ケン・ローチ監督『レイニングストーン』感想

 タイトルであるraining stonesとは、マンチェスター地方の俗語で「石が降ってくるようにつらい生活」を意味する。
ゆりかごから墓場まで」を捨て自由主義経済を導入した1980年代以降、規制緩和による外国資本参入によるウィンブルドン現象や国内産業の衰退によるスタグフレーションをともなって、希望を見出せない生活を強いられることとなった地方の失業者・低所得労働者のそれである。
ケン・ローチが社会派と呼ばれる由縁は、英国らしいその曇り空を労働者の心象に重ね合わせた視点で世界を眺めることといっても過言ではなかろう。本作でも、保守党のクリケット場から芝生泥棒をするなどコミカルに毒を盛り込んでいる。

さて、不思議に思うのは、なぜ職も金もないボブは娘コリーンの聖餐式に立派なドレスを与えたがるのかという点。そもそも聖餐式とはなにか調べてみることにした。

エスはパンを取り、神に感謝を捧げました。パンをさいて弟子達に与えて、言われました。「 取って食べなさい。これはあなた方のために裂かれるわたしのからだです。」同様に、杯を取り、飲んだ後、弟子達に杯を渡して、彼らがそれから飲んだ後、言われました。「この杯は、あなた方のために流されるわたしの血による新しい契約です。これを飲むときはいつでもわたしを覚えて行いなさい。」 出エジプト記12章

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』でもなじみ深いあのシーンについて教えを受け、再現する式のこと。
エスの死と復活に思いを巡らせ、未来の栄光ある主の来臨を期待するメッセージの実演として、キリスト教の礼拝でもとくに重要な儀式とされているそうだ。宗派によってその解釈や儀式はまちまちだが、私が思うにイエスの血と肉を分け与えられるということ自体が広義のカニバリズムであり、(乳幼児期の)洗礼が霊に対する浄化の儀であるとするならば、(劇中では物心のついた7歳から施される)聖餐は人間としての自我に対する聖化の儀式といえまいか。

また映画とのつながりで興味深いのは、12使徒ではないパウロの記述(キリストの死後に信仰を開始し、神の啓示によって聖餐について著したとされる)である。

「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、一人一人が自分を吟味して、その上で、パンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分を裁くことになります。」  第1コリント11章27-29節

パウロは “ふさわしくないままで”聖餐に臨むな、と釘をさしている。
それは、信徒の救いのためにイエスが支払った代価を忘れるな、という意味にも、罪を告白しないで主の聖餐のテーブルに着くな、という意味にも取れる。
高利貸のタンジーを事故死に追いやってしまったボブは、彼の閻魔帳(貸付人の名簿)を盗んで逃げる。だが直後に、敬虔なカソリック信者であるボブは神父のもとに駆け込み、「これから出頭しようと思う」と言いながら告解を求めるのだ。待ち望んでいた娘のはじめての聖餐式ではあるが、ふさわしくない我が身では出られないということを心得たのであろう。

ボブが娘のためにドレスを買ってやりたいと思う気持ちは、日本でいえば入学式にはピカピカのランドセルを背負わせてやりたいであるとか成人式に晴れ着を着せてやりたいといった「親としての務めを果たしたい」という親心に近いかもしれない。それは子どもにとってはもちろんのことだが、親が親としての自負を果たす区切りとしてもやはりイニシエーションなのである。どん底に暮らす人々にとって、せめて子どもの晴れの舞台は人並みに祝ってやりたいと願う気持ちはよく分かる。
劇中で義兄がボブに諭していたように、教会は貧しい者を救うどころか、逆に父親としてのボブの気持ちを悩ませさえした。またボブが金目当てで下水管掃除に教会を訪れたときも、仕事は与えたが金を与えはしなかった。神の死はケン・ローチをしても免れえない現実として描かれる。
しかしどん底に生きながらも喜怒哀楽に満ちた人々のたくましい生活描写と「信じる者は救われるというほどでもないが、頑張っていれば雨のち晴れ」だと言わんばかりのさわやかなエンディングは、やはり快作という評価を得て然るべきであると私は思う。