いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ロドニー・キング事件と1992ロサンゼルス暴動

アメリカでは1960年代の公民権運動や70年前後のブラック・パワーが叫ばれた人種的対立の時代を経て、人種差別是正のためのアファーマティブ・アクションが進められた。

1963年にキング牧師が述べた「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくようになることである」という願いは着実に実現に向かっているかに思われた。

黒人の大学進学率は上昇し、人種問題研究者や黒人政治家も増え、テレビの世界でも黒人タレントや記者らが活躍の機会を得た。アジア系移民が商売を繁盛させ、ヒスパニック系が労働市場に溢れ、多文化共生が盛んに唱えられた。

だが長きにわたった「白人男性優位」社会は、急速な社会変革の反動として「逆差別」の不満を抱え込む人々を同時に生み出していた。アフリカ系アメリカ人の中にも、努力して成功をつかむ者がいれば、貧困から抜け出せない者もあり、後者はその鬱憤を他のエスニック・マイノリティへと責任転嫁した。

 

ロドニー・キング事件

1991年3月3日、鬱積した差別感情の象徴ともいえる出来事が起こった。

ロサンゼルスのフリーウェイI-210号線でロドニー・グレン・キング(当時25歳)と友人2人が乗る車が猛スピードで走行し、ハイウェイ・パトロールの追跡を受けた。運転席のキングは停車命令を拒み、約13kmを爆走した末にようやく追い詰められた。駆けつけたロサンゼルス市警察(LAPD)によってキングらは逮捕された。

だが事件はそれだけで終わらなかった。

現場近くに住むジョージ・ホリデイ氏はカーチェイスからの逮捕劇に気づき、バルコニーからその様子を自前のビデオカメラに捉えた。


映像には、4人の白人警官と道端に倒れたアフリカ系アメリカ人が映っていた。運転席から降りてきた男は地面にひれ伏して無抵抗のように見えたが、白人警官たちは囲んで警棒で容赦なく殴り続けた。黒人男性は制圧されても何度も何度も立ち上がろうとし、警官たちは渾身の力で警棒を打ち下ろす。

それはゾンビ映画にあるような、倒しても倒しても蘇り迫ってくる死体に恐怖して暴力の手を止められない群衆の姿を彷彿とさせるものがあった。

ホリデイ氏はLAPDにビデオを提出して事態の説明を求めようとしたが無下に断られ、地元ニュース局KTLAにテープを送った。その袋叩きともいうべき生々しい暴力の映像は瞬く間に世界中を駆け巡り、人々を震撼させた。

過去にも白人たちによる黒人への集団リンチや白人警官による黒人への過剰な暴行は何度となくニュースになり、映画やドラマでも似たような場面が描かれてきたが、市民の手によるビデオ映像の迫真性は絶大だった。

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男は一命をとりとめたものの瀕死の状態で、当たり所が悪ければ…という紙一重の状況だったことは誰にでも察しがついた。最終的に、警棒を使ったキングへの打撃は計53~56発とカウントされ、頭蓋骨11か所の骨折、脳損傷、腎不全、右足骨折、全身の打撲のほか、テーザー銃(電気銃)によって胸部に火傷を負った。

同乗していた友人2人も警官たちから暴行・罵倒・脅迫を受けたと主張し、一人は地面に腹ばいにさせられた際に踏みつけられて頭部に裂傷を負った。

マスコミの取材に対して、幼子を育てるキングの妻は「夫はなぜ普通に逮捕してもらえないんですか」と頬を濡らして訴えた。キングは殺人や誘拐などといった凶悪犯などではなく、主たる逮捕容疑は飲酒運転などの交通法違反であった。

 

「警官によるリンチ映像」だけを遠巻きに見ても、その背景に人種差別が含まれていたのかははっきりしない。しかし病院に連れ添った警官は、その黒人逃走者をどれほど痛めつけてやったかを同僚たちに自慢し、「トカゲを叩き潰してやった」などと冗談をこぼしていたことがその後の調査で明らかとされた。

キングは、89年に強盗で実刑を受け、2か月余り前に出所したばかりで、飲酒運転でも仮釈放違反でより重い罪となると考えて逃走したことを認めた(尚、実際に酩酊状態程度のアルコール成分が確認されており、合成麻薬PCPは検出されなかったがマリファナの使用が認められた)。

ロス市警では「重罪逃亡」を付け加えて起訴しようとしていたが、ビデオテープが公開されてまもなく「証拠不十分」として起訴を見送っていた。

暴行に関与したのは巡査部長を含む警官4人で、「過剰な武力行使」や「虚偽の報告」により懲戒処分を受け、ロサンゼルス郡地方検事局により起訴された。


マスコミの報道、正義を求める市民の運動は瞬く間に拡大した。とりわけアフリカ系アメリカ人コミュニティの反発は大きく、デモや抗議集会が連日行われた。集結した市民たちは、「被害者はキングだけではない」、「黒人であるために」警察の権力被害に遭ってきた、と非難を強め、ロス市警による横暴の数々を訴えた。

彼らは警官から当たり前のように「Nワード」で呼ばれ、猿やゴリラなどに擬えて人間扱いされずに罵倒や虐待を味わってきたという。過剰な職務質問や取り調べ、身体拘束、暴行を日常的に受けてきたと体験談を語り、LAPDは黒人差別組織だと主張した。

弁護士や公権力監視の人権団体は、ロス市警における過去の失態や同様の人権被害を並べ立て、構造的な差別主義に対する責任追及を求めた。そうした兆候や差別問題は全国にも埋もれており、いつ一斉に爆発するかもしれない人種対立の火種としてくすぶっていた。

 

市長と警察署長

事件のバックグラウンドとして2人のキーマンが存在する。長年にわたってロサンゼルス市長を務めてきたトムブラッドリーと当時のロス市警長官ダリル・ゲイツである。

ビデオ映像への世界的な反響と非難の声が湧き起こると、ロサンゼルス市長トム・ブラッドリーは人種差別問題に憂慮を示した。

「映像を見て信じられない気持ちになりました。1分50秒の映像を何度も何度も、ついには25回も見返しましたが、それでも我が目を疑わざるを得ませんでした。警官たちが警棒で男性を56発も殴りつけるという、過剰な、おそらくは犯罪行為ともいうべき武力行使に手を染め、現場指揮官が部下の制圧を止める努力をしなかったのを見ることになるとは夢にも思いませんでした」

4月には弁護士ウォーレン・クリストファーを中心とする独立調査委員会を発足させ、ロス市警の採用や訓練の慣行、内部懲戒制度や市民の苦情システムなど組織構造と運営に関する内部調査の報告と改善策を約束した。

 

ブラッドリー市長自身、1940年にロサンゼルス市警察に入局し、21年勤めた経歴の持ち主であった。

当時はLAPDに勤める4000人のうち黒人警官は400人で、黒人居住区のニュートン通りの巡回かダウンタウンの交通パトロール任務しか割り当てられず、白人の同僚たちとあまりに異なる職業上の差別は戦後になっても改善されなかった(1964年まで黒人警官と白人警官が一緒に働くことは禁じられていた)。

法科大学に通って弁護士の道を志すようになったブラッドリーは1963年にLAPDを退職した。開業してまもなく黒人で初となる市議会議員に就任し、人権委員会の設立を求めて活動。リベラル派アフリカ系アメリカ人のみならず、リベラル派と穏健派白人、ラテン系、アジア系をまとめる政治連合のリーダーとして支持勢力を拡大させた。

1973年、二度目の挑戦となった市長選で民主党保守派の現職サム・ヨーティを破って当選を果たした。市のアフリカ系アメリカ人の人口が15%程度だった当時、その人種の壁を突き破って歴史に名を刻んだ。

対立候補ヨーティは先の69年の市長選でも、ブラッドリーらによる政治連合を「黒人過激派・白人過激派・共産主義者」と呼んで非難し、当選させては黒人民族主義者にロサンゼルスを乗っ取られるなどと吹聴して革新派の切り崩しを講じた。69年当時は人種間対立への警戒感も大きく保守派ヨーティに軍配が上がったが、時代状況は変わり、74年の市長選では人権軽視は許されず人種間対立を煽る現職にNOが突きつけられた。

ブラッドリー市政は、女性、少数民族グループ、障害者に対して市役所や議会での雇用の門戸をはじめて開き、多様性を認める都市のカラーを決定づけ、反アパルトヘイト事業、同性愛者やエイズ患者に対する差別の禁止条例などを採用した。

石油危機に対応して省エネ対策に取り組み、ユダヤ系ビジネスリーダーたちの支持を取り付けると、バンカーヒル金融地区の再開発、センチュリー・シティやワーナー・センターといったビジネス地区建設によって財政基盤を整え、雇用を安定化させた。同時に鉄道網の再構築や国際空港の拡張などインフラ面でも成長戦略を軌道に乗せた。

彼はジミー・カーター政権で閣僚ポストを打診されたが固辞し、82年にアフリカ系アメリカ人としてはじめて州知事選にも立候補したが、共和党ジョージ・デュクメジャンに僅差で敗れた。1984年にはロサンゼルス夏季五輪の議長を務め、民主党副大統領候補のひとりと目されたこともあった。

20年間の市政功績としてビジネスの繁栄と政治改革の手腕、オリンピック成功が高く評価されたブラッドリーだったが、四期目以降には、交通渋滞、大気汚染、サンタモニカ湾の公害問題、過剰な住宅街開発など大都市の問題が山積し、86年の州知事選では現職に差をつけられて敗れた。

Thomas Bradleyはロサンゼルス初の黒人首長となったBy Bob Chamberlin - https://digital.library.ucla.edu/catalog/ark:/21198/zz0014sn1c, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=128883483

 

ブラッドリー市政の2期目にあたる1978年、LAPDはマンソン・ファミリー事件やヒルサイド絞殺魔事件で捜査指揮を執ったダリル・ゲイツを第49代警察署長に据えた。

市の人口は300万人にまで膨れ上がっていたが警官は7000人と人手不足で、貧困層の集住地区を中心にギャングが幅を利かせ、コカインが値崩れして急速に蔓延していた。近くオリンピックを控え、ブラッドリー市長はゲイツ署長に喫緊の課題としてギャング対策を命じ、強い権限を与えた。

ゲイツはスパイ活動を担った治安妨害情報部(PDID)を重用し、市民運動家や牧師といった地域のオピニオン・リーダーたちの動向を調べ上げ、抵抗勢力をあぶり出した。アメリカ自由人権協会はこの動きに反発して訴訟を起こしたが、PDIDは83年1月まで存続した。

さらに重武装犯や極限状況に対処するためにSWATの導入を決め、集団戦術や装備開発を促したほか、ギャング対策部隊(CRASH)を創設し、市街での情報収集やパトロールを強化した。

だが反ギャングを建前とした締め付けは過剰な偏見に基づくもので、黒人やヒスパニックの若者に対する蔑視、人種プロファイリングによる不当逮捕の元凶となった。五輪閉幕後もLAPDはギャング撲滅の徹底を掲げ、すでに形骸化していた反労働組合法を引き合いに出して黒人や移民たちの集団行動に目を光らせた。

87年以降もギャング掃討の大規模作戦「オペレーション・ハンマー」が断続的に行われ、現に麻薬ルートを一網打尽にする成果もあった。だが特定人種、コミュニティにおよそ5万人もの逮捕者を出しながら、大多数は起訴に至らなかった事実が調査により明らかとされた。要は、非白人種に対する脅迫的な「警告」、事件なき人種差別的逮捕が頻発したのである。

1984年から89年にかけて、警察の暴力に対する市民の苦情は33%増加したことからも、その横暴ぶりは目に余るものだったのが分かる。LAPDの目的はギャングたちの街頭暴力、薬物取締、凶悪犯罪への対応ではもはやなく、実質的に「潜在的犯罪者」たちに対する武力の誇示へと切り替わっていた。

ゲイツは、さも当たり前のように「黒人は普通の人々とは生理的特徴が異なるため警察による締め付けに弱い」と人種差別的な私見を平然と述べ、「薬物濫用者は射殺すべきだ」といった信じがたい持論を曲げようとはしなかった。一方では部下のため、警察組織の利益のために矢面に立ち、役人や政治家たちとしばしば衝突する「頼りになりすぎる」トップだった。

引退後の2001年にPBS放送のインタビューで、記者から人種差別的と非難されてきた強権的アプローチについて問われると、ゲイツは「我々は黒人であれヒスパニックであれ、コミュニティに関わらず制圧してきた」と述べた。

また就任以来、CRASH拡充のために多くの警官を新たに雇用したが、「80年代の大量採用は失策だった。黒人やヒスパニック、女性たちはどれも基準ギリギリの人員ばかりだった」旨の発言もしている。

ゲイツの反警察勢力に対する強い警戒感の背後には、1965年8月に黒人集住地区ワッツで起きた暴動の影響があったとみられている。

このときも白人のハイウェイ・パトロール隊が黒人男性マーケット・フライ(当時21歳)とその家族を力づくで逮捕したことに端を発し、黒人コミュニティが猛反発して略奪や破壊行動が6日間にわたって続き、死者34人・負傷者1000人を超える大暴動に発展した。公民権運動の激化もあり、ロサンゼルス市政に大きな禍根をもたらした。

ダリル・ゲイツ By LAPD - LAPD, http://www.lapdonline.org/chiefs_of_the_los_angeles_police_department/news_view/44671, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24628315

強いリーダーシップでLAPDを率いてきたゲイツの方針、武力行使による「予防的」アプローチは、事実としてギャング掃討やスラム浄化、反麻薬教育において成果を上げており、ときに現代の法執行機関の模範との評価もあった。雄弁で魅力的、それでいて慇懃無礼で失言が絶えないゲイツに対して、長年麻薬対策に取り組んできたジョージ・H・W・ブッシュ大統領は「全米の英雄」と称えている。

 

ブラッドリー市長もゲイツ署長の掲げる「正義」がもたらした功罪については重々知るところであった。だが市民の幸福をだれよりも願う両者の思想・信念は根本から決定的に食いちがっており、時を経てその関係は悪化していた。キング暴行が全国的・世界的騒動となるなか、市長はゲイツに辞任を求めたが彼は猛然と拒絶した。

およそ4か月後となる1991年7月、クリストファー委員会は、LAPDでは武力行使に関するガイドラインを設けていたがこれを執拗に無視する警官が相当数いたこと、彼らを統制できていないことを把握しながら監視や処分などの管理義務を怠ってきたこと、さらには問題行動を揉み消し、好意的な評価や昇進を与えたことなどを報告した。

1986~90年にかけて不当逮捕や過剰な武力行使に関して約1800人の警官が告発を受け、うち1400人は1件ないし2件の疑いだったが、183人は4件以上、44人は6件以上、16人は8件以上、1人は16件もの常習性・継続性が認められた。2152件の苦情のうち、申し立てが認められたのは42件で2%にも満たず、苦情処理システムが適切に機能していないことが明らかにされた。

委員会はゲイツ解任を含む多くの改革を勧告し、警察組織のありかたの抜本的見直しを求めた。全国メディアはゲイツと巡回警官たちを軍事指導者と兵隊に度々なぞらえて、トップの監督責任や忌まわしき影響を厳しく糾弾。7月13日、ゲイツは辞任の意向を表明した。

 

エスニック・マイノリティの衝突—ラターシャ事件

話はやや前後してしまうが、キング暴行事件から13日後、世界中でその映像が物議を醸していた渦中で、ロサンゼルスの黒人コミュニティを揺るがすもうひとつの事件が起きていた。

 

3月16日(土)午前10時前、ロサンゼルス南部のバーモント・ビスタにあるコンビニエンスストア「エンパイア・リカー」にウェストチェスター高校の女子学生ラターシャ・ハーリンズ(15歳)が来店した。店は韓国系アメリカ人夫婦による家族経営で、そのとき夫は外で休憩しており、妻スン・ジャ・ドゥ(49歳)が店番をしていた。

ドゥによれば、ハーリンズがリュックサックに1.79ドルのオレンジジュースを入れるのを目撃し、即座に黒人少女を窃盗犯だと判断したという。地域ではアジア人蔑視の黒人による窃盗や強盗が頻発しており、ドゥの店も以前被害を受けて警戒を強めていたのである。

「オレンジジュースのお代は?」と店主が咎めると、少女は「オレンジジュースって?」としらを切ったという。レジに居たドゥはすかさず身を乗り出して少女につかみかかり、無理やりリュックを奪い取ろうとした。思いがけない行動にハーリンズは拳で応戦し、パンチを食らったドゥは一時的にその場に倒れた。

ハーリンズが後ずさりすると、怒ったドゥは手近にあったスツールを少女に投げつけた。慄いたハーリンズが店外に逃れようと女性店主に背を向けると、すかさずドゥはカウンター下からリボルバー銃を取り出し、背後1mの至近距離から発砲。銃弾は後頭部に命中し、少女は即死した。

銃声を聞いて夫ビリー・フン・キ・ドゥが店内に駆けつけ、妻から一通りの事情を聞くと、911に「強盗未遂」でケガ人が出たことを通報した。

 

店主ジャ・ドゥは「故意による過失致死」で逮捕、起訴された。

裁判では、身に危険を感じたため正当防衛による発砲だと無罪を主張した。たしかに事件直後には少女の殴打をまともに食らった店主の顔面は大きく腫れ上がっていた。

だが当時、来店していた9歳の少年と13歳の姉は、店主の主張に異を唱え、ハーリンズに不審な挙動はなく、財布を手にレジで会計する素振りだったと証言した。事実、少女の遺体の手には2ドルが握りしめられていた。

さらに店の防犯カメラの映像と照らしてみても、店主の主張は矛盾していた。背を向けて逃げようとする少女に対して警告もなく引き金を引いたことは過剰防衛に見えた。LAPDの弾道報告書では、被告人が使用した銃は改造が施されており、引き金に軽い負荷をかけるだけで発射できるようになっていたことが明らかにされた。

被告側の弁護人は以前、ドゥの息子が店内で恐喝被害に遭っていたことや週に30回近くも窃盗被害が頻発していたこと、周囲で強盗殺人があったことなどから、銃は店と命を守るために必要な防犯対策だったと主張し、発砲に至る店主の緊急判断に問題はなかったと強調した。黒人集住地域での警察の防犯体制は充分なものとは言えず、韓国人店主らは自警グループを組織して防犯強化に努めなくてはならなかったのである。

 

1991年11月15日、陪審員は被告人ドゥが故意に発砲したものと判断し、故意による過失致死で有罪とする評決を下した。

これは本来であれば最長で懲役16年に相当する重罪だが、ジョイス・カーリン判事は、店主に不適切な反応があったのは確かだが情状酌量の余地があると判断した。被告人は理性的判断や行動の能力が損なわれていたと認定され、少女の死の責任を背負って、この先二度と同じ過ちを犯さないだろうと諭された。

再犯の可能性は低いとして、5年間の保護観察と執行猶予つきで懲役10年、400時間の社会奉仕活動、500ドルの罰金とハーリンズの葬儀費用支払いが言い渡された。

家族は量刑を不服として控訴したが、1992年4月21日、州控訴裁判所はカーリン判事の量刑判断を3対0で支持した。

ラターシャ・ハーリング By https://www.huffpost.com/entry/we-must-remember-latasha-harlins-and-say-her-name_b_58cadaf2e4b00705db4d5a08, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=25837165

被害者ラターシャ・ハーリングは6歳の頃、両親と弟妹とともにイリノイ州からカリフォルニア南部に越してきた。父親は鉄工所で、母親は地元の居酒屋で働き、当時の家は「エンパイア・リカー」から僅か数ブロックしか離れていない場所にあった。

だが父親は妻に対して虐待的で、不安定な結婚生活はロス移住の翌年1983年に破局を迎えた。母親は女手一つで子どもたちを育て養おうとしたが、そうした日々もそう長くは続かなかった。85年11月27日に、元夫の恋人にナイトクラブの外で射殺されたのである。

親を失ったラターシャたちは母方の祖母ルース・ハーリンズの元に引き取られた。少女は自分たちを守り育ててくれた亡き母親を尊敬して真っ直ぐに育った。中学校では陸上競技に励み、学業も優秀だった。地元では年上の男子たちからも親しまれ、「近所の姉貴分」として知られていたという。将来は弁護士を夢見ていた。

 

1960年代後半、西海岸に移入してきた韓国人の多くは高等教育を経ており、家賃が安いことから黒人やラテン系が多く暮らす地域に開業するようになった。商店主らは貯蓄意識が高く、店での雇用も近親者らに限られたため、経済的不平等感を募らせたアフリカ系アメリカ人は移民排斥や不買を唱えた。

80年代からロサンゼルスに限らずワシントンDCなど10以上の都市で衝突やボイコット、抗議行動が起きており、86年にはロサンゼルスで4人の韓国人店主が殺害された。

被告人となった店主ジャ・ドゥがなぜ少女を窃盗犯と決めつけたのかははっきりしない。だが見方によっては、彼女が黒人コミュニティに対して募らせていた怒りを少女にぶちまけた代理報復の格好にも思われた。

また黒人コミュニティからすれば判事が言い渡した量刑はあまりにも軽く思われ、そこには黒人軽視の不当な差別がはたらいているように感じられた。まるで裁判所が犯罪を生む黒人よりも、金を落とす黄色人種を優遇したかのような「被差別感情」が南カルフォルニアに災禍をもたらすこととなる。

 

キング裁判とロサンゼルス暴動

公判開始の前、キングは車椅子に乗ったまま記者会見に応じた。右足の骨折、顔面のひどい腫れと切り傷、全身の打撲と、胸部にスタンガンによる火傷を負っていたことを明らかにした。

たどたどしい口調で当時を振り返り、車から出ると「無駄な抵抗」を止めるように制されたので、両手を広げてゆっくりとひざまずこうとすると、警棒で何度も殴りつけられ、スタンガンでショックを浴びせられた、と説明。警官が目の前で銃を構えているのを見て「命の危険を感じた」と証言した。


裁判所は、審理に影響を与えるおそれがあるとして、隣接するベンチュラ郡シミバレーで公判を行う手筈をとった。シミバレーは白人中流家庭が非常に多い郊外都市で、黒人人口は2%にも満たない。

検察官のひとりテリー・L・ホワイトは8年のキャリアをもつ黒人の地方検事補だった。マスコミは、「黒人対白人」の審理を避けたいという人種的配慮からの人選ではないかと追及したが、検察局はそれを否定した。陪審員12名の構成は白人10・アジア系1・ヒスパニック系1で黒人は含まれていなかった。

出廷した警官たちは、キングが上空のパトロールヘリに向かって笑顔で手を振っており、薬物使用の疑いがあったため強く警戒していたと主張した。

巡査部長は、キングが臀部に手を回した行為が拳銃を取り出すしぐさに見えたことや、テーザー銃(低致死性の放電銃)で制した後も容疑者が立ち上がろうとしたため「拘束に抵抗した」と判断し、部下たちに警棒での制圧を命じたと経緯を説明した。

1992年4月29日、陪審員は評決7日目にして、暴行容疑について4人全員を無罪とし、過剰な武力行使について3人を無罪とした。4人目のローレンス・パウエル被告については評決の合意形成まで至らず(後の大陪審でも評決合意に至らず、最終的に棄却された)。

 

「今日、この陪審員たちは、私たち全員が目にしたものは“犯罪ではなかった”と世界に告げました。彼らは、無力な男性に及んだ無分別で残忍な暴行を受け容れるようにと、我々に求めたのです」

トム・ブラッドリー市長は午後4時58分に記者会見を開き、キング裁判判決に強い憤りを表明した一方で、これまでの差別是正に向けて歩んできた改革の道を諦めてはならないこと、そのために「盲目的な反撃」や「愚かな行為」に出ないようにと市民に忠告した。

後の警察発表では、市長の会見が火に油を注ぐ結果になったとしている。

 

裁判所の変更、陪審員の偏りはすでに大きな物議を醸しており、4人全員無罪という結果は受け入れられようはずもなかった。ロサンゼルス市警も騒乱を見越して裁判所周辺では厳戒態勢を敷いていた。しかしその抗議の余波はロサンゼルス各地に文字通り「飛び火」し、白人の車や街路樹の棕櫚の木、店や工場に続けざまに火が放たれ、5日間に渡って町中で黒煙が上がった。1992年ロサンゼルス暴動である。

とりわけ韓国人コミュニティに対する報復感情は大きく、彼らが営む2300以上の個人商店などで商品の強奪や破壊・放火が繰り返された。アジア人というだけで暴行を受けたり、白人というだけで車から引きずり降ろされ集団リンチに遭った者もいれば、仲裁に入ろうとして標的にされる者さえあった。通りのそこかしこで黒人による「キング事件」の再現とも言える凄惨な暴力が繰り広げられた。

4月30日にはロサンゼルス市に非常事態宣言と夜間の外出禁止令が出され、各地に州兵が投入された。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は緊急会見で、無政府状態を容認できないとして暴動に断固反対する意志を表明した。

女性や子どもはシェルターに避難し、男たちは武器を手に強奪や自警のために商業区域を屯した。メディアは各人種のリポーターを動員し、それぞれの陣営の民衆の声を生中継で伝えた。暴動者も被害者たちも怒りに満ち、嘆き苦しみながら銃弾と暴力で対抗し合うよりほかなかった。警察隊は武力衝突を禁じられたため、暴徒たちを遠巻きに囲み、被害拡大を抑えるよりほかなかった。

一連の暴動によって63人が死亡、負傷者は2383人に上り、およそ3600件の放火が発生し、1100棟の建物が破壊を受けた。逮捕者はすぐに1万人以上に達したが、略奪事案の多くは個人の特定まで至らず大半が釈放された。

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司法省はロドニー・キング事件を連邦公民権法違反として再捜査することを発表。また5月1日には記者会見が開かれ、涙を浮かべたロドニー・キングが「People, I just want to say, you know, can we all get along?(みなさん、私の口から言えるのは、私たちはうまくやっていけるのかい?ってことだけです。)」と述べ、暴動に対するとまどいと疑問符を投げかけた。

以後、集団暴行や略奪被害は減り、ブッシュ大統領による「無差別テロ」認定や5月2日からの連邦軍介入もあって次第に鎮圧に向かっていった。経済損失は8億5000万ドルと試算され、多くの焼け跡が甚大な被害を物語った。

しかし同時に秩序回復と復興に向けた市民のリアクションも早く大きかった。互いに受けた「傷」も癒えず報復感情も治まらない中、コリアンタウンでは3万人規模の平和集会が開催され、地元商店と人種間の和解を支援した。銃火器や鉄パイプを手にした暴動に対抗するように、人々はデッキブラシを手に荒れ果てた居住区や焼け跡の清掃デモを行って地域再生への協力を呼び掛けた。

ブッシュ大統領は災害宣言を行い、政府による被災者支援を約束し、ロサンゼルスの再建プログラムとして雇用創出と民間投資の奨励を謳った。

 

その後

ロサンゼルス暴動の発生は、自警意識の高揚へとつながり銃火器の購入を促進した。

また韓国人コミュニティにおいて、店を焼かれて帰国を望む者は少なくなかったが、残った者たちは商業移民としてだけではなく、より政治的権限が必要であるとの教訓につながり、エスニック・マイノリティの団結を支持した。

ヒスパニック、ラテン系移民にとっても政治的代表者の不在が問題視され、暴動では一部スケープゴートとして逮捕者が多く出たとも言われている。ヘイトクライムや人種的分断は完全に解消されたわけではないが、1992ロス暴動は、移民や貧困層の政治参加、理解あるコミュニティづくりの必要性を投げかけた。

建国以来の「アフリカ系アメリカ人による白人社会への反抗」というステレオタイプな人種間闘争の構図や「双被害者意識」は見直しを求められた。この災厄は不満を抱えてきた者たちの階級闘争であり、よりよく生きようとする人々の奮闘の逸脱の結果と捉える見方も広まった。

民主党大統領候補となったビル・クリントン(当時)は、暴力は都心部の経済的機会と社会制度の崩壊によって生じたものだと述べ、都市問題に着手してこなかった両二大政党の過ちを非難した。またアフリカ系アメリカ人や移民たちとの文化的な相違に着目し、教育機会や教会といった文化的リソースが不足して育ったために法的逸脱や暴力的なかたちで噴出したとの見解を示した。

1992年から2007年までの間に、ロサンゼルス市の黒人人口は12万3000人減少し、ラテン系人口は45万人以上増加した。2010年までの間に暴力犯罪は76%と大幅な減少を示しており、ギャング行為も目立たなくなり、人種間の緊張も緩和された。

 

2009年、民主党バラク・オバマが第44代アメリカ合衆国大統領に就任。アメリカ史上初のアフリカ系アメリカ人大統領となった。父親がケニア人ルオ族であることが広く知られているが、カンザス生まれの母親アン・ダナムもイギリス、ウェールズ、ドイツ、スイス、アイルランドの血を引いていた。

両親はハワイ大学で出会いバラク・オバマを授かって結婚したが、卒業後に離婚。母ダナムは2年後にインドネシア人留学生だったロロ・スエトロと再婚した。バラクは母に従ってシアトル、ハワイ、インドネシアで幼少期を過ごした。留学生だったバラクの父親はケニアに帰って新たな家族を築いたこともあり、ハワイに置いていった息子を訪ねたのは71年のクリスマスの一度きりだったという。

「父は真っ黒で周りの人たちとは全く似ていなかった。母はミルクのように白い。それ以外ほとんど記憶にない」と振り返っている。だが成人するまで多民族由来の血統に対する社会の認識と折り合いをつけるのには苦労したと言い、10代の頃には酒やドラッグの使用経験があったことを打ち明けている。

しかし研究者肌の母親の影響か、勉学を怠ることはなく、奨学金を得てロサンゼルスのオキシデンタル大学に進学。その後、コロンビア大学に転学し、国際関係論などの政治学と英文学を修めた。卒業から数年間は民間のコンサルティング企業で地域開発プロジェクトを手掛け、そののちハーバード・ロースクールに入学。黒人学生としては初めて学生による法律研究雑誌『Harvard low review』編集長となったことでも注目された。

1991年に優れた成績で法学博士号を取得し、シカゴ大学ロースクールで憲法学を教える講師(のちに上級講師)となった。その間も、州内に40万人いた有権者未登録のアフリカ系アメリカ人に政治参加を呼び掛ける「プロジェクト・ボート」を指揮し、15万人の登録目標を達成するなど社会実現に向けたリーダーシップを発揮した。

1996年からイリノイ州上院議員として政界へと活躍の場を広げ、超党派の取りまとめ役となり、国政へと羽ばたいていくこととなる。

ハワイや国外での生活が多く、奴隷制とは異なる文脈から登場したアフリカ系アメリカ人であるバラク・オバマは、より複雑なルーツを兼ね備えたハイブリッドと言えるかもしれない。彼は、公民権運動家のように黒人コミュニティの被害を訴える代弁者ではなく、声なき声を政策に反映する国民の代表者であった。

保守的な政治家に比べれば人種問題への言及自体は少なかったが、ヘイト・クライム防止法に署名したほか、不文律として蔓延していたHIV感染者への差別の解消や同性愛者の権利問題にも着手した。金融危機の難局を凌ぐと、所得格差の拡大こそ最大の課題だとして失業手当の延長などセーフティネットの強化と賃上げを推し進めた。

 

2000年代後半からTwitterをはじめとしてSNSにおける政治運動が繰り広げられるようになった。なかでも組織や活動家に括られないスローガン「#BlackLivesMatter」運動が世界的な潮流を生んだことは記憶に新しい。

アメリカでは2014年に警官に射殺されたマイケル・ブラウン、禁止されている警官のチョークホールドを受けて死亡したエリック・ガーナー、そして2020年に警官から背中と首を圧迫されて「息ができない」と言いながら絶命したジョージ・フロイド事件で#BlackLivesMatterタグが劇的なバイラルを生み、各地で抗議行動が拡大した。

ひとが対立と対話を繰り返して社会を営んできたことは歴史が物語っている。人種的対立や宗教的対立を軸に移民問題は世界各地で事情が異なり、当事者意識や社会階層などによってもその意見は多極化する。個人の意見表明が可能となった今日でも「魔女狩り」や差別的言動はなくならないばかりか激化しているようにすら思える。

事件や暴動は、ひとびとの声なき声、言葉にならない叫びのようにして私たちに何かを訴えていはしまいか。

 

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TOM BRADLEY - The L.A. Riots: 15 Years After Rodney King - TIME

Full Biography — BRIDGING THE DIVIDE: Tom Bradley and the Politics of Race