手塚治虫『アドルフに告ぐ』レビュー


ユダヤ人はネーションステイトの誕生以前から国亡き民として存在し、およそ政治的・文化的・宗教的・アイデンティフィケーションのうえで選択される(あるいは選択させられた)社会集合(エスニック・グループ)であると私は把握している。ユダヤ人は「ユダヤ人」という十字架を背負うことをいとわないのはなぜなのか。ユダヤ教徒と「ユダヤ人」を漠然と隔てて考えるだけの私たち日本人の多くにはいまいちピンとこない。

この物語には、表紙にあるアドルフ・ヒトラーと二人のアドルフが登場する。
一人はドイツ人外交官の子として将来を嘱望されるエリート、もう一人はユダヤ人の息子として日本の学校で差別も乗り越えてたくましく育つ。幼い頃、神戸で旧知となった二人のアドルフが、ヒトラーの登場、激動の第二次世界大戦を経て、運命の糸に手繰り寄せられるように終戦の直前に再び巡り合う。
ナチス将校として反ユダヤを叩き込まれ、日本人を劣等民族としてドイツ国民の精神とアーリア人の血を誇りとするようになったとき、ドイツ人から日本人に戻った母とユダヤ人として日本人とともに生きる旧友に何を思う。手塚治虫はかねてより黒人や人間未満に類される対象を意図的に描いてきた。2人のアドルフが人生を賭して問う「血とは、人種とは、国家とはなにか」の問題は裏返してみれば、手塚の「日本人というもの」へのまなざしであることに気付かされる。そこには日本の一端を築いた男の自責の念さえ感じられる。アドルフに告ぐアドルフに告ぐ、アドルフとはお前のことだ、と。
本作における結末に、エミール・クストリッツァの傑作『アンダーグラウンド』がオーバーラップする。血で血を洗う人の歴史のあさましさ、そして、むなしさ。昭和を生きた男・手塚治虫の行きついた「戦争」に対する一つの回答といっても過言ではないと私は思う。