いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ワインビル殺人農場とウォルター・コリンズの失踪

クリント・イーストウッド監督により映画『チェンジリングス』(2008年)でベースストーリーとされたワインビルの鶏小屋で起きた連続殺人と9歳の少年失踪事件について。

映画は「立ち向かう女性」を主人公に、ひとつの「If」ストーリーを私たちに投げかけているが、事実はより歪なものかもしれない。

 

少年の失踪

1928年3月10日(土)の午後、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外のマウント・ワシントン地区リンカーンハイツで9歳の少年ウォルター・コリンズの行方が分からなくなった。

自宅近くには劇場があり、電話交換手として働く母親クリスティンはウォルター少年に入場料として10セントを渡していた。クリスティンは息子が劇場に行ったものと思っていたが、外が暗くなっても終劇時刻を過ぎても戻らない。母親は可能なかぎり捜し回ったが、近隣住民や遊び仲間の子どもたちも少年の行方を知らないと言い、警察に助けを求めた。クリスティンは誘拐事件を恐れていた。

周辺での聴き取りの結果、少年の最終目撃は夕方5時頃、パサディナ・アベニューとノース・アベニューの交差点付近とされたが、それ以降の消息はぱったりと途絶えていた。

離婚して一人親になった家庭では子どもの親権をめぐって奪い合いになることも少なくない。だが少年の父親ウォルター・ジョセフ・アンソン・コリンズは列車強盗などの連続犯として1923年に逮捕され、サクラメントのフォルサム州立刑務所で長期服役中だった。(ウォルター少年の父親は肝臓疾患が元で1932年8月に42歳で獄死する。)

Walter Collins

ロサンゼルス近郊では1890年代から油田開発が進み、大恐慌時代まで国内消費の大部分を支えていた。また果樹農園の拡大、ハリウッド映画産業の発展などもあり国内のみならず世界各地からも移民が押し寄せていた。第一次世界大戦後に人口100万人を超える大都市の仲間入りを果たしていたが、1930年には約260万人と爆発的に増加していた。32年には第10回夏季オリンピックを控えており、空港整備や都市開発が急ピッチで進められ、西海岸の主要都市へと急成長を遂げていた時期である。

一方で急激な人口流入は移民との摩擦など様々な問題を引き起こした。2月にはカリフォルニア州ラ・プエンテの側溝でメキシコ人とみられる少年の首なし死体が発見されたが、科学捜査に乏しい当時のこと、被害者さえ特定できなかった。

また中心市街では路面電車が「公共の足」とされてきたが、都市拡大による郊外化や自動車の普及によって人々の暮らしは「クルマ社会」へと変貌しつつある時期でもあった。そうした都市の急成長、凶悪事件の増加、生活変化の波に比べて、警察の捜査力は大きな後れを取っていた。

女手ひとつで幼子を育ててきたクリスティンの悲劇は人々の同情を誘い、カリフォルニア一帯、そして全米中へと広く知れ渡った。全国各地から多くの反響が舞い込んだが、大半は寡婦への励ましだった。少年の目撃情報などについても捜査員の手で数百件は確認されたが、他人の空似や真偽不明ばかりで発見につながる手掛かりとはならなかった。 

 

マリオン・パーカー誘拐殺人

メディアや国民が大きな反応を示した理由のひとつに、ウォルター少年失踪より数か月前に同じロサンゼルスで起きた恐るべき児童誘拐事件があった。

1927年12月15日、12歳の少女マリオン・パーカーの通う中学校に若い男が現れた。男は「銀行員をしている少女の父親が自動車事故に遭ったため、彼女を病院に連れて行きたい。自分は彼の同僚だ」と教務職員に事情を伝えた。そういうことならば、とマリオンは授業を免除され、男に引き連れられて学校を出た。

このとき教務職員はすぐに気付かなかったが、なぜかマリオンの双子の妹マージョリーは呼び出されなかった。確認してみると父親のパーカー氏はたしかに銀行員をしていたが、交通事故に遭った事実はなく、児童誘拐だったことが判明する。

 

翌日、パーカー邸に電報が届き、金証券1500ドル(当時は金本位制。現在の価値でおよそ425万円相当)の身代金が要求された。また別の地区から「マリオンの身柄は安全だ。適切な判断をしろ」と2通目の電報が届き、「ジョージ・フォックス」と署名されていた。一方で「この少女と再会できる者は天使以外にいないだろう」と死を匂わせるような文面も打たれ、家族に早期の決断を迫った。

「私の名はフォックス。とてもずるがしこく、罠を警戒する」

「はっきりさせておこう!生命線はこっちが握っているということを。こちらにはジレット(剃刀メーカー)の準備があり、いつでも対処できるのだから」

12月17日の夕方以降、ペリー氏は電話で犯人と何度かやりとりし、身代金受け渡しの段取りをつけて自宅を出た。午後8時頃、身代金を抱えたペリー氏は指定されたロス中心街に車を回した。すると隣にクライスラー社製クーペが横付けされ、バンダナで顔を覆った男がショットガンを突き付けて金を渡すように要求した。

助手席にはマリオンらしき少女が座っており、首上まで服を被せられていた。父親は思わず娘に声を掛けたが、彼女は身動きひとつしない。目を開けている様子だがその表情までは読み取れなかった。

(薬を飲まされているのだろうか…)

ペリー氏が金を差し出すと、男はギアを入れて車を前進させ、「あんたの娘はここにいるぜ」と捨て台詞を吐き、少女を車外に押し出して逃走した。

慌てて父親が娘を抱き起こしに駆け寄ると、その体はすでに冷たくなっていたばかりか、手足が切断され、内臓をえぐり出され、腹部にタオルや男物のシャツが詰め込まれていた。開いているように見えた目は、ピアノ線で細工が施されて固定されていた。

検死の結果、死後12時間近くが経過しているとされた。犯人は殺害後に身代金の要求を続けていたのである。翌18日、エリシアン公園を散歩中の男性が、路上に散乱する新聞包みから子どもの手足を発見して通報した。

あまりにも姑息で陰惨な手口に人々は憤り、被害者や家族への憐れみから多くの寄付金が集まった。殺人犯の特定や逮捕者に10万ドル(現在の価値でおよそ2億8千万円)もの報奨金が懸けられた。すぐに数人の容疑者が取り調べに掛けられたが、20日には乗り捨てられた犯行車両が見つかり指紋が検出され、それまでの容疑者たちは全員釈放された。

また腹部に詰められていたタオルと同じものが洗濯して干してあるのを以前見掛けたという目撃情報を頼りに、警察は一軒のアパートに行き当たった。部屋の貸借人は偽名を使っており、部屋はもぬけの殻だったがまだ新しい血痕が残されていた。

部屋の借主はかつてペリー氏と同じ銀行に勤めていたウィリアム・エドワード・ヒックマン(当時19歳)と特定される。ヒックマンは前年に総額400ドルの小切手盗難・偽造の罪で逮捕され、有罪判決を受けていた。告発したのは出納係をしていたパーカー氏で逆恨みによる報復が動機と考えられた。

 

12月22日午後、オレゴン州エコーで警察とのカーチェイスを繰り広げた末、ヒックマンは逮捕された。男はハドソン社製の緑色の車を盗み、追跡を避けるため数枚のナンバープレートを付け替えながら逃走していた。

ヒックマンは「悪魔が彼女を殺した」「大学進学の金が欲しくてやった」等と供述。その後、「クレイマー兄弟が殺害の実行役で、自分は電報や電話の担当だった」と主張したが、当のクレイマー兄弟は事件当時、別の容疑で数か月間投獄されており、ヒックマンの虚偽供述は明白だった。

翌年開始された裁判で、ヒックマンは「プロヴィデンス」という名の超自然的な神による指示があったと主張を一転させた。弁護側は、彼が幼い頃から祖父によって狂気じみた信仰や悪魔祓いの儀式に従事させられて精神が歪められ、殺害や解体を考えるに及んだと述べた。だがこれは精神異常は刑事責任能力に問えないとした当時のカリフォルニア州法の改正に乗じた虚偽証言と捉えられた。

ヒックマンが拘置されていたユマティラ郡刑務所の看守は彼から「どうしたら気が狂ったように振舞えるのか」と助言を求められたと証言した。収監中に診察した医師も「彼の精神は明晰に見えた」「率直で首尾一貫した話をし、言葉に詰まることもなかった。女性に関心がなく、信仰深く、牧師になりたいと話していた」と述べ、ヒックマンと弁護人の主張と真っ向から矛盾した。

1928年2月、陪審は精神異常を理由とする抗弁を却下し、裁判官は絞首刑を宣告した。

ヒックマンは獄中でローマカトリックに改宗し、犠牲者家族に謝罪の手紙を書いて短い余命を送った。絞首刑の執行は同28年10月19日であった。

リンカーン公園の湖で捜索するロス市警 [1928.04.06. LA Times]

ウォルター・コリンズの失踪当時、国民はヒックマンの事件が記憶に新しかったことから、最悪の事態を脳裏に浮かべつつも、幼子の無事の帰還を強く願っていたのである。

ウォルター少年の父親は獄中で他の囚人たちの違反行為を報告する目付係をしていたため、少なからぬ恨みを買う立場にあった。そのためロス市警では、出所者が報復のために連れ去ったのではないかと見当付けた。警察としても無事に少年を救出し、凄惨な事件の記憶を払拭して、市民の信頼を回復させることが使命とされていたに違いない。

しかし周辺捜索や多数の情報確認の甲斐もなく、早期発見には至らなかった。市民は凶悪犯罪への恐怖を募らせ、ロス市警に対する不満は強まるばかりだった。

 

「再会」と強制収容

ひとり息子が消息を絶ってから5か月後、ロス市警はクリスティン・ウォルターに思いがけない吉報をもたらした。

イリノイ州ディカルブでウォルター少年が見つかった」

「命に別状はなく、健康な状態だ」

すでに月日が経ち、たとえ見つかることがあっても…と永遠の別れをも覚悟していたことであろう。報せを受けた母親がどれほどの歓喜を抱いたかは部外者には想像もつかない。

しかし8月18日に列車で移送されてきた少年と対峙したとき、クリスティンはその姿に驚愕した。

「彼は、私の息子じゃない…」

警察は多くの報道陣を待機させており、とにかくカメラの前では「感動の再会」を演出して場を収めた。だが当時の新聞も母親の当惑の言葉を伝えている。

ロサンゼルス市警は言い分を曲げない母親に「しばらくぶりの再会で頭が混乱しているんだ」「息子も長い間辛いことに遭ったりして見た目もだいぶ変わってしまったんだろう」「今は実感が湧かないかもしれないが、試しと思って一緒に暮らせば息子であることが分かるだろう」などと無理やりに言いくるめ、少年を家に連れて帰らせた。

奇跡の再会は大きな話題となった[1928.08.18. LA Times]

クリスティンは「息子」と会話しようとしても、何から何までわが子とは実感できなかった。彼女は自宅の柱にウォルターの身長を刻んでその成長を見るのを楽しみにしていたが、少年の身長を確かめてみると5か月前より明確に縮んでいた。学校に連れて行けば教諭からも明らかな別人だと呆れられた。

警察との押し問答を続けたが、結局、彼女は見ず知らずの少年を3週間育てねばならなかった。

母親は「あの子は私の息子ではない。本当の息子を探して」とロス市警のJ.J.ジョーンズ警部に訴えた。彼は医師を派遣して確認させると約束したが、医師もまた被害のショックで子どもの肉体に変化は起こりうるなどと言って母親を説き伏せようとした。

信頼できる第三者による意見が必要だと考えたクリスティンは少年を歯科医に見せに行った。歯科医は過去の治療痕との明らかな相違があるとし、「別人」との診断証明をしたためた。

クリスティンが再び診断書を持って直談判すると、煩わしく思ったジョーンズ警部は「母親が自分の息子じゃないというならあの子はどこに行けばいいんだ」と激昂し、「母親としての義務を怠って国に養わせようって腹づもりか。あなたほど冷酷な女性を私は知らない。愚か者め」と侮辱した。

その上、クリスティンをロサンゼルス郡立病院の精神科病棟に強制収容させる手筈をとった。「コード12;警察の認定事実を認めない異常者」として彼女は扱われ、5日間に渡って勾留された。精神疾患のお墨付きさえあれば彼女の発言を真に受ける人間はいなくなると考えたのかもしれない。

 

都市の急成長と禁酒法は悪徳政治家やギャングにも汚職や非合法活動の機会をもたらした。違法行為の見逃しを求めてロス市警にも汚職や腐敗が蔓延していたのは必然というべきか。そればかりか治安維持の名のもとに銃火器を濫用し、ギャング同士の抗争に加勢さえする始末だった。

セントポール長老派教会の牧師グスタフ・ブリーグレブ神父は社会派のラジオ伝道者として影響力を持ち、これまでもロス市警の数々の失態・横暴を非難し、組織の刷新を訴えてきた。彼がクリスティンに対する警察の不当勾留を糾弾し、釈放運動を呼び掛けると市民の怒りは爆発し、過去最大の抗議運動へと発展した。

 

ワインビル児童連続殺人

同じ1928年8月のこと、カルフォルニア南部のリバーサイド郡ワインビル地区で養鶏場を営む親類を訪ねた19歳のジェシー・クラークは、行方不明になっていた15歳の弟サンフォード・クラークを発見し、その話に耳を疑った。

クラーク少年の話では、その家の主である親類ゴードン・ノースコットから性的強要を含む虐待を受けて使役させられ、他にもこれまでに3人の少年が拉致監禁、強姦、殺害されたという。

ジェシーは独力ではどうにもできないと考え、カナダの実家に引き返した。

 

ノースコット家は元々はカナダ出身で、家族でカリフォルニアに移住してきた。ゴードン・スチュワート・ノースコットは2年前に建設業を営む父親サイラスからワインビルの僻地を買い与えられた。

ノースコットは住居や養鶏場を建設するため、カナダから甥のクラーク少年を連れてきて手伝わせていたが、当のクラーク少年の家族には「ここにはサンフォードは来ていない」と伝えていた。

カナダに帰国して家族と相談し、アメリカ領事にノースコットによる誘拐殺人疑惑を打ち明けた。領事官はジェシーの宣誓供述書とともに、ロサンゼルス市警に通達を送った。しかし元々ノースコット家はカナダ人で移民法との折り合いによりロス市警は軽々に捜査に動くことはできず、移民局に告訴内容の事実確認を求めた。

 

8月31日、移民局員2人が牧場を訪れた。クラーク少年はノースコットが不在なのでしばらく待っていてほしいと応対した。だが2時間ほど経つと、クラーク少年は「ノースコットに脅されて足止めするように命じられていた」と白状し、局員に保護を求めた。

彼の話では、ノースコットはロサンゼルス近郊で少年たちを物色し、最終的に3人とも斧で殺害、解体したという。拉致の際には少年たちを油断させるため、車に母親やクラークを同乗させていた。養鶏場に連れてこられた少年たちは鶏小屋に押し込められ、家主はひよこの孵化を観察させて彼らの気を引いたり、性的虐待を加えたりといったことを繰り返した。

クラーク少年も、子どもたちの遺体を焼却後、頭蓋骨を細かく割り、早く土壌に分解されるように消石灰と混ぜて埋めたと具体的に語った。局員たちは耳を疑ったが、少年の話が妄言とは思えなかった。

証言通り、鶏小屋には見るからに不釣り合いな男児の遺留品が残されていた。当局は血や頭髪のこびりついた斧を確認し、農場の敷地内で複数体の遺骨を発掘したがいずれも全身が揃っておらず、医学者でも男児の骨片としか判別がつきかね、人数や誰の骨かは分からなかった。

ジェシーの訪問後に発覚を恐れたノースコットが掘り起こして再び焼却して別の場所に棄てたとみられているが、全てを回収することはできなかった。

ノースコットは母親サラ・ルイーズを連れてカナダに逃亡していたが、9月19日にブリティッシュコロンビア州バーノン近郊で、サラはアルバータ州カルガリーで逮捕された。

2人はロサンゼルス当局への引き渡しを待つ間、ブリティッシュコロンビア州に拘留されていたが、取り調べの中でノースコットは容疑を全面否認し、サラはウォルター・コリンズの殺害を自白した。

ノースコット(当時21歳)のマグショットBy RCMP 

引き渡し書類の不備による遅れで、ゴードン・ノースコットとサラの引き渡しは11月30日となった。ロサンゼルス市警は近郊で起きていた行方不明児童20人の被害を疑ったが、確たる裏付けは得られていなかった。

前述した「首なしメキシコ人」の少年と、5月16日にポモナで行方不明となったルイス&ネルソン・ウィンスロー兄弟(12歳・10歳)への殺害容疑でノースコットを起訴した。鶏小屋からは兄弟が図書館で借りていた本やボーイスカウトのバッジが発見されていた。

1929年1月から陪審員裁判が行われ、ノースコットは弁護士を解雇して審理に臨み、容疑を全面的に否認した。3児童への拉致、性的虐待、暴行、殺害が認定され、2月8日に有罪判決が示された。

その直後にはウィンスロー兄弟の父ネルソン・ウィンスロー・シニアは集団を率いてノースコットが拘置されていたリバーサイド郡刑務所へと赴き、被告人への私刑を求めたが、警察により解散命令が出された。

2月13日、ジョージ・R・フリーマン判事は被告人に絞首刑を宣告。

翌30年10月2日にサンクエンティン州立刑務所で刑が執行された。

 

ゴードン・ノースコットの裁判に先立って、1928年12月に母親サラの量刑の言い渡しが行われた。当時のカリフォルニア州法で女性に対する死刑が認められおらず、彼女はウォルター・コリンズの殺害事実を認めていたため裁判審理は行われなかった。

サラは息子の無実を主張したほか、「ゴードンは英国貴族の私生児である」「ゴードンは夫サイラスと娘との近親相姦で生まれた子で、自分は彼の祖母である」「あの子は家族全員から性的虐待を受けて育った」など様々な主張を行った。

上級裁判所のモートン判事は、被告人に終身刑を言い渡した。

判決後、サラは自殺未遂し、息子の命を助けてほしいと懇願した。ノースコットの無実と死刑回避を訴え続けたが、絞首刑の判決を知ると自分も絞首刑にしてほしいと切望した。テハチャピ州立刑務所に収監されたサラは1940年に仮釈放が認められ、44年に亡くなった。

事件を明るみにしたクラーク少年は自発的な関与はなかったとみなされ、青少年矯正施設へと送られた。その後の更生が認められて刑期は23か月までに短縮された。出身地のカナダ・サスカチュワン州へと戻り、1991年に78歳で亡くなった。

悪名が知れ渡ったワインビルの地名は1930年にミラ・ロマ(丘の景色)に改称された。

 

「息子」を騙った少年

「ウォルター・コリンズ」とされた少年はイリノイ州ディカルブで現地警察に保護され、「父親に新しいスーツを買いに行こうと言われて連れ出されたが棄てられた」などと話していた。

しかし前述のようにウォルター・コリンズの父親は服役中で連れ出しが不可能なことは、いかに怠慢な警察であっても調べればすぐに分かる。嘘をついたのは少年だったかもしれないが、子どもの嘘を叱り、誤った道に進ませないのが大人の役割だ。

それをあろうことか、子どもの嘘を、おそらくそうと知りながら追認し、「見つかった」と言ってクリスティンのもとへ送り込んだ。

誰の考えかは明らかではないが、落胆した寡婦であればたとえ別人であろうとも息子の代わりとして育てるのではないか、というそれこそ常軌を逸した魂胆が働いていたのであろうと筆者は考えている。

「発見」された少年

そして少年は、なぜウォルター・コリンズになりすまさねばならなかったのか。

クリスティンへの不当勾留問題の渦中も、まだロサンゼルス市警は「発見された少年こそウォルター・コリンズ本人だ」と主張していた。

しかし9月にカナダで逮捕されたサラ・ノースコットがウォルター・コリンズ殺害を認める供述をしたため事態は紛糾した。警察内外の逼迫した様子に、少年もさすがに怯んだのか、「自分はウォルター・コリンズではない」との署名を書いた。

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彼は「Billy Fields」を名乗り、「ハリウッドで映画スターに会えると思った」と書いている。だがこれも半分かそれ以上が嘘だった。

9月21日までに、少年はアイオワで捜索願いが出されていた12歳の少年アーサー・ハッチンス・ジュニアと特定された。6月に家出して1か月以上の路上生活を経、自分はウォルターだと言い張って、最終的にロサンゼルスまでたどり着いたのである。

 

連れ戻されたアーサーはアイオワ州エルドラの男子訓練校に預けられた。

1933年に受けたインタビューでは、9歳の頃に実母を亡くし、父親は再婚したがその継母とそりが合わなかったのが家出の動機だったと述べている。家出中、騒ぎになっている行方不明少年(ウォルター)に似ていると話す大人もあったという。

保護されたときも警察から「ウォルター・コリンズか?」と尋ねられ、一度は知らないと答えたが、やりとりの中でカリフォルニアの話題が出たため、「ウォルターになりすませばカリフォルニアに行ける」とひらめいたと振り返っている。

 

だが12歳の少年が継母とそりが合わないだけで1か月以上も路上生活を続けられるものだろうか。

道中では盗みや無賃乗車などにも手を染めたかもしれないし、なにがしか大人の助けもあったかも分からない。しかし12歳が家出の途中で映画スターに会うためだけに他人の不幸に乗じてなりすましたいう話は俄かには信じがたい。

彼に詐欺師の素養があったというより、いかに無謀であろうとも嘘をつき続けてでも、絶対に親許に帰りたくない事情、逃れたい理由があったと捉える方が自然である。

アーサー少年は家庭内虐待を受けていたのではないか、普通に家出しても大人の手で親許に連れ戻されてしまうために頑として嘘を曲げなかったと筆者は考えている。だが逆に彼の虚言癖が理由で親との衝突が絶えなかったのかもしれず、生母や継母に責任を求めるのも筋違いであろう。

アーサー・ハッチンズは後年の取材でクリスティンやロサンゼルス市警を欺いたことを謝罪した。カーニバルの売店などを経営し、その後、再びカリフォルニアの地で馬の騎手、調教師として働いたが、54年に妻と幼い娘を残して血栓が元で亡くなっている。この噓つきな少年の存在がなければおそらく事件は半世紀と経たぬ間に忘れ去られていたかもしれない。

 

母親の信念

グスタフ神父らの力添えにより精神病院から解放されたクリスティンは、ロサンゼルス市、ロス市警ジェームズ・デイビス署長、ジョーンズ警部を相手取り、不当監禁の告訴状を提出した。

ロス市警側は、少年の虚言に付き合わされた被害者だとの主張で責任を逃れようとし、ウォルター少年についてワインビル農場事件による犠牲者との見解を維持した。クリスティン側は、人違いの失態がなく入念な捜査が行われていれば救えた命だったとその責任の所在を強く訴えた。

1930年9月13日、クリスティンは勝訴し、裁判所は1万800ドル(現在の価値でおよそ2900万円)の賠償金支払いを命じたが、ジョーンズ警部は支払いに応じなかった。

クリスティンに関する記事は1941年が最後となるが、ジョーンズが現役を退いても尚、賠償請求は続けられていた。おそらく当時の世間の関心は事件裁判やノースコットの死刑までに概ね収束していたのではないかと思う。彼女が10年以上も係争を続けたのは金銭的に「がめつい」訳ではなく、彼女にとって「事件は全く終わっていない」ことを、帰らぬ息子への変わらぬ情愛を意味する。

イメージ

 

クリスティンは逮捕されたゴードン・ノースコットと面会する許可を得ていた。

「私の息子を殺したの?」

しかし男は激しく動揺し、知らない、覚えていないと答えたり、殺害を認めたかと思えば直後に撤回したり、虚言を繰り返した。それが演技なのか、実際のパニックなのか、生来の精神疾患に由来するのか、拘禁症状なのかは定かではない。

クリスティンは「ノースコットは正気ではなく自白は当てにならない」と判断した。

その後、死刑執行の数時間前にも「これまでの証言は誤りだった。真実を話す」と呼び出しを受けて彼女は面会に応じた。だがノースコットはクリスティンを目にすると急に取り乱して「あんたに会いたくない。知らない。無実だ」と繰り返すだけだった。

クリスティンはノースコットが殺害について曖昧な証言を繰り返してきたこと、ウォルターの服装や目の色など何も特徴を言えなかったことなどから「まだ息子が生きている希望を失ってはいない」と執行後のインタビューで語っている。

 

先にもノースコットの母親サラの異常ともとれる不可解な証言、両者の歪んだ結びつきに触れた。

確かめようもないことだが、ノースコット母子はともに心的なトラブル、精神疾患を抱えていたのではないか、父親との都市での生活に困難をきたしたため、別居用の隔離施設として「農場」がつくられたのではないかと筆者は考えている。

彼らの言動で一貫していた唯一のものは、サラの示したゴードンへの忠誠、狂信的愛着だけであった。(映画『チェンジリングス』ではこの重要な「もう一人の母親」は一切描かれていない。)

 

どうしても引っかかるのは、ノースコット母子の逮捕のタイミングである。クリスティンへの不法収容問題とアーサー少年のなりすまし発覚により、ロス市警がいよいよ万事休した場面で「真犯人」が逮捕されたことになる。

事実は逆で、万事休したがために「真犯人」をでっちあげて難を逃れようとしたのではなかったか。都合よく正気を失った連続殺人犯が逮捕されたため、証拠もなく罪を被せ、ウォルター少年の一件を終わらせにかかったと捉える方がつじつまが合うように思えてならない。

クリスティンが感じたように、ノースコットはウォルター少年を手に掛けていなかったかもしれない。だが似たような年頃の少年ばかり物色していたために、個人の特徴など気に掛けていなかったとしてもおかしくはない。

幸か不幸か、鶏小屋からウォルターの遺留品は見つからず、その骨片も特定されることはなかった。母親はゴールがあるのかないのかも分からない迷宮をさまよわなければならなかった。

ゴードン・ノースコットの処刑から5年経った1935年、彼に殺害された可能性があると目されていた少年行方不明者の一人が養護施設にいたことが発見された。彼はウォルター少年の行方を知らなかったが、クリスティンや似たような境遇の家族に「奇跡の生還」の希望を与えた。

クリスティン・コリンズは1964年12月、愛息との再会を夢見ながら75歳で永い眠りについた。

 

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https://web.archive.org/web/20081105084354/http://latimesblogs.latimes.com/thedailymirror/2008/10/changeling-stor.html

Mira Loma California History - Key to the City

Walter Joseph Anson Collins (1890-1932) - Find a Grave Memorial