異端の歴史と魔女狩りについて

 “魔女”と聞いて、多くの人は童話やアニメ、映画やゲームなどに登場する箒に乗って空を飛んだりステッキをかざして異能を操ったりする、ときに愛らしく、ときにおどろおどろしい女性の姿を、想像上の存在としてイメージされるかもしれない。だが現代においても古の魔女から伝わる魔術や儀式、信仰を実践する人たちは世界各地に存在している。

1951年、イギリスで魔女禁止令、妖術行為禁止令が廃止。1954年、英国人ジェラルド・ガードナーは土着民俗文化研究とかつて魔女から授かったとする秘儀を独自に体系化した著書『Witchcraft Today』を発表。魔女の知恵を学び実践する活動は草の根的な広がりを見せ、ネオ・ペイガニズム(前キリスト教時代の多神教・自然崇拝の復興運動)の新派Wicca(魔女宗)として認知された(現在“Wicca”の呼称はガードナー流派に属さない魔女信奉者も含めた総称としても使われる)。彼らがWiccaと名乗る理由は、中世から近代にかけて“Witch(魔女)”という語に込められた忌々しい偏見や俗説から自らを切り離す意図があったからだという。なぜ魔女は“復興”されなければならなかったのか。それはつい半世紀前までかかる禁令が実在したように、西欧キリスト教社会において魔女を実在する“異端者”として扱ってきた歴史があるからだ。

本文は、西欧の“魔女狩り”について知りたいと思ったものの世界史の知識不足に気づかされて始めた私的なノート、それ以上でも以下でもない。主に近世までのキリスト教と“異端”をめぐる歴史を基軸とし、のちに“魔女狩り”を牽引する役割を担ったともいわれる『Malleus Maleficarum(魔女の槌、魔女に与える鉄槌)』について、その後、近世ヨーロッパおよび北米で起こった魔女裁判について見ていきたい。無学ゆえ漏れや誤解も多いと思うが、特定の思想・宗教、地域や民族、集団を対象とした差別助長や批判の意図はないことをご了承いただきたい。

 

■古代キリスト教と迫害の歴史 

 キリスト教や前近代の西欧における宗教観を把握するために、長くなるがキリスト教と異端の歴史を俯瞰しておきたい。

古代ローマ時代の宗教政策は比較的寛容といわれており、市民はローマ古来の多神教や皇帝像への礼拝を義務付けられていたが、一神教を奉ずるユダヤ教徒らはそれらを免除されていた。原始キリスト教は、ローマ市民の目から見れば異教徒(ユダヤ教諸派のひとつ)であり、ユダヤ教徒からすれば少数“異端派”のひとつと見なされ、いわば二重の冷遇下に置かれていた。当初はイエスの弟子や知己のあったユダヤ教徒たちが、イエスを「神の子」として崇める共同体をエルサレムにつくり、洗礼などの儀式や組織としての職制、新約聖書のもととなるイエスの教えを整えていき、西暦60年頃には帝都ローマまで伝道の場を広げていった。宗教観の相違によってローマ市民からの風当たりは強く、キリスト教の祭儀では「乳児を屠る」「近親相姦を奨励している」といった謂れのない風評もあったとされ、彼らの信仰態度が皇帝への不敬や国家への反逆とみなされれば迫害の憂き目にあった(64年、ローマ大火の放火犯として多数のキリスト教徒が処刑された)。ローマ総督はユダヤ迫害を激化させていき、66年にはユダヤ教神殿からの収奪をきっかけに暴動となりユダヤ戦争が勃発、73年にローマ軍はこれを鎮圧した。クムラン教団が消滅するなど多くの犠牲者を出したユダヤ教は四散し、キリスト教もこのときユダヤから離脱した。だが2世紀にカトリック教会が成立するまでの原始キリスト教は、ユダヤ教の一派(いわばイエス救世主派)と考えられている。1世紀後半から2世紀に成立した使徒教父文書で最古の教会法ディダケーにおいて、すでに「異端」についての取り扱いが記されており、原始から初期のキリスト教は、ギリシャ社会やユダヤ教諸派からの外圧に曝され、グループ内部での反駁の積み重ねによって教義を洗練させ独自化していったといえる。またイエスがペテロに天国の鍵を授けた聖書証言、使徒の特別職であることに由来して、ペテロの後継者であるローマ教皇が全教会の首座であるとされた。

ときのローマ帝国は版図を拡大し、ディオクレティアヌス帝は共和制から専制君主制へ、東西ローマを分割統治することとした。裏を返せば、急速な国家拡大によって異人種・異教徒の流入、社会格差の拡大や軋轢が多方面に生じ、冷遇されていた人々が異教に流れる等といったいわば“反帝国勢力”が国内に膨らみつつあり、皇帝権力の強化、民衆の愛国心定着が急務となっていたのである。要人や権力者にも信徒を増やしつつあったキリスト教はもはや無視できない存在になっていたが、かねてからの信仰上の不一致や軍隊からの脱落者が頻発したこと等を理由に反逆的な「非国民」扱いされ、303年には強制改宗、聖職者の逮捕投獄、数千人規模の処刑者を出す大弾圧を行った。しかしそれらの弾圧政策により却って国内の治安情勢は悪化し、313年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(280~337)は混乱を鎮めるためキリスト教とあらゆる信仰の自由を保障するミラノ勅令を示し融和を図った。さらに勢力拡大によってキリスト教徒内部でも教義や儀式が乱立し諸派が対立し合ったため、325年ニケーア公会議を招集し、三位一体説を唱えるアタナシア派をキリスト教の正統派と認め、ユダヤ教との分離・独立が完成された。

その際、呪術を禁ずる法令を発布するも、後から「病気の治癒、農作物を雪害から守る目的」の呪術については例外として認めている。この特例の背景として、魔術には人の益をもたらす側面と災禍をもたらす側面とが認められていたということになる。「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、属人的に「魔術師」をまとめて断罪するのではなく、他人に害悪を及ぼす「呪術(マレフィキウム)」に対して禁令を出している点は留意したい。魔術師は異教徒扱いされてはいるが、宥和の余地を認められる程度に古代より社会に定着した存在だったと捉えられる。呪術の存在は紀元前1200年ごろの古代エジプトですでに知られ、災害や非業の災難は悪魔や魔女の仕業とされてきた(医療科学の未発達を思えば、人や動植物の疫病なども含まれよう)。現代的な見方をすれば、魔術師は世俗社会においてときに有益な知恵者・能力者と頼りにされながらも、その超自然的能力を邪教崇拝に基づくものとされ、スケープゴートにされやすい立場に追いやられていたといえるであろう。

しばしキリスト教のほかミトラ教ギリシア古代神など従来の宗教が併存する時代を経て、帝国はやがてゴート族の侵攻などによりその支配力を低下させていた。そこで380年テオドシウス帝はキリスト教を国教に位置づけ、392年には異端派や従来の多神教を禁じた。教会を帝国の正式な配下と認めることによって皇帝権力の強化につなげようと試みたのである。異端論者は退けられ、教義確立を推し進める一方で、広大な版図に混在する在来の多神教からその世界観やエッセンスを部分的に取り込みながら布教と定着を図った(承認を得られなかったキリスト教諸派は帝国から距離を置き、以後各地で東方教会と呼ばれる勢力を形成することとなる)。

この時期、初期キリスト教の教義確立に尽力し、後世の西欧思想史に大きな影響を残した神学者・哲学者アウグスティヌス(354~430)がいる。元々マニ教徒であったアウグスティヌスは新プラトン主義に触れて肉欲的で堕落した自身の生活を後悔し、キリスト教へ回心。修道生活を経て、「神の国(イエスが唱えた純粋な精神世界)」と「地の国(世俗)」とを弁別した二国史観を提唱し、教会は世俗が紛れてはいるものの「地の国」における魂の救済・神への奉仕であると霊的権威付けを行っている。さらに政治的国家が時間的・相対的権威であるのに対して「神の国」は本質的・普遍的価値を持つものとしてその優位性を示した。同書では、占術や呪文、また防御力や治癒力をもつと信じられていた護符(タリスマン)や天体の性質を備えた貴石、霊を召喚して作った偶像の使用(崇拝)を非難している。また神の被造物である人間は神性と俗的要素の間を行き来しうる混成的存在であり、あらゆる行動にはかかる「voluntas自由意志」が働いているとした。ときに人間は自由意志によって神と離反し罪を犯すが、信仰を介した神の恩寵によってのみ善を成しうる(救われる)とし、神の超越性と魂による信仰の意義を説いている。

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その後、ローマ・カトリック教会が勢力を増し、西ローマ諸国(*)では中央集権化と密接な関係をもつようになる。教会組織におけるその指導的地位が教皇であり、教皇が帝位を認め、王権が教皇・聖職者の権益を守り、聖職者は王室の意向を汲んで民衆や公会議を扇動し、ときの指導者は教会に代わって「異端者」を処罰する。聖俗が緊密に結びつき、宗教的正当性が政争や侵略のための大義名分とされていった。その最たるかたちが聖地奪還を掲げた十字軍である。

(*ローマ・カトリックの文化圏・勢力圏。3世紀に首都コンスタンティノープルを建設以降、東・西ローマでは別様の文化圏を築いていき、11世紀ごろ東西教会が袂を分かつ(シスマ)。ビザンツ帝国下におけるギリシア正教会は、皇帝がコンスタンティノープル総主教の任免権を持っていたが、ローマ‐カトリック世界にみられる教会と国家とが聖-俗の二元的対立・政教分離の世界観ではなく、皇帝と聖職者のどちらが上ということもなかった。ときに両者の間に葛藤も生じたが、基本的にはよりよい社会創造のため両者の立場を尊重していたとされ、正教会ではその政治的理念をビザンティン・ハーモニーとして理解されている)

 

■異端審問のはじまりと教皇庁の動揺 

キリスト教が政治的影響力を強める中、魔女そのものに対する弾圧というのは見られない。というのも、教会の強大な権力によって、マレフィキウム、魔術師がもつ超自然的力を俗信・迷信として否定することができていたからである。10世紀以前にも魔術師を対象とした裁判はいくつか行われたが、世俗の事件裁判として地域の司祭らによって改宗されるか、マレフィキウムによる罪状が処罰の対象となっていた。また10~11世紀、異端派制圧や異端審問の制度化に伴って「魔女狩り」が活発化したという訳ではない。1258年、教皇アレクサンデル4世は異端審問官が占術や呪術を扱うのは明らかに異端行為と認められる場合に限るよう釘を刺していることから、当初は信仰的敵対者のみが対象であったものが次第に(社会的立場の弱い)魔術師の絡む案件が増えていったとも受け取れる。教会は民間で行われた魔術・占術・治癒術を施す魔術師の存在をこころよく思ってはいなかったにせよ、徹底的に摘発する姿勢は見せてはいないのである。

魔女狩り情報サイト『魔女誕生』から、11世紀初頭に成立したBurchard of Wormsワームズのバーチャード(-1025)が編纂した贖罪規定書にある「Corrector Medicus矯正者 医者」の訳文を引用させていただきたい。

70章

「ある女は悪魔に欺かれて、女の姿に変身(これは愚かな者たちがストリガをホルダ[ホレ婆さん]と呼んでいるのだが storigam holdam vocat)した悪魔の群れとともに、悪魔の命令によってある種の動物に跨がり決められた日の夜に悪魔たちと集まらねばならないといい、その通りにしうるというが、おまえはそれを信ずるか。おまえがこの背信行為に関わっていた場合は、指示された祭日に1年間の贖罪を果たさねばならない。」

90章

「おまえは次のような背信の行為を信じたか。そして、それに参加したか。ある女たちは悪魔に従い、悪魔の幻影や幻想に魅惑されて、異教の女神ディアーナと数えきれない女たちが、ある種の動物に跨がって夜のしじまのなかで地上のいたるところを通過し、ディアーナが女主人でもあるかのように、彼女の命令に従い、定められたように彼女に奉仕するために呼び集められると信じていることを……。」

170章

「多くの女たちが、魔王のもとに戻って、真実であると信じて断言していることがらを、おまえは信じたことがあるか。例えば、静かな夜のしじまの中で、おまえが床に就いていて、おまえの夫がおまえの胸に抱かれている時に、その肉体のままでありながら、閉じた扉を通りぬけて、同様に欺かれている他の女たちと連れ立って、世界中を旅することができると、信じたことがあるか。また、目に見える武器をもたないで、おまえが、洗礼をほどこされてキリストの血によって罪から救い出された人々を殺し、他の女たちと一緒に彼らの肉を料理して喰う、と信じたことがあるか。そして、喰われた人の心臓があった場所に、おまえが麦藁や木材やその種のものを入れ、また、これらの人々を喰ってしまったあとで、おまえが彼らを再び生き返らせ、しばらくの間、彼らを生き長らえさせる、と信じたことがあるか。もし、このことを信じたならば、おまえは50日間パンと水だけを口にし、それに続く7年のあいだ毎年、50日間同じ節食をする罪の償いをせねばならない。」

これは906年頃にプリュムのレギノンが編纂した教会法の記述を基にしたもので、異教が騙るかかる迷信を信じたり行ったりしていればキリスト教背信の罪に問われるとしている。やや難解なニュアンスが含まれるものの、「夜の集会」「魔獣との乱交」「悪魔崇拝と儀式」などのモチーフが描かれ、それらの主体が「女性」に結び付けられていることに注目したい。70章にある「ストリガ」とはshtriga,strix、現代の意味ではフクロウの類となるが、スラヴ神話の伝承における子どもを持たない女性や嫉妬に駆られた女性が変じた夜中に飛び回る吸血鬼を意味する。当時のスラヴ民族は文字を持たず口頭伝承による信仰形態であり、9~12世紀のキリスト教による改宗弾圧における取調べで「異教」としての記録が残るのみである。「ホルダ」はゲルマンの女神で元々はスカンジナビアの民間伝承で「森の精霊」の種族として語られており、ホルダの女性は山人を魅了するとされた。90章の「ディアーナ」は元々ギリシャ神話に登場する狩猟・貞節・月の女神で、樹木の神として農民に信仰され、多産の神とされていた。たとえば日本においては、神道と仏教のように習合・分離したり、あるいは河童や座敷童のように地域にルーツをもつ伝承、あるいは七福神のような異国の神話とも混交しながら民間の信仰は育まれている。やはり中世ヨーロッパにおいても民衆レベルではキリスト教以外にも古来からの多神教や自然崇拝、異国から伝来した文化が生活と親和していたのであろう。こうした異教の女神たちに対して、「魔女」の原型ともいえる悪魔的な「噂」を付加していったのはだれか。筆者の推測では、民衆たち自身ではなく、おそらく民衆にキリスト者らしさを強く求め、彼らの自然な多方面にわたる信仰態度を矯正しようと試みた地元の聖職者、各地を遊説して回った修道者らによる教化と反駁の所産ではないかと考える。

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10世紀以降、終末思想の流行と、聖職者・教会への不満から、民衆らの間から本来のキリストの教えを清貧なる生活の中で実践しようとする「信徒運動」が巻き起こることとなる。それまでの信仰様式や教会の政治的在り方に異を唱えたことに対し、教皇庁は当初説教による改宗と穏便な事態収拾を目論んだ。しかし運動の盛んだった南フランスでは教会に対して非協力的な領主も少なくなく、なかでもアルビ派、ワルドー派勢力は抵抗を強め、ついに教会から「異端派」として厳しい弾圧を受けた。ときの教皇イノケンティウス3世は強権を誇り(**)、1208年、アルビ派殲滅と南仏諸侯の制圧のためアルビジョア十字軍を招集している(協力した軍族には収奪した土地・財産の保有を認めた)。アルビ十字軍は、イノケンティウス死後の1229年までおよそ20年間にもわたる大量虐殺が続けられ、数十万人から百万人規模でいたとされるアルビ派は撲滅された。

(**1202年、すでにエジプト・アラブ圏で台頭していたイスラム勢力の中心アイユーブ朝に第4回十字軍派遣を提唱。やがて十字軍は制御不能となり、1204年東ローマの首都コンスタンティノープルを占領しラテン帝国を建国することになるが、このときイノケンティウスはラテン帝国を承認し、分断された東西教会の再統一を図ったと言われる。また1208年フィリップ暗殺など皇位継承者争い、イングランドカンタベリー大司教選任問題に介入するなどして皇帝・王族を上回る優位性を示した。1215年ラテラン公会議においては「教皇は太陽、皇帝は月」という演説を残しておりローマ教皇の最盛期とも言われる。)

1232年、教皇グレゴリウス9世は異端派取り締まり強化のため、南仏に異端審問所を設置。過去にも異教徒・異端者を扱う裁判がない訳ではなかったが、このときから異端審問官を派遣して厳密に制度化されることとなる。信徒運動には徹底した弾圧を進める一方で、イノケンティウス3世はアッシジのフランチェスコにより設立された私有財産保有をしない修道会・フランシスコ会を認め(1223年に正式認可)、1216年には教皇ホノリウス3世によってドミニコ会が公認を得た。とくにドミニコ会は神学研究が盛んであり、その後多くの異端審問官を輩出している(ドミニコ会士Dominicanisを揶揄して「主の犬Domini Canis」とも呼ばれた)。教皇の一存と関係性によって、信徒運動と托鉢修道会のその後の命運が明確に分かたれたのである。

当初は信徒運動の撲滅を図った異端審問の目的は、犯罪行為の真相解明や量刑判断ではなく背教者の告解と改宗であった。世俗の事件裁判と違い、被疑者に弁護人はおかれず、審問官は検事と裁判官の役割を兼ねていた。「推定無罪(被告の有罪が確定するまで無罪としてみなすこと)」ならぬ「推定有罪」として尋問を行い、疑いが晴れなければ有罪とされた。審問官は捜査によって容疑者発見や証拠を得ていた訳ではなく、民衆からの密告によって被告人を追及することができた。さらに1252年、イノケンティウス4世により自白のために拷問を課すことが認められ、異端と認めなければ拷問を加えられ、罪を認めれば重罰を受けるという責め苦を負うことになる。拷問による自白でいくらでも冤罪を誘発させることが可能なこのシステムは、ますます“都合のいい道具”へと変貌していく。権力者が敵対者を告発し、教会が異端のレッテルを貼る裁判をでっちあげ、諸侯に処罰させるという一種の治安維持装置として体系化されていくのである。政治的画策のほか、富裕ユダヤ人からの財産没収など財政的理由による告発も少なくなかった。13世紀には異端審問に反発する運動が各地で起こっているものの、そのシステムの本質を変えることはなかった。

 

■金貸しと反ユダヤ主義

初期キリスト教神学者たちは、その成立を背景にして、ユダヤ人たちは過去の宗教上の罪とキリスト教改宗を受け容れなかったことに対する「罰」として離散や迫害を強いられるべき存在だとみなし、教義化してきた。イエスへの迫害は、古代ローマ政府が政治的脅威と見なしたことによるものではなく、ユダヤ人の責任とする固定観念を広めていった。中世において教会は、外敵としてムスリム国家と対峙しながら、ヨーロッパ各地に分散しイエスの神性を認めようとしないユダヤ人に対しても内的圧力を強め、統治者や民衆はしばしば彼らを災厄のスケープゴートとして糾弾した。職業選択や居住区、納税など公的・私的に制限を強いられ、しばしば迫害や追放を余儀なくされたため、キリスト教社会におけるユダヤ人は次第に自分たちがアウトサイダーであるという意識下に置かれることとなる。ローマ帝国下での迫害を逃れてユダヤ人たちはドイツ、北フランス、イベリア半島、東ヨーロッパといった周縁地域へと離散して(定住して農業に就けないため)行商や手工業などを営んだが、なかには独自の流通ネットワークを活かした東方貿易などで成功する商人や金貸しによって大きな富を得る者もあった。イングランド王ノルマンディー公ウィリアム1世(1027-1087)は国力増強のため金融に長けた有力ユダヤ人をフランスから招聘している。彼らは貴族や王室への金融で財を成したが、債務者や貧しい民衆からは“成り上がりのよそもの”として大きな反感を買う存在となった。

イスラム国家で暮らすユダヤ人たちは、ズィンミー(庇護民)としてジズヤ(人頭税)を納めイスラム社会の法に倣うことで行商や芸能、金融業を営むことが許されてきた(イスラムではコーランの教えにより強制的棄教や改宗を求めることは禁じられているが、少数派のキリスト教徒やユダヤ人はときに弾圧や迫害の対象とされた)。しかしファーティマ朝6代カリフのハーキムは厳格なイスマーイール主義(シーア派系の一派でグノーシス神秘主義を説く)を執り、ユダヤ教シナゴーグ(礼拝所・集会所)、キリスト教会の破壊と財産没収を命じ、1009年、エルサレムにある聖墳墓教会(イエス墓所)も破壊された。するとフランスをはじめとする西欧諸国では「ユダヤ人が聖墳墓協会の破壊を唆した」とする噂が飛び交い、局地的にユダヤ教徒への弾圧や処刑が公然と行われる事態となる。こうした出来事とともに「イスラム教徒とユダヤ教徒が共謀してキリスト教世界の転覆を図っている」という見方が広まり、やがて異教徒に対する偏見と恐怖は敵意となって、レコンキスタ、十字軍へと引き継がれていく(それだけ社会における教会の権威・影響力が大きかった時代性を示している)。

1096年十字軍におけるエルサレムへの道程でもユダヤ共同体での略奪は公然と繰り返された。十字軍の熱狂によってヨーロッパ内部での反ユダヤ主義も高まりを見せ、ユダヤ教徒を「内なる敵」「身近な異端者」として暴徒民衆による襲撃や放逐が横行する。同年、説教師に率いられた1万人のドイツ人たちがヴォルムスで800人、マインツで700から1014人のユダヤ人共同体を襲い、略奪や殺害あるいは集団自決へと追い込み、そうした動きはライン川上流域にまで拡散した。ドイツでの迫害を免れたユダヤ人たちは宗教政策に寛容なポーランドへ亡命し、周辺のユダヤ人たちもそれに続いた。ユダヤ人たちは諸侯やローマ教会に迫害の調停を訴えたが、1215年、第四回ラテラノ公会議ではユダヤ人の公職追放、徴章による識別といった差別的な政策(権利制限とキリスト教徒からの隔離)のかたちでしか認められなかった。13世紀半ば、モンゴル帝国のバトゥ率いる西方遠征軍の侵攻によってポーランド軍は壊滅。このときすでに西欧最大のユダヤ人人口を抱えていたポーランドでは、1264年、ボレスワフ公によってユダヤ人の自由に関する一般憲章(カリシュ法)が発布され、ユダヤ人に対してキリスト教徒と同等の人権を認め、宗教的差別から保護するための自治組織(ユダヤ人向け裁判所など)を一部に認める宥和政策を執り定住を求めた。1290年、イングランドエドワード1世(1239-1307)は戦費拡大による国内情勢の不安からユダヤ人の財産没収と追放政策を実施し、すでに1万6000人余りにまで増えていたユダヤ人たちがイングランドを去った。1306年にはフランス王フィリップ4世(1268-1314)が対フランドル戦争の戦費調達のために中央集権化を推し進め、教会課税に加えユダヤ人の財産没収と追放を断行している。続くルイ10世の治世では財政難により高額賦課を条件に再びユダヤ人の帰還を認めたが、1315年、ヨーロッパ大飢饉の発生により怒りの矛先がユダヤ人に向けられ、1320年にはフランス北部の貧農や修道僧が「不信心者を打ち据える」として行進を始め、ボルドートゥールーズ、アルビ、スペインにまで広がる大規模ユダヤ人襲撃に発展した(羊飼い十字軍)。困窮したキリスト者にとってユダヤ教徒は怒りの矛先となり、為政者は迫害や追放措置によって社会不安へのガス抜き、あるいは資本力豊かな課税対象(あるいは財産没収の標的)とするなどの利用価値を見出していたともいえる。

11世紀後半のヨーロッパでは、封建制度を基盤とした農村部とイタリア商人らによる地中海交易などによって商業が盛んな地域とは分断されていた。しかし荘園領主らは戦費や重い課税によってより多くの貨幣が必要となり、貨幣で地代を得るため余剰生産物の商品化や領内に手工業の育成を進めるなどして、それ以前の借地と賦役労働による農奴支配から貨幣経済へと形態をシフトしていき、農民側も重税等への不満を一揆によって示すことで徐々に地位を向上させ、14世紀ごろには荘園制は崩壊。貨幣による地代のみを納める自営農民となるか、あるいは都市へと流入する者も多くあった。

商業活動が盛んとなる時勢にあって、中世最大のキリスト教神学者トマス・アクィナス(1225-1274)も二コマコス倫理学に基づいて経済問題に触れている。それまで教会法によって、神は何者かに土地を与えたのではなく万人に与えたとする見方から、財産は共有制こそが正しいものとされていた。しかし、ひとは自分の権能に属するものに対してより大きな配慮を払い、他人との混乱が生じづらくなり、各人が満たされていれば平和状態を生む、などとして「私有財産」を容認する考えを示した。商品の価格については事物の価値より高価に売ったり、安く買いたたくことは不正だとしつつ、厳密には確定することができないものとしている。またキリスト教では「利息」による稼ぎを悪徳とし金貸しを禁じているが、利益それ自体の追求は否定しつつ、輸送費などかかる諸経費(*)のほか労働への対価として「節度ある利益」を上げる商取引は正当であるとした。教会法においてラテン語で「金利」を表すusuraは「与える以上に受け取ること」、つまり正当ではない「高利」と定義づけされていたため、経済活動において金貸しの必要性があってもそれを認めることはできなかったが、トマスによって正当な「金利」が定義され、カトリック社会でもトマス主義は容認されることとなる。

(*古代ギリシア・ローマの地中海貿易をルーツとして、1230年教皇グレゴリウス9世による利息禁止令まで運用された「冒険貸借」と呼ばれる貸借形態が存在した。商人らは金主から航海資金を借り入れ、万が一海難事故に遭った場合は返済の一部を免れる代わり、無事航海した際には高利をつけて返還するシステムで、14世紀半ばに登場する海上保険の原型とされた。出資してリスクに対する配当を得るという点で、金主は(貿易商に対する)株主に近い。このような危険に対する負担も東方貿易における商品の大きな付加価値とされた)

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ユダヤ人差別の象徴的なデマ(流言)のひとつに「血の中傷」がある。ユダヤ教の宗教的記念日・過越祭(ペサハ)の晩餐には、羊肉や“マッツァー”という無酵母のパンなど「出エジプト記」にちなんだ献立が提供される。この過越祭でキリスト教徒の子どもを生贄とした悪魔的儀式殺人を行っており、供されるマッツァーの中に子どもの血を混ぜて食べている、といったものがこのデマのプロトタイプである。ユダヤ教は殺人や人肉食を厳格に禁じており、古来より動物の肉食については(教義上)適法な動物に限られ、過越の羊肉も特別な屠殺人が儀礼用ナイフで解体して血を抜き取る作業が行われる。しかしキリスト教の民衆らはユダヤ人の過越祭という異文化に対して、何か野蛮な信仰儀式をしているにちがいないという固定観念からそうした根も葉もない噂を流布し続け、中世以降の800年間でおよそ200種ものデマが確認されている。その原型はすでに帝政ローマ期、フラウィス・ヨセフス(37-100頃)が著した『アピオーンへの反論』に記述がみられる。「ユダヤ人の立法では、国外から訪れるギリシア人を捉えて一年かけて太らせた後、生贄として神に捧げ、その肉を食べながら全ギリシア人を呪い殺すべく誓いを立てるよう定められている」とユダヤ人に囚われたギリシア人の口から語らせている(ヨセフス自身がユダヤ人であることから、こうした類のユダヤ人に対する中傷は古代より蔓延していたと考えられる)。「血の中傷」のはじめとしては、1144年、イギリス東部ノリッチのウィリアム少年の事件がある。森で少年の遺体が見つかり、暴行の後が認められたため事件の調査を進めていくと、「ユダヤ人富豪の屋敷で少年が縛られている姿を目撃した」「遺体を森へ運ぶユダヤ人グループと遭遇した」「毎年ユダヤ人たちが集まって過越の生贄の調達について相談をしている」といった情報が近隣のキリスト教徒の証言として集められた。近くのノリッジ大聖堂では、かの少年を殉教者として祀り、その聖遺物の展示によって多くの巡行者を集めた。しかし集められた情報は、元ユダヤ教徒キリスト教の洗礼を受けたばかりの修道僧シーアボルトによって広められた噂で、財政難だった教会の収益を上げるための捏造であったと考えられている。

1236年、第6回十字軍によりフランス、イギリス、スペインでユダヤ人虐殺が起こり、呼応するかのようにドイツで「血の中傷」事件が頻発した。借金のある者は債務帳消しのために噂の拡散に加わり、また地方領主なども裕福なユダヤ人を投獄すれば、財産の没収や多額の保釈金を得られると考え密告に協力した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は「噂」の真相究明を命じ、ユダヤ人の潔白が証明されたため、勅書によってユダヤ人を「皇帝奴隷」と認め、あらぬ嫌疑がかけられないよう保護に務めた。こうした告発が各地で頻発したため、ローマ教皇イノケンティウス4世は1247年、大司教らに向けて以下のような書面を発し、「血の中傷」のごとき訴えはユダヤ人迫害のためのデマであり迫害に加担しないよう戒告を与えている。

「権力の要職にある者たちがユダヤ人の土地を略奪するためにドイツ全土にて蛮行を働いていると彼らは抗議しているが、我々はその抗議を全面的に受け入れる。これらの蛮行に加担した者たちは、キリスト教の教義がユダヤ教旧約聖書の上に立脚していることを忘れた愚か者である。旧約聖書にはこのように書かれている。『殺すなかれ』と。あなたたちはユダヤ人が過越祭において子供を殺してその死体を食べていると訴えているが、彼らは過越祭の期間中、死体に触れることさえも許されていないのである。あなたたちは殺人事件で容疑者が不明の場合、いつでもユダヤ人にその罪を被せている。しかも十分な捜査は行われず、目撃証言もなければ裁判も開かれず、あまつさえ抗弁や自白さえもまいまま、ただユダヤ人を迫害したいが一心に愚かな蛮行を繰り返している。ローマ教皇庁の慈悲によってユダヤ人に土地の所有権が与えられていることに不満を抱いている者は、彼らに対して監禁や尋問といった様々な虐待を加えた挙句、極刑に処している。なればこそ、敬愛すべき兄弟であるあなたたちに忠告する。初心に立ち返り、法に背かないよう自戒しなさい。また、ユダヤ人に非がある場合以外は、彼らに対するいかなる迫害をも許してはならない。」

しかし「血の中傷」のごときデマは、第二次大戦後のホロコーストの生き残りに対しても浴びせられるなど、今日でも政治・宗教・歴史認識の禍根として扱われる問題である。

中世ヨーロッパの反ユダヤ感情は、キリスト教の成熟、教皇権の肥大化、聖職者の腐敗の裏で、民衆や地方諸侯の心理にひそやかに成長し、教会への不満や十字軍による異教徒への敵対心とともに表面化した。キリスト処刑をはじめとする宗教的敵愾心、清貧を是とするキリスト教徒にとって賤しい生業である「高利貸」で築いた富に対する妬み、そして司法の利用によるユダヤ人への迫害がいわば社会装置の一部として温存されてきたことがそのバックボーンとなっている。また中世の貧困問題のうちに「血の中傷」の流行の原因を見出す説として、キリスト教徒家庭における虐待死や育児放棄による死亡を隠蔽するための方便、家族による罪悪感からの責任転嫁とする説もある。「血の中傷」に見られる子殺しや儀式殺人はまさしく悪魔崇拝のモチーフであり、魔女像に描かれる特徴的な「鉤鼻」はまさしくユダヤ人の身体的イメージと重ねようとした作為が感じられる。また魔女はセクトを組んでサバト(秘密集会)を行うことが特徴の一つとされているが、ユダヤ教徒にとってサバトは「安息日」を意味するものであり、彼らが行う「シナゴーグ(礼拝集会、集会所)」がそのモチーフだと考えられている。上述のノリッチでの事件のような周囲の人間による密告、さらには拷問による自白によって事件の濡れ衣を着せる手法は、1232年に設置される異端審問所でも踏襲され、多くのユダヤ人が処刑されている。ユダヤ教徒と魔女とを同一視してはならないが、近世以降の「魔女狩り」の土壌としてユダヤ教徒迫害の歴史があったことは踏まえておかねばならない。

(上述のようなヨーロッパでの反ユダヤ主義は古から絶えることなき火種として受け継がれており、後年にはナチスへとつながっていく。余談になるが、中世キリスト教社会におけるユダヤ人やイスラム勢力に対する偏見は、第二次大戦下の敵対国に“鬼畜米英”のイメージを植え付けた日本のプロパガンダを想起させる。また1347年から1353年にかけてのペスト(黒死病)大流行下で起こったユダヤ人迫害として「ユダヤ人による井戸への毒物投棄」という流言が起こりシュトラスブルクマインツでは数千人規模の虐殺に発展したが、これも関東大震災下での朝鮮人による犯行とするデマ、集団で攻め寄せてくるといった飛躍的発想による集団ヒステリーと共通する。いつ・いづこ・いかなる相手にも危機的状況下で排外主義は発露する可能性が高まることを示しており、本エントリを執筆している新型コロナウイルスCOVID-19の世界的流行が止まない現在にあっても冷静な思考と分別を心掛けなければならないと考えさせられる。たとえば2020年は帰国難民となった農業実習生などと見られるベトナム人窃盗犯グループの報道を頻繁に目にした。在留外国人による犯罪・窃盗件数は事実として近年増えてはいるものの、日本で窃盗を働いている者の圧倒的多数は日本人に違いない。しかし日本人窃盗犯よりも集中的に話題に上がるため、自意識に占める窃盗犯像が次第に塗り替えられている実感がある。さて東日本震災後の火事場泥棒たちははたして何者だったのであろうか)

 

■教会の翳りとジャンヌ・ダルク 

14世紀初頭、教皇庁の権威に翳りが見え始める。毛織物産業の中心地フランドル地方への侵攻を企てたフランス王フィリップ4世は、イングランドエドワード1世と激しく対立。両者の戦争状態は長く続き、フィリップ4世は膨大な戦費調達のために教会課税を実施した。敬虔なキリスト教国だったフランスへの教会課税導入は、教皇庁の収入を奪うことにもなる。この動きに難色を示した教皇ボニファティウス8世は、1302年あらゆる世俗権力を超越する教皇の権威を示す教皇回勅を発して牽制。だがフィリップ4世は聖職者・貴族・市民から成る三部会を設け、市民の国威発揚と世論の支持を取り付ける。従来の教皇を頂点とした諸国の勢力図を無碍にされたボニファティウス8世は激昂しフィリップを破門。1303年、フィリップ4世は教皇離宮の地・アナーニで腹心に教皇襲撃を命じる(アナーニ事件)。襲撃は失敗に終わるがほどなくボニファティウス8世は他界し、フィリップは1305年にボルドー大司教であったクレメンス5世を教皇に擁立し、教皇庁をフランスの影響下にあるアヴィニョンへと遷移させた(アヴィニョン捕囚)。さらに1307年には、エルサレム防衛で大きな役割を果たした騎士修道会テンプル騎士団の資産を収奪するため異端審問による冤罪を画策。テンプル騎士団は寄進された土地などの財産をすべて換金し、ヨーロッパ全土に跨る独自の国際金融システムを構築し巨万の富を得ていたとされている。彼らが異端セクトとみなされた罪状は、悪魔崇拝、性的乱交、嬰児殺し等多岐にわたる背信行為とされ、総長ジャック・ド・モレーら指導者たちは生きたまま火あぶりにされた(2007年、バチカンからテンプル弾劾までの記録Processus Contra Templariosが限定公開された)。こうした異端者の悪行についてはすでに紋切り型の表現となっており、異端審問の形骸化が現れている。

危機的状況に陥ったアヴィニョン教皇庁教皇ヨハネス22世を据え、教皇教令を発布して組織再編と財政再建を図った。また1326年、『Super illius specula かの似姿について』という勅書において、魔術師および魔術の実践を異端とすることを決め、異端審問の権限を拡張させている。13,14世紀当時の知識階級において悪霊を呼び寄せて行う「儀礼的魔術」が流行しており、高位の役職や他人の愛情を得ようと心を操ったり、政敵の命を奪ったり、自分の未来を占ったりといったことが教皇庁内部にさえ蔓延していた。Alan C. Korsらの研究によれば、ヨハネス22世自身も魔術による暗殺を恐れていたことが魔術の異端容認の一因なのではないか、と指摘されている(Alan C. Kors and Edward Peters.『Witchcraft in Europe, 1100-1700: A Documentary History.』Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1972.)。そうした一方で、ヨハネス22世は長年フランシスコ会内部で燻ってきた厳格な清貧思想を重視する聖霊派と穏健な主流派との対立に介入し、1324年の勅書Quorumdam exigitにおいて「清貧は偉大なり。然れども、公正はさらに偉大であり、もし完全に保たれるならば、すべての中で服従こそがもっとも善きことである」とし教皇の下に聖霊派服従させた。なおもこの教勅に背く者には「異端」と糾弾し火刑に処するなど苛烈を極め、フランシスコ会主流派からも非難を集めた。1328年にはフランシスコ会総長チェゼーナのミケーレらが、教皇と対立する神聖ローマ帝国(ドイツ王)ルートヴィヒ4世にヨハネス22世廃位を訴える事態にまで発展。ルートヴィヒはローマに対立教皇ニコラウス5世を擁立し、ローマ市民の権限を操って神聖ローマ帝国の帝冠を手にした。14世紀後半、カトリックはローマとアヴィニョンで別々に教皇を立てる大分裂(大シスマ)によって影響力を失い、教皇権衰退の時代に入る。つづく百年戦争の長期化した理由として、従来であれば仲裁者となるべき教皇の分立・教会組織の分裂が要因の一つとして挙げられる。

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Joan of Arc at the Coronation of Charles VII, by Jean Auguste Dominique Ingres, 1854

百年戦争(1339-1453)は、プランタジネット家とヴァロワ家によるフランス王位継承権問題や領土問題を発端として、フランスの封建諸侯が二派に分かれて断続的に争われた内乱で、イギリス産羊毛を原料とした毛織物産業による繁栄を築いたフランドル伯や宮廷での権力掌握を目論むブルゴーニュ公らがイギリス方と同盟を結ぶなど、近代の主権国家間による戦争とは様相がやや異なる。1428年攻勢をかけたイギリス‐ブルゴーニュ連合軍はフランス北部をほぼ手中に収め、南仏侵攻への足掛かりとなる要地オルレアン公領をも包囲。イングランド軍の焦土作戦やペスト大流行により経済的にも人員的にも疲弊したフランス軍は窮地に立たされていた。1429年、絶体絶命と思われたオルレアン包囲網を打開したのが後に「フランスの救世主」「聖女」「オルレアンの乙女」と讃えられるジャンヌ・ダルク(1412-1431)である。王太子は、「聖ミカエルからオルレアン領奪還と祖国救済という神の啓示を受けた」と熱烈に従軍志願する17才の少女を彼の地に派遣。すると、敗走寸前と思われた部隊を鼓舞し僅か8日の内に連合軍を撤退させる大活躍を見せ、ノートルダム大聖堂でのシャルル7世戴冠に貢献した(フランス国王はランスでの聖別式を経なければ神から国王と正式に認められないものとされていた)。しかし翌年、捕縛されたジャンヌはシャルル王の介入(身代金を支払っての捕虜救済)もないままイングランド側が身元を引き受け、異端審問にかけられて1431年火刑に処される。当然イギリス側の根回しが介在した異端裁判で、彼女への嫌疑は悪魔崇拝、占い、悪魔の呼び出し、呪文、迷信、妖術といった伝統的な妖術師に属する悪徳に関するものとした裁判記録が今もフランス国立公文書館に保管されている。イギリスとブルゴーニュの同盟は破棄され、シャルル7世はその後国力を増強して反撃に転じ、フランス国内からイギリス支配地をほぼ一掃。戦争終結後の1455-56年、ジャンヌの復権裁判が行われ、教会法の観点から裁判の不当性が認められ、異端判決が見直されるとともに無実の殉教者とされた。その後、フランス近代ナショナリズムの英雄・政治的象徴として崇敬を集めるにとどまらずイングランドでも再評価がなされ、1920年ローマ教皇ベネディクトゥス15世はジャンヌを列聖(信仰の模範となる信者として聖人に認めること)した。ジャンヌは心身ともに健全であり「神からの啓示」という神秘体験は精神疾患などによる兆候ではないと考えられている。裁判でジャンヌが優れた記憶力、明晰な認識力を備え、質疑に対し思慮深い応答を行ったことや、シャルル7世の父・シャルル6世の精神障害に悩まされてきたため王室では精神衛生や狂気について用心深く注意を払っていたなどの面からも精神疾患説への反証が為されている(当初王室はジャンヌの言い分に懐疑的であった記録が残されており、彼女の強い意志や覚悟、人柄に魅了されて従軍を認めたと考えられる)。ジャンヌは女性であるために魔女裁判の餌食となった訳ではなく、彼女の信仰や神秘体験が疑問視されたこと、それによる影響力と軍事的手腕がイギリスにとっては脅威であったことがきっかけとなり異端審問にかけられたが、最終的には教会法で禁じられていた異性装の咎で罰されている。彼女はシャルル7世と交わした機密保持の誓いを遵守し、神秘体験に関する尋問への宣誓供述をすべて拒否しており、それが事実であったのか、信念に基づく大言壮語の一種だったのか、真相は分からない。だがジャンヌは妖術師や悪魔崇拝者ではなく、天から軍事的資質を賜り、国のために命を捧げた優れた民兵のひとりであったことは事実である。

 

大シスマの影響 (スペイン、イングランド)

アラゴン王国の有能な異端審問長官であったニコラス・エイメリコの嘆きからも聖職者の腐敗ぶりや教会の影響力の衰退を窺い知れる。

強情な異端者、再犯者は少なくなり、金持ちの異端者はほとんどいなくなった。それにより異端審問による収入が減ったので、貴族たちは経費を負担しない。審問所の経費を捻出するために他の方法を講じなければならない。

 ニコラス・エイメリコ『異端審問指針』(1376)

すでに「異端者」は信仰的対立者ではなく、財源確保(財産収奪)のためのキャッシュディスペンサーででもあるかのような述懐である。イベリア半島東北部からレコンキスタ(国土回復運動)によって勢力を拡大したアラゴン王国は、イスラーム勢力が衰退した13世紀ごろにはカトリック民衆のユダヤへの敵視も高まっていたが、宮廷では政治・経済に優れたユダヤ人が重用される時期もあり、ときに政争の種ともなった。後世カタルーニャ語文学の重要人物ともみなされる司祭ビセンテフェレールは、14世紀後半からヨーロッパ各地で反ユダヤ的遊説を行うなどして民衆から熱烈な支持を集めた。1391年セビリャなど、各地でキリスト教民衆らがユダヤ共同体への虐殺(ポグロム)を引き起こし、拷問によって強制改宗させられるか、殺害あるいは国外追放とされた。14世紀末のスペインにおけるユダヤ人人口は約25万人(カスティーリャに約18万人、アラゴンに約7万人)程度いたとされ、1492年までに約15万人がキリスト教に改宗したといわれる(関哲行『スペインのユダヤ人』2003)。レコンキスタの完了とスペイン統一を目指す国王フェルナンド2世(1452-1516)は、密告と拷問による「異端審問」のシステムをユダヤ人に対する債務帳消しや政敵の打倒などへ私的に流用することを目論み、1478年スペイン異端審問所を開設した。異端審問長官トマス・デ・トルケマダは偽改宗者、「隠れユダヤ教徒」の摘発を推進し、在職18年間で9万人を終身禁固、8000人を焚刑に処したとされる。改宗して新キリスト教徒となった元ユダヤ人は「コンベルソ」、元イスラーム教徒は「モリスコ」と呼ばれ、密告によってかつての信仰や習慣を内密に続ける隠れユダヤ教徒であるとされると異端審問の裁きを受けた(隠れユダヤ教徒は「Judaizante フダイサンテ」、あるいは豚を意味する「marrano マラーノ」と呼ばれ蔑まれた)。教皇シクストゥス4世は、スペイン異端審問をユダヤ人の財産狙いである等として批判したが、当時の地中海情勢でオスマン帝国との均衡状態によってイタリア・ローマを事実上守護していたフェルナンド王は正式な許可を認めさせた。1492年スペインでユダヤ教徒追放令、関係の深かったポルトガルでも1497年に追放令が出され、1536年ポルトガル異端審問が開始されるなど、レコンキスタの揺り戻しともいえるイベリア半島民族浄化イデオロギーは「血の純化」と呼ばれ、16世紀半ばには対抗宗教改革(カトリック改革)における勢力を担った。

宗教改革の先駆とされるオックスフォード大学教授の聖職者ジョン・ウィクリフ(1320頃-1384)は、ローマ-カトリックの教義や化体説を否定、教会は救済を約束された人々の集う場であるとして聖書と説教に立ち返ることを主張し、聖書の英訳普及も行った。ウィクリフの死後、教会批判の精神は大陸の神学者にも伝わり、プラハ大学学長ヤン・フス(1369頃-1415)らによる宗教運動へと受け継がれる。ときのボヘミア王ヴァツーラフ4世の政策を教皇グレゴリウス12世が支持しなかったため、王は聖職者と大学に対して教皇への「中立的」な支持を命じた(中立的な立場からの批判を事実上容認した)。学内ではウィクリフ派と反ウィクリフ派が対立、1409年にヴァツーラフ4世は大学改革を命じ、実質的に反ウィクリフ派であったドイツ人移民たちは追放を余儀なくされた。これに対してプラハ大司教は国王の命に反発し、国内でのフスらの動きを対立教皇アレクサンデル5世に告発すると、大司教の権限拡大とウィクリフ主義に対する圧力をかけるようになる。フスとその支持者らは大学を追放されるも、貴族・民衆は彼を支持し庇護した。1411年、教皇ヨハネス23世は十字軍遠征の費用捻出のため教会で“免罪符”の売買を開始し寄進を求めたことにフスらは激しく抗議し、ヴァーツラフ国王も和解を試みるが失敗、教皇はフスを破門にし弾圧を命じた。1414年教会大分裂(大シスマ)収拾のため、コンスタンツ公会議が招集され、フスは教義の正当性を主張するためその場に参じたが、一方的に異端扇動者であると断じられ、翌年火刑に処される。このとき同じく異端とされたウィクリフの遺体も墓を暴いて火あぶりとなった。フスによる教会への抵抗(学問的・思想的自由を求める運動)は、のちの1419年、教会による封建領主の抑圧に苦しんだボヘミアチェコ人による自由解放を求める民族紛争・フス戦争の精神的支柱とされた。1417年、マルティヌス5世擁立によって教皇分立の時代は終焉を迎え大シスマは収められたが、教会と社会のあり方を見直す改革に至るには更に1世紀の時間を要することとなる。

外から西ヨーロッパ侵略を狙う異教徒たち、内から教会批判を求める異端者たち、彼らは教会から「悪魔」「悪魔の手先」としてみなされ、ペストや大飢饉が市中を襲うなか、聖職者たちは悪の大軍勢が襲ってくるという終末思想を抱くこととなる。教会に逆らう異端者を撲滅することによって社会を浄化し、神の怒りを鎮めねばならないという一種の使命感さえあったのではないか。聖職者たちに芽生えたこうした強迫観念は、敵対する悪魔像を、そして悪魔の先兵として世を跋扈する「妖術師」や「魔女」像をより鮮明にさせていくのである。

 

■『蟻塚』

ドミニコ会神学者・ヨハンネス・ニーダー(1380頃-1438)は、1430年代半ば『Formicarius 蟻塚』を執筆。愚者の質問に神学者が答える対話形式で記され、人間の行動の善悪についてあるべき道を説いている。「中世後期の多くの学者に明白であった、世界の漸進的な悪魔化、終末論的な終末意識、包囲精神、陰謀思考への恐れも、ニーダーにとって異質ではなかった(Werner Tschacher,2001)」とされる通り、教会組織の腐敗、終末論の流行と信徒運動の勃興、大シスマといった状況は深刻な危機と受け止められており、信仰の見直し、いわば改革への地均しが急務とされた時期といっても過言ではない。この著作の第5巻では「妖術師」が主題として扱われ、その類型と実在した妖術犯罪について判事や審問官への聞き取りなどが記されている。

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Satan sits on his throne at the centre of a witches' sabbath, B.Spranger

ニーダーは悪魔と結びつく者には妖術師と降霊術師があるとした。前者は神の許しのもと①邪な愛を喚起する②憎しみや嫉妬の種を蒔く③生殖能力を奪う④四肢の一部を損なう⑤命を奪う⑥理性を奪う⑦財産や家畜を奪う、といった方法で人間に害をもたらす。後者は、人助けとして未来を予言したり、お告げにより犯人探しや紛失物発見に役立つが、呼び寄せの儀礼を通じて神聖な力をもって霊的存在(カトリック的視点に立てば悪魔)を操る者のなかには隣人を害する者もあるとされた(***)。しかし聞き取りに協力した判事らは、容疑者から得た証言を基にして話しているとはいえ、取調べでは拷問が加えられ、嫌疑にふさわしい内容へと適宜修正されたものであることは疑いようもない。

(***旧約聖書申命記』18章9-12節には、イスラエル人に向けてカナン人の降霊術を禁じる戒めとして次のような記述がある。「あなたの神、主が賜わる地にはいったならば、その国々の民の憎むべき事を習いおこなってはならない。あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使い、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである」)

 

宗教改革とその時代

 1515年サン・ピエトロ大聖堂建築の資金に充てる名目で教皇レオ10世は贖宥状を発売する。金銭によって罪の償いを得られるという考え方には教会内からの批判も多く、大学で教える敬虔な神学者であったマルティン・ルター(1483-1546)もこれを看過することはできなかった。とりわけマインツ大司教アルブレヒトはさらなる職位と収益を得るためにドミニコ会士を宣伝説教に動員するなど商戦は過熱化していた。ルターは1517年『95か条の論題』によってアルブレヒトの贖宥行為濫用を訴える。アルブレヒト教皇庁を敵に回す事態に陥ったルターだったが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の庇護を受けたため性急な処罰は免れ、旧来の聖職位階制度や教会の慣習を批判し、信仰に立ち返るよう自説を展開して多くの賛同を集める(*)。教皇レオ10世の警告に対してもルターは「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」と抵抗し、カトリックから破門された。皇帝カール5世はドイツ解体の危険を感じ、1521年ヴォルムス勅令を発布しルターを異端者として追放した。1524年トマス・ミュンツァーがルターの改革を支持して農民改革(農奴制廃止や賦役貢納の軽減など)を訴える闘争を起こしたが、平和的闘争を求めていたルターは暴徒化する武装農民と袂を分かち、鎮圧軍に加勢した(ドイツ農民戦争)。イスラム教国であるオスマン帝国の接近に伴って国内の対立収拾を迫られたカール5世は、1526年第一回シュパイアー帝国議会を開催。ヴォルムス勅令が凍結され、改革派諸侯らは領邦内でカトリックの慣習に囚われない教会改革に着手した(巡礼・贖宥状・聖人崇拝・聖遺物崇敬などの廃止)。しかし1529年、第二階シュパイアー帝国議会ではカトリック諸侯の反発によってヴォルムス勅令が復活し、改革派はこの措置に抗議した(「プロテスタント」の起こり)。改革派とカトリック派はそれぞれに同盟を結成して政治的対立を強め、1546年ルターの死後、カール5世はシュマルカルデン戦争によってプロテスタント同盟を壊滅させたが、強硬政策や帝位継承問題によってカトリック諸侯からも反発を買ったためドイツの内乱状態は続いた。1555年、アウグスブルクの和議によってルター派は容認され、「一つの支配あるところ、一つの宗教がある」の原則により、諸侯が自身の選んだ信仰を領内で義務付けることができる(領邦教会制度)とし、両派の平和的共存を試行した。この容認は、やがて領邦国家の自立と政教分離を促すものとなった。

(*ルターがザクセン公家の庇護下にあった頃、北方ルネサンスの画家ルーカス・クラナッハも宮廷画家として仕えていた。下の肖像画にも表れているように、その特徴は理想化しない観察によるリアリズムであり、衣装や背景と肌色との対比によって人物が際立ち、顔に僅かな影を加えることで人物の内側から輝いて見える手法である。クラナッハは工房マイスターとして徒弟との協働作業による絵画の大量制作を行い自作のブランド化に成功。市長としてザクセンの文化発展にも寄与した。芸術による経済活動に積極的だったクラナッハは複製媒体である版画にも取り組み、ルターの著書や聖書の挿絵となる木版画も担当している。肖像画でルターの「顔」を世に知らしめ、木版画による思想のイメージ化によってより精彩に理解させることを可能とした、いわば宗教改革を「視覚」面から支援する共闘関係を築いていたといえよう。グーテンベルク以後の活版印刷術の普及によって、社会運動にも大きな影響があったことを忘れてはならない)

(ルターは1543年『ユダヤ人と彼らの嘘について』を発表し、「血の中傷」のデマを用いてユダヤ人の悪辣さを連ね、ユダヤ人がドイツで得た全財産をドイツに返還されるべきだと主張している。キリスト教徒が恐れるべきは大悪魔と、改宗に応じない「真にユダヤ的であろうとする意志を備えたユダヤ人」であるとし、晩年にはドイツ全土からユダヤ人追放を唱える過激な反ユダヤ主義者という側面もあった)

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Martin Luther, Lucas Cranach

1511年、ロッテルダム神学者ルネサンス人文主義者デジデリウス・エラスムス(1466-1538)は『Moriae encomium 痴愚神礼賛』を発表し、各国で翻訳されるベストセラーとなった。内容は、痴愚神が軽妙洒脱な語り口によって王侯貴族・聖職者・学者や法律家といった上流階級の営みがいかに愚かかを説き、古典や聖書を引きながら愚かさこそが人間生活に幸せを与えるものとして自画自賛するという風刺文であった(痴愚神Moriaの名は親友トマス・モアの名前からとられた)。1516年には学術言語であったラテン語ではなく原作言語であったギリシア語による『校訂版 新約聖書』、聖書のラテン語訳を著したヒエロニムスの著作集により学術的評価を高めた。1517年『95か条の論題』を発表したルターはエラスムスからの影響を表明し、当初はエラスムスも彼の聖書中心主義に好意を示し親交をもった。しかしルターがドイツ政情に巻き込まれ、カトリック派との対立が激化すると両者の思想の違いが鮮明となっていく。ルターは旧来のカトリックからの離別、分裂を望んだが、人間知性に信頼をおくエラスムスはあくまでキリスト者たちの一致を最優先と考えており、聖職者と信徒(民衆)との間にできた溝も聖書を共に学ぶことで埋められるものと信じていた。1524年、エラスムスが人間の自由意志は原罪の後にも残されているとした『自由意志論』を発表すると、翌年それに反論する形でルターは『奴隷意志論』を著し、自由意志に基づく努力では神の救済は得られず、ただ神の恩寵と憐みにより人間は救済されるとし、両者は訣別した。エラスムスは生涯カトリック教会に忠実であり中道的立場から批判を行ったが、宗教改革の影響とその後の歴史的評価によって『痴愚神礼賛』はその社会批判精神からカトリック批判の書とも捉えられた。ルネッサンス人文主義宗教改革の関連性から「エラスムスが産んだ卵をルターが孵した」と評されることもある。

ドイツ以外でも、チューリヒ神学者ウルリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)がエラスムスの聖書研究やルターの改革運動に触発されて1519年に贖宥状批判を行い、スイス国内各州は改革派とカトリック派に分断された。1529年ルターとツヴィングリは会談をもったが、恩寵や聖餐の解釈で一致が見いだせず、両派の合流は為されなかった。その後、パリでの新教徒迫害からバーゼルに逃れたカルヴァン(1509-1564)は1536年『キリスト教綱要』を発表。その後5度にわたる改訂増補を行い、神の救済に与かる者と滅びに至る者とがあらかじめ決められているとする予定説を唱えた(**)。その後カルヴァンジュネーブにおいて神権政治と呼ばれる厳格な統治を行い、1553年には三位一体説を否定しカトリック・改革派双方を非難したミゲル・セルベートを異端として火刑に処している。

(**マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)の中で、利潤を追求する近代資本主義が発展した背景にはカルヴァンの唱えた予定説(「主なる神は我々すべての者に、人生のあらゆる活動において、自分の使命を重んじなければならないことを、命じておられること、に注意しなければならない」)があったとしている。神に救われる人間であれば、神の御心に沿った生活を行うはずだとする逆説的発想によって、人々は勤勉さ・禁欲的な労働態度を尊び、世のため人のためになるのであればその結果として得られた利潤は自らの欲望するところのものではないとして金儲けが正当化された。カルヴァン自身は禁欲的で金儲けを強く否定する思想の持主であったものの、予定説に沿った勤労こそが経済合理性に則り生産性を上げ利潤を上げることがより多くの人を助け、功徳につながるとして資本主義を加速させた要因だと分析した)

イングランドでは、国王ヘンリー8世(1491-1547)がカトリシズム保護を敷いていたが自身の離婚問題により教皇クレメンス7世と反目する(カトリックでは離婚を認めていない)。側近として台頭したクロムウェルは(教皇庁の収入源となる)修道院の財産や聖職者の立法権イングランド王に移管させ、イングランドは「帝国」であり教皇庁の管轄に属さないことを宣言する上告禁止法を起草するなど旧教離脱のための改革を推進した。1534年首長令によりイングランド国教会儀礼においてはカトリック色を大いに残しつつもローマ・カトリック教会から離脱。国王ヘンリー8世は再婚を繰り返した。離婚を正当化することはできないと主張した大法官トマス・モアは失脚し、首長令により反逆罪とされ斬首のうえ晒し首にされた(1935年、モアはカトリック教会の殉教者として、同罪で処刑された司教ジョン・フィッシャーとともに列聖されている。ジョン・フィッシャーはエラスムスイングランドへ招聘した人物でもある)。その後も政治動向によって宗派争いは続いたが、エリザベス1世(1533-1603)は異母姉であったメアリー1世(プロテスタントへの異端排斥を繰り返し300人もの処刑者を出したことから「Bloody Mary」とも呼ばれた)時代の反省から、首長令の復活と礼拝統一法によりイングランド国教会体制を再建し、カトリックプロテスタントの折衷的な性格をもたせて宗教対立解消を図った。

同時期、カトリック側でも内部改革の必要が叫ばれており、その動きを「対抗宗教改革」と呼ぶ。 なかでもイグナチオ・デ・ロヨラらによって設立されたイエズス会によるカトリック改革への貢献が知られ、教皇への絶対服従と自己犠牲を誓い、人間は神秘的恍惚によらずとも自然能力の鍛錬により神との合一が可能であるとして過酷な規律と訓練を課した。ロヨラフランチェスコ会創設者アッシジのフランチェスコの生き方に影響され、出版活動のみならずラテンアメリカ、アフリカ、アジアといった非ヨーロッパ圏の「新天地」へも積極的に布教を続け、各地に神学校を設立するなど世界宗教化への大きな足掛かりとなった。1542年からのトリエント公会議によってカトリック教義の要諦を決定し、対プロテスタント勢力に向けた中央集権化が行われていった。

このほかにも16世紀に脱ローマ・カトリック宗教改革の動きが同時多発的に起こった時期だった。いずれもこれまでの教会による圧政や搾取に対する民衆・貴族たちの積年の不満が爆発したものといえる。さらに活版印刷術による出版革命、イベリア半島におけるレコンキスタグラナダ陥落(1492)、15世紀半ばのオスマン帝国侵攻(1453年ビザンツ帝国を滅ぼした)と地中海掌握による流通秩序の崩壊、それに続く15世紀後半に本格化した大航海時代といった「人・モノ・情報」のながれや周辺諸国とのパワーバランスの変動とリンクするようにして、ヨーロッパ全体が旧態を保持しきれなくなり大きなうねりを上げた地殻変動の時期ともいえ、後の絶対王政主権国家体制へつながっていく。

 

■『Malleus Maleficarum 魔女に与える鉄槌』 

1485年、オーストリア・インスブリュックで、魔術や秘薬を用いて愛人らを呪い殺した罪で男性2名女性48名が訴えられた。敬虔なマリア信奉者で貞操に執拗なこだわりがあった異端審問官は、彼らが悪魔との密姦によって魔力を得たのだと追及し、彼らの情事・乱交行為を詳らかにしようと糾弾した。しかし、当地では比較的性愛関係に寛容であったこともあり、地元教会の弁護人から不作法で非合法的との反発に遭い、訴えは取り下げられることとなった。この裁判で敗北した審問官こそドミニコ会士ハインリッヒ・クラーメル、1486年『Malleus Maleficarum』を上梓する人物である。直訳では『魔女の槌』であり、“槌(つち)”は異端審問官のことを指すが、「怒りの鉄槌」といった慣用表現を反映して邦訳には『魔女に与える鉄槌』とも表記される。この書物はその後、魔女狩り教本としてヨーロッパ各地に広く普及することになる。近年の研究によれば、共著者として刻銘されるドミニコ会士にしてケルン大学神学部教授ヤーコプ・シュプレンガーは名義貸しで、著述内容はクラーメルによるものとされており、出版後に両者は仲たがいしたとみられている。

www.malleusmaleficarum.org

内容は三部構成。第一章で魔女を堕落し悪魔と結託した者と定義づけ、神学的見地から魔女狩り反対論を排斥、第二章では魔術の犯罪性と悪徳を糾弾したうえでその治療や予防法について述べ、第三章では先達の異端審問官ニコラス・エイメリコが著した『異端審問指針』(1376)に依拠しながら魔女発見から裁判の進め方、拷問や処罰に至る手順をテキスト化した。

1520年に13刷、1639年までに各国語に訳され増刷された数は少なくとも34版、3万部以上。ヨハネス・グーテンベルク活版印刷技術の発明が1450年頃とされ、インキュナビュラ(活版印刷草創期の出版物)における最大のヒット作とも言われている。その理由として、活版印刷術の普及と期を一にしたこと、教皇イノケンティウス8世の回勅を序文に付したこと、ケルン大学神学部の教授らの署名を集めて宣伝に利用したこと(後に学部の公式認可ではないと訂正を要求。これには捏造の疑惑もある)などが挙げられるが、なによりもこのあとに巻き起こる“魔女狩り”の口実として支持されたことで、各地の大学、教会、神学者たちの手に行き渡った。先のインスブリュックでの裁判で見られたように、異端審問官は地元聖職者や役人の抵抗を受けることがあった。それはエイメリコの述懐でも透けて見える通り、地元有力者を標的にするなど従来の(地元聖職者や役人にとっての)既得権益を侵すと考えられたこと、さらに異端審問官が訴える“妖術師・魔術師”の概念が民衆に浸透しておらず弾圧の必要性が受け入れられなかったことによるものと考えられる。イノケンティウスの回勅は、クラーメルらが地元民との軋轢を取り除くため「魔女」裁判の権限強化を求める請願に応じて出されたものであった。

作中ではmalefica(魔女)、maga(女魔術師)、soltilega(女占い師)といった語が用いられており、古来より農耕に関する祭儀を行う、本草学や民間療法に通じ、占術、口寄せ、黒魔術(邪術、マレフィキウム、加害する術)などを操る妖術師を総称し、あえて女性名詞を用いたものと考えられる。その役割を現代日本に当てはめてみれば、どことなく青森のイタコ、沖縄のユタ、スピリチュアルカウンセラーのようなシャーマン的存在を思わせる(あくまで個人の印象であり、そうした方々を魔女扱いする意図はありません)。旧約聖書出エジプト記』22章18節には、「呪術を使う女はこれを生かしておいてはならない」とある通り、古代より西洋社会では魔術師・魔女と類される超自然的技能者の存在は広く知られており、ユダヤ教からすれば背教者として忌むべき対象だった。古代キリスト教においてもそうした扱いは踏襲され、既述のように民衆レベルで信じられていた妖術・呪術の類を、教会は俗信・迷信・まやかしであるとして一蹴した。古代から中世に至るまで妖術師への民衆による私刑が行われることもあったが、妖術師そのひとが邪悪とされ弾圧されたのではなく、人に害悪を及ぼすマレフィキウムが罪であって、基本的に妖術師のトラブルも世俗の裁判に処置が任されていた。教会・聖職者の立場としては、悪魔に唆された彼らをいかにして浄化するか、一層の教化による宥和的解決が望ましいとされてきたのである。だが教会の権威化と異端審問の制度化を経て、既述のような治安維持や集金のための装置としての役割へ転化し「異端者」を形成するシステムが整備されていった中に、悪魔と通じる背徳者、成敗すべき背教者として「妖術師・魔術師」が関連付けられていったのである。

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 先述した『蟻塚』は『魔女の槌』執筆のうえで重要な影響を与え、多く依拠されているが、そこに含まれていない『魔女の槌』特有の要素として「悪魔と妖術師の性交」が挙げられる。当時はエリート層、聖職者といった男性社会において女性に対する蔑視が広く行き渡っており、本書でも女性は男性より信仰心が乏しいため魔女へと堕落するという立場が徹底されている。聖書や古代の格言から“女性の邪悪さ”にまつわるエピソードが数多く引用され、女性には「不信心」「野心」「肉欲」の三大悪徳を備わっており、「すべての魔術は肉体の欲望に由来する。これは女性において飽くことを知らない」「彼女らは肉欲を満たすために悪魔と羽目を外す」ものだと断じている。処女、尼僧は悪魔からすると徳が高いため標的にされやすく、失恋した少女は誘惑しやすい、教会へ訪れない無信心な女は魔女である疑いがあり、足繫く教会に通う女は(魔女であることを)偽装しているおそれがあるという。迫害の対象が「妖術師」という漠然とした背教者のイメージから、肉欲に溺れ悪徳の限りを尽くす「魔女」へと肉付けされていく。悪魔は霊的存在で肉体を持たずかりそめの姿で妖術師と結合を行うものとし、古には夢魔(淫魔、インキュバスサキュバス)として人々の意志に逆らって強姦的に契りを結ばされていた(悪魔によって支配されていた)ものが、当代にあっては身も心も自発的に悪魔に捧げていると嘆く。クラーメルは、彼女らの背教と悪魔崇拝は自由意思に基づく結託であり、通常の刑事犯罪よりも一層罪深いものとし、残酷とも思える拷問の妥当性とそれによって得られる自白の有効性を唱えている。

こうした魔女概念の背景のひとつには「賢い女」があるとされ、具体的に「産婆(助産師)」による反キリスト教的と見なされる行いについての記述がある。

産婆以上にカトリック信仰を傷つける者はいない。実際、子供を殺さない時は、別の意図にしたがって、子を部屋の外に運びだし、空中に持ち上げて悪霊に捧げるのである。(第一部問11)

子供を殺さない場合、魔女は冒涜的な犠牲として悪霊に子供を捧げる。子供が生まれるとすぐに(もし母親自身が魔女でないのなら)産婆は、子供を温めるという理由で、部屋の外に子供を運びだす。それから腕に抱き上げ、魔女は子を、悪霊の王であるルシファーと他の悪霊に捧げるのである。以上のことはすべて、台所で、暖炉の上でなされる。(第二部13章)

産婆術は古来より太母神に仕える巫女によって独占され、男性は出産の神秘に触れることは許されなかった。キリスト教以前のローマにおいては、分娩を助ける助産婦、母乳や養育を教える保育婦、誕生の儀式を受け持つ巫女といった多くの女性が出産に係った。中世における教会による産婆嫌悪は、母権制社会を営む異教的考えや女神崇拝との結びつきからだと考えられている。教化が進んだ中世以降において、異教的な思想や儀礼がどの程度残存していたのかは見えづらいものの、英国人書誌学者W.Carew.Hazlitt(1834-1913)の『Faiths and Folklore of the British Iles』(1905)によれば、1554年司教から産婆に対して「カトリック教会が許可し、その法と規則に合致するもの以外の魔術、まじない、呪文、祈祷または祈りの言葉を用いたり、施したりしてはならない」と伝統的な出産儀礼が禁じられている。産婆は出産や堕胎、薬草や看護の知識に優れ、女性たちの心的ケア、性交渉や夫婦関係、家族関係の心得といった様々な方面から女性たちをサポートする存在だったが、父権制の社会規律を守りたい上級聖職者にとっては男性禁忌のテリトリーを有し、かつて純潔であった「乙女」たちを男たちに勝るとも劣らない「妻」「母」といった自立した女性へと変貌させていく古からの習わしを「異教」のごとく目の敵としたことは想像に難くない。

(1853年、John Snowがヴィクトリア女王に無痛分娩を行うまでクロロホルム麻酔は教会から公に非難されていた。当時の解釈では、出産に伴う苦痛は、イヴ(女性)が神に課せられた呪詛であり、苦痛を軽減することは「神の意志の否定」に他ならないとされてきた。いわば教会は神の御名のもとに「女性」への苦痛を取り払うことを忌避し、それによって女性が得られる自由を制限してきたのである。宗教的慣習による性差別はかつてのカトリックに限らず、アフリカ等に見られるFGM(Fimale Genital Mutilation 女性器切除・女子割礼)の風習もそれに当たる。生後程ない乳児から初潮前の幼少女に対してクリトリスや小陰唇の切除、大陰唇の縫合により陰部封鎖を施すなどの通過儀礼とされているものの、女性から性的快感を奪うことで淫行の防止、処女性の維持が根幹にある思想と考えられる。欧米では移民社会にもその存在が認められ、地域・民族に限定されない児童虐待として社会問題と捉えられている)

さらにクラーメルらの女性蔑視の根底には、熱烈なマリア信奉者であったことが挙げられる。マリアは処女懐胎を受けたことにより、妊娠・出産の苦痛からの自由、男性への服従からの自由を獲得する。それは私たちがはじめて身近に知る女性である「母親」や、原罪を負う原因となった「イヴ」とは違い、純潔な処女性と神への従順によって父-子-精霊の三位一体を仲介すること(執り成し)を認められた崇高な存在であり、その生涯によって人類にもたらされた神の恵みは称えられるべきものとされた(聖母崇敬)。また10世紀ごろ、「主なる神が私をとても祝福してくださったことが今わかりました。見てください。寡女は寡女ではなく、子のない女が孕むのです(ヤコブ福音書4:4)」というようにアンナの受胎もまた肉の交わりなしにマリアを宿し出産したものと考えられるようになりその神性を高めている(無原罪の御宿り)。中世においてマリアへの崇敬はさまざまな広がりを見せ、修道会の聖歌や称賛の詩句が多く捧げられ、教会権力の拡大によってノートルダム大聖堂シエナ大聖堂などマリア系巨大建造物が多く建てられ多くの巡礼者を集め、ルネッサンス運動では古代の女神に代わるモチーフとして『受胎告知』『聖母子像』などが頻繁に登場した。

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Annunciation, Leonardo da Vinci

 マリアに聖的崇高さ、理想的な完全なる女性のイメージが投影されるのとは対照的に、蛇に唆されて禁断の果実を口にして堕落した「イヴ」、さらにはマリア「像」とはかけ離れた「現実の女性」に対する偏見・蔑みは、教父たちの間で偏執的に、より醜悪なものへと「整形」されていった。クラーメルの女性蔑視は現代の我々の目には特異なものに映るが、当時の上級聖職者の間では現実の女性はもはや「魔女」予備軍と見なされていたのかもしれない。「魔女狩り」の下地を整えたクラーメルによるテキストは、父性社会と聖職者たちが脈々と育んできた女性観の結晶にも思える。

『魔女に与える鉄槌』のほかにも、悪魔学的観点から魔女を異端とした異端審問官Nicholas Jacquier『Flagellum Haereticorum Fascinariorum 異端の魔女の鞭』(1450)や従来の教会が描いた魔女像に懐疑的な立場から説明を試みた法学者Ulrich Molitor『De lamiis et phitonicis mulieribus 魔女と女予言者について』(1489)、15年間で900人の魔女を死刑にしたというフランスの治安判事Nicholas Remyによる悪魔崇拝研究と魔女事例報告をまとめた『Daemonolatreiae libri tres 悪魔崇拝 三部作』(1595)、ミラノの司祭Francesco Maria Guazzoによる木版画の挿絵で解説された『Compendium Maleficarum 悪行要論』(1626)など、15世紀から17世紀にかけて悪魔や魔女、魔術は一大テーマとして取り挙げられ、魔女狩り騒動の拡散、魔女狩り人の啓蒙につながった。

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"Compendium maleficarum" Francesco Mario Guazzo

一方、魔女狩り拡大の機運に抗する同時代の反論として、ドイツ・ラインラント地方の医師であったヨハン・ヴァイヤーは『De Praestigiis Daemonum et Incantationibus ac Venificiis 悪霊の幻惑および呪法、蟲毒について』(1563)等を著し、魔女として告発された女性たちに対して「精神的に病んでいる」という言い回しを用いた。彼の見解では、特権的悪魔であるデビルや低級の悪霊であるデーモンの存在は否定しておらず、魔術師は悪霊の力を利用して幻影を見せているのだとした。『魔女に与える鉄槌』は「根拠も信仰もない」と非難し、悪魔の奸計によって聖職者たちは「魔女狩り」の誘惑に騙されているのだと訴え、魔女裁判の濫発を控えるよう説いている。ヴァイヤーは神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント1世より「不当な魔女裁判の助長を差し押さえる特権」を認められたが、ヨーロッパ各地へ飛び火する魔女狩りの抑止には至らなかった。

 

魔女狩りの展開

魔女裁判」は記録文書の散逸が多く、後世の捏造なども見られ、記録に残されていない民衆による私刑も多く存在するため正確な犠牲者数は定かではない。記録に残る最古の魔女裁判は1428年にスイス・ヴァレー州の異端審問所で行われたとされ、かの地ではかつて潜伏したワルドー派のあぶり出しと撲滅を担ってきたことから、「魔女」の容疑に対しても中世の異端者像が重ねられていたと考えられる。この出来事から1782年までの全ヨーロッパでの「魔女裁判」による「処刑者」数について一次資料に当たった研究者らの推定値をまとめると最大4万人程度とされ、被告となった者の約80%が女性と見積もられている(私刑の数は含まれない)。時期で見ると16世紀後半から17世紀が最盛期とされ、当該地域の領主や教区の意向によって拷問や刑罰の軽重が一律ではなく、地域によって流行年代も異なる。カトリックプロテスタントの別はなく魔女狩りは行われており、基盤の弱い領主が統治する小領邦ほど民衆の魔女狩り熱が盛んだったとされ、現在のドイツ、フランス、スコットランド域内で顕著であった。ドイツ西部では1580年頃、「委員会」なる住民組織が盛んにつくられ、地域に潜伏する魔女の告発や証人尋問、裁判所とのやり取りなど魔女迫害を推進する役割を担った。イタリアでは裁判の件数こそ多いものの処罰は鞭打ち刑が多く、処刑はほとんど見られていない。イングランドは法律で拷問を禁じており、国王が任命した裁判官が各地を巡回して魔女裁判にあたり、処刑者は1000人ほどと他の西欧諸国に比べて少なかった。イベリア半島ではユダヤ教徒イスラム教徒らを標的とした異端審問が活発で魔女狩り自体は多くない。西ヨーロッパ最後の魔女狩りは1782年スイス、ヨーロッパ全体では1793年ポーランドでの実施とされており、魔女狩りの終息は近代の始まり、すなわち啓蒙思想の普及や自然科学の発達(脱魔術化)の時代まで待たねばならない。

近代以降、「魔女狩り」は西欧全土を覆った大迫害として人文科学・社会科学の研究対象とされ、長らく中世の「異端審問」と線引きされないまま地続きの現象とされてきた。しかしここまで見てきたように、両者には拷問による自白の強要、ユダヤ教徒への蔑視といった共通項も多く含まれる一方で、教会もとい当時のキリスト教的社会構造そのものが抱えていた性差の問題が先鋭化されたかたちが魔女狩りだったともいえるかもしれない。異端審問は教化を第一義とした宗教・宗派に対する弾圧であり、キリスト教よりはるか以前から女妖術師や古代の巫女にあたる職能をもった「賢い女」は存在してきたが異端に該当する存在ではなかった。はたして魔女はどのようにして誕生に至ったのか。歴史学者Michael D. Baileyの新しいレポート(2020)では、12~13世紀にかけての高等教育機関(大学、神学校)の充実が神学者・法律家・医師などを志すエリート階層に古今東西神秘主義思想や「占術」「魔術」「妖術使い」といった後に悪魔学として体系化される知的アイデアを広めたと指摘している。12世紀までは修道院などが聖職者育成の役割を担ってきたが、典礼儀式や聖書、祈りの研究が主であったとされ、11世紀後半のグレゴリウス改革により神学的議論のための論理学や教会運営を学ぶ司教座聖堂学校が設立されており、ボローニャ大学パリ大学などは私塾と学徒らによる都市のギルド(組合)組織から発展しており、各国から貴族の子息らが集まって学識を深めた。大学で広い知識を得た学徒たちが再び地元へ戻り聖職者や名士となっていったことが、「魔女狩り」拡大や「悪魔学」の流行に一役買っていたことは大いに考えられる。ヨーロッパ迫害史に詳しい歴史家ノーマン・コーンの研究では、魔女セクトサバトで行う獣頭の魔神崇拝、こどもや赤ん坊をさらっての食人行為、夜毎なされる乱交や近親相姦といった告発が、古代ユダヤ人や原始~初期のキリスト教徒に対して向けられた疑惑と同根の差別的妄想に基づいた迫害であるとし、中世-近世ヨーロッパにおける悪魔崇拝を行う「魔女」の存在そのものを否定した(『Europe’s Inner Demons』1975)。この指摘は、それまで民俗学者マーガレット・マリーにより提唱されていたキリスト教化以前から続くヤヌス崇拝や魔女の原型となる伝統が中世には残存していたとする説を否定し、現代の魔女研究における重要なエポックと見なされている。

最後に、イタリア、スコットランドイングランド、北米植民地州各地に起こった魔女狩り事案を紹介して結びとする。

 

■イタリア:ベナンデンティの迫害

イタリアの歴史学者カルロ・ギンズブルグは、著書『Benandantiベナンデンティ』(1972)で、16~17世紀、北イタリア・フリウリ地方の農民集ベナンデンティによる豊穣を祈願する儀礼悪魔崇拝サバトとみなされてローマの異端審問にかけられた過程を調査し、審問官が尋問を通して、彼らの伝統儀礼が(異端審問官の思い描く)魔女セクトサバトへと書き換えられていったことを検証している。

ベナンデンティとなる人は、頭を羊膜嚢に包まれて生まれてくると信じられており、先天的な幻視能力を備えた豊穣の守護者とみなされた。豊穣のための儀式では主に男性の魂がネズミやネコやウサギに乗り移り野原へと向かい収穫を掠めようとする邪悪な魔女と戦って、勝てば豊穣が約束された。女性たちは男性たちが魔女と戦うなか、飲み食い踊りの宴を催して占術などを行った。儀式のないときは、ヒーラーとして悪魔から受けた傷や村人が魔術によってかけられた病を治癒するまじないを授けた。初期の記録では、反キリスト的行為をするサバト悪魔崇拝は認められず、調査にあたった司祭にはベナンデンティを悪い魔女と戦う良い魔女だと理解され咎められなかったとされているが、後年、異端審問官によって非難と追及が繰り返され、20世紀に至るまで「魔女」のレッテルを張られることとなった。ギンズブルグはサバトに関して、「洗礼前のこどもや赤ん坊を食べる」「井戸に毒を入れる」「悪魔の肛門に接吻する」といった当時唱えられていた悪魔的要素のほとんどは、ユダヤ教徒イスラム教徒、キリスト教異端セクトハンセン氏病患者らになされてきた中傷でもあったとコーンに近い見解を示している(『闇の歴史 サバトの解読』1989)。

 

スコットランド:ノース・ベリックの魔女裁判

1589年9月、スコットランド王ジェームズ6世(のちのイングランドジェームズ1世)との結婚が決まったデンマークのアン王女はスコットランドへ向かう海上で事故や度重なる嵐に見舞われ、退避を余儀なくされた。使節から状況を聞かされたジェームズ6世は花嫁となるアン妃を避難先のノルウェーオスロまで迎えに行き、結婚式は予定されていたスコットランドではなくノルウェーで行われた。その帰途、2人を乗せた船はまたもや嵐に遭遇し、さらに数週間の足止めをくらう。

この艦隊の被害に関する訴訟において、任に当たったデンマーク艦隊提督ぺーダー・ムンクは王室の船の装備が不十分だったと非難すると、デンマーク財務大臣クリストファ・ヴァルケンドルフは織工カレンの元にいる魔女による妨害が行われたと釈明し保身を図った。1590年7月、デンマーク魔女裁判が開かれ、拷問によってアンナ・コルディングスが関与を認め、5人の女性を共犯者として挙げた。火打石を西に向かって肩越しに投げる、箒を濡らして振る、乾いた河原に杖を並べるといった嵐を起こす魔術を用いて、王室の航海を妨害したと集会の様子を説明した。アンナは「悪魔の母」と悪名をつけられて見世物にされたのち、火刑に処された。この裁判で計12人の女性が関与したとして処刑されている。

この報を受けて、ジェームズ王も魔女による妨害への嫌疑を深めて裁判を起こし、1590年の秋までにエディンバラ東側の港町ノース・ベリック周辺に住む70人以上の容疑者が検挙された。シートン家に仕えていたメイドのギリス・ダンカンは突如ヒーリング能力に目覚め、夜な夜な外出しているようだった。主人が彼女の行いについて拷問で問い詰めると、多くの男女の名を挙げた、と1591年に発行されたパンフレットNewesは伝えている。疑いをかけられた老未亡人の助産師アグネス・サンプソンはジェームズ王と評議会の面前で妨害への関与を否定した。彼女は「魔女の証」を見つけるために体毛をすべて剃られ、「魔女の手綱(scold’s bridle )」と呼ばれる拘束具(固定針で舌を押さえつけ開口状態のまま喋れなくさせる拷問具)で壁に固定されたまま眠ることすらも許されないという拷問の末に53の罪を認め、翌年、魔女として火刑となった。

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学校長であり学者でもあったジョン・フィアン博士は魔術に関する知識があったことから、魔術を普及させ、魔女たちを扇動しているなどの告発を受けた。当初は悪魔との契約があったと認めたものの、その契約は放棄して生涯クリスチャンとして奉仕していると訴えた。しかし嫌疑を拭うことはできず、爪剥ぎにピン刺し、蝶ネジによってそれぞれの指を、「ブーツ」と呼ばれる拷問具で脛骨を破砕するといった拷問を処刑の日まで受け続けられた。ジェームズ王はこうした自らの経験から見識を深め、1597年に『Daemonologie デモノロジー悪魔学』によって悪魔、魔術、魔女裁判の正当性、ノース・ベリック魔女裁判などについての対話型哲学論集を発表している。

スコットランドの経済史・歴史学者クリストファー・スマウトによれば、スコットランドでは1560年から1707年の間にかけて3000~4000人が魔女として処刑されたという。

 

イングランド魔女狩り将軍マシュー・ホプキンス

サフォーク州の清教徒(カルヴァン派の新教徒)の牧師の家に生まれたマシュー・ホプキンス(1620-1647)は、イングランド東部を中心に魔女狩りを生業として助手を連れながら巡業した。1644年3月からの3年ほどで足を洗うまでの間におよそ300人を処刑したとされ、英国での魔女裁判全体の約2~3割が彼の執行によるものと見積もられている。

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彼は訪れた先々で、貧しく教養がない、独り身の女性などを選定して「魔女」に仕立て上げた。彼女らが犬や猫といったペットを飼っていれば「使い魔」であるとして糾弾した。当時のイングランドでは拷問が禁じられていたため、容疑者に睡眠を与えず部屋を歩き回らせ続けて疲労で意識が混濁する状態にして誘導尋問を行うといった脱法的拷問を行っていたとされる。また水は聖なるものであり魔女を受けつけない、魔女は洗礼を受けていないため水に浮くという伝承を逆手にとって、容疑者を縄で吊るして水場に浸け、浮けば死刑、沈めば溺死の危険を伴う「水責め」や、ほかに巨大な秤に容疑者と分厚く重い聖書とを載せ、聖書より軽い場合は魔女とする「魔女の秤」といった判別法を用いた。また魔女には悪魔との契約の際に身体のどこかにその証が存在するとされており、その箇所は無痛で血が出ないと信じられていたため、全身をピンで刺して刻印を探した。当時、こうしたピンには押したら尖端が引っ込む仕掛け(現代の玩具でいう“びっくりナイフ”のような細工)が施されており、血が出ないことを理由に魔女の印を捏造していたと考えられている。ホプキンスは「議会から魔女狩りを正式に委任されている」と吹聴し、地域の有力者に掛け合って庶民の年収程の大金を支払わせており、各地では費用捻出の特別税が課された。ホプキンス自身について具体的な情報は残されていないが、こうした拷問規制を免れるための悪知恵、魔術や魔女狩りに関する知識、海事や貿易に関する法律にも精通していたこと、裁判での証拠の提示手法等から、法律家か弁護士として訓練を受けた人物ではないかとする推察が為されている。また彼が若い時に亡くした父親ジェームズ・ホプキンス牧師は教区民の支持が厚かったことなどから、そうした威光を利用して有力者や聖職者層に取り入ることができたのかもしれない。あるいは憶測にすぎないが、ピューリタン革命の混乱に乗じて亡き父親や聖職者に対する逆恨みから魔女狩りを詐欺手段に用いる着想を得たのかもしれない。やがて莫大な報酬請求や魔女狩りの濫発によってホプキンスを批判する触書が回り、巡回裁判所から尋問を受けるまでになり、1646~47年頃には事実上廃業したとみられている。

1647年、ジェームズ王の『Daemonologie』を引用した魔女発見の手引書『The Discovery of Witches』を出版したが、同年夏にホプキンスは病没。一説には「水責め」によって魔女として処刑されたとするものもあるが、おそらく胸膜結核で亡くなったと見られ、遺体はミストリーコースの聖マリア教会墓地に埋葬された記録が残されている。だが皮肉なことに1648年から1663年にかけて続いた北米植民地ニューイングランドでの魔女狩りにおいてホプキンスが推奨した魔女あぶり出しの手法が採用されるなど、ジェームズ王やホプキンスの死後も魔女狩りの悪習は引き継がれてしまった。

 

■北米・セーラム魔女裁判

1692年、北米マサチューセッツ湾植民地のセーラム村(現マサチューセッツ州ダンバーズ)で、3人の女性に対する魔女告発から、わずか数か月で100人以上が投獄され、絞首刑、獄死、拷問死も含め20人以上の死者を出した事件。

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Witchcraft at Salem Village, William A. Crafts, 1876

セーラム村は1626年に清教徒によって興され、先住民やフランス人入植者らとの間に敷地境界、放牧権、教会の特権について多くの内紛の種を抱えた地域だった。大寒波を迎えた冬のこと、9歳のベティ・パリス、そのいとこで11歳のアビゲル・ウィリアムズという2人の少女はピンでつままれたような痛みの症状を訴え、奇声をあげたり、物を投げたり、家具の下にもぐったり、体を捩じらせたりといった異常行動を繰り返したが、医師は身体的異常を発見できなかった。すると村内のほかの少女たちも同様の症状を訴えはじめ、当時村の牧師を務めていたベティの父サミュエル・パリスが「誰があなたを苦しめるのか」と尋ねたところ、ある3人の村人の名前が挙がる。魔術を使ったとされた幼子を抱える貧しい妊婦サラ・グッド、教会の集会に姿を見せず不信心者とされていたサラ・オズボーン、少女たちにブードゥーや『魔女に与える鉄槌』について話し聞かせたとされたパリス家の女奴隷ティトゥバ。彼女たちには魔女告発の典型的な特性が認められ、共同体における一種の追放者として刑務所に送られたと考えられる。パリス牧師はティトゥバに暴行を加え、グッドとオズボーンに強制されて悪魔の僕である魔女になったことを証言させた。グッドの4歳の娘も尋問を受けて母親に不利な証言をしてしまい、夫や隣人もグッドを魔女と認め、自分たちも彼女の被害者だと訴えた。グッドは独房で出産するも乳児はすぐに息を引き取り、その夏、母親も絞首台に上った。サラ・オズボーンには名士であるパトナム家の夫がいたが死別し、まもなく奉公人アレクサンダー・オズボーンを雇い、その後結婚した。亡夫は息子へ150エーカーの農場を相続する遺言を残していたが、オズボーン夫婦はそれを反故にして自分たちのものとしたため、遺言執行者であるパトナム家と対立した。そのためオズボーンへの告発の背後にはパトナム家からの強力な提案があったものと考えられている。ティトゥバは自白や2人への非難のほか、黒い犬や豚、黄色い鳥や鼠を操って悪さをしている等といった悪魔学的供述を次々と行って民心を狂わせ、サバトに関与したとする男女の名を挙げていったため、住民の一部は村には悪魔が本当に実在するのだと信じた。取調べの記録には「告白しなければ絞首刑となり、告白すれば解放される」という記述も残されており、ティトゥバは処刑を免れたもののパリス牧師が刑務所の使用料の支払いを拒否したため、再び奴隷としてよそへ売却された。当時12歳の少女アン・パットナムはほとんど全ての裁判に出席し、驚異的な状況描写を交えた証言によって62人もの告発を担当した。裁判終結後、アンは病床に臥し、1699年には両親を亡くして9人の兄弟姉妹を育てなければならなくなった。1706年、彼女はセーラム裁判での自らの行いを謝罪し、生存者・遺族らはそれを聞き入れた。1716年、30歳代半ばに亡くなり墓標なしで埋葬された(Upham,Charles W.『Salem Witchcraft』1867)。

セーラム魔女裁判と同時期に植民地下で影響力を誇ったハーバード大学学長インクリース・マザー(1639-1723)は、1684年『Remarkable Providences 』を発表し、魔術に対する教義上の信念を宗教改革者やハインリッヒ・クラマーを引用して綴っている。セーラム魔女裁判では、主席判事ウィリアム・ストートンによって「霊的証拠(魔女の精神・霊性が見せる夢や幻影)」が法的証拠として認められていた。インクリースの息子コットン・マザー牧師は、霊的証拠は容認するが、悪魔が無実の人・高潔な人の形を表す可能性もあるとして、霊的証拠だけで有罪判決を出すべきではないとしたが、過去に洗濯婦グッディ・グローバーに対する魔術裁判において悪魔と魔女、そしてその「不滅の魂」の存在を認めていた(『Memorable Providences Relating to Witchcrafts and Possessions 魔術と所有に関連する記憶に残るプロビデンス』1689)。ロバート・カレフはセーラム裁判におけるコットン・マザー(と父親インクリース・マザー)の果たした影響を非難する『More Wonders of the Invisible World 見えない世界のより多くの驚異』を出版。そこでのインタビューでティトゥバは、パリスから尋問に対して何をどのように言うか指導があったことを認めている(※)。

(※セーラム魔女裁判は数多くのフィクションの題材とされるが、ティトゥバの人生について詳細な記録は残っておらず、歴史的経緯とフィクションを織り交ぜた「アウトグループ」のステレオタイプとして描かれることが多い)

 

 

 

情報技術がはるかに進んだ今日においても、我々はワイドショーやSNSで“戦犯”を見つけては謝罪や制裁を求めて日夜炎上騒ぎを起こし、他国や移民に責任の所在を押し付けたり、地域や住民に確証のないレッテルを貼って難癖をつけることをやめない。そこにそうした意図や憎悪がない場合ですら、何気ない「つぶやき」が相手や通りがかりの第三者をも傷つけてしまうことがある。自分の一挙手一投足が凶器のように思える非対称性において、何を語ればよいのか。私たちは今も変わらず“魔女狩り”の世界の中を生きており、明日にも自分が魔女の皮を着せられるかもしれないという恐怖が私たちを新たな暴挙へと駆り立てるのである。

 

 

 

 

参考および引用

■Barbaroi! http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/

魔女狩り“学術的”情報サイト『魔女誕生』http://witch.gtx.jp/

■Jeanne-darc.info https://www.jeanne-darc.info/

■wellcomecollection http://catalogue.wellcomelibrary.org/record=b1191208

■『中世末期の妖術師像 -『蟻塚』から『鉄槌』へ-』2012,菊地英里香

■「呪術的実践 = 知の歴史的諸相」 --西欧近世 の魔女信仰の視角から』2015,黒川正剛

■desire_photo & art https://desireart.exblog.jp/23534346/