いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

【ベラを楡の木に入れたのはだれ?】Who put Bella in the Wych Elm?

イングランド中部で見つかった不可解な身元不明者は、80年を経た今日でも「ベラ」の名で語り継がれている。

 

木の中の死体

1943年4月18日、ウスターシャー州バーミンガムの郊外にあるハグリーウッドの森で、セイヨウハルニレの木の洞(うろ)の中から白骨化した女性の遺体が発見された。

 

その日、地元の少年4人(ロバート・ハート、トーマス・ウィレット、ボブ・ファーマー、フレッド・ペイン)は、森でウサギや野鳥、鳥の卵を探していたという。
大きな楡の木に遭遇したファーマーは「上に鳥の巣がありそうだ」と目星をつけて上り始めた。その幹の中央は大きな洞(うろ)になっており、中を覗くと何やら動物の骨らしきものを発見し、少年はすぐに仲間を呼び集めた。
しかし引っ張り出してよくよく見てみると、髪の毛や歯の特徴から、それが人間の頭蓋骨らしいことに気づいて慄いた。
「額には、小さな腐った肉片がこびりついていて、そこから毛が生えていた。二本の前歯は曲がっていた」と後年、彼は回顧している。

楡の木のイメージ

森は代々、コバム卿リトルトン家の敷地で立ち入りが禁じられていたため、少年たちは第一に自分たちが犯した「不法侵入」の発覚を恐れた。彼らは人骨を元の洞に戻し、その日「発見」したことをだれにも言わない約束をして帰宅した。
しかし年少のウィレットは恐怖に堪え切れなくなり、そこで目にしたものを家族に打ち明けてしまう。

ウィレットの父親から通報を受け、ウエスマーシア警察が楡の木の洞を調べたところ、頭蓋骨のみならずほぼ全身に近い骸骨と、女性物のいくつかの私物が確認された。また手の一部の骨は近くの畑から発見された。
洞から見つかった腐った衣服やゴム底靴、金メッキの結婚指輪は死亡者の遺留品と考えられたが、バッグや上着は見当たらなかった。
集められた遺骨はバーミンガムの法医学者ジェームズ・ウェブスターの元に送られ、検査にかけられた。

見つかったのは女性の骨で、少なくとも死後18か月以上が経過したものと判断された。骨格や骨質から、推定年齢は35~40歳ほど、身長はおよそ5フィート(約152.4cm)とやや小柄で、出産経験があると推認された。
腔内からタフタ生地(絹などによる平織りの布。たるみにくく糊を利かせてドレスやカーテン等に用いられた)の切れ端が見つかったことから、死因は窒息死ではないかと考えられた。見つかったタフタ生地は桃色で、スカート裏地から引き裂かれたものだった。
また死後硬直の後であれば木の洞には収まらないことから、死亡直後、「まだ温かいうちに」押し込まれたことが推測でき、殺人事件と断定された。

特徴的な前歯

警察は死亡女性の推定情報を公表し、広く情報提供を求めた。当時の法医学調査で得られた情報は少なかったが、イングランド中部を中心として数千件の行方不明者との照合が試みられた。

しかし折しも第二次世界大戦の激化によって、ヨーロッパ全土で疎開や移民が増加しており、一方で多くの者が空襲の犠牲となっていたことから、行方不明者の届け出の数も膨大となり、調査の拡大を断念した。

ゴム底靴の製造元を特定し、流通経路を洗ったが、販売記録を取らない露天商も含まれており購入者の特定は困難だった。不揃いな前歯の特徴について、歯科医向けの業界紙を通じて確認を要望したが、該当者は浮かばなかった。
英語圏において身元不明者は、法的手続き上、男性を「ジョン・ドゥ」、女性を「ジェーン・ドゥ」とする仮称が用いられる。少年たちが見つけた女性の遺体はその後も身元が特定されることはなかったが、「ジェーン・ドゥ」と呼ばれたのはおよそ半年ばかりだった。
彼女は新たに別の名前を手にすることになる。

 

謎めいたグラフィティ

ハグリーウッドは敷地内に古城や教会を備える広大な私有地で、18世紀半ばに政治家で詩人でもあったジョージ・リトルトン初代男爵によって整備された。後のアメリカ大統領となるジョン・アダムスとトマス・ジェファーソンもかの地を訪れ、邸や庭園に賛辞を送るなど、その建築、調度品、景観との調和は広く知られていた。

今日ではパラディオ様式建築の白眉とされる邸宅「ハグリー・ホール」や庭園の一部が有料開放されている。

ハグリー・ホールと西ハグリーの景色(アーデン58, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

余談だが、2代目トーマス・リトルトンは遊興に耽り、子を成さず、35歳と若くして亡くなる不幸があった。その後、彼は「3日後の死期を予告する女の幽霊に会っており取り乱していた」、「死の直後、知人の枕元に亡くなったリトルトン卿が立っていた」といった噂が広まり、記録として残されている。

Hagley Park

 

さて、ハグリーウッドでの遺体発見からおよそ6か月が経った頃、5.5マイル(約8.85km)離れたオールドヒル地区にあるヘイデンロード沿いの壁に奇妙な落書きが見つかった。

「"Who put Luebella down the wych elm?"(楡の木にルベラを落としたのはだれか?)」

その後、発見現場から12マイル(約19.3km)離れたバーミンガムのアッパーディーンストリートでも次のような酷似した内容の落書きが確認され、事件との関連が噂された。
「"Who put Bella down the wych elm, Hagley Wood?"(ハグリーウッドの楡の木にベラを落としたのはだれか?)」

立て続けに見つかったベラ(あるいはルベラ)の名が身元不明女性を示唆していることは明白だった。ふたつのグラフィティは高い位置にチョークで書かれており、ほぼ同様の筆致と捉えられたことから単なるこどものいたずら書きとは考えにくかった。


近場とはいえ、戦時下で日々の空襲に怯え、食糧不足に喘ぎながら暮らす市民にしてみれば、同情こそすれ、片田舎の森で見つかった身元不明女性の遺体のニュースはそれほど重要だったとは考えづらい。彼女に強い執着があるか、事件に心当たりのある人物の仕業と思われた。

警察も、自身の犯行を誇示しようとする殺人犯か、あるいは被害者女性のパートナーなど内情を知る人物の残した手掛かりとして真剣に受け止められ、書き手や目撃者を広く呼び掛けた。

結局、書き手の応答や追加のメッセージもなく、新証拠を得ることはできなかったが、その後も似たような落書きはバーミンガム近郊で散発的に出現するようになった。単に「Hagleywoods Bella」とだけ記すタグもあった。
当の楡の木はその後枯れてしまったが、グラフィティ・カルチャーにおけるサンプリング(部分的模倣)と結びつき、「"Who Put Bella in the Wych Elm?" (ベラを楡の木に入れたのはだれか?)」の定型文がおそらく不特定多数の手によって現代まで継承されている。その全てが愉快犯によるものか否かの答えはない。

未解決事件と奇妙なグラフィティは人々を困惑させるとともに、いつしか英国有数の都市伝説として話題になり、今日では創作的インスピレーションを受けたアーティストにオマージュされ、小説や映画、戯曲の題材ともされている。
「ベラ」とは一体だれだったのか、彼女はなぜ殺されねばならなかったのか。


魔女の森

ベラ;bellaの名はひとびとの感性をも刺激した。ラテン語で「美しい-」の女性形を意味し、イタリアでは見知らぬ女性に「お嬢さん」と呼び掛ける際などに口語として用いられる。

18世紀の分類学者カール・リンネは、ルネサンス期のイタリアで、瞳孔を広げてより魅力的に見せる点眼美容薬として使われていたことに因んで、そのナス科の植物にベラドンナ(美しい女性)(学名Atoropa bella-donnna)と名付けた。有史以来、トリカブトなどと並んで暗殺や謀略の歴史に登場していた植物である。英語圏では俗称Deadly nightshade(致死性イヌホオズキ)と呼ばれている。
葉や果実に含まれるヒヨスチアミン、アトロピン、アトロパミン、ベラプロミン、スコポラミンといった成分が、多幸感や幻覚を引き起こし、大量摂取により見当識障害、記憶喪失、昏睡や死をもたらす。
日本ではオランダ人医師シーボルトが瞳孔拡張の薬として伝えたのがはじめとされ、今日でも鎮痛剤や筋弛緩剤など医療分野で広く利用されている。

ベラドンナの花By Stefan.lefnaer - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

中世では、ケシなどとともに「魔女」が育てる毒草のひとつ、幻覚作用を引き起こす、いわゆる「空飛ぶ軟膏」の材料のひとつとみなされてきた。魔女は特殊な軟膏を使って人の魂を抜き出し、空を飛んでサバト(悪魔集会)へと導くものと信じられていた。

“ある種の軟膏を塗って...彼らは夜空を遠くの土地に運ばれ、ある種の黒魔術を行う...しかし、彼らはそう思っているが、これは真実ではない...このように死んで冷えている間、彼らは死体と同じ感覚しかなく、鞭打たれ、焼かれるかもしれない。しかし、合意された時間が過ぎると...彼らの感覚は解放され、元気に楽しく起き上がり、自分たちがしたことを語り、他の土地からの知らせを持ってくる。”

(ピサのドミニコ会士バルトロメオ・スピナ『Tractatus de strigibus sive maleficis(魔女や悪人に関する論文)』)

魔女との関連や男を魅了する女性たちに好まれた背景、その毒性などによるものか、ベラドンナ花言葉は「男への死の贈り物」「汝を呪う」「人を騙す魅力」「沈黙」とされている。

2000年代にウィッチベリー・オベリスクに書かれた「WITCH」版グラフィティ David Buttery (Loganberry (Talk)) - 投稿者自身による著作物, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

1945年、元ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(UCL)の考古学者・人類学者として知られたマーガレット・マレー(1863-1963)は、「儀式殺人」仮説を唱えた。ハグリーウッドはかつて魔女集会のたまり場だった伝承があると言い、遺体と離れた場所で見つかった女性の手は黒魔術の「栄光の手」に由来すると推察した。

栄光の手;hand of grolyとは、絞首刑に処された罪人の手には神秘的な力が宿るとされる民間伝承で、18世紀初頭に出版された魔導書『プチ・アルベール』(検閲を避けるため、あるいは権威付けのために13世紀の大博士でトマス・アクィナスの師として知られるドミニコ会修道士アルベルトゥス・マグヌスが著者とも言われるが真偽は不明)などに記載が残されている。つくり方や効用は統一されてはいないが、死人の毛や脂肪からロウソクをつくり、完全に乾燥させた「手」を燭台として照らすと他人の動きを封じる効果などがあると伝えられている。

マレーは、女性が魔女的宗教を信仰するジプシーによって殺害された可能性を示唆し、殺人者(ら)は残る遺体を木の洞に閉じ込め、その近くに「栄光の手」を据えることで害を為す魔力を恒久的に封じ込めようとしたものと解釈した。

その刺激的な仮説は多くの関心を引きつけ、今日でも都市伝説の魅力的なエピソードのひとつとして語り継がれている。そうした影響からか、グラフィティの中には、植物分類のマンサク属を示す「wych」の音韻を踏まえて「witch(魔女)」と記すバージョンも登場した。

マレーはエジプト考古学の第一人者サー・フリンダース・ペトリ―の元に学び、先駆的な女性学者として知られた。1910年代からフォークロアにおける魔女伝承を再解釈し、先史時代から民間で継承されてきた母系信仰や多神教の存在を提唱した。1927年に名誉博士号を取得し、1929‐69年までブリタニカ百科事典の「魔術」の項目は彼女の手によって執筆された。

大衆からすれば、マレーの仮説は単なるオカルト言説ではなく、アカデミズムのお墨付きとさえ捉えうる社会的影響力があった。

マーガレット・アリス・マレー(1928年撮影)By Unknown (Lafayette Ltd) - http://www.npg.org.uk/collections/search/person/mp101036/margaret-alice-murray, Public Domain, Link

イギリス領インドのカルカッタ出身で英国人実業家の父とインド人の母をもつマレーは、周囲の上流階級出身者とちがい、正式な教育を受けずに育ち、看護師、ソーシャルワーカーとなった後、1894年に30歳からUCLでエジプト学を学んだハイブリッドな来歴をもつ。学者としての地位を確立して以降、イギリスのフォークロア魔女裁判へと関心を拡げた。

彼女は当時の男性中心的なアカデミズムや社会の仕組みを立て直そうとする第一波フェミニズムに参与し、女性の権利や地位向上を求めてきた。キリスト教社会における魔女裁判、異教徒迫害の歴史に対する批判精神は、純粋な学術的関心や宗教理念から見出された研究対象ではなく、女性から奪われた自由意志を再び取り戻すフェミニズムの延長線上にあったと捉えることができる。

彼女の魔女理論は、先史時代から原始母権的宗教が存在し、有史以来、父権的キリスト教から異端(魔女カルト)として迫害されながらも、ジプシーたちによって有形無形に波及させ、田舎の民間信仰や民俗習慣の中で今日まで脈々と受け継がれているとするものだった。

当時の知識階層にも一定の支持を得、著述などで大衆にも広くその名を知られたが、専門的な後続研究は生まれず、没後にはその批判が大勢となり、学術的に彼女の民俗学・魔女学は「異端」とみなされている。

批判的立場をとる専門家からは、彼女の研究手法はエジプト考古学に偏り、広くヨーロッパ史キリスト教、現代民俗学には精通しておらず(たとえば英国のキリスト教化以前の歴史にも魔女崇拝が顕在化した証拠はない)、ごく僅かな伝承から乱暴に一般化する傾向(「神話の一節から古代の儀式を読み解くようなアプローチ」)が指摘されている。

壮大なロマンとして心動かされるものの、同時代の研究者たちは過去の彼女の功績や立場を尊重してあからさまな批判を避けたのではないかというのが今日的な評価である。マレー自身、あくまでエジプト学を専門領域とし、魔女理論が理解されない場合もそれは相手の「キリスト教的立場によるもの」として斥け、論争を避けてきた。

また男性学者が寄ってたかって批判すれば、世間からは構図的に「フェミニズムに対する攻撃」と履き違えられて反撃に遭うリスクもあったため口を噤んだとも考えられる。

一方でその大胆な学説は、ネオペイガニズム(キリスト教普及以前の土着信仰や多神教、ネイチャリズムなどの復興運動)に大きな影響を与えた。「魔女」のもつ歴史的意義や性差別的表現を避け、今日では魔術師;witchcraftという表現が用いられるようになり、現代魔術宗教WICCA(ウィッカ)の祖母とも位置付けられている。

マレーの目には「栄光の手」に見えたかもしれないベラの手の骨は、筆者からすれば、鳥や獣の食害にあって洞からはぐれてしまったように思えるが、真相はだれにも分からない。

 

 

詳しくは別稿とするつもりだが、1945年2月に隣のウォリックシャー州の農場で発生した高齢男性の異常殺人でも同じく魔女宗教や儀式殺人との噂が醸成され、地元紙は両事件にオカルト的背景を検討した。

当時74歳の農業手伝いチャールズ・ウォルトンは頭部を殴られ、肋骨を折られ、鉈で喉元を刺され、フォーク状の大型熊手の歯に挟まれるような格好で殺害されていた。リウマチにより歩行に杖を必要としていた老夫に対して「オーバーキル」ともいうべき凄惨な犯行は、前年の凶作を繰り返さないため大地に捧げられた「血の儀式」ではないかと噂が立った。

両事件の間にはその残忍性や猟奇性以外に具体的な共通項がある訳ではない。だが共同体意識が強い農村部では、こうした合理的な説明がつかない事柄に対して原因をコミュニティの外部に想定する傾向がある。いわば異常犯罪者を「自分たちの外側」に置く防衛心理のはたらきによって自ずと「魔女」的偶像を生み出してしまうのである。

 

スパイ仮説

遺体の発見から10年後、「ウルバー・ハンプトン・エクスプレス・アンド・スター」紙の副編集長ウィルフレッド・バイフォード・ジョーンズが「クエスター」のペンネームで本件に関する連載記事を発表し、地元でも忘れ去られようとしていた未解決事件に再び光を当てた。

その記事に対し、クラバリーの住所を記した「アンナ」と名乗る女性が手紙で反応した。

「1953年11月18日 親愛なるクエスターへ
楡の木の犯罪に関する記事を終わりにしてください。読者にとっては興味深いものではありますが、その謎は決して解けることはありません。
その答えを知る唯一の人物は、今や地球上の裁判所の管轄外におり、事態は終結しています。魔女や黒魔術、月光の儀式とは関係ないものです。
(中略)
私が唯一提供できる手掛かりは、犯罪者は1942年に精神異常で死亡したことと、被害者がオランダ人で、1941年頃にイギリスに不法入国してきたことだけです。それ以上のことを思い出す気はありません。…(註※以下、「共通の友人」に関する言及が含まれているが、調べにより事件とは無関係とされた。)
アンナより」

エクスプレス・スター紙は、この手紙をウスターのカウント警察本部に送り、捜査を求めた。警察でも手紙の内容に関心を持ち、手紙の主「アンナ」に出頭を呼び掛けた。

その後、アンナから再び新聞社に手紙があり、秘密厳守を条件にパブで捜査協力の聴取に応じることを約束した。

12月4日夜8時に会談がもたれ、クエスターもしばらくは沈黙を守ったが、1954年1月16日に次のような記事でそれまでの経緯や「アンナ」との会談内容を伝えた。長くなるが『Josef Jacobs』の探求サイトを参考に、新聞掲載記事を訳する。明らかな事実誤認の記載は括弧(註※)を付す。

1943 年 4 月の終わり、ベラの遺体がハグリーウッドの木の洞の中で 3 人の若者(註※4 人の若者)によって発見された。病理学者によって彼女がどのような状態だったかを示す図像がすぐに作成され、ある程度の情報を伝えたが、名前や住所、そして彼女の死の秘密は全くもって分からなかった。

これらの謎が解決されたという兆候は、最近まで示されていなかった。しかしイギリスネットワークテレビITV の番組で、病理学者がベラについて次のように語った。

警視正 (ウスターシャー州刑事部警視 T. ウィリアムズ) による徹底的な調査の結果、彼は彼女を特定することができました。典型的な捜査による成果です。」

ウィッチエルムでのベラの死に関するさらなる事実を秘密にするという私の誓いは今や消え去り、ベラの死因を知っていると主張する女性との劇的な出会いについて打ち明けることができる。それは、私が「アンナ」と署名された手紙を受け取ったことから始まった。その手紙には速達印が付けられ、殺人事件の事実の一部と思われる内容が書かれていた。先の病理学者が解決策として言及したのは、これらの事実である。

最初は、エクスプレス・アンド・スター紙を通じて、アンナに会って犯罪について話し合うよう訴えた。彼女が伝えた事実には身内が関連していたため、告発を恐れていたのは明らかだった。アンナは、ベラ、または彼女のフルネームであるルベラが「ブルーベルの森」で亡くなったと聞かされ、その場に身内がいたと述べた。

「アンナ」が再び手紙を書いたのはそれから 10 日後のことだった。彼女はドロシー・L・セイヤーズの探偵小説で書かれていたとしてもこれ以上ないほどメロドラマチックな方法で待ち合わせを決めた。

会合の場は、ある暗い雨の夜 8 時に、キンバーの「ディック・ウィッティントン・イン」内にあるバー「修道士の部屋」が指定された。手紙には、私が「アンナ」と落ち合うための符号や合図が記載されていなかった。彼女は自分自身について何も語っておらず、「会えば、私だとわかるでしょう」と言っただけだった。

宿の外で、私はウィリアムズ警視、女性捜査員、男性捜査速記官に会った。私たちはそれぞれ一人ずつ、店に入った。そこは、ミトラの裏口から続く廊下の左側にある静かな独房のような場所だった。

すると、一人の若い女が入ってきた。背が高く、曲線美があり、金髪だった。流行の服を身につけていた。彼女は、3人(註※捜査員3人とクラバリーの計4人)が空っぽの部屋の片隅に座ったまま、無言で彼女からの反応を待ちわびているのを見て、驚いたようだった。

彼女は階段を上って、まだ好奇心を持って私たちを眺めていたが、何も言わず、何のサインも出さなかった。

10分以内に少なくとも20人の女が侵入し、階段を上り、降りて立ち去った。どうやら彼ら全員が不安と困惑の表情で私たちを見ているようだ。

上の階を探ってみると、階段の先が女性用トイレに通じているようだった。トイレにやってくる女性たちを4人は緊張の面持ちでじっと観察していたのだが、真面目な捜査員一行はその状況の面白さが分からなかったようだ。

判ったことと言えば、1ダースはいた女性たちの中にアンナがいたであろうということだけ。問題は、それが誰だったかということだ。

署長と女刑事と自分は別々の道を進み、外の廊下の突き当たりにある階段を何段か降りた部屋にある長いバーに集まった。

ここで私たちは、女性たちの顔の中から罪悪感や不安の色を読み取ろうとした。

ウィリアムズ主任刑事は、その部署で最も聡明な男の一人であり、私たちは同じ女性に何かを感じ取ったようだった。彼女はまず私をちらっと見て、それから彼の方に目をやった。それから、彼女は一緒にいた身なりのよい男性と早口で話し始めた。私はためらわなかった。

「アンナ、だね?」と声をかけると、女は息を呑んで同行者に頷いた。「『修道士の部屋』の方に移りますね」と彼女は言った。彼女と同行者は5分後に私たちに加わった。それから、私にとって、そしておそらく刑事たちにとっても、興味深い30分間が続いた。

アンナは私たちに名前と住所を明かした。

彼女は非常に厳粛な口調で、10年間、この話を極秘に守ってきたと話してくれた。これから語る話を知っているのは、その場に同行した彼女の夫だけだった。私が記事で事件追求を再開していなければ、ほかに誰もその話を聞くことはなかったかもしれない。彼女は記事でベラの事件の詳細に触れ、真相が発覚したため、眠れない夜を過ごしてきたという。

それから彼女は、事実を把握しているかどうか確認するために前もって尋ねられた質問に満足のいく答えをしながら、ドラマチックな物語を私たちに話してくれた。彼女は私たちにある運転手(an officer)の名前を教えてくれた。

その男性は、1943年4月下旬のある夜(註※ベラは1943年4月に発見されたのであって、その日に殺害されたのではない。「ベラの殺害当夜」のことと思われる)、に彼女のもとを訪れ、何か恐ろしいことに巻き込まれていることを告げた。

彼は彼女に内緒で、当時[判読不能な単語]ヒッポドロームに出演していた男性の空中ブランコ芸人である友人とオランダ人と一緒に車に乗っていたという。

彼が車を運転し、後部座席には他の 2 人の男の間にベラが座った。車がヘールズオーウェンのマックローヒルを下っているとき、突然何かが起こった。女は倒れたようだった。運転手は車を止めた。すると 2 人の男性は彼に運転を続けるように言った。彼らは「彼女は死んでいる」とぶっきらぼうに言い、さっきより語気を荒げて、車を出すように命じた。

車は、電力統制で真っ暗闇となったヘイルズオーウェンの町、そしてハズベリーを通り抜けた。何度かためらいながら停止した後、ついにブロムスグローブの幹線道路から右折するように言われ、ハグリーウッドの地へとたどり着いた。[地図に照らし合わせると、車は北東のバーミンガム方面から南西に向かってきたことが分かる]

運転手の男性はここで男たちに命じられ、今日では「ベラ」として知られる女性の遺体を車から運び出し、楡の木の幹の洞に詰めるのを手伝うよう求められた。

「アンナ」はかすれた声で、その男性が怯えながら話していたと回顧した。翌晩、彼はその出来事が幻だったのではないか確かめるために再びハグリーウッドに出向き、夜遅くに帰ってきた。

「間違いではなかった」と彼はアンナに告げた。「遺体は私たちが置いていったまま、そこにあったよ」

アンナは、彼が私の記事と全く同じ詳細を伝えたと言った。彼女はそのことを夫にだけ打ち明けていた。

アンナによれば、その後、男性はあの悲劇の夜に同伴していた男2人を信用していないと打ち明けたという。彼は、オランダ人はドイツのスパイだと考えており、なぜ捜査機関があの男を逮捕しないのか理解できないと言った。

ほかにも彼らは男性に、いくつかの軍需工場の場所の詳細を教えるように求めたことがあったという。それらはすべて、航空機のエンジンや付属品の製造に関連する工場だった。どことは聞かされなかったが、軍需工場の1つは、後に激しい爆撃の標的とされていた。オランダ人は時々大金を持っている様子だったが、その出処は不明だった。

その男性は、ベラまたはルベラが1941年の「ダンケルクの後」にイギリスに不法入国したと語った。彼は、彼女がスパイの使者として働いていて、スパイの敵に捕まったか、危険に晒されたと考えていた。彼は、女は殺害されたと語った。

アンナは、ベラと関係のある事件が捜査官の人生に大きな影響を与え、彼は神経衰弱に陥ったと語った。彼はとある精神病院に収容され、そこで亡くなったという。

調査の結果、運転させられたという男性は実際に、その日付と場所で死亡していたことが判明した。
他の事実も確認されたが、オランダ国内で捜索が行われたにもかかわらず、件のオランダ人を見つけることはできなかった。

捜査機関が空中ブランコ芸人の居場所を発見したかどうかは私には分からないが、この事件には MI5(軍事情報局第5課) が関与した。

昨年、ハグリーウッドの事件についてコメントを求められたT・ウィリアムズ警視は、「現時点では何もコメントできません。事件はまだ終わっていません。現時点では何も言うべきではないと思います」と述べ、謎に包まれた雰囲気をさらに強めた。

ジョーンズ(クエスター)独特の、あるいは当時のジャーナリストの筆癖なのか、ハードボイルド小説のように演出がかった冗長な前振り、明瞭さに欠ける記述が目立つ。結果的に良くも悪くも、情報の怪しさを醸し出しており、事の真偽を判定するのは読者には難解である。

だが木の洞に押し込まれるという常軌を逸した死にざまは、彼女がスパイ諜報員ないしは協力者(裏切者)だったとすれば多少は合点がいくのもたしかである。1941年1月にケンブリッジシャー州のラムジー教区にパラシュート降下して負傷し、翌月逮捕されたドイツ人スパイ・ヨゼフ・ヤコブスの事例(ロンドン塔で処刑された最後の人物としても知られる)などもあり、スパイ仮説は一定の説得力をもち、広く受け入れられた。

(英国政府の報告によれば、第一次世界大戦で少なくとも120人のスパイが送り込まれたものと見られ、英国保安局は65人を逮捕した。第二次世界大戦中、ドイツから送り込まれた諜報員115人が特定され、自殺者以外ほぼ全員が逮捕された。)

キャバレー歌手・女優だったクララ・バウアーレ〔英国国立公文書館

 

ヨゼフ・ヤコブスの所持品には恋人とされるクララ・バウアーレの写真が含まれていた。ヤコブスは彼女も自分の後を追ってイギリスに密入国する可能性があることを示唆していたが、具体的な計画は語らないまま処刑され、彼女の行方やその安否は戦後も謎として残されていた。

1968年、作家ドナルド・マコーミックは、「ベラ」こそ消息不明のクララ・バウアーレその人だったのではないかとする仮説を提示した。密入国した決定的な証拠はなかったが、バウアーレは歌手や女優として活動していたが、1941年以降、ドイツ国内での出演歴が完全に途絶えていた。彼女も諜報員としてトレーニングを受け、任務外に密入国し、「ベラ」として生活していたのではないか。

彼女は戦前に数年間バーミンガムで働いており当地の英語を習得していたと考えられ、スパイ候補生の可能性が検討された。事件後の落書きの主は「バウアーレ」を短略化して「ベラ」と呼んでいた(あるいは、誤ってそのように聞こえた、彼女がそう呼ばせていた)とも考えられた。

しかし、クララ・バウアーレは180cm近い高身長で「ベラ」とは明らかな体格差があったとして、別人と見るのが妥当とする批判がなされてきた。スパイ小説作家も当時の諜報員の大半は映画の様に特殊任務をこなすエキスパートばかりではなかったとし、スパイの暗殺処分方法としても「むしろ奇妙だ」と指摘した。

後年の調査により、クララ・バウアーレの死亡診断書が発見された。1942年にベルリンで、ベロナール(バルビツール酸系睡眠薬)の過剰摂取が元で死亡しており、それは慢性的な中毒によるものか自死だったのかは定かではないものの、事件とは無関係だったことが確定した。

しかし長年にわたって思案されたように「ベラ」が密入国した女性だった可能性は依然として排除しきれるものではない。

Murder by Witchcraft

エスマーシア警察による「アンナ」の捜査記録が民間人によって発掘されたのは2016年になってからのことであった。彼女の名は「Una Ella Hainsworth」(以下、ウナ)。先の記事に登場した運転役をさせられた男性は、ウナの元夫ジャック・モソップだったことが明らかにされた。

私は 1932 年にジャック モソップと結婚し、ウォンボーンのブリッジ ハウスに住み始めました。当時、彼は測量士になるために勉強していました。私たちの結婚で生まれた唯一の子供は 1932 年に生まれ、ジュリアンと名付けられました。現在、彼はアメリカのどこかにいます。

私の夫は 1937 年にパイロット オフィサーとして AST に入隊し、サウサンプトン近郊のハンブルに駐在しました。

1938 年に彼はコベントリーのアームストロング・シドレー工場で働き始め、その後コベントリー (バナー レーン) のスタンダード エアロ工場に勤務しました。

1940 年に、「ヴァン ラルト」という名の男がケニルワースのバロー ロード 39 番地にある私たちの家にやって来ました。この男はオランダ人だったと思います。私の知る限り、特に仕事に就いていたわけではなく、話しづらい仕事に従事していたのではないかと思われます。しかし、私の意見では、彼はスパイだったのかもしれません。なぜなら、彼は金に不自由しておらず、夫も懐に余裕があると見ていたからです。

1941 年 3 月か 4 月、夫が帰宅したとき、顔色が明らかに青ざめ、興奮していました。午前 1 時頃で、夫は私に飲み物を求めました。私は、一日中外出していたからもうお疲れでしょうと夫に言い、飲み物を 1 杯飲ませました。すると夫は、「ヴァン ラルト」と「ダッチ ピース」と一緒にリトルトン アームズに行ったが、女性絡みのトラブルを打ち明けました。

夫は「ヴァン ラルト」の車を運転していました。「ヴァン ラルト」は彼女を助手席に乗せて自分は後部座席にいました。女性が脱力したため、夫は「ヴァン ラルト」に、彼女が気を失ったと伝えました。「ヴァン ラルト」は夫に道順を伝え、森に到着し、彼女を木の洞に閉じ込めるように言いました。「ヴァン ラルト」は、翌朝には正気に戻るだろうと言い、私の知る限りでは、夫はそのまま「ヴァン・ラルト」のローバー製の車に乗って帰宅したようです。

私たちは 1941 年 12 月までケニルワースに住んでいましたが、4 月から 12 月にかけて、夫は非常に神経質な様子で、普段よりお酒を多く飲むようになり、浪費もひどくなりました。夫はほとんどいつも仕事を休んでいたので、私は彼が「ヴァン ラルト」と会って、何かしらの方法で金をつくっているのではと疑いました。夫は古い乗用車を所有していましたが、何日も家を空けることがあり、私にはその間の所在も分かりませんでした。

1941 年 12 月に夫と別れて、私はヘンリー イン アーデンに行き、そこで 10 年間暮らしました。私たちはヘンリー イン アーデンの近くのシュルーリーにあるナッツハースト ハウスに住み、最終的に 1951 年にケニルワースに戻り、1953 年 8 月に現在の住所に来ました。

1941年12月に最初の夫ジャック・モソップと別れを余儀なくされた後、私はケニルワースで3回彼に会い、家具などの家財道具を取り出そうとしました。そのうちの1回、彼と会ったのはこれが最後になりますが、彼は私に、最初は私を動揺させるためのさらなる話だと思ったことを話してくれました。それは次のようなものでした。

木の上の女性が彼をいやらしい目で見続けていたので、彼は気が狂ったのではないかと思ったそうです。彼は頭を両手で抱えて「イライラする、気が狂いそうだ」と言いました。彼がスタッフォードの精神病院に運ばれ、1942年6月に亡くなったと聞かされたのは、1942年8月頃でした。

当時、私は彼の死を知らされておらず、そのため葬儀にも出席しませんでした。私が初めて知ったのは、現在の夫が、彼に支払われるべきお金の請求と、死亡診断書が勤め先の工場に提出されたと話したときでした。

エクスプレス・アンド・スター紙に記事が掲載されるまで、私はハグレー殺人事件について全く知りませんでしたし、私があなたに話した事件と何らかの形で関連しているようなものを読んだこともありませんでした。私はこの件について誰とも話したことがなく、詳細を読み、女性が死亡した可能性のある日付を念頭に置いて初めて、この事件が1941年3月か4月に夫が私に述べたことと何らかの形で関連していることに気付きました。

魔術などに言及した記事があったため、まず手紙を書いて「アンナ」と署名することに決めました。手紙には、私を特定するのに役立つはずの十分な手がかりを盛り込みました。その後の新聞での訴えと、この件について私が知っていることを話すべきだと思ったため、あなたに会う約束をすることに決めました。これ以上付け加えることはできません。

私は今、再婚して3人の小さな子供がいるので、私があなたに話したことが正義の道を助けるためにのみ使われることを望み、それが私が取った行動のきっかけとなりました。私は夫からあまり良い扱いを受けておらず、過去を掘り起こすつもりはまったくありませんが、私があなたに話したことがこの件であなたの役に立つのであれば、上記の発言は私が自発的に、そしてその目的のために行ったものです。

もちろん、私が今お話ししたことが真実であるという証拠はありませんが、夫の状態と当時私に言ったことを念頭に置き、調査に役立つよう思い出すよう最善を尽くしました。

警察の記録した調書には内容証明のための彼女のサインまでしっかりと残されているが、奇妙なことに、航空機関連の工場について尋ねられたといった話、殺害を示唆する話、MI5が関連した話は全く登場しないのだ。

調書には追加のメモが付随し、ウナは「ヴァン・ラルト」と二度面識があること、芸名フラックというがコベントリー・ヒッポドロームに出演していたこと、元夫モソップは祖母の手で育てられ、女癖が悪く、42年6月に精神異常の診断を受け、8月に死亡したことが追記されていた。いとこのジュディス・オドノヴァンの証言によってモソップが社会不適合に陥っていたことが裏付けられた。

さらに1953年12月28日のメモとして、モーガン警部の調査によれば、ウナはあらゆる方面に借金を重ねており、知人たちは彼女を捕まえたがっているとの報告も挙がっていた。

警察の速記官がいくつかの情報を省いたのか、ジョーンズ(クエスター)の筆が一部暴走したのかは定かではないものの、ふたつのテキストは具体性に富みながらもその様相にはいささか温度差が感じられる。

第一にジャック・モソップはアルコール依存症の女好きであり、おそらくは悪事を働いて金を得ていた。女性の拉致が事実と見るならば、スパイの片棒を担がされていたというより女性を狙った連続強盗犯だった可能性もある。遺棄は事実かもしれないし、強姦致死の疑いも残る。

第二に謎の男「ヴァン・ラルト」の存在は警察でも確認できていない。旧知とされたジャック・モソップは故人であり、「ヴァン・ラルト」の実在性を担保するものはウナの証言以外にない。

第三にウナ調書には、ジャック・モソップや「ヴァン・ラルト」らをスパイと裏付ける根拠が示されていない。またジャックが語った話と「ベラ」事件の様相が酷似していると言うが、「秘密の暴露」が存在しないこと。

ウナ本人は元夫の話と新聞記事で得た情報から事件の関連を信じ、善意から証言している可能性はあるが、当の元夫の証言が歪曲して伝言されていることも考えられる。たとえば「酔っ払い女を拾って木の上に置いてきた」「見に行ってきたがまだ木の上にいた」などの発言だったとすれば、精神疾患に伴う妄言や悪趣味なジョークのようにも思われ、当時の夫婦関係の悪化から見ても、元夫の話は信憑性が乏しい。

とはいえ、モソップがベラを遺棄していない根拠も存在しない。真相はどこまでも薮の中である。

警察は、元夫婦の息子ジュリアン・モソップにも嫌疑をかけて調査を行ったが、「ベラ」の遺体発見当時、ハグリーウッドの4少年よりも年少の9歳だったことから容疑者リストから事実上外れている。尚、ジュリアンは10代の終わりに下着窃盗、住居侵入、車両窃盗などで逮捕され、出所からほどなく渡米したことが確認されている。

 

売春婦仮説

1941年にハグリーウッド近郊で「叫び声を聞いた」とする通報記録が残されていたが、そのとき事件性は確認されずキツネなど獣の声ではないかとして処理されていた。

www.bbc.co.uk2014年にBBCのミステリー調査番組『Punt PI(パント研究室)』で提唱された仮説のひとつに、1944年に同僚から行方不明が届け出された売春婦ではないかというものがある。彼女はベラの源氏名で、ハグリーウッド近郊でも商売をしていたことがあったとされる。
売春婦たちは源氏名と厚化粧によって、来歴を隠し、それまでとは別の人生へと歩もうとする。家族に愛されなかった悲しい出自だったのか、あるいは夫に先立たれて困窮した戦争未亡人だったかもしれない。彼女たちはありふれた友人同士の様にお互いの過去を無闇に詮索することはない。
ベラが子どもを連れていたのか、闇に葬ることになったのかなど、詳しいことは全く分からない。おそらくその同僚の届け出では身元不明女性との一致が法的手続きとして充分には確認しきれなかったのであろう。仮に同僚が遺骨を目にできたしても、本人と識別する術があったとは思えない。
姿を消した売春婦の届け出が事実であり、先の「叫び声」の通報記録と結びつけて想像するならば、道すがら、あるいは客を装った犯人に手籠めにされて稼ぎを奪われるといった状況が思い浮かぶ。

 

切り裂きジャックを例に挙げるまでもなく、被害者が売春婦の場合、社会階層的な差別意識によって家族の捜索や市民の協力は少なくなり、その「渡り鳥」的な性質から警察による捜査意欲は低くなると考えられ、戦時下にそうした名もなき行方知れずたちは何千何万と生じたにちがいない。

被害女性・遺留品等の再現スケッチ〔エクスプレスアンドスター紙〕

 

また番組のインタビューに答えた当時の鑑定人のひとりジョン・ルンド博士によれば、「私が知るかぎり、遺体は大学に引き渡したが、不思議なことにその後、骨は消えてしまった」と述べた。

大学や捜査機関の手違いから紛失したのか、それとも他の身元不明者たちと同じように無縁仏として弔われ、その記録が紛失したのかは分からないが、いずれにしろDNA型鑑定による再捜査の選択肢は残されていないことを示唆している。

 

現代的アプローチ

2014年6月、BBCは番組制作にあたって、ロンドンのクイーン・メアリー大学の研究グループに、ベラの死の謎を解くために過去の仮説を用いて統計的なシミュレーションはできないかと協力を依頼した。研究者たちは仮説とその裏付け、不確定要素を組み合わせたベイジアンネットワークと呼ばれる確率論的手法で真相に近づこうと考えた。

この計算は、たとえば警察の追及が不足している分野や、法的推論における偏見や抜けを見つけることに役立つという。導き出された数字がそのまま事件を決定づける要素(構成する割合)とはなりえないが、証拠の定量が多ければ数字が大きくなる(たとえばモソップの関与について、ウナのような証言者があと4人追加されれば95%に達する)。

https://www.eecs.qmul.ac.uk/~norman/projects/bella/Bella.pdf

計算結果は、「殺人事件であること」99%、「ベラは英国人ではない」97%、「木の洞に入れられたときベラは存命だった」93%、「ジャック・モソップが彼女の死に関与した」33%、「何かしらの諜報活動が関連した」7%、「ベラはスパイだった」25%、「売春婦だった」16%、とされた。

強いて言語に当てはめるならば、次のようなものになるだろうか。

殺人事件であることが「確実視」されており、ベラが英国人であることや殺害後に木の中に入れられたことを示す証拠は「ほとんど存在しない」。ジャック・モソップの関与について元妻の証言は「決定的とまでは言えず」、ベラが売春婦をしていたかスパイだった可能性も「考慮に値する」が、諜報機関の関与を示す証拠は「ほとんどない」。

 

Bellaの復顔再現図

 

2018年2月、ダンディー大学の人類学教授キャロライン・ウィルキンソンがベラの特徴を再現した。

ウィルキンソン教授は頭蓋解剖学および人間識別分野の専門家で、2012年にレスター市の駐車場の下で発見されたリチャード3世(1485没)の遺体から法医学的顔面再建を行った業績で知られている。ベラの復顔は、当時撮影された頭蓋骨の写真などを元に行われた。
前歯以外の特徴として、大きな目は左右の幅がやや狭いことなどを明らかにしている。75年間、仮の名前しか持たなかった彼女に顔が与えられた。

ただ彼女と直接面識のあった人々はとても高齢か、大半が亡くなっている。研究者らは、「古い家族アルバムの中に彼女の痕跡が残っているかもしれない」とわずかな期待を寄せた。

 

1970年代からベラ事件の研究家となった元バーミンガム市議会議員ピーター・ダグラス・オズボーン氏によれば、当時の捜査資料は警察の管理不行き届きにより紛失してしまったとされる。警察博物館での展示や保管物も調査されたが、文書や証拠資料は一切見つけられなかった。

ベラの残した痕跡、彼女に関するあらゆる情報が失われつつあるなか、その名が80年間にわたって語り継がれてきたこと自体が奇跡にひとしい。はたしてこの先、さらなる奇跡によって彼女の尊厳は回復していくのだろうか。

 

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Monthly Mystery: Who put ‘Bella’ in the wych elm? - Worcestershire Archive & Archaeology Service

https://josefjakobs.info/

Revealed after 75 years: The face of Bella in the Wych Elm - Birmingham Live