ジョージ秋山『アシュラ』感想

1970ー1971週刊少年マガジン掲載、同時期、週刊少年サンデーに連載された代表作『銭ゲバ』のアナザー・ストーリー、根源ともいえる鬼才・ジョージ秋山による衝撃作。

アシュラ (上) (幻冬舎文庫 (し-20-2))

アシュラ (上) (幻冬舎文庫 (し-20-2))

アシュラ (下) (幻冬舎文庫 (し-20-3))

アシュラ (下) (幻冬舎文庫 (し-20-3))


「人はなぜ生きるか」という極限下での思考実験。
歴史というフィルターを通して、あり得たかもしれない境遇の主人公を登場させ、徹底的に非・人道的な性質を与える。地獄絵図を見せながら、読み手に人生の選択を迫る。
ジョージ秋山の真骨頂であり、高度経済成長〜一億総中流の意識が形成される時代にあって、こうした問題作を投げかけてきた意義は計り知れない。



まれに発見されて話題になるが、“動物として育った人間”が、ことばを獲得し、人間という自覚を得ることは現実的にはとても難しい。
主人公アシュラは、望まれずに産み落とされ、母親に焼き食われかけたこと、殺さなければ殺される文字通りの弱肉強食の荒野を生きぬくなかで、敵も味方もない、自らを“ひとでなし”“獣”であるとした。



しかしアシュラを不憫に思い、保護しようとする若狭に出会い、思いがけず人間としての自覚が生じてしまう。
自分が受けた愛情・温情、若狭には見捨てられたくないという気持ちの萌芽。
「おれたちはみんな同じだ」「なんだかおもしれえやつだ」と慕ってくれる仲間たちとの出会い。
生みの親と再会し、「うまれてこないほうがよかったギャア」と咆哮する姿。
「お前の中にある獣と戦え」と諭し、自分の左腕を賭してアシュラを人の道へと導く僧。



しかしアシュラは、人らしく生きることを是としない。
飢えて理性を欠いた若狭に対して、“人肉”を与える。
最期にアシュラを抱きしめようとする母親を打ちのめす。
物語は、2人の“母殺し”に行きつくのである。

人はどれほど心があっても、獣なのだろうか。



自我のはたらきで言えば、「父殺し」が権威や伝統、慣習の超克であることに対して、「母殺し」は無条件の愛を注いでくれる一方で、自我を束縛し、食い殺そうともする存在(グレート・マザー)を乗り越える通過儀礼である。
伝統や文化に囚われない、しかし人間としての愛に目覚めてしまったアシュラが必要としたのは“母殺し”であったのだ。



アシュラは生まれてこなければよかった。
しかし生まれてきてしまった。
そしてたくさんの人に出会ってしまった。
生まれてきたら生きていかなきゃならない。
生きることは苦しいこと。苦しみを引き受けることが生きることなのだ。



アシュラは、“怒り”や“憎しみ”、“復讐”といった発念に基づいた異常なほどの生への執着で描かれており、そこには生きることを自明なことし、絶望や死への欲動を微塵も感じさせない。アシュラが死や絶望に意識が至らなかった、といわれればそれまでだが、この点は非常に理解しがたい側面でもある。



当時、本作は有害図書指定から社会問題化し、(自身のパフォーマンスもあって)一躍センセーションとなってしまった作者は1971年に数多くの連載を終了し一時引退することになる(作者の意思なのか外圧によるものかは不明)(けど3ヶ月で復帰てw)。
その為、物語終盤はかなり駆け足になるのだが、その〆かたひとつ取っても、銭ゲバ蒲郡風太郎と照らし合わせると不明瞭で考えさせられるエンディングになっており、その結末は81年週刊少年ジャンプにまで持ち越されることになる。

アシュラ 完結編

アシュラ 完結編