いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ホノルル日本人母子殺害事件について

1994(平成5)年、アメリカ・ハワイで発生した日本人母子の殺人事件について記す。母親は歴代の総理大臣や各界の著名人とも交流のある有名占い師の実業家であった。

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逮捕された日本人男性は一貫して無実を主張したが、死体遺棄などの証拠が出揃っておりハワイで殺人罪による終身刑判決を受け、アリゾナ州のサグアロ矯正センターに服役する。

 

■概要

ハワイ州ホノルル、アラモアナ市立公園近くには多くのリゾートホテルやコンドミニアム(集合住宅)が立ち並ぶ。1994年2月23日16時51分頃、カカアコ・アラモアナ大通り1350番地にある高級コンドミニアム「アラモアナブルーバード」の一室から煙が出ていると通報を受け、消防隊が駆けつける。ほどなく鎮火されたものの、署員が室内を確認すると寝室は荒らされており、クローゼットから女性と銃弾を発見する。

猿ぐつわをかまされ胸を撃たれて意識のない状態で、病院に運ばれたが間もなく死亡が確認された。女性は日本で絶大な影響力がある占い師として知られた藤田小女姫さん(こととめ、56)とすぐに判明。事件はその日のうちに日本でも大きく報じられた。

 

同日15時頃、藤田さんは電話でセントラルパシフィック銀行に融資の依頼を行っていた。「緊急事態で、現金で2万ドル(当時約210万円)が必要になったので届けてほしい」という不自然な要求だった。電話を受けた同行の佐藤義治会長は藤田さんとの取引実績がないことなどを理由に依頼を断ると、一緒にいた「別の人物」から再度理由を説明するよう求められた。会長が日本語で説明した後、「藤田さんに何が起きているのか」と相手に尋ねると電話は切れた。

佐藤会長は不可解なやり取りや藤田さんの様子に不安を感じたが、彼女の連絡先を知らなかったため掛け直すことができず、日本領事館に連絡を取る。連絡がつかないことを確認した内田総領事が藤田さんの元を訪れてみると、部屋から焦げるような臭気が漂い、ドア上部から煙が漏れており、その後、射殺体となった住人が発見される。

 

当初ホノルル市警は、大学生になる藤田さんの一人息子の行方が分からなかったことなどから、身代金目的の誘拐・脅迫が殺人へと発展したのではないかと見立てた。

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しかし同日夜の22時30分過ぎ、藤田さんのコンドミニアムから約3.5キロ離れたワイキキ・カパフラアベニューにあるパークショアホテルの駐車場で車両火災が発生する。赤いアキュラのスポーツカーの助手席から両手足をテープで拘束、胸を銃撃された焼死体となって藤田さんの長男・吾郎さん(20)が発見された。衣服からは液状の着火剤成分が検出され、犯行の計画性を窺わせた。

 

その日は休みで不在だったハウスキーパーに話を聞くと、藤田さんは大学生の息子と金銭関係で揉めることはあったが、他人から恨みを買うようなことはなかったという。吾郎さんは明るく社交的な人柄で親しまれていた反面、カードを友人に使わせるなど金銭的にルーズな面があった。

捜査当局は犯行の手口とタイミングから、同一犯による金銭を目的とした強盗殺人との見方を強めた。

 

■生い立ち、子捨て、人身売買

1938年1月、福岡県福岡市に生まれた藤田東亜子(後の小女姫)さんは、幼少期に両親が離婚して母親に引き取られた。戦争で実家が空襲被害を受け、知人を頼って各地を転々としたことを公表している。

それと聞くだけで苦労人の生い立ちが思い浮かぶが、彼女の死後に家族関係を知ったという5歳下の弟・洋三氏は、姉弟のさらに複雑な境遇を『東亜子と洋三ー藤田小女姫の真実』(2004)に著している。

洋三氏は物心のつく前に引き離されて育ったため、その死後に東亜子さんとの生物学的な姉弟関係を知り、自らのバックグラウンドを遡っていったという。手記では、藤田さんの生い立ちは単にひとり親の許で不遇を過ごしていた訳ではなく、背景には人身売買によってできた歪な「戸籍」による家族関係があったと語られる。藤田さんは小学校入学寸前に借金のカタとして預けられたというのだ。

姉弟の戸籍上の祖父は八幡製鉄所専属の慰安所遊郭)を営んでいた。戸籍上の父親は祖母が強姦されて宿した子で、その逆恨みか親から暴力を受けて育った。彼は若い時分には大学生を騙って交際相手の女たちを引き込み、遊郭に沈めて貢がせた。

やがて鉱山労働者相手の売春斡旋のほか、誘拐などで子どもを集める人身売買を生業とした。自らの養子に入れながらもまともな養育はせず、産みの親への養育費の請求(強請り)などによって生計を立てていた。働き手等としてよそへ養子にやる際には無戸籍児では不都合になるため別人の戸籍に捩じ込んだとされる。

今日的倫理観ではそうした洋三氏の話はイメージしづらく突飛にさえ聞こえるものの、戦中戦後の時代背景から事実ではないかと筆者は考えている。

 

戦時下の明日をも知れない命運と長期の困窮、避妊や堕胎技術の未熟さ、生きるため死なないため生かすために「身売り」は一種の必要悪とみなされていた。

1950年の国立世論調査所によれば、国民感情は親による子どもの「身売り」を必ずしも否定していないことが窺い知れる。「親が前借して子どもを年季奉公に出す」ことに「構わない」9%、「家が困ったり、親の借金を返すためなら仕方がない」20%、「子どもが進んで行く場合や子どもの幸せになるなら構わない」51%であった(下川 耿史『近代子ども史年表』2002、河出書房新社)。

イエ制度下の圧倒的な父権に比して、こどもの人権はほとんど顧みられることはなかった。すべてが金銭目的の人身売買とは言わないまでも、保護の行き届かない里子による養子縁組や江戸期から庶民の間で続く年季奉公、徒弟制度、明治期の工業化によってニーズが高まった女工などにはこどもの質入れ(前借金)と紙一重の側面があった。娼妓解放令など人身売買の禁令は存在したが、シベリアやアジア各地へ「からゆきさん」といわれる売春婦が多数送り出されてきたことも歴史的事実である。生活の困窮や望まれない出産による私生児らは子殺しこそ免れても、人から人へ町から町へと苦難の道を余儀なくされた。

 

今日の「赤ちゃんポスト」より半世紀前、東京・芝の済生病院では産後すぐの子捨てが頻発したため、1946年に「やむをえぬ者はここへ捨てよ」と捨子台を設置していたことが記録されている。

48年には新宿で「寿産院もらい子事件」が発覚している。寿産院は助産師の第一人者とも言われた石川ミユキによる民間施設で、娼婦などの私生児ら200余人をもらい受けて預かり料を請求し、乳幼児用に配給されたミルクや砂糖をヤミに転売して収益を得ていた。幸いにして貰い親に恵まれた嬰児もいたが、引取手のつかない子の多くはミルクの減量による栄養失調、冬場の凍死などにより作為的に葬られた。

事件を受け、都では乳児委託取締条例を制定して乳幼児の預かり事業を禁じた。49年に可決した優生保護法にも影響を与え、経済的理由を目的とした人工中絶が認められる一因になったとされる。

 

1949年、藤田さんが小学6年生の頃、地方紙で「奇跡の少女現る」と紹介され、翌年5月1日の産業経済新聞でも「マリを突きながら何でもズバリ」と特集記事を組まれた。自著によれば9歳の頃にハワイの狐の霊が宿ったとされ、当初は「小乙姫」を名乗った。

産経社屋に一室を与えられて経営陣や多くの著名人に可愛がられたといい、その後も霊感占い師として雑誌やテレビで取り上げられるなど活躍。女性が自動車を所有することも珍しかった60年代にあって5台の車と小型セスナを操るなど、彼女の華々しい私生活やその美貌も羨望を集め、時の人となった。

洋三氏によれば、その成功の背後に姉弟の「生物学上の父親」の力添えがあったのではないかとしている。政財界のフィクサーと目されたその男性と芸者をしていた親類との間に私生児として姉弟は生を受け、どういう経緯か戸籍上の父親のもとへと渡った。父親は程なく離婚し、第一妻は幼い藤田さんを引き連れて家を出、赤ん坊だった洋三氏は父方に残されて主に第三妻にあたる母に育てられた。

藤田さんの育ての母は取り巻きと共に各地で鉱山労働者や米兵などを相手にした売春旅団を組んでいた。藤田さんは表向きの関心を引く看板娘として「占い少女」に担ぎ上げられた。その後、生物学上の父親がもつ政財界とのパイプを利用して喧伝され、その交友を広げていったと洋三氏は見当づけている。

 

政治評論家細川隆元(りゅうげん)氏の著書によれば、時の首相岸信介が藤田に安保条約は国会で可決できるかを尋ねると、藤田は「断固としておやんなさい。通ります」と背中を押したという。しかし「そのかわりあなたの内閣は長くはもちませんよ」と、安保成立から4日後の内閣総辞職まで見越していたことを記している。

岸のほかにも福田赳夫松下幸之助小佐野賢治ら政財界の大物を顧客として財を成し、明仁親王の結婚、朴正熙暗殺、周恩来の死去、また学生時代の王貞治に将来の成功を予言したとされる。キッコーマンSONYといった企業への進言など「伝説」は枚挙のいとまがない。

幸運への招待 (1960年)

1960年、『幸運への招待』を出版。61年に不動産業経営者と結婚するが三年で破局。離婚後は企業の経営コンサルタントを主宰した。

しかし68年には、経営していた東京都有楽町のサウナ風呂が火災に遭い、死者を出したことから過失責任を問われた。マスコミから霊能力についての批判が噴出するようになると、73年には表舞台から姿を消すように息子を連れてハワイへ移住。74年6月に業務上失火、同過失致死罪で懲役10カ月執行猶予3年の有罪判決を受けている。

80年代には占い、コンサルタント業務に復帰し、再び日本でも占いや予言に関する著作を発表するなど、ハワイと日本を行き来する生活を送っていた。

はっきりした時期は不特定だが、藤田さんは老いた育ての母親をハワイに住まわせており、時々会いに来ては暴力を振るっていた、という家政婦の証言を洋三氏は伝えている。

単なる母娘の喧嘩などではなく「日本にいては遺恨が晴らせなかった東亜子がマスコミのいないハワイで第一妻(藤田さんの育ての母)に暴力を振るったということなのだろう」と捉えており、憶測ながら虐待される母親の心境について「殴られることで心が落ち着いたのではないかと思う」とまで述べている。それほどまでに母娘の間には人知れぬ禍根があったということか。

 

■返還

マスコミ取材によって現場周辺の質屋に藤田さんの貴金属類が持ち込まれたことが明らかとなる。質入れの際にパスポートを照会した日本人男性、福迫雷太(ふくさくらいた、当時28)が容疑者に浮上。カルフォルニア州で在学中、4度の拳銃の不法所持で短期間服役した罪歴も確認された。

福迫はハワイでスキューバダイビングを通じて吾郎さんと知り合い、自宅での誕生会にも招待される仲だったとされるが、吾郎さんや周囲の人間に返済できていない数十万円の借金があった。母子事件の翌日には航空券を購入し、その翌日には日本へ帰国するなど「逃亡」が強く疑われた。

 

当局は令状を取り、藤田さんの自宅から1.3キロ離れた場所にある福迫の住居ディスカバリーベイの1306号室を捜索。カーペットの一部1.4×2.3メートル程が切り取られており、下から血のようなシミが発見されたことで担当検事は日本に連絡を取る(後の鑑定の結果、血液とは断定されなかった)。

日本の警察から事情聴取を受けた福迫は容疑を否認。警察はハワイの担当検事に「人違いだ」と伝えたという。だが検事は「多くの日本人犯罪者は捕まると自白するが、福迫はカルフォルニア州で学んでいるため欧米的なものの考え方で捕まっても自白はしない」と考え、疑いは揺るがなかった。

日米間には犯罪人の引き渡し条約が結ばれていたが、日本側は証拠が不十分だとして引き渡しには慎重な姿勢を見せたため、ハワイの現場では証拠の捜索が懸命に続けられた。藤田さんの部屋、吾郎さんの車両は消火作業によって検証が困難を極めた。だが福迫の暮らしていたマンションには16台の防犯カメラが設置されており、男の不可解な挙動が記録されていたのである。

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事件のあった2月23日9時30分頃、福迫と吾郎さんが一緒にエレベーターに乗り込む姿が確認される。2人は福迫の部屋のあった13階で降りたことは確認できたが、その後、吾郎さんはカメラの前に姿を現すことはなかった。福迫は13時頃に建物を出ており、16時頃、中身のつまったショルダーバッグを抱えて部屋に戻ってきた。警察はその間に福迫が藤田さんと接触して犯行に及び、持ち帰ったバッグには奪った盗品が入っていたと考えた。

更に21時過ぎ、福迫は人ひとりが入るほどの「巨大な袋」をマンション備え付けのキャリーカーで車のあるフロアへと搬出していた。21時40分頃、運転者の特定まではできないものの「吾郎さんの赤いスポーツカー」が福迫のマンションを出た様子も確認されている。

翌24日8時20分頃、福迫は同じキャリーカーを使って部屋から「クッション部分の一部が剥ぎ取られたソファ」を搬出する。そちらは事件から1か月後、マンション地下階の粗大ごみ置き場で発見された。

キャリーカー、ソファからは血痕が採取された。同じくソファから藤田さんの長い毛髪が発見されており、当局は「吾郎さんに付着して持ち込まれたもの」と推測した。シート裏のスプリング部から藤田さん殺害に使用された銃弾と同じ「357口径の銅ジャケット」が発見され、同一犯との見方が更に補強されていく。

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3月30日、ハワイでは第一級殺人と第二級殺人の罪状で起訴。数々の「物的証拠」を示されたことでNOとは言えなくなった日本政府も福迫の引き渡しにGOサインを出し、裁判の準備が進められた。94年7月、福迫は米国側への身柄引き渡しは違憲であり人権規約に抵触するものとして、法務大臣に対し引き渡しの無効を訴える裁判を起こしたが却下された。

8月16日、福迫はホノルルに返還され、日本人として初となる身柄引き渡しが成立。報道陣が集結した成田空港で男は「不安ですが頑張ります」「必ず戻ります。無実で」と強く自らの意思を訴えた。

 

■裁判

1995年2月に裁判が開始。

いくつか証言を紹介する。藤田さんと同じ建物の住人グラディス・ブラントさんは14時10分頃に黒髪の若い男が藤田さんの部屋に向かっていく姿を見掛けたと証言。息子の吾郎さんだと思い、背後から「Hi」と呼びかけたが、振り返りもせず応答しなかったので変に思ったという。しかしブラントさんはその黒髪の男性が福迫被告人だったかは特定できなかった。

別の住人マデリーン・ドネルさんは15時半から16時の間に、水色の上着姿で左肩に白いバッグを抱えた男性が藤田さんの暮らしていたペントハウス4号棟から出てくるのを見掛けた。ブラントさん同様にその男性を吾郎さんかと思い、「Goro」と声を掛けたが無反応で去って行った。吾郎さんは普段なら気持ちよく挨拶を返してくれていたので、「大学に遅刻でもしたのかな、と思った」と述べた。彼女もアジア人種だと識別できてはいたものの、眼疾患により人物の特定までには至らなかった。

福迫の暮らしたディスカバリーベイの居住者ダイアン・ブルーシンは、居間にいた20時から22時の間に「大きな銃声を聞いた」と証言する。彼女はユーゴスラビアのオリンピック射撃チームの元選手で銃器に精通しており、聞いた爆発音が間違いなく銃器であったことを裏付けた。先述の防犯カメラ映像と照らし合わせれば、20~21時頃に射殺し、21時過ぎに巨大な袋に遺体を隠して車に積んだものと想像される。

21時46分頃、吾郎さんのスポーツカーは福迫の住むディスカバリーベイの駐車場を出た。その後、22時30分頃、パークショアホテルで車の警報音を聞きつけたベルボーイが炎上する車両を発見し、通報する。

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22時34分頃、ディスカバリーベイの向かいにあるABCストアの防犯ビデオが福迫の姿を捉えていた。男は「クロロックス(漂白剤)」「ラグクリーナー」「芳香剤」「ボトル入りソーダ」を購入。同36分には買い物袋を抱えエレベーターで自室へ向かう姿も確認できる。

24日朝、ソファを地下の粗大ごみ集積所に運んだ福迫は、何度か外出。手には紙袋を携えていた。日本への片道航空券の手配などをしていたものとみられ、翌25日には旅行代理店の送迎で空港へエスコートを受けた。

25日、衛生労働者が紙袋を発見し警察へ届け出る。中からは吾郎さんの身分証、クレジットカード、ダイビングウォッチ、女性物の財布と金時計、ビニールに入った白い粉(ドラッグのように見えたが石鹸のような匂いがした)の見つかった。26日、アラワイ運河に駐車してあったトラックの荷台で発見された紙袋には、藤田さんと吾郎さんのパスポート、男性物の指輪、小銭入れ、クレジットカード、運転免許証と日本通貨の入った藤田さんの財布が入っていた。

先述の質入れされた貴金属類は、長年の知人だった高木千恵さんによって藤田さんのものと特定された。質店アラモアナ・バイアンドセールの従業員カルビン・ウッズさんは、被告人が「357マグナム銃」の質入れについて話しを聞いてきたと述べ、ロスの知人から入手する予定があるという話を聞かされたと証言した。

また藤田さんのクローゼットと福迫の部屋にあったソファから見つかった弾丸は、357マグナム弾ないし38スペシャル弾とされ、線状痕(射撃によって弾丸表面に生じる傷)は同型銃が使用された可能性を示した。

検死を担当したカンティ・デ・アルウィス博士は、藤田さんの死因は燃焼より前の心臓への銃撃と断定。頸部皮下出血、眼瞼の溢血点から、銃撃より前に首を絞められて意識を失っていた可能性があるとした。唇に切り傷があったほか、顔、腕、肩に打撲痕も確認された。

吾郎さんの死因も銃撃によるものとされ、左乳首から腰を貫けていく銃創が認められた。目の上に裂傷があり、手足にはガムテープの糊が残留していた。母子の銃創は基本的には類似していると博士は証言した。

防犯ビデオの映像や出国までの福迫の動線は、明らかに二人の死に関連しているように見えた。

 

弁護側は、日本のヤクザ組織による犯行を主張。福迫が遺体を搬出したことは事実だが、主犯によって脅されて車まで運んだだけで「殺害の実行犯ではない」と述べた。

藤田さんには実業家・小佐田賢治氏がパイプ役となり裏社会のヤクザとも交流があったとされ、そのことを示すため、ホノルル警察元捜査官でヤクザ社会に詳しいバーナード・チン氏の証言を準備したが、証人として認められなかった。

またアリバイとして、吾郎さんの車が燃やされたのは22時30分頃であり、34分には自宅付近で買い物する福迫の姿が確認されていることを挙げた。福迫が吾郎さんの車に火を点けてから4分後に自宅付近まで戻ってくるのは物理的に不可能だと説明。福迫による単独犯行ではなく「複数犯」であることを強調した。

福迫本人は宝石の質入れや部屋から車への運び出し、隠蔽工作など一部については加担したことを事実と認めたものの、母子殺害については否認。だが主犯や実際の射手はだれなのかについては口をつぐみ、「この裁判に圧力を加えている人へ。私は何も話しません。身内に何もしないでください」と意味深長な陳述を行った。

 

陪審員たちは検察側が主張した「福迫による単独犯行説」を支持し、同95年5月22日、福迫は仮釈放なしの一級殺人罪こそ免れたが終身刑を宣告される。

 

■複数犯説

通常であれば被害者遺族は犯人に厳しい処罰感情を表明するのが通例である。だが先述した藤田さんの実弟藤田洋三氏は調べを進めていくうちに「複数犯説」を唱えるに至り、日米双方の当局に福迫の釈放を求める嘆願書を多数送った。

監察医の上野正彦氏は、藤田さんの検死写真や死体検案書から読み取れば、全身の殴打痕、猿ぐつわ、左胸の銃創、紐様のもので首を絞めた痕跡などから、単独犯としてはあまりに無駄な工程が多く不自然であるとの見解を示す。体を抑える人物と猿ぐつわを結ぶ人物など複数犯の可能性を示唆した。

吾郎さんも同じく手足に拘束の痕がある。また顔面につけられた「痣」に着目した法医学者佐藤義宣氏は、その形状から「ライフル銃のストック(肩当て)部分」で顔面に垂直方向から突くように殴られたと考えられ、吾郎さんと同程度の背格好の相手による犯行との見解を述べている。吾郎さんの身長は180センチ以上90キロ程と大柄で、身長160センチほどで当時中肉体型だった福迫と20センチ以上の身長差がある。

そうした遺体に関する疑問に対し、検察官は「遺体写真を見たことがない、存在を知らない」と答えている。

 

東北医科薬科大学法医学教室の高木徹也教授は、吾郎さん殺害の凶器について「確実にいえるのは“普通の拳銃”ではない」と語気を強める。一般的な拳銃で接射した場合、火薬によって皮膚表面が激しく傷つけられるが、遺体の傷はそれと明らかに異なるという。「ショットガン、散弾銃」のような比較的大型の弾丸を用いる銃身の長い銃で接射ないし近射されたと見当づけている。さらに散弾が体内に残ったことで、ソファ背部に射撃痕がつかなかった可能性もあるとしている。

担当弁護士は吾郎さん殺害に使用されたと認定された「弾丸」について疑問を呈する。弾丸は欠損のない新品のような状態で、ソファの背面に銃撃の痕跡は残っておらず、なぜかシート下のスプリング部に挟まっているような状態で発見されたという。

ソファ発見までの約一か月の間に犯人が偽装工作として弾丸を置いていったか、考えたくはないが、現地当局が「福迫の身柄引き渡し」を焦るあまりに「物証」を用意したようにも思えてしまう。

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一時、刑事司法の改革を求めて数々の冤罪被害者を救済してきた非営利活動機関イノセンスプロジェクトは事件の再捜査を表明。しかしDNA鑑定を通じて冤罪を科学的に立証することが難しいとの理由により、協力は打ち切られた。

 

■犯人の告白

藤田さんから最後の電話を受けたセントラルパシフィック銀行の佐藤会長は、電話の傍に「日本語が流暢に話せない人物がいた」旨の証言をしている。吾郎さんや福迫は日本語も流暢であり、藤田さんの部屋に「別の人物」がいたことを示唆する重要証言である。

担当した検察官らは「証拠は福迫がやったことを示している」と断言する。だが厳密に言えば、事件と福迫の直接的な関連を示す証拠は、部屋から車の停めてあるフロアへ移動するエレベーターの「死体遺棄」とみられる映像だけ。穿った見方をすれば、捜査当局は現場が荒れてしまったことなどから福迫以外の「犯人」を示す証拠が得られなかったともいえるのである。

 

2015年に行われた福迫へのインタビューで自身の別の事件への関与を匂わせる。エレベーターで搬出した遺体は「断じて吾郎くんではありません」と述べ、仮に遺体であったとしても身長160センチ以下の「別人」であるという。追起訴される可能性があるため詳細には言えないとしつつ、藤田さん母子が亡くなる2日前、2月21日に別の事件があったと語る。

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福迫によれば、藤田さんは「周りの人から恐喝されている」として、投資関係の仕事をしていた福迫に生命保険を担保にした借金の相談をしていた。福迫は日本で金融会社を営む在日北朝鮮人Kを紹介。母子が亡くなる数週間前、Kは200万ドルの偽札を用意し、摘発を避けるために「使えるのは夏以降」と条件を付けて金を藤田さんに預けた。しかし吾郎さんが夏前にその金に手を付けてしまったため、福迫は債権管理者として偽札の回収を命じられたという。

藤田さんのボディガードを担当した人物がリーダーとなり、偽札が使用された先に4人で押し入り、その場にいた3人を福迫の自宅マンションに拉致した。部屋で揉め事になり、リーダー格が発砲。事件が発覚すれば大問題に発展しかねないため、現場の住人である福迫は脅迫される側の立場となり、遺体の搬出や隠蔽工作に加担した。残り2体は他のメンバー達が階段から運び、持ち去ったという。

母子殺害から2か月後、金融会社社長Kも自宅前で射殺され、こちらはあまり報道されることもなくコールドケースとなった。福迫はこの事件について、藤田さんが所持していた黒革の手帳“ブラックブック”が関係するのではないかと語る。前述のように政財界や著名人らと表に裏につながりの深かった藤田さんは、その手帳に顧客情報や秘密を書き残していた。200万ドルの融資の際、K社長は藤田さんから担保として“ブラックブック”を預かっていたため、それが目的で暗殺されたのではないかという。その手帳は今も発見されていない。

2017年11月以降、福迫は癌に倒れ、多くの転移が発見されては摘出手術を繰り返し、生死の境をさまよった。2020年2月、長期取材を続けていたテレビ朝日では、取材班に向けて「死期がもうすぐなのかと思うととても不安」「カルフォルニアの海に遺灰を撒いてほしい」といった遺書のような内容の手紙が届いたことを伝えている。

 

■所感

2000年には福迫の無実を信じた父親が亡くなり、無事を祈るしかできないと嘆く母親も2020年時点で89歳となった。裁判で「私は何も話しません。だから身内に手出ししないで」という真犯人への涙ながらの訴え、そして自身も余命幾ばくもないというのは事実であろうと筆者は考えている。

 

洋三氏の話では、戸籍上の父親、母親が藤田さんに金をたかったのは当然として、生活できない「こども」達も藤田さん(東亜子さん)のところに居候や無心に訪れて「寄生」していたと推測する。吾郎さんについても、生物学上の親こそ判然としないが「父親」の子ではないかとしている。

つまり吾郎さんは「金にルーズだった」というより、きょうだいにあたる人々に強請られてせびられていた、ないしは彼らを養うための金脈パイプの役目を担っていたと考えられる。別の言い方をするならば、藤田さんが日本脱出の際に親から預けられた“爆弾”だったのである。

洋三氏の文章には独特のクセがあり、人間関係も複雑で第三者が全てをすんなり理解することは難しい。自身の生い立ちや家族について記しているのだから当然だが「見た目」や「血」への執着が強く、インスピレーションに基づく物言いも少なからず感じられる。

いわく福迫も吾郎さんのきょうだい、つまり戸籍上の父親のこどもなのではないかという。

だが「イノセンスプロジェクトの撤退」から鑑みれば、父親が既に故人であるためにDNA鑑定や科学的証明が叶わない、血縁関係が事実であったとしてももはや客観的事実で裏付けしえない主張なのであろう。

 

藤田さんの資産状況は知るべくもないが「家族」から強請られて大金が必要になった。あるいは福迫が吾郎さんを唆して大金を要求するようにけしかけたとも考えられる。福迫は実質的にはマネーロンダリングに使える多額の融資先を見つけるヤクザの手下、尖兵だった。金融会社は北朝鮮に送金したり偽札や犯罪で得た金をロンダリングするヤクザのフロント企業であろう。

打診を受けた藤田さんは、その200万ドルが北朝鮮の偽札だと知ってか知らずか金を預かる。福迫が言うように「触ってはいけない金」に吾郎さんが手を付けてしまったのか、仲間割れによる横領なのかは分からないが、藤田母子とは別の事件が起きた可能性は大いにあり得る。藤田さんが銀行に依頼した2万ドルという(莫大とまではいえない)微妙な額も、犯行グループが「逃走資金」としてすぐに必要としたものと考えられる。電話の背後で聞かれた片言の日本語は、日本から藤田さんの見張り役として送り込まれた在日朝鮮人か、ヤクザの息のかかった日系ハワイ人あたりではないか。

終身刑となった福迫は、塀の外に置き去りにすることになった家族や恋人への組織からの報復を何より恐れた。金融会社のK社長は「トカゲのしっぽ斬り」のように暗殺され、その背後には更に大きな犯罪組織が関わっていることは福迫も知っていた。

“ブラックブック”を狙った人物、藤田さんに重大な秘密を握られていた人物がK社長を暗殺したというよりかは、ロンダリングを露見されては困る上部組織がK社長の命を奪い、何か利用価値があると考えて“ブラックブック”も奪っていったとする見方が自然かと思う。

はたしてそこには何が書かれていたのかは分からないが、利用価値があったかどうかは疑わしい。それとも自身の最期に関する予言、すなわち犯人、上部組織につながる記述があれば秘密裡に処分されたとも考えられる。

 

被害に遭われた方々のご冥福をお祈りいたします。

 

東京地方裁判所 平成6年(行ク)38号 決定 - 大判例

STATE v. FUKUSAKU | FindLaw

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