福岡市西区予備校生殺害事件

2016年、福岡県で発生した予備校に通う女性が襲撃された事件について記す。加害者は同予備校に通う少年で、以前女性に交際を申し入れたが断られたことが事件の発端になったとみられている。

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■概要

2016年2月27日20時50分頃、福岡市西区姪の浜6丁目の路上で近くの住人から「女性が男に襲われている」などと110番通報があった。被害に遭ったのは付近に住む予備校生・北川ひかるさん(19)。警官が駆けつけた時点で意識を失って倒れており、手には抵抗した際に掴んだとみられる短い頭髪が握られていた。すぐに病院に搬送されたが3時間後に死亡が確認された。

現場に逃げ回ったような形跡はなく、目撃者は男の唸り声と抵抗する女性の悲鳴を聞いていた。ひかるさんのショルダーバッグには財布などが手付かずで残されていたほか、付近に凶器とみられる全長20数センチのナイフ2本と手斧1本が落ちていた。男は馬乗りになって襲い掛かり、顔や首など上半身を中心に20カ所以上を刺したうえ、手斧で頭部を多数回殴打。防御創を含め全身の傷は59カ所にも上った。死因は出血性ショック死。

 

21時10分頃、現場近くの交番に自称福岡市中央区在住の少年(19)が「知人の女性を刃物で刺した」などと話して自首。少年は犯行直後に近くの川に飛び込んだと話しており、自殺を図ったとみられる。また両手から血を流し、指の付け根まで達する重傷を負っていたため病院で手当てを受けた。

当初、少年は被害者と同じ予備校に通っており「トラブルになった」「バカにされたと思った」などと動機の一部が報じられたため、被害者側にも少年に対してそれだけ強い恨みを抱かせる行動や落ち度があったのではないかとする見方もあった。しかし予備校の知人らによれば男女に交際関係はなく、親しい友人関係でもなかったことが明らかとなる。

 

■浪人生活

ひかるさんは中学時代には剣道部、高校ではダンス同好会で汗を流したほか、学業も優秀で生徒会長を務めたこともあった。学区外から熊本高校へ進学し、現役で九州大学に合格したものの第一志望の学部を目指すために駿台福岡校での浪人生活を選んだ。難関国立クラスを受講しており、センター試験を終えた後も二次試験に向けて集中授業にしっかりと参加していた。

当時は福岡市に住む大学生の兄と一緒に暮らしており、襲われた現場は自宅からわずか50メートルほどの距離だった。事件後の取材で、同居していた兄は「交際関係とか全くなかったので、そういうのじゃない」と語り、加害者とひかるさんとの間に交際関係があったのではないかとする見方を一蹴した。

 

事件当日の27日、ひかるさんは志望していた国立大の二次試験が終わった打ち上げを兼ねて、昼過ぎから予備校の友人ら合わせて6名で福岡市中央区天神の焼き肉店で飲食し、その後、カラオケ店で遊んだ。男4人女2人のグループには加害者となる少年も含まれていた。彼もひかるさんと同じ大学同じ学部を志望して予備校でも同じコースだったためである。

女性宅の最寄り駅である地下鉄姪浜駅(地下鉄天神駅から6駅目)の防犯カメラにはひかるさんよりも先に少年が到着していた様子が映っていた。少年は17時頃にカラオケ店でひかるさんたちとは別れ、先回りして姪浜駅待ち伏せていた。後頭部や背中にも傷があることから、帰宅途中のひかるさんを見つけて後をつけ、駅から北へ800メートル程行った住宅街で背後から襲い掛かったとみられている。

 

前年の2015年4月に二人は予備校で知り合った。同年齢で同じ熊本県出身者、親許から離れての予備校生活だったため共通の話題があったのかもしれない。5~6月頃にかけて、少年はLINEを通じて好意を伝えていたが、ひかるさんから「勉強に専念しよう」「友達でいよう」などと「言葉を濁され」、交際には至らなかった。夏に凶器とされたナイフ1本、年明けにも手斧とナイフ1本をインターネットで購入しており、襲撃の計画性を窺わせた。

後の公判で証人尋問に立った少年と同じ予備校の寮で生活していた友人は、夏頃にナイフを見つけて少年に問いただしたが「自分は頭がおかしい。人とは違う。(女性を)殺したい」と泣き喚き、「自分で捨てる」と言ってナイフを渡さなかったという。

二人に交際関係があった訳ではなく、少年が一方的に好意を募らせ、自分の気持ちを無碍にされたと感じ、一転して殺意に至ったストーカー殺人との見方が強まった。その後の調べにより、少年が自傷行為などを図り、メンタルクリニックに通院していたことも判明した。

ひかるは見事に大阪大法学部に合格しました。

他にも、ひかるは
明治大法学部、同志社大法学部、立命館大法学部の
3校にも合格することができました。

本当によくやってくれました。
ひかるは、とっても親思いの優しい子でした。
ひかるもきっと喜んでくれていると思います。
今回、ひかるが無事に大学に合格できたのも、
ひとえに、これまで
ひかるを支え続けてくれた学校関係者の皆様、
地域の皆様、ひかるのお友達、恩師など、
多数の皆様のおかげだと感謝しております。
本当にありがとうございました。

3月9日、ひかるさんに事件2日前に受験した第一志望をはじめ、各大学から複数の合格通知が届いていたことが公表された。遺族はあくまで合格の報告とねぎらいと感謝に終始した文面だが、合格しても入学できない無念さ、祝ってやれない悔しさを噛み殺しながら絞り出した言葉にちがいなく、読む者の胸を打つ。

 

3月初旬から少年が暮らした予備校の寮を家宅捜索、入院先での事情聴取が開始され、11日に逮捕された。尚、少年は第一志望には不合格だったとされる。予備校は加害者・被害者とも相談などは受けておらずトラブルは把握していないとし、ひかるさんについては「非常にまじめで模範的な生徒」とした一方、加害者については「個人情報」を理由にコメントを控えた。

少年の親は取材に対してノーコメントを通したため、少年に関する情報は多くないが、小・中学時代は野球に打ち込み、高校生になってからは柔道の私塾に通っていたことが伝えられている。取材に対して柔道教室の指導者は「優しい子ですよ。おとなしくて非常に真面目」と答えている。

福岡地検は少年の事件前後の行動から精神面が不安定だった可能性があるとして、3月28日から3か月間の鑑定留置を行い、刑事責任能力の有無などが調べられた(その後、約1カ月の延長が認められた)。7月24日、いくつかの発達障害の兆候は見られるものの刑事責任を問うことは可能との判断が下る。「起訴前」の捜査段階で被疑者だった元少年は20歳になっていたため、家裁送致なく成人として起訴された(新聞報道では留置延長前の6月時点で20歳表記とされている)。

 

2017年2月、被害者遺族は下のコメントを発表した。

「事件から1年となりましたが
 私たち家族の悲しみが癒えることはなく
 犯人を許す日は来ないと思います。
 裁判で一日も早く真実を明らかにしてもらいたい」

 

■裁判

2017年10月12日、福岡地裁(平塚浩司裁判長)で裁判員裁判の初公判。元少年の被告人・甲斐敬英は殺人、銃刀法違反などの罪に問われた。甲斐は罪状認否について間違いありませんと内容を認めた。その声はか細く、目を泳がせ、しきりに瞬きし、着席してからも落ち着かない様子だった。

検察側は、甲斐は被害者に交際を断られて以降、告白したことや自分の秘密を女性に言いふらされたと思い込んで苛立ちを募らせ、勉強に集中できないのは被害者のせいだとする考えから殺害を企てたと主張。事件5日前にも凶器を準備して待ち伏せしていたことや、遺体に59カ所もの傷跡があった執拗な犯行を指摘し、身勝手極まりない動機による計画的な犯行だと糾弾した。

弁護側は、甲斐は2015年夏頃から統合失調症を発症し、周囲からののしられる幻聴が続いて強い被害妄想を抱いていたと説明。犯行当時は心神喪失心神耗弱状態にあったとして量刑の減軽を求めた。起訴前に行われた精神鑑定では不十分だとして、弁護側は再度の鑑定を要請したが、却下されている。

被害者遺族も意見陳述に立ち、「ひかるの夢も家族の夢も、ささいな日常も一瞬で奪った被告を一生許せない。ひかるを返してくれ」「ひかるは合格の知らせを聞けなかった。おめでとうと言ってあげたかった。一生許すことはできない」と突然娘の命を奪われた憤りを訴え、極刑を求めた。甲斐は最終意見陳述で「ご本人やご家族に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです」と謝罪を述べた。

 

10月31日、判決審。平塚裁判長は鑑定証言などを元に甲斐に精神障害があったことを認めた上で、犯行への影響は限定的だったとの判断を示した。犯行直後に自首するなど「善悪の判断は保たれていた」とし、数日前には大学入試の二次試験を受験するなど「行動制御の能力にも問題はなかった」ことなどから、犯行当時の完全責任能力を認定した。

「態様は執拗であまりに残忍。被害者の恐怖感、肉体的苦痛は甚大で、無念さは察するに余りある」「被害者は将来のある若さで突如、命を奪われ、遺族が厳しい処罰を望むのも当然。自首し、謝罪の弁を述べたことを考慮しても、同種事案の中でも重い部類に属する」と説明し、求刑懲役22年に対し懲役20年の判決を言い渡した。

控訴期限となる11月14日までに双方とも控訴せず、判決が確定した。

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遺族は代理人を通じて「娘に非がなかったということを認めていただき名誉を守ることはできましたが、娘が帰ってこないことに変わりはなく悲しみがぬぐえません」とコメントを発表。北川さんの友人は「被告には更生する機会があるが、ひかるに「これから」がないと思うとやりきれない。被告にはしっかり罪を償ってほしい」と話した。

 

■所感

熊本県下一の進学校出の才媛が、何の落ち度もなく唐突に命を絶たれた。福岡市中心街の有名予備校を舞台に始まった悲劇は、九州の若者たちを中心に大きな衝撃を与えた。同予備校ではカウンセラーを設置して生徒の心理面でのケアを図るなど対策に追われたという。

当時、加害者が19歳だったことから少年犯罪と見なされて実名・顔出しの報道は行われず、少年の保護者も表舞台に出てこなかったことから、報道は被害者と被害者遺族への同情を誘う内容へと傾いた。却って被害者のプライバシーばかりが晒される状態が続いたことで、「少年法」による加害少年保護への違和感は高まり、風当たりを強くした印象さえある。

 

弁護側が主張した甲斐の「統合失調症」について、一部に詐病を疑う声もある。本件のように殺害の外形事実を覆せない事案の場合、「心神喪失者の行為は罰しない。心神耗弱者の行為はその刑を減軽する」と定められた刑法39条に係わる刑事責任能力の有無が争点となる裁判は非常に多い。それゆえ弁護側の法廷戦術としての側面を感じさせなくもない。

判決では、甲斐に精神障害があることを部分的に認められたが、「幻聴や妄想については、時間が経ってから始めた供述で採用しがたい」と統合失調症を示唆する主張については却下されている。文面だけ見ると、さも統合失調症についての主張は後付けで行われたかのような印象を抱かせるが、逮捕直後から「私は統合失調症でして…」と供述を始める加害者はそうそういない。そもそも甲斐自身にその自覚はあったのだろうか。

メンタルクリニックで診療を受けた時期や当時の診断、適切な処置はあったのか、それとも通院当時は発達障害だけで統合失調症との診断には至らなかったのか。処方薬によってある程度制御された上で犯行が行われたのか、あるいは自らの意思で断薬したのか、熊本から福岡に転居したことを機に通院を辞めてしまった経緯などがあったのか。それらの詳しい事情は一切報じられない。

当然、病歴、薬歴は極めてプライバシーに関わる事柄ではあるが、裁判の争点とされる以上は追及や説明が為されて然るべきとも思う。責任能力の可否判断を下す裁判長だけでなく、症状などの程度が知れないあるいは症例への理解に乏しい裁判員にとっても、被告人の人格、心理状態と犯行を結び付ける上での重要な判断材料である。

仮に裁判の場で「詐病」が実在するならば、弁護人は差別や偏見の助長に加担することになり社会的道義から外れた下衆な法廷戦術だと言わざるを得ない。だが実際に凶悪犯罪を犯す人間の多くは、何かしらの精神障害に陥っている可能性が高いことも事実である。

平成30年度犯罪白書で10万人あたりの検挙率を罪種別に見てみよう。

「窃盗」

健常者86.39人/精神障害者23.01人

「強制性交等・強制わいせつ」

健常者2.96人/精神障害者0.82人

「詐欺」

健常者7.85人/精神障害者2.96人

「傷害・暴行」

健常者36.91人/精神障害者16.12人

と、ここまでは実数としては健常者の方が優に多い。

だが「強盗」では健常者1.35人/精神障害者1.28人と僅差となっており、「殺人」では健常者0.69人/精神障害者2.34人、「放火」では健常者0.46人/精神障害者2.16人と4倍近い差をつけて逆転している。

この結果から見えてくることのひとつは、人口比率から言えば精神障害者の犯罪傾向は高い数値であるということ。また殺人や放火事案でこれだけ多くの精神障害者が認められるのは、起訴前に精神鑑定が行われることが背景といえる。

だが殺人や放火でこれほど精神障害者の比率が高いのであれば、他の罪状では却って「低すぎる」との印象すら抱かせる。検挙者全員が精神鑑定を受けていれば、どの罪状も精神障害者の比率は罪状に偏りなく高まるのではないか、穿った見方をするならば「殺人」「放火」といった死刑に係わる重犯罪では精神鑑定を実施するが、他の罪状では精神障害が疑われる・見込まれる被疑者に対して充分な鑑定が行われていないことも予感させる。

精神障害者は凶悪犯予備軍だから危険だ、といった主張をする気は毛頭ない。本件内容からはやや離れてしまったが、開かれた精神鑑定により事件と精神障害の関連性はもっと論理化される必要があると考えている。先天的な発達障害、慢性的なストレス環境に晒されたことで生じる後天的なもの、強い衝撃により意識や記憶が改変・消失される一時性の症例まで千差万別には違いない。診断や刑事責任能力の線引きは明確に区分できるとは思えないが、一定の目安となる共通認識は構築できないものなのか(何かしらの区分ができればそれがまた新たな差別の助長につながる側面も懸念される)。

もしかすると本件加害者は長らく精神障害を抱えており、現役受検失敗のショックや生活環境の変化で大いに症状を悪化させたとも考えられ、起訴時には「元少年」になっていたが寮生活を認めた保護者の責任も感じざるを得ない。確認する術はないが、精神障害を抱えた少年との生活から逃れるために寮暮らしへと送り出したのではないか、とまで思えてしまうのである。元少年とてはじめから殺すつもりで誰かを好きになった訳ではなく、恋するために予備校を選んだわけではない。少女はなぜ命を奪われなくてはいけなかったのか、殺さずにいられないほど少年が追い詰められていったのはなぜなのか、残念ながら納得できる答えは存在しないように思う。

 

亡くなられたひかるさんのご冥福を祈りますと共に、ご遺族の心の安寧を願います。