の性格はあてつけがましく「いやらしい」と連呼する。

妹については、祖母の愛情を一身に受ける泉への妬みは「やや異常」と主張されるが具体的なエピソードなどは割愛されている。父親に関しては端から記述する気もなかったようで、母千筆によれば年に何語と喋らなかったとされる。泉にとっての父親がどのような存在だったのかは明らかではない。

少年にとっての不満は、専ら女系中心の家族関係における生きづらさであり、記述の端々に女性蔑視を漂わせている。それは家父長制の色が残る時代性や彼の育った家庭環境によるものとも思えるが、自身と祖父との近似性、祖母・母・妹たちとの非対称性を意味付けするうえで少年が身につけた修辞法だったのかもしれない。

あるいは父親の不在、祖父の偉大さと自分とのギャップを、「教育熱心な」祖母から否応なく意識づけられて「できる子」として育てられた朝倉少年は常に苦しみを抱えていたのであろう。「大衆」を愚弄することによって「そうではない」と踏みとどまることによって彼は「エリートの超克」を自己に課し、井の中の蛙に過ぎない世間知らずの子どもの自我を支配していた。

 

開成高校男子生徒殺害事件

朝倉少年事件の1年半前、私立開成高校2年の男子生徒が父親に殺害される事件が起こり、大きな話題となった。同校は全国トップクラスの偏差値を誇る名門私学である。

ミッションスクールの星美学園小学校を優秀な成績で卒業した佐藤健一は開成中へと進学。母方の実家で祖父母・両親と一緒に暮らしていたが、家庭内の権威であった母方の祖父が76年5月に亡くなると、自虐的な劣等感を爆発させ、家庭内暴力を繰り返すようになった。御しきれず悲観した父親が77年10月、思い余って息子を殺害する。

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父方の祖父は小学校教諭だったがうつ病で若くして自殺し、祖母は幼な子を実家に残して再婚。健一の父親は小学校卒で家を出、横田基地の食堂でコック見習いなどをし、やがて飲食業を興すなどしてきた苦労人であった。健一の出生後、神田・神保町の大衆酒場「とん八」の経営が軌道に乗ると、息子を名門私学へと進ませた。

だが正月以外に休みもない自営業で、母親も駆り出される父親の商売に健一は不満を抱いてきた。彼は友人をつくることはなかったが、同級生たちは医師、弁護士、大学教授、一流企業幹部といった社会的ステータスのある家柄ばかりだった。健一は日通の支店長だった母方の祖父に敬意を、学のない父親に強い劣等感を抱くようになった。小学5・6年時には自ら志願して名門塾「四谷大塚」通いを始めた。

開成に合格すると、ますます自身と父親とは全く異なる階級だと言わんばかりの物言いになった。中学入学時こそ成績は上位だったものの、順位を落として勉学に身が入らず、フランス文学に耽溺し、ペシミスティックな傾向を強めていった。

あるとき周囲から低い鼻を指摘されて、美容整形すると言い出した。76年暮れに整形外科を訪ねるが、医師に「骨の成長が止まる18歳までは施術できない」と追い返された。

「親でも俺に命令することは許されない。俺は今までも注意されたとき堪えてきたが、もう許されない。お前が悪いのだ。あんな女と結婚したから俺みたいな鼻の低いのができたのだ。お前ら夫婦は教養もないし、社会的地位もないし、そんなやつが一人前の顔をして説教できるのか。地位も名誉もないくせに何を言うか、夫婦とも馬鹿だ」

学業一辺倒で生きてきた彼は過当競争の中で成績不振に陥るや、生きるよすがを見失い、その鬱憤を家族に向けることに終始していった。家中に水をまき散らし、布団を池に投げ入れ、仏壇をバットで叩き壊し、深夜に柱や畳を叩いて睡眠妨害し、母や祖母に殴る蹴るの暴行をふるう日々が続いた。人相・態度は豹変し、挙動不審が近隣でも知れ渡っていた。

 

事件当時は開成高2年生で情緒不安定が続いており、学校も休みがちになった。家族は男子生徒を精神科医に通わせる等改善の余地を探ったが、医師は「精神病ではない、わがまま病だ」と匙を投げた。夏休み終わりの保護者面談でも担任はその家族関係の異常さに目を丸くした。

2学期には「外で殴ったり殺したりしたい気持ちをやっと抑えて家まで帰るのが悔しい」「ぶっ殺す」といった発言が増えていき、暴力行為が過熱すると祖母は旅館に、父親はアパートを借りて避難生活を送った。

あるとき父親は健一が気の済むまでと意を決して、荒川の土手で罵倒や殴打を一方的に浴びた後、交番に連れて行って警官に説教してもらうことさえあった。警官も奇妙な父子に驚いたろうが、親を痛めつけて尚も「親が悪いんだ」という少年を見て、もはや気が触れているようにしか思えなかった。

9月に精神科で電気ショック療法を受け、睡眠薬を処方してもらい、1週間ほどはおとなしくなったかに見えた。だが10月には以前にもまして狂暴になり「俺の人生は破滅だ。お前たちを道連れに殺してやる」「その辺の人間を無差別に殺して犯罪者になって、お前らを一生苦しめてやる」と当たり散らした。

それでもパニックが一段落すると、健一は「さびしい」「落ち着かない」と言い、両親に「手、足を持て」と訴えた。その後も凶器で父親を殺しかけて警察が駆けつける騒ぎとなり、精神病院に措置入院される。健一はカウンセリングで希死念慮を吐露することさえあった。

説得も無駄、薬も電気ショックも効かない、「いっそ気違いになればよい」とまで健一は言う。治りますかと尋ねる父親に、精神科医は「自殺か犯罪者か、自殺はできないだろうから犯罪者になるだろう」と答えた。もはや救いはなかった。

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「元の体に返せ。青春を返せ、人生を返せ、めちゃめちゃにしたのは親なのだ」

それでも両親にとっては愛するわが子であり、なんとかして守りたい、このまま息子を人殺しにしまってはいけないと思った。父親は睡眠薬で昏睡した息子の首を絞めた。

その後、夫婦は心中を図って浜名湖を訪れるが果たせず、赤羽署に自首した。遺体は祖母の目に入らないように、2階の押し入れに仰臥合掌の姿勢で置かれていた。

東京地裁で行われた一審では母親が情状を訴えたことで、検察側の求刑8年に対し、執行猶予付きの懲役3年という異例の温情判決が下された。だが78年7月、その母親は亡き健一の部屋で縊死。父親はその後、四国巡礼に出る。79年2月、検察側控訴が棄却された。

 

この少年も、自分は他の人々よりも特別な存在であるという驕りと自意識が強かった。自分が憎み蔑む、平凡な人々が送る「破滅の人生」を忌避しなくてはならないというプレッシャーが結局は彼自身を苦しめた。彼は会社に勤め、家庭を築き、一緒に買い物や食事に出掛けるのを至福のときとする人生を最後まで拒絶し続け、「非行少年とか犯罪者になる意味での『破滅の人生』を受け入れることになる」と医師に告げていた。

同年、新藤兼人監督により『絞殺』として映画化されるなど、詰め込み教育家庭内暴力といった当時の教育問題を凝縮された事件として議論を呼んだ。少年の価値観や人格形成は明らかに歪んでおり、あまりに肥大化した自尊心が他者との馴れ合いを許さず、矯正を拒み続けたのである。

 

想像力

遺書の中には、「ある小説家」の文体・論理構成を手本としたことが記されていた。朝倉少年が耽溺したSF作家筒井康隆その人であった。

母千筆は『週刊朝日』の取材の中で、息子から筒井の『大いなる助走』を読むように言われていたことを明かしている。

話の大筋は、直木賞をモデルとした文学賞を目指す作家が文壇にのさばる腐敗に気づき、選考委員たちを猟銃で射殺していくというもので、主人公は殺害計画を立てながら「決して警察には捕まるまい、捕まる前に俺は死ぬ」とプロットを組み上げていた。

事件前には読めていなかったが、息子が最期にやったことはほとんど同じことのように思えてぞっとしたという。また事件の半月前、『白い巨塔』のクランクアップから時を経ず猟銃自殺を遂げた俳優田宮二郎の訃報にも、生前の彼はいつになく強い反応を示していたと思い返している。

大いなる助走 (文春文庫 (181‐3))

月刊誌『カイエ』(冬樹社)昭和54年8月号で、筒井康隆は音楽評論家相倉久人らと対談し、朝倉少年事件と、同時期に起きた梅川昭美(あきよし)による三菱銀行猟銃立てこもり事件(*)について触れている。

(*三菱銀行猟銃立てこもり事件は1979年1月に大阪市住吉区で発生した単独犯による銀行強盗で、猟銃を手に行員と客30人以上を人質に取って籠城し、警官2名を含む4人が殺害された。2日後、行員の合図を受けて一斉射撃され、梅川本人も死亡。テレビ各局が中継や報道特番を組み、映画さながらの大盗りもの、突入場面は一大センセーショナルとなった。)

筒井たちは、現実に起こる事件が虚構を模倣し、さらにその先へいってしまってジャーナリズムも作家たちも困っているのではないか、と懸念している。

筒井は自身の作品に風刺や「毒」があると認めた上で、作品の影響で犯罪が発生したのではないかとする世論に真っ向から反論している。自分がどれほど悪いことを書こうとしても、自分よりよほど悪い人間がいっぱいいるのだから似たような犯罪は起こりうる、書いたことが結果的に真実になっているだけだ、と。

また作品が「真似」されたのでは虚構としてのパロディが成り立たない、何十年かすれば本が先か事件が先かなんて分からなくなってしまうので、虚構性をより強調して言語実験的なもの(現実世界では成立しえない修辞的虚構)に取り組んでいると語っている。

だが虚構であっても潜在する「毒」の部分を、子どもたちが偏った想像で「真理」と捉えてしまえば、世の中を悲観したり絶望したりする方向に進んでしまう。それは教育問題や子どもの想像力の問題であって、事件や自殺を引き起こすのは筒井の想像力の所産ではなく、事件の責任は負いきれるものではないとしている。

他方、『現代思想』昭和54年10月号での心理学者岸田秀との対談では、「ぼくははっきり自分の影響だと思ってます」「ぼくの小説と彼の私的幻想とが合わさったわけだ」と語り、「大人なら何とか誤魔化しちゃうけど、子どもの方が哀しみが純粋で、逃げ場がない」と少年の自死という帰結を受け止めている。

 

所感

筆者はエリートの苦悩など知る由もないが、苦労知らずの若者特有の凡百のニヒリズムと大差なく、「哲学的死」といえば聞こえはいいが殺人を肯定化しようと拙い言い逃ればかりした気の毒な少年にすぎない。家族をくさすつもりはないが、彼は不幸を知らなさ過ぎたのだ。彼の知らない身近な世界には十で親に犯され、十五で売られた子もいたはずだ。

唯一の救いは、彼は絶望を知ることなく、愛読書の登場人物になりきって最期を迎えることができたことだ。少年は作家にもなれなかったし、犯罪者にもなり切れない子どもだった。不幸なことは彼がエリートではなかったことと、才能豊かな母親によって手記やインタビューで晒されたことだろうか。皮肉なことだが少年の母親分析は当たらずも遠からじという気がする。

一方で母親が「東大病」と呼ぶような学歴による評価軸は消えることなく、ゆとり教育の失敗や若者人口の減少、国力の衰退などを経て価値観の多様化も進み、社会の価値観のひとつとして概ね容認されている。彼は晴れて時代の徒花となった。エリートと庶民の階層化は今後もより顕在化していくであろう。エリートは孤独に浸ったり絶望している暇などなく、大衆は気長に不平不満を叫びながら革命の日を待つよりほかないのだ。

 

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