ドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』で呼び覚ませ!

 今更ながらNHKよるドラ枠で話題となった『腐女子、うっかりゲイに告る。』(2019年4月20日~6月8日放送)を鑑賞しました。昨今の民放ではなかなかお目にかかれない青春恋愛ドラマとして様々な感情を呼び起こさせてくれる傑作でした。

 

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主人公の男子高校生・安藤純を演じるのは、ドラマ『おっさんずラブ』(2018)でちずや武蔵の元嫁にぐいぐいイッてた「マロ」こと栗林歌麻呂役で好演を見せた金子大地さん。本作では打って変わってどこか陰のある男子高生を熱演しています。

女子高生のヒロイン・三浦紗枝を演じるのは、映画『ソロモンの偽証』(2015)で1万人規模のオーディションから主演に抜擢され、国内の新人賞を総なめにした藤野涼子さん。本作では恋する乙女の純情とパワフルさを瑞々しく演じています。

“質の高いドラマ”を表彰するコンフィデンスアワード・ドラマ賞(2019年4月期)では、金子さんが新人賞、藤野さんが助演女優賞、三浦直之さんが脚本賞を受賞しました。

 

 純は、偶然クラスメイトの三浦紗枝がBL(ボーイズラブ)を嗜好する腐女子であることを知る。学内での“腐女子バレ”を恐れる紗枝は、釘を刺すために純に接近。BLはファンタジー、本当のゲイは汚い、という純に対して、「ゲイの人に失礼」と怒る紗枝。

 

「真に恐れるべきは、人間を簡単にする肩書きさ」

「人間は、自分が理解できるように世界を簡単にしてわかったことにするものなのさ」

 

純はSNS上の親友Fahrenheitの言葉を思い出して、“腐女子”とラベリングをせずに紗枝と向き合おうとする。そんな純の態度に心を打たれた紗枝は、好意を抱いて猛アピールを掛ける。

しかし純にも、周囲の人間に明かしていない問題を抱えていた。同性愛者、それも年上妻子持ちの誠さんというセックスパートナーとの関係。それでも、ひとり親で懸命に自分を育ててくれた母の気持ちや自分の将来を考えたとき、異性を愛し、子どもを授かり、家庭を築く“ふつう”の幸せを手にしたい、と願っている。

同性愛者であることは知らないものの、自分のことを好きになってくれた紗枝となら、自分は付き合えるかもしれない。うまくやり遂げられる人間に変われるかもしれない。The Show Must Go On…純は紗枝の気持ちを受け容れ、2人は付き合うことに。

  Mr.Fahrenheitの言葉には、身につまされる思いを抱かされます。私たちは日常的に人や事物をラベリング・カテゴライズすることで、世界を簡略化しています。そこにはレッテルや偏見、差別意識をも孕んだ拡大解釈があること、ときにそうした認識が相手を苦しめたり傷つけることは、大抵の人が身をもって分かっていることでもあります。

純のように自分の性自認をクローズドにすることで無用な社会的軋轢を避ける同性愛者は少なくないでしょう。私が“ふつう”の恋バナや下ネタをすることで、そうした人たちを傷つけていたり負担を強いてしまっていたかもしれない。そして誠さんのように、鳥にも哺乳類にもなれない“コウモリ(性自認とは異なる結婚契約、いわば偽装結婚)”を選択する人もいる。純は、誠さんのような二重生活に憧れていたのでしょうか。はたしてそれは“ふつう”の幸せなのでしょうか。

 

 セックスを試みるもエレクトできない純。

 第4話では、純の精神が大きく揺らぐ出来事が起こる。

「いつか二人を認めてくれる国に行って、ずっと一緒に暮らそうと約束していたんだ」

「僕たちのような人間はどうして生まれてくるんだと思う?」

自分と同じようにクイーンを愛する親友、クローズドな同性愛者の生きづらさを共有し、多くの助言をくれたFahrenheitの自殺。

愛する従兄弟の死に動揺したFaherenheitは親に“ゲイバレ”し、葬儀に参列することも許されなかった。愛する人の死に向き合うことさえ許されなかった彼は、この世界に絶望し、自らこの世を去った。これからだれと困難を分かち合えばいいのか、何を頼りにして生きればいいのか、純は激しく動揺し、狼狽える。そんな純を受け止めることができたのは、誠さんだけだった。抱き合い、激しく接吻する二人。その姿を目撃してしまった紗枝。

  セックスに際し、気持ちに反して勃起しない、したいけれど濡れないなんて経験をしたことがあるひとは少なくないと思います。あらゆる情けない感情を煮詰めたような虚しさと、相手に対する申し訳なさが入り混じる瞬間ではないでしょうか。勃起や分泌液こそが愛情の象徴だったかのように錯覚し、自分にはこの人を愛する資格がないと神から宣告されたような失意。私は、純のエレクトエラーのシーンを見たとき、これはゲイの生きづらさが主題のドラマではないのだと確信しました。本作は、自ら腐女子やゲイの殻を被り、青春をおおっぴらに謳歌できない不器用な男女の青春ドラマなのです。

 ここまで恋愛下手な紗枝が空気を読まない強靭メンタルで皮肉屋の純に受け容れられようとする健気な行動が、物語をコミカルにポジティブな方向に引っ張られて推進していました。ですがMr.Fahrenheitの自殺によって、“闇落ち”してしまった純は一気に絶望へと駆られていきます。

 

 純の親友・亮平は、自分の気持ちを偽らない。紗枝を好きな気持ちはずっと変わらないけれど、大切な親友と幸せになることを願っている。そんな亮平の助言もあって、紗枝に、自分が同性愛者であること、なのにどうして付き合ったのかを打ち明ける純。

しかしそれを聞いたクラスメイトの小野は、亮平の気持ちを踏みにじるような純のやり方に怒りをぶつけ、純が同性愛者だと校内に噂を撒く。態度が一変するクラスメイト、気丈に振舞う亮平でさえ“いつも通り”ではなくなってしまう。純は、もう疲れた、と言ってクラスのベランダから飛び降りる。

「なんで僕なんか生んだんだよ」「なんで僕はまだ生きてるんだよ」

 純は死なず、親にも“ゲイバレ”した。ここではないどこかに行きたい。悶々とした思いで入院生活を送る中、紗枝と亮平が見舞いに訪れる。「純君、会いたかったよー!」「お互いのことをもっと分かった上で、また話そう」2人は純を放っておいてはくれなかった。それからも紗枝はBL本を口実に病室に通った。学校にはもう行かないかもしれないという純に、絵が表彰されるから終業式には来て、と念を押す紗枝。

 純の幼馴染・高岡亮平は切なくなるほどイイやつキャラでした。演じる小越勇輝さんは、ノリといいベイビーフェイスといいはまり役でしたが当時24歳だったと知って更に驚きました(若くね⁉)。

 またゲイバレしても動揺しすぎず取り繕い過ぎず、息子との絶妙な距離感を築く明るい母親・安藤陽子役・安藤玉恵さんも素敵でした。近しい母子関係は一歩間違えばマザコンへと解釈をゆがめてしまいますし、急に“同性愛”に迎合すれば途端にリアリティを失います。お母さんはよく分からないけど“息子”に寄り添う、というシンプルな愛情として描かれた点はとても良かったです。実際、高校大学生になった子どものこと全部分かっている親なんて気持ち悪いですから。

 また飛び降りについても、変に盛り上げ過ぎなかった結果、振り返ってみると第7話のスピーチが最も際立つという好演出に感じました。 

 

You can run, But not from yourself.

カフェバーを営む同性愛者のケイトは思い悩む様子の純に、逃げてもいいがどこかで戦う覚悟を決めなければ、生きにくいままだと諭す。純は終業式に出る決意をした。

「私は、BLが、大好きでーーーす!!!」

紗枝は表彰の壇上で突然のカムアウトを決行。ざわめく体育館、スピーチを遮らんと紗枝を取り押さえる教師たち。

「三浦、続けろ!」猛然と駆け付けた亮平が教師たちに抵抗し、義憤に駆られた友人たちが一気に加勢し、紗枝は大スピーチを強行する。

紗枝はすべてを語りあかす。腐女子バレで苦しんだ自身の過去、好きになった人がゲイだったこと、ゲイを隠して生きることを選んだ彼が味わってきた苦しみ、彼が求める“ふつう”の幸せを。「空気抵抗を無視する」ように、自分の性を異物として世界から切り離そうと生きてきた彼、そんな彼が好きで苦しい、と。

(世界を簡単にする。たったひとつ、大事なことだけ残す。大好きな子が泣いている)

純は壇上に駆け上がると、紗枝を抱きしめ、キスをした。

 その生き様から同性愛者のシンボルでもあったクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリー。原作小説でも章立てと物語の展開を示唆するものとしてクイーンの曲名が使われていますが、第7話に採用されたWe Will Rock Youブライアン・メイによる楽曲で、原作にはありません。しかし第7話の主人公は純ではなく紗枝であること、歌詞内容を社会が要請する“あるべき姿”“ふつう”を押し付ける世界に立ち向かおうと決起を表した応援歌だと解釈すると、大変符合した選曲に思います。クイーンはドラマティックな曲が多いためドラマを随所で盛り上げてくれました。

 しかし、第7話は“問題”も多く孕んでいます。自分の内的嗜好を周囲に晒すカミングアウトと異なり、他人の内的嗜好(秘密)を暴露するアウティングについては現実的には人権侵害に当たります。若者の暴走、青春の発露と括れば許される行為ではないので、視聴者は「ここまで晒す必要あるの?」とわだかまりを残して反面教師にする必要があります。また「同性愛者が全員オープンにすればOK」という類の話ではないこと、現実にはオープンにすることで被害が大きくなるケースもあること、理念としては同性愛に宥和的であっても現実には迫害する人や受け入れられない人も存在することには留意しておくべきでしょう。ドラマの体育館は祝福の歓喜に包まれますが、現実にはサイレントマジョリティが潜んでいるのです。

 紗枝の気持ちを真っ先に守ろうとした亮平や、紗枝と純を見守ってきたクラスメイト、ゲイ差別がしたい訳ではなく純の自分中心のやり方や自嘲的な煮え切らない態度に納得できない小野など、群像劇として大きなうねりを感じさせる大スピーチシーンは(内容に賛否はあれ)非常に見事でした。藤野涼子さんだからこそ“どこにでもいそうな腐女子”に輪郭と情熱と説得力を与えられた、今年最強のヒロインのひとりだと言って過言ではないと思います。

 

 海デートに誘われウキウキの紗枝。だが純が向かった先は、亡き心の友が暮らした家だった。

「僕が好きな男性を想う気持ちと、彼女を想う気持ちは、全く違います」

純はそう宣言し、Fahrenheitの部屋へと入る。そしていつも自分を支えてくれた彼が、その強さに憧れさえ抱いた彼が、実は年齢を偽った中学生だったことを知る。

「逃げたいんじゃなくて、自分を試してみたいんだ」

大阪でこれまでとは違う生き方をしたいという純に、紗枝は別れを告げる。そして純もまた追いかけてきたMr.Fahrenheitの影と訣別するのだった。

誠さんとの最後のデート。妻とのなれそめを語り終えると、弱いからそう生きることしかできなかった自分を鳥にも獣にもなれなかった“コウモリ”に準える。以前、純がした「もし2人がおぼれていたら」の質問に「僕は、妻を助けるよ」と答えた。

紗枝の受賞作品の展覧会に訪れた純。そこには、出会った当時の自分がモデルになった絵が飾られていた。

「僕をちゃんと見てくれて、本当にありがとう」

そして春、純は大阪の大学へ進学し、新たな一歩を歩きはじめた。

 原作未読の視聴者からすると、小野賢章さんのイケボ(イケメンボイス)にまんまと騙されていた驚きと痛快感がありました。 

 純と紗枝は、別れてからも連絡を取り合っています。フレディとメアリのように心の深い部分で通じ合ったかは分かりませんし、若い二人のこと、次第にお互いのことを忘れていくかもしれません。

しかし彼らは同性愛者として、腐女子として、二人が出会う以前よりも少し身軽になって生きていくに違いありません。これからどんな困難に向かおうとも「きっと神様も、腐女子なんじゃないかな(*‘ω‘ *)」というパワーワードで乗り切れるのではないでしょうか。

 

 

 

  原作は未読ですが、角川の小説投稿サイト・カクヨムにて連載されたweb小説、浅原ナオト『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(2018)。著者の浅原さん自身が性自認セクシャリティ意識について語っている記事・tweet群があったので転載します。

kakuyomu.jp

togetter.com

 

 昨今のLGBT界隈はかつての女性解放運動に似て、Twitterのような場では主義主張が分裂して当事者の方々にも様々な対立*1が顕著になっているように感じます。当事者コミュニティ内部でもまた別様の息苦しさに悩まされるジレンマは不幸としか言えません。

「ひとそれぞれ」で片づけるのはあまりに無責任ですが、人の数だけ性差がある、そのギャップによって制約や束縛を受けない社会ことが理想であることは皆共通していると思います(差別主義者は論外として)。ユニバーサルデザイン的発想でいえば、困難や苦痛を受けているひとが解放される社会設計がより広く、より多くの問題をシンプルでクリアーに変えていける。差別する人はいる、対応に困る人もいる、でも「ふつう」の許容量がもう少し広がっていけば、なくなるような悩みや苦しみもたくさんあると思います。

 

 「実は俺ゲイなんだけどさー」

 「へぇ、そうなんだ。じゃ、ちんこタッチやめるわ」

 「やめんな、学校辞めんぞ。ところで、こういうことで悩んでて」

 「それな。俺も似たようなことあったわ」

 「マジか」

 「皆はじめは結構戸惑うっしょ。俺の場合はこういうサイトで情報見つけて、みんなそんなもんかッて納得できたけど」

 「へぇ、ゲイ向けでもそういうサイトあるかな」

 「どうかな?あっ、幼馴染のゲイの友達がいるから聞いてみるわ」

 

 それくらいゆるふわな友達がいれば、許される居場所があれば、助かる命や小さなハッピーはもっと増やせるだろうと期待しています。だれだって自分が変態だ、と感じたことはあるし、変態をどこかで認めてほしい

そうした葛藤は、現在放送中のNHKよるドラ『だから私は推しました』で地下アイドル沼にハマったOLの物語にも継承されていきます。

 

 

*1:「オカマ」「オネエ」「女装家」などTVタレント化の進展によって、「同性愛者のイメージがー」と糾弾する方もいますが、一方で社会進出と言論の場を広げていることは確かです。ただそれが“目立たなければ生き残れない業界”というのは皮肉なことにも感じます