フランス北西部で起きた不可解な一家失踪事件は海を渡り、四半世紀に渡ってその動向が注視されてきた。すでに捜査当局は事実上のコールドケースとしているが、今後新たな補遺が追加される可能性も残る。
一家の失踪
1999年9月1日(水)、ノルマンディー地方カルバドス県ティイ=シュル=ソルに住む医師イヴ・ゴダール(当時44歳)が、娘のカミーユ(6歳)、息子のマリウス(4歳)を連れてヨットでクルーズに出たまま行方不明となった。
3人は車で自宅から160キロ離れた港町サン・マロを訪れた。ゴダールはセーリングクラブで2週間前に予約していた最大6人乗りの帆付きヨット・サンオデッセイ30、愛称「ニック号」をレンタルし、およそ150キロ西にある港町ぺロス・ギレックへのクルーズ予定を伝えた。計器の調整を終えた後、父子はスーパーマーケットで買い出しを済ませ、潮目から見て、おそらく午後2時前後に出航したものとみられている。
だがヨットの返却期日9月5日(日)になっても3人は港に戻らず、船のVHF無線機にも応答がなかった。
同じ9月5日、サン・マロに帰港予定だった漁船がイルドバ島近海55キロ付近を漂っている小型のゴムボートを見つけて回収し、沿岸警備隊に通報した。ゴムボートは無人状態だったが、舟上には黄色いレインジャケットと中に小切手帳が残されており、「イヴ・ゴダール」の名前が記されていた。ゴムボートから人が転落した可能性もあったが、航海に小切手帳という組み合わせはどこか不自然にも思われた。後にこのゴムボートはニック号に積まれていたものと確認される。
7日、不安を募らせたセーリングクラブと沿岸警備隊は海上憲兵に通報。「憂慮すべき失踪」として捜索を開始する。軍用機を出動させ、ゴムボート発見場所や沿岸部一帯を捜索するもニック号は発見できず。医師の乗ってきたフォルクスワーゲン・コンビ(ミニバス型のバンで、キャンプカー仕様にしていた)はサン・マロの港に駐車されたままとなっていた。車内を確認してみると、掃除用具や床敷き、大量の血痕と大量のモルヒネが残されていた。
船主は父子3人連れだったこと、母親らしき女性の姿はなかったことを記憶していた。男が海上で死体を遺棄した可能性、さらにそのままヨットで逃亡したことが危惧され、当局では緊急性が極めて高いと判断。翌8日にはカーン近郊の農村地域ティイ=シュル=ソルにある医師の自宅を家宅捜索した。
台所にはイヴ・ゴダールの字で「数日間外出する。日曜に戻ります。マリー、イヴ」と書かれたメモが見つかった。冷蔵庫には備蓄が残っており、子どもたちのリュックは玄関に置かれたままだった。2階の子ども部屋に異変はなかったが、夫妻の寝室では壁に血を拭ったような黒い跡が残り、ベッドを裂くと中のマットレスには大量の血痕が染み渡っていた。改めて見回ると階段には血の滴が、1階バスルームには血塗れの手ぬぐい、洗濯機からも血の付いた毛布が見つかり、事件性が確実視された。
推測される出血量などから、9月10日には正式な殺人事件としてサン・マロ裁判所ジェラール・ゾウグ判事が捜査を主導。最有力容疑者としてゴダール医師に国際指名手配がかけられる。近海では連日のヨット捜索が続けられていたが、消息は掴めず。
16日、車両と自宅から検出された血痕は、消息を絶っていた妻マリー=フランス・ゴダールのものと特定された。彼女は8月31日に子どもたちを保育施設へ迎えに行っており、午後5時頃に別々に暮らす長女(先夫との子)と電話で話していたが、翌日から夫と子どもたちがセーリング旅行に出掛けることについて何も話していなかったという。
ゴダール医師は子どもたちとヨットに乗ってどこへ消え去ったのか。そして妻マリーをどこへやったのか。
捜査
ゴダール医師はカルバドス県の主要都市カーンで鍼治療の開業医をしており、8月30日(月)は通常通り診療を終えて20キロ離れた自宅へ帰ったものとみられた。その日受診した患者たちによれば普段通りで医師におかしな様子は見られなかったという。
だが31日(火)には予定されていた診察を急遽キャンセルしており、子どもたちを連れて近郊のプランクエリにある池に釣りをしに訪れていた。元々医師は子煩悩として知られていたが、この不規則な行動は何を意味するのか。
ヨットの予約は8月17日段階でなされており9月1日(水)から5日(日)までの利用計画にもかかわらず、捜査機関が診療スケジュールを見てみると9月1・2・3日も予約で埋まっていた。しかし事実確認をしていくと、それらは予約をしたことがない既存の患者か、存在しない架空の患者のいずれかであることが分かった。言い換えれば医師は9月初めのスケジュールを捏造していたことになる。

ゴダール父子を乗せたニック号は9月1日にサン・マロの港を発ち、沿岸部を西方へ向けて進んだ。出航以来、イヴの携帯電話が使用された形跡は全くなかった。
翌2日にはサン・マロから約50キロの沿岸部でフランスの税関職員2人が定期巡視でニック号を検査していた。風があるにもかかわらずモーターを駆動させて航海を続けていたので違和感があったという。船室には子どもが眠っており、船首のカバーの中にウインドサーフィンのボードのような荷物があるのに気づいたが中身は確認されていない。職員は念のため船のレンタル元に連絡を取ったが問題は確認されず、ニック号を離れた。
聞き取りの結果、その後、父子を乗せたニック号は目的地としていたペレス・ギレックへと向かわず、ブレエック湾近海に留まっていたと見られている。港でスイーツ屋台を営む女性は9月3日に父子にワッフルを販売したと証言。4日も景勝地ミナール岬を訪れていた数人の散歩客が沖合を漂うニック号を目撃していたが人の気配はなかったという。ブレエック湾は地元漁師以外は滅多に立ち入らない小さな入り江でリゾート風のヨットは不釣り合いに見え、人々の印象に残っていた。

ミステリアスな医師
イヴ・ゴダールとマリーさんについて。ゴダール医師は1993年、市街から離れ、静かな川を有する牧歌的農村に石造りの古民家を購入。改装作業を続けつつ、94年にマリーさんと子どもたちを集めて庭でささやかな結婚式を開いた。夫妻は控えめで親切だったと村人たちは言い、人を家に招くことは滅多になかったが、言い争ったり険悪な様子は一度も見せていなかった。
夫妻はカミーユとマリウスに恵まれ、近所の私立学校サクレクール寺院に通わせていた。送迎は夫婦のいずれかが行っており、8月31日のお迎えはマリーさんだった。隣人のひとりは、子どもたちがビデオを借りに来ることはよくあったが父親について「食前酒に来るタイプではなかった」と話した。村の新聞売店に訪れても他の村人たちのようにカウンターで語らうことはなかったとされている。自分から挨拶をしないタイプのゴダール医師だったが、近所で子どもが急な病気と聞けば嫌な顔も見せずすぐに駆けつけてくれたという。
イヴとマリーさんは再婚同士で、共に10代半ばになる子どもが2人いた。マリー=フランスの前夫は近場に暮らしており、彼女は子どもたちとも親しい関係を築いていた。台所に残されていたメモはおそらく電話がつながらず彼らが訪ねてきた場合に備えて、一時的に通報を思いとどまらせるためのギミックだと捉えることができる。医師と先妻との子どもたちも、幼い頃にはマリーさんとの結婚式や地域の祭りなどに訪れていたが、その後は疎遠になっていた。尚、医師の先妻は指名手配犯となった元夫についてコメントを拒否している。
海辺の町で思春期を過ごしたイヴは経験豊富な船乗りだったが、マリーさんは航海を好まなかったという。半月前から計画されていたこの航海がそれまで堪えてきた不満の鬱積と重なって、単なる夫婦喧嘩以上の致命的な亀裂を生んだ可能性も排除できない。イヴが航海好きだと知っていたのは村では村長だけだった。
彼らの隣に住む老婦人は、9月1日の朝に父子の出発に出くわし「数日、家を空けます」と聞かされたが、家のカギを預かったりはしなかった。彼女は家族総出で出掛けたものと思い込んでいたが、車内から手を振っていたのは子どもたちだけだったかもしれない。マリーさんが普段使う赤い車はそのまま自宅に残されていた。

イヴ・ゴダールは思いやりのある献身的な医師として患者からの信頼は厚かった。勤務医時代には患者のひとりが死の床につこうとしていたとき48時間寄り添ったことさえあった。だが92年に薬事法に違反して6か月の医師免許停止の処分が下された。フランス国内で許可されていない薬物を処方したためだった。
彼は中国伝統の医術に学び、84年には鍼による坐骨神経痛治療の論文を発表して地元紙に取り上げられて注目されたが、審査官の評価は二分していたと言われる。その後も催眠療法、磁気療法、スピリチュアルセラピーといったいわゆる民間療法に傾倒し、ホメオパシー(擬似科学)を広めているとして医師会から目を付けられていた。
院内で理解者を得られなかったゴダール医師は地域のセラピストや鍼灸師全員に支援を求める手紙を書いて擁護を求めたが、「ときに独善的で傲慢」とも評される性格が災いしてなのか顧客ら45名の署名しか集まらず名誉の回復は叶わなかった。立場を失った医師は病院勤めを辞して、開業医となる決心をする。
ゴダール医師から指南を求められたという「ホリスティック療法(心・身の病を除く西洋医学に加え、気・霊に基づく人間本来の自然治癒力の回復を唱える代替医療)」を掲げる磁気治療の専門家は、彼は患者とのカウンセリングや施術の一挙手一投足を4時間無言で注視し続け、最後に素晴らしいとだけ言い残して去って行ったと語る。
かつての同僚で、医師会との対立時には不支持の立場だった某医師は、「彼はとても優秀な医師で、感情豊か、繊細で、子どもと人生を愛していた」「(彼に対する殺人の疑惑や世間の非難について)信じられない思いだ」と話した。おそらくゴダール医師は同じ職場の人間にもその内面やプライベートを晒そうとしなかったとみえる。
そして独立後の96年5月にも、専門医として認可されていない治療行為を行ったとして、医師評議会から3か月の停職処分を下された。独立後も彼に患者を紹介していた元同僚のひとりは「彼の診察をみんな喜んでいた」と患者ファーストの姿勢を貫いて立場を悪くした医師に同情を寄せた。最後に会った7月には「今年は休みがない。レモンのように搾り取られている…と彼は口にしていました」と語った。

独立当初はマリーさんに週3日の事務を任せていたが、長女カミーユの出産前から専業主婦に戻り、以来復職することはなかった。そのため彼女は「開業医の妻」であることに不満だったのではないかという憶測もなされた。勤務医に比べればその収入は不安定になり、医師会とも反目していると聞けば不安は尚更のことである。その一方で自宅の改築費用、開業資金、子どもたちの養育など経済的な負担は目に見えて大きくなっていた。
三大主要週刊誌のひとつL’Express誌2000年2月の記事では、マリーさんは精神的不調に陥り、催眠療法によるうつ病治療を受けていたと伝えている。担当した心理療法士は、彼女が日常生活の虚無感と自分に関心を寄せない夫への不満を語っていたと言い、「愛人にしてほしい」と言い寄られたことを明かした。彼女を説得して思いとどまらせたことを誓い、彼女には不満や妄想を日記にぶちまけるようにアドバイスしたという。
夫婦の軋轢、職業的不安、経済的苦境などは一般的にも自殺や一家心中の動機と捉えることができる。また「担当した心理療法士」の守秘義務の観念が希薄すぎてL’Express記事の内容はすべてを鵜呑みにする気にはなれないが、マリーさんの心的変調、不倫願望、『Rêves de Marie(マリーの夢)』と題された願望を記した日記などが、すでに追い詰められていた夫の導火線に火を点けてしまったことは充分に起こりうる話だ。
追跡と発見
9月16日、フランス北西部と近接する英国領チャネル諸島ガーンジー島の沖合でボート航海中の民間人が救命胴衣を発見し、ニック号に積載されていたものと分かった。
さらに9月23日には英国南海岸ドーセット郡ライム湾沖合で半ば膨らんだ状態の救命ボートが発見され、なぜか日除け用のキャンバス地の天蓋部分が切り取られていた。
これらの発見から捜査当局は、ゴダール医師たちを乗せたニック号は係留が難しいブレヘック近辺で座礁したのか、それともどこかで思わぬ波風に飲まれて転覆したのであろうと考えた。しかし海軍の専門家は当時のデータを解析しても、9月初頭の近海の気象条件はセーリングに適していたと言い、仮に座礁や転覆が起こったとすればもっと雑多な漂流物が出現するだろうと述べた。
荒れ狂う波風に飲み込まれた訳でもないならば、航海士は無線で助けを知らせることができたはずだ。音声通話が困難であっても通信さえつながればGPSが発動されて早期発見されるしくみになっている。にもかかわらず、彼がそうした措置を取らなかったのならば、失跡が目的だったと考えざるをえない。だとすれば、どのタイミングで救命いかだを膨らませたのか、それは本当に漂流した物だったのか、船乗りが意図をもって流したものではなかったか。

10月14日、フランス北西沿岸部からおよそ900キロ離れたマン島の首都ダグラスのホテル経営者は、先月7日から14日までゴダール医師と子どもたちが宿泊していたと証言した。ホテル従業員のひとりは「朝食も取らずレストランにも出向かなかった。子ども連れの父親にしては珍しく思いました」「女性とロビーで合流するのを見掛けました。子どもたちは彼女に飛びついて抱きしめました」と語った。再会を喜ぶ母子の光景であろうか。
それだけであれば他人の空似ではないか、あるいは売名目的か何かの虚偽通報のようにも捉えられる。だがホテルでの目撃証言より先んじて、10月2日にカーンの35キロ南に位置するファレーズ警察に「ゴダール医師は生きており、アイリッシュ海のマン島にいる。真剣に受け止めてください」と匿名の手紙が届いていた。偶然とは思えないタイミングで情報が重なったことでマン島上陸の信憑性が俄かに強まり、英国や西ヨーロッパ各地で大々的に報道された。
市民感情としても、夫婦間のトラブルがあったにせよ、まだあどけない何の罪もない子どもたちまでもが犠牲になったと考えるのは心理的抵抗があったにちがいない。僅かな生存への期待感は、ヨット嫌いな母親は別の手段でマン島を訪れ、4人は現地で合流したのではないかといった希望的観測を生み出した。島の周辺での捜索も行われたが、ニック号や一家の消息を示す手掛かりは見つからなかった。
さらに10月8日にも同一匿名筆者による2通目の手紙が届いており、3人がスコットランド沖のルイス島ストーノウェーに居り、「カミーユとマリウスを救出せねばならない」状況だと生命の危機を伝えていた。しかし現地法務省から強い抵抗を示され、フランス法執行機関による事情聴取は困難だった。フェリー乗り場で対話できたチケット売り場の男性は10月初旬にゴダール父子に5日間有効の周遊券を販売したと具体性をもって述べたが、それ以上の追跡は不可能だった。
医師の航海の目的が国外逃亡にあったとすれば、9月2~4日のブレヘック近海での滞留は一体何を意味するのか。食料など装備をどれほど積んでいたかは分からないが、 なぜサン・マロから一気に北上してチャンネル諸島に向かわず西へ移動していたのか。
各地でそれらしい目撃情報が聞かれたものの、そのうち誰が誤認し、誰が偽証し、誰が事実を語ったのかは今もって分からない。
匿名レターの筆者は名乗り出ず、筆跡の専門家はイヴ・ゴダールとつながりのある中高年女性の手によるものではないかとした。当局は彼と面識のある元患者や知人などおよそ300名の女性を集めて字体を鑑定。さらに切手に付いていた唾液痕からDNA型鑑定を行い、女性たちにも検査を行ったが一致する人物は出なかった。
一方で観光地化されているマン島はともかくとしても、ルイス島は一日に2便あるかないかの辺鄙な島である。イヴが「逃走先」とするのも、手紙の主が両島を訪れることも不自然だとする意見もある。
その後もギリシャのクレタ島(2001年2月)、マイアミ(2003年7月)、南アフリカ(2004年目撃、翌年通報)などからゴダール家の目撃情報が舞い込み、現地に捜査員も送り込まれたが、決定的な行動履歴や物証は見つかっておらずその確度は低いと見られている。

一家失踪から4か月後の2000年1月16日、バッツ島沖の猟師のトロール網にキャンバス地のバッグが引き上げられた。中から、ゴダール夫妻の運転免許証、夫妻の車2台の登録書類、小切手帳、マリーさんのハンドバッグと中身一式、双眼鏡、子どもたちの着替え、水着、ハンマーなどが発見される。パスポートは含まれていなかった。
捜査機関は医師の銀行口座の動きにも注視していたが、失踪から半年が過ぎても動きは見られなかった。またマリーさんの遺体がニック号に持ち込まれたとする確実な証拠は出ていないため、自宅近郊の森林地帯や湖沼、採石場などでの捜索作業も続けられていたが手掛かりは発見されなかった。
2000年6月6日、サン・マロの港からわずか60数キロのサンブリュー湾沖の貝漁船の網に人骨のようなものが発見される。不気味に思った漁師は海に投げ返して作業を再開したが、4時間後には明らかな人間の頭蓋骨を引き上げたため、これを通報した。
DNA型鑑定により6歳の娘カミーユのものと断定され、科学分析により最近になって海中に投げ込まれたものではなく少なくとも2000年2月以来その場所に留まっていたものと確認された。
だが他殺か事故死かの判断はつかず、海軍から貸与されたソナー探知によって周辺海域で徹底的に捜索が行われたが、それ以上の遺骨やニック号の残骸などにはたどりつかなかった。
2001年2月1日になって、ブルターニュ沖のエビアン諸島シャペルビーチでイヴ・ゴダールの医師資格証明カードが発見される。ビーチ一帯の砂を重機で掘り起こしての地道な捜索作業が続けられ、同月22日と24日、同じ海岸で彼のクレジットカード2枚が発見された。群島の周辺で再びソナー探知が試行されたが、船体などの発見には至らず。
5月24日にはダイバーによってサン・ジャキュ・ド・ラ・メール近くの深さ3メートルの海中で別のクレジットカードが見つけられた。もはや何も残されていないとビーチ捜索の終了が宣言されたが、7月31日には健康保険カードが新たに見つかった。4枚のカードは精密検査が行われ、長期間海中を漂っていたものではないことが明らかになった。
捜査員とマリーさん家族の弁護士は、イヴ・ゴダール本人が海やビーチで棄てた訳ではなく、「ゴダール医師の事故死」を信じ込ませるために彼と共謀する第三者が後からカードを捨てた疑いを示唆した。尚、2008年12月14日にも同じエビアン島シャペルビーチでイヴ・ゴダールのまた別のクレジットカードがきれいな状態で発見されている。
2001年3月19日、カーン地方裁判所は、財産管理のため、具体的にはゴダール家が暮らしたティリー・シュル・スルの家屋売却を認可するため、一家4人をを「推定不在」とする判決を下した。
2003年8月8日、サンブリュー湾内でイヴ・ゴダールのものと疑われるブリーフケースが発見されたが、本人のものかは特定しきれなかった。
捜索隊の見落としと言われてしまえばそれまでだが、大きな謎の「ヒント」がまるで小出しにされているかのように後から少しずつ遺留品やそれらしき漂流物が追加される状況は人々を興奮させ、混乱させもした。
しかし事件発生から7年後の2006年9月13日、ロスコフのトロール船漁師がフィニステール県沖・キャスケッツ海溝の底付近から人間の脛骨と大腿骨を引き上げた。
9月末に持ち帰り、10月11日に地元の海難救助隊に引き渡した。捜査機関によるその後のDNA型鑑定により12月19日までに指名手配犯イヴ・ゴダールの足と確認された。2007年1月12日、第二鑑定でもイヴの骨と確認され、その後「家族殺人」の容疑者と目された医師の死亡が認定される。発見海域とされるロスコフ北70キロ地域の海底探索も繰り返されたが、残る遺骨やニック号の痕跡は発見できなかった。
2007年1月26日にはゴダール家からそう遠くないカルヴァドス県ランジェールの墓所にマリーさんの遺体が埋まっているとの匿名の手紙がもたらされた。
捜査当局は墓石下ではない場所を捜索し、実際に墓所の一画のごみ焼き場の堆積物を数十センチ掘った下から骨片様のものが発見された。
ノルマン人ダウザー(ダウジング探知者)が通報者を名乗り出たものの、その後DNA型は家族の誰とも適合しないことが明らかとなる。大事件に刺激され、己の正義感や功名心のために「カラス」のように騒々しい人々が群がってくるのは世の東西を問わない(そして私たちも「カラス」の一羽である)。
ゴダール家の弁護士は、たとえマリーさんの遺体が発見されたとしても「事件の全容解明」にはたどりつかないだろうとの見通しを語った。また医師はニック号での「利他的な自殺」、いわゆる一家心中型の難破を企図した可能性が高いとの仮説を述べている。

2012年9月7日、カーン高等裁判所は、これまで捜索が続けられてきたマリー=フランス、マリウス・ゴダールの不在証明(遺体なしに法的死亡を認定する失踪宣告)を認める判決を下した。
9月14日、捜査当局は同判決に基づき、殺人が疑われる一連の一家失踪事件について証拠不十分として不起訴とする判断を下した。事実上の捜査終結宣言である。
検察局は「唯一除外しうるのは、一家失踪が単純な海難事故によってもたらされたとする仮説のみ」としたが、イヴ・ゴダール医師による殺人を立証することは遂に果たされなかった。
事件を担当したサン・マロ検察アレクサンドル・ド・ボシェール検事は「まだ多くのグレーゾーンが存在する」と悔しさを滲ませた。これにより法手続き上は解決済の事件とされ、10年以内に重大な証拠が提出された場合を除き、捜査はコールドケースとされた(その後の法改正により保留期限が延長され2032年までは再び起訴することも可能なコールドケースとして維持されることとなった)。
労働組合関与説
イヴ・ゴダールは開業にあたって医師会系との確執があったことから医師会とつながりのある労働組合には参加しなかった。代わりに自営業者らが多いCDCA(商工保護連盟)に加わり、社会保障や退職金、税制の見直しを求める活動に積極的に取り組んでいたとされる。
CDCAの反体制的な側面には、社会保険料の不払い奨励といったものから、過激なものでは大企業に対する襲撃や、税務署長の拉致といった非合法の武力行動も含まれていた。
医師は非暴力の立場を固辞し、組合では地方局の財務を担当していた。全国で唯一とみられる医師資格者で希少なインテリの加入者として組合では頼りにされる存在で、それなりの発言力が認められていた。
だが社会保険の不払いを積み重ねたことで、30万フラン以上の未払い請求書が届き、業績不振の医師を悩ませたのではないかと推測されている。
事件終結宣言前の2011年末、TVジャーナリスト、ディレクターのエリック・ルマソンは『L’Assassinat du Docteur Godard(ゴダール医師の暗殺)』を著し、事件の背後にこのCDCAが関与していたのではないかとする大胆な理論を立てて物議を醸した。
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CDCAは複数の労働組合が統合し、1985年に全国組織としての体制が組まれた。代表の座に就いたカリスマ的リーダーであるクリスチャン・プーセは欧州統合の機運に乗じて1992年に運動の連帯を西ヨーロッパ全域にまで拡大させた(欧州CDCA)。
前述のようにCDCAは税金の不払いを奨励して共済基金を募っており、いわゆるタックス・ヘブンに資金を迂回させて投資運用する独自のシステムを築いていたといわれる。
プーセは国による「社会保障の独占」に明確に反発して訴訟を起こし、同調する過激分子は各地でデモ行為を繰り返した。94年にその自由化を公約に掲げて大統領選への出馬を目指した時期もあった。
96年からフランスCDCA代表を辞して欧州CDCAに軸足を移すと発表したが、かねてよりモンペリエ警察はプーセの動向に注視しており、武器の入手と不法所持で逮捕。予審判事に対する脅迫なども加わり、拘留は97年12月まで続いた。
すったもんだの末に欧州CDCAの会長に納まったプーセだったが、2001年1月、自社オフィスで目出し帽をかぶった2人組に銃撃されて死亡。急遽ピエール・ヴェロが欧州CDCAの会長に任命されることとなった。
プーセ暗殺の数か月前にはモンペリエでフランスCDCA幹部フィリップ・ワルニエが飛行機の墜落事故で死亡していた。燃料残量を示す計器の故障が原因と見られているが、立て続けに起きたCDCAトップの2つの死亡事件は組織との関連が疑われた。
CDCAには表立った過激派グループ以外にも、そうした暗殺や偽装を専門とする工作員グループがあるのではないか。
ルマソン氏は、ゴダール医師は迫りくる破産の危機に対してCDCAの国外ネットワークを頼って新天地でのリスタートを画策していたと主張している。彼は組合の資産の一部が預けられていたタックスヘブンのひとつマン島を目指して「夜逃げ」を画策したが、直前に妻の強い抵抗に遭い、事件が発生した。しかしゴダールが逮捕されれば、CDCAの脱法的資金源までもが白日の下に晒されかねない。組合は当初の計画通りゴダールの消息を完全に絶った上で、警察の追跡を中止させるために「一家心中」に見せかける偽装工作を仕組んだのではないかと説明する。
この大胆な理論に基づくテレビ番組も制作され、フランス国内では一定の支持を得た。だが飛行機事故もプーセ暗殺もCDCAが関与した確実な証拠は存在しない。
筆者としては、「あの組織は怪しいから、これもやったに違いない」といった論理的飛躍の大きい陰謀論に聞こえる。大組織幹部が買う怨みと、地方の末端の穏健派にかかる制裁を同列に論じるのは些か無理がある。また97年に母親から26万7000フランを相続し、イゼールのアパートに投資していたという情報もあり、実際に破産の危機に直面していたのか定かではない。
CDCA関連説で言えば、過激派との理念的衝突からゴダール医師が襲われるといった出来事ならばまだ理解ができる。しかしイヴ・ゴダール本人を襲うでも、脅迫に利用しやすい子どもたちを連れ去るでもなく、第一の暴力的被害者は間違いなく妻である。父子3人が何者かによって「強制的に」航海に出た証拠は何ひとつない。
ひょっとするとテレビジャーナリストと家族の弁護士は、強引な仮説を掲げてあえて社会的物議を醸すことで「捜査終結」に反発する世論を生み出したかったのかもしれない。

本件の謎が謎を生んだ一番の要因は、妻を家に置き去りにせず、医師が幼い子どもたちを連れて海へ向かったことにある。一家心中を肯定するつもりはないが、彼は「家族が一緒でいられる方法」を最期まで模索していたのだと考えたい。
The Doe Network: Case File 4144DMFRA
自宅で血を流した母親と、4歳で大航海に連れて行かれたマリウスの遺体は今もその居場所が定まっていない。これからも近海で身元不明の人骨が発見されるたびにゴダール一家の事件は思い出されることだろう。
ソル川の穏やかな流れ、家の前に架かる15世紀の石造りのアーチ橋は今も昔も変わらずそこにある。かつて事件の渦中となったその家(そこで死体が見つかった訳ではない)にも今は別の住人が暮らし、混乱した村にも四半世紀を経てようやく秩序が取り戻されているという。
犠牲者のご冥福をお祈りいたします。
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Le justice referme le dossier de l'affaire Godard
Sur les traces de l'énigmatique docteur Godard - Société - Nouvelobs.com