祟りにまつわるエトセトラ

 かつて人気を博したABCラジオの番組『北野誠サイキック青年団』(1988.4.~2009.3)で、お盆時期恒例の人気企画として真夏の怪談特集があった。

パーソナリティの北野誠氏とレギュラー竹内義和氏、ゲストに怪談蒐集家の中山市朗氏を迎え、リスナーの投稿から話題を広げて、関連する逸話を披露するといった内容だ。その2008年8月17日放送回で興味深いトークが展開された(42分ごろから)。


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元Sugar(1980年代の日本の音楽グループ)のモーリ(毛利公子)さんが“お岩さんの祟り”に遭った、というリスナー投稿から話が膨らんでいき、“将門の首塚”などを迂回して、話題は「念」「怨念」へとフォーカスされていく。

 

・将門だけでなくさまざまな武士の怨念が集まっているのではないか

・ある一定のベクトルを持った多数の念が合流して“祟り”になるのではないか

・祟りがある、と大勢の人々が思い込むことで、効力を帯びるのではないか

・ひとは想念をキャッチしてしまう(祟りに怯える、祟られる)

・念を感知する・想起させるセンサーのようなものがある

・(祟りが)あるかもしれないと思った瞬間、(災いを)呼ぶ

 

 

 言葉として発した瞬間に、具現化させてしまうような霊力が宿るとする“言霊”の発想にも近い。だとするとモーリさんが先立たれることを予見していたかのようなインタビュー内容も妙に恐ろしく思えてくる。

 

 行為の報いとして神仏や怨霊が霊的な現象や制御不能な災いを引き起こすことを“祟り”と呼ぶが、かつてのそれは、飢饉や疫病、天災などを指し、神仏の怒りの顕現と解された。人々の悪い行いのため、禁忌を破ったためだと戒めの意味をこめて、「海の恵みに感謝せよ」「裏山に立ち入るべからず」と共同体に規範が成立する。

我々に罰を与えるのは神であり、我々が罪を犯すから罰を受けたのだ。人知では計り知れない恐怖・畏れに対して、受難の原因を自分たちの誤った行動に対する報いと考えることで、自分たちを納得させた。神は異界から我々の行いに目を配り、悪行は共同体の外(周縁)からやってくるものだった。

政治的背景や戦争、宗教の発達によって、祟りは自然界・生物界の枠を超えて、ひと、死者の恨みつらみが怨霊になり災いをもたらすと信じられていった。怨霊の鎮魂によって災いの終息と国家安寧を図る、日本でいえば、平安期の「御霊信仰」に連なる。為政者や宗教家はその災いを神ではなく“(死んだ)人の仕業”と仮託し、“鎮静化できる対象”と見立てることで、民衆の心の救済を図った。いわば共通の敵を立てることで、民衆の不満を逸らすのだ。災いが治まれば物語として共同体全体に、歴史として織り込まれることで後世へと伝えられた。

祟りには、理解の範疇を超える災いに対して、文脈を与え、共通認識させる安全装置の側面がある。

 

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見立三十六歌撰之内 藤原敏行朝臣 累の亡魂/三代歌川豊国(国貞)

  現在の茨城県常総市羽生の法蔵寺裏手、鬼怒川のほとりの農村で、17世紀半ばに実際に起こった事件として伝えられる“累ヶ淵”という奇談がある。

百姓の与右衛門と杉の夫婦があった。杉の連れ子・助は生まれつき醜い見た目で足が悪く、与右衛門から大層疎まれていた。夫婦仲が悪くなることを心苦しく思った杉は幼い助を川に投げ落として殺し、あくる年、与右衛門との間に新たな子を授かった。その子は累(るい)と名付けられ、やがて死んだ助と生き写しの醜い容貌へと成長した。助の悲劇を知る村人たちは彼女は助の怨念が重なって生まれたのだと噂し、累(かさね)と呼んだ。

病で相次いで両親に先立たれた累は、堂で病に苦しんでいた谷五郎という男を助けることになる。流れ者だった谷五郎だったが恩返しに農作業の手伝いなどしていると、村人もそれを見初めるようになり、累の許に婿入りすことになった。だが性根が出たのか、やがて累の醜さが疎ましくなり、他の女といっしょになろうと、累を川へ突き落して殺してしまう。

その後、谷五郎は幾度も後妻を迎えるが、早死にしたり離縁したりと長く続かない。やがて7人目の妻が娘・菊を授かるが、14歳を迎えると累の怨霊が憑依したのだった。菊の口を借りて、谷五郎の非道を、殺された真相を訴え続ける累の怨霊の凄まじさ。やがて話を聞きつけた祐天上人*1の法によって累の解脱に成功するも、菊は再び憑依される。それは村の古老の話から、菊にとり憑いているのは幼い頃に殺された累の姉・助だと分かり、祐天上人は懇ろに弔って解脱させた。

 

 

  この話は、元禄3年(1690年)『死霊解脱物語聞書』という仮名草紙に収められて知られるところとなった。のちに四代目鶴屋南北(『東海道四谷怪談』をはじめ怪談狂言のヒットメイカー)が歌舞伎『色彩間苅豆』、三遊亭圓朝が落語『真景累ヶ淵』を公演するなど、江戸後期にはだれもが知る怪談のモチーフとされた。

 

 現代風に解釈すれば、助と累の姉妹は遺伝性・先天性の病と考えるのが妥当である。二度の憑依にあった菊も、何がしか障害の種を受け継いでいたやも知れない。あるいは狭い集落にあっては、立て続けに災いの起こる「家」の悲劇を耳にしていたであろうことも想像できる。またそのような「家」の娘として、苛烈ないじめや年頃からし性的虐待の餌食にされていたとしても不思議ではない。もしそうだったとすれば私には憑依というより解離性同一障害(多重人格)のように受け取れる。流れ者だった谷五郎についても、今でいうDVのような粗暴な面があって後妻たちを苦しめたのかもしれない。

そういった解釈をしてしまうと、私には、“累ヶ淵”の出来事を怪談や祟りに括ってしまうことが憚られるのである。

 

 しかし当時はもちろんそういった医学的・心理的な研究やこどもに対する人権意識はまだまだ進んでおらず、「間引き」「子殺し」が頻繁に行われた時代にあって、この話は今よりもっと肉薄して感じられた問題だったはずだ。しかし糊口をしのぐため、望まれぬ間柄に授かってしまったため、といった“現実的に”やむにやまれぬ事情ではない。“生まれつきの醜さ”のせいで親や夫の身勝手な理由で、非業の死を余儀なくされた不憫な姉妹の哀しい祟り。ひとびとは与右衛門や谷五郎ではなく、少なからず姉妹の怨霊に同情していたに違いないのだ。

ひとがその災いを祟りという物語になることで、想像力の依り代となり、理解を助ける。そうやって祟りは人から人へ、次代へと伝播し、その効力の範囲を広げるのである。

*1:のち小伝馬の伝通院住職、将軍家菩提寺である増上寺法主を務め、徳川綱吉・家宣らの帰依を受けた高僧。没後に目黒・祐天寺が開山される