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気になる事件と考えごと

友部小学校女性教諭殺人事件

茨城県友部町(現在の笠間市)で起きた女性教諭殺害事件について記す。

朝日新聞記者、テレビ朝日報道局次長などを歴任し後にノンフィクション作家となった足立東氏による『逆転無罪 友部小学校女教諭殺人事件の真相』(日本評論社)に依拠する。

逆転無罪―友部小学校女教諭殺人事件の真相

 

教室の遺体

1964(昭和39)年11月30日(月)7時40分頃、茨城県西茨城郡友部町の友部小学校6年4組の教室で女性教諭の遺体が見つかった。

第一発見者はクラスで最初に登校してきたMくんで、宿直明けだった6年3組担任の福本一夫教諭(32歳)に「女の人が倒れている」と異変を知らせた。遺体は鼻から血を流し、顔はむくんで変貌していたが、同年春に赴任した6年4組担任の綿引俊子教諭(38歳)であった。即座に登校してきた生徒たちの入室は禁じられ、笠間署に通報された。

 

遺体は4組教室の廊下に近い机と机の間に仰向けに倒れていた。男性教員1名が宿直として泊まり込むことになっており、福本教諭も夜と早朝に定期巡回していたが、廊下を見回るだけで各教室内までは目を凝らしておらず、廊下からは死角で異変に気づいていなかった。

8時10分過ぎに校医が到着して検案したが、その場で死亡が確認された。右足にかなりの硬直が見られ、下顎付近と左頬につねったような紫色の斑点が確認された。校医の第一印象では、扼殺(手による絞殺)もしくは脳内出血かと目された。死体検案書には、死因を外力による脳部圧迫症、死亡推定時刻を29日午前9時と記入された。

8時40分には笠間署から「他殺体とみられる不審死」として県警本部に報がもたらされた。9時過ぎには県警捜査一課、鑑識課、水戸地検検事らも現地入りし、殺人事件と断定され、最寄り派出所に捜査本部が設置される。

 

地理など

友部町は県庁所在地の水戸から西へ約15キロ、1955年に周辺町村が合併してできた歴史の浅い町で、2006年に笠間市と合併してその町名は消えた。「友部」の名称は1895年(明治28年)に日本鉄道水戸線の駅設置の際に付近の村落の呼称に由来し、その駅名から町名へと採用された。

遺体発見現場となった学校は友部駅から南に延びる目抜き通りの商店街を抜けて200mほどの場所にあり、周辺は住宅や商店に囲まれている。当時は児童数891人で各学年は3~4クラス、教職員は校長の他、男性教諭9・女性教諭17の計27名とそのほか用務員、給食婦ら5名が勤めていた。

校舎は当時とは別の場所に移転し、かつての面影は児童公園に残された僅かな桜の木だけとなっている。下のリンク先・友部小HPでは在りし日の旧校舎の面影を垣間見られる。

概要・沿革 | 友部小学校公式ホームページ

下は1960年代の国土地理院航空写真で、北に列車切り替えし用の扇状の線路が見られる付近が友部駅、中央「+」印が小学校である。駅南や小学校周辺は住宅や店が密集しているが、周縁には田園地帯が広がっている。

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逆さ「コ」の字型に見えるのが小学校校舎  [国土地理院地図]

 

現場と遺体の状況

遺体発見直後から校内は登校時刻を迎えて俄かに慌ただしくなり、警察の到着で物々しさを増した。

綿引教諭はこれまで休日出勤をしたことはなく、当初は30日早朝に出勤して亡くなったものと早合点していた。それというのも出退勤の状況を表す「木札」が被害者の分も出勤中を示す青札に切り替えられており、出勤簿には発見当日の「30日(月)」の欄に押印してあったためである。

たとえば押印だけならば、手間を省くために本人が事前にまとめて押していた可能性も否定できなくはないが、木札まで裏返されていたとなると犯人による捜査かく乱の隠蔽工作が疑われてくる。

また職員用下駄箱には被害者の内履き用サンダルが残っており、新校舎の通称「丸窓玄関」の児童用下足箱の上から焦げ茶色のハイヒールが見つかった。元々は4年生女子の下駄箱に入れられていたのを、登校してきた生徒が不審に思って棚の上部に移したものと分かった。被害者の外靴と断定されたが、綿引教諭が普段その昇降口から出入りすることはなかった。

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西側は職員・来賓用玄関、旧校舎と新校舎には児童用昇降口がそれぞれあった。

校舎は平屋建てで、北側校舎に1~3年生教室、西側校舎に職員室や特別教室、6年1~3組までの教室があった。現場となった6年4組と4・5年生の教室は南側の新校舎にあり、建物は旧校舎から独立して渡り廊下でつながっていた。

新校舎は出入口が三カ所。旧校舎との連絡口となる西側出入口のガラス戸は外からの差し込み式のカギを必要とした。東側の生徒昇降口は内側から締めるねじ込み錠で外からの解錠は不可能だった。靴が発見された中央の丸窓玄関は北の校庭側に面しており、錠は締りが不完全で外側からガタガタ揺すると掛け金が外れてしまう状態だったことが判った。

 

第一発見者Mくんは職員室でカギを借り、西側出入口を解錠するつもりが「回さないうちに戸が開いてしまった、僕の感じでは鍵が閉まっていなかったように思う」と証言。実験によれば、戸をピタリと閉じきってしまうと鍵がうまく嵌らず、約5ミリの隙間を開ける程度に案配すると施錠ができた。

4組教室の窓はいずれも内側からねじ込み錠で施錠されていた。出入口は掛け金式の内鍵で発見時は施錠されていなかった。実験によれば、こちらも廊下側からガタガタ揺すると30秒ほどで掛け金を外すことができた。また生徒によれば4組教室の鍵は小さくて薄いうえに曲がっているので、「慣れている人でも暗くてはちょっと差し込めないと思います」と述べている。

被害者が6年4組教室に入るまでには、新校舎のカギと教室のカギの二重密室を解除せねばならなかった。しかしカギはいずれも職員室の所定の位置に残されていた。被害者は二度にわたって扉をガタガタと揺すって解錠しなければならない理由があったとでもいうのであろうか。

 

教室に置かれた教諭の机は荒らされた形跡なし。また机からは自筆と見られる3組担任福本に宛てたらしいラブレターの下書き便箋3枚が見つかった。

遺体の顔には薄くファンデーションが塗られており、着衣は28日と同じものを着こんでいた。身長は146センチ程で、頭髪に砂様のものが付着し、松葉が一本入り込んでいた。両目は閉じており、両眼瞼結膜に粟粒大の溢血点が確認された。口の周りに表皮剥脱、口唇部に小さな挫傷と皮下出血があった。金色ネックレスは前後が逆(繋ぎ目が正面向き)の状態で、下顎に表皮剥脱の痕があった。

両手にクリーム色の手袋をはめており、左手に血液が付着していた。格子柄コートはボタンが外れ、コートの下のチョッキの左から背にかけて血液が付いている。下半身はコートと同じ格子柄のスカートが捲れるなど着衣の乱れが認められた。陰部に被害者とは異なる7.2センチの陰毛が犯人の遺留物とみられたほか、マメ科の種子が見つかっている。外陰部は比較的綺麗な状態で、傷害の有無は不明とされた。

死体を動かすと首元と腰元から砂様のものが零れた。床には血液と失禁の染みが付いていたことから、殺害現場は4組教室と断定された。

茶色のビニール鞄の中のガマグチ財布には計190円の小銭が入っていたが、所持金額としてはやや少ない手持ちにも思われた。レースの編み袋には、紙包みの中に手付かずの折り寿司が割りばし付きで残されていた。友部駅前の寿司屋で購入されたもので日付は「11月28日付け」であった。

 

見立てと解剖

捜査本部では検証から、殺害現場は教室で、宿直員も騒ぎなどに気付いていなかったことから顔見知りによる単独犯行と推量した。28日(土)放課後に教室は施錠されていたと考えられ、本来ならば教室に入るために2つのカギが必要としたが、前述のとおり物理的にはカギなしでの解錠も不可能ではなかった。

犯人像としては「友部小関係者」、「前任地で交際のあった者」、「友部近辺に土地鑑のある物盗り、性犯罪者、素行不良者」が挙げられ、近郊三千戸以上のローリング作戦で一万二千人近くを対象とする大掛かりな聞き取りが行われた。

 

11月30日午後、司法解剖は新治協同病院大林三郎院長が執刀し、詳しい剖検書は年をまたいで1965年の1月15日の提出となった。

記者らが掴んだ情報をまとめると所見の概要は、

・被害者は肋骨複数本を折られており、抵抗して逆に犯人に押さえつけられるなどした結果とみられる

・口や顎、頸部に多数の傷があり、手掌などで圧挫した可能性がある

・瞼や肺に溢血点が多数あり、窒息死と認められる

・胃や十二指腸に食餌の痕跡なく、摂食後12時間以上経過しており、死斑、硬直状態から死亡推定時刻は28日夕方から29日朝までの間である

・膣内精液は約1ccで、死亡直前の性交はほぼ確実で事後に陰部を清拭したと思われる

というものだった。

しかしその後の捜査や逮捕者の自白などの影響により、剖検の内容は書き換えを余儀なくされた。

 

足取り

死亡した綿引教諭は友部町下市原の出身で、国鉄職員の夫、高校1年生の長女、小学6年生の二女と水戸市千波町舟付の戸建て住宅で暮らしていた。6畳間を知人の交通巡査Sに間借りさせており、当時は5人住まい。事件後Sは転出した。

 

夫によれば、11月28日(土)4時頃、夫婦は避妊具を使わずに性交をしたという。だが生体に残存する膣内精子は大半が体外に放出されるか、体内の酵素で分解されてしまい、20時間前の精子が残存していた可能性は非常に低いと考えられた。一家は6時頃に起床し、7時前に朝食を済ませた。教諭は死亡時と同じ服装を着込み、バスで水戸駅に向かい、水戸8時3分発、友部8時22分着の上り列車を使って出勤した。

彼女は事前に「29日に親類の結婚式があるから、28日は下市原の実家に泊まる」「29日はなるべく早く帰るつもりだが、向こうの都合によってはもう一晩泊まることになるかもしれない」旨を家族に伝えていた。

通勤時に同じ列車に乗り合わせた同僚によれば、普段と別段変わりない様子だったという。学校は通常の土曜であれば4時限目まであったが、この日は3時限目11時半には終了となる変則日課で、職員らは午後から笠間中学校で行われる講演会に参加することになっていた。

3時限目が終わると給食用のコッペパンが生徒に配られ、持ち帰って食べるように言い渡した。教諭は「食べられないから助けて」と言って自分のパンを児童に与えていた。

教室の戸締りは週替わりの当番制だったが、28日午後1時半頃に忘れ物を取りに来た生徒が職員室でカギを借りており、これが最後の教室施錠とみられている。

職員が昼食用にと駅前の寿司店から寿司折を4つ取り寄せており、その中のひとつを福本教諭に持たせており、それが綿引教諭の手に渡っていたことが後に判明する。捜査本部は被害者がコッペパンや寿司折に手を付けていなかったことから、最後の食事は28日に自宅でとった朝食と判断。「食後12時間以上経過」との解剖所見と照らし合わせ、当初は死亡推定時刻を28日18時から21時の間と発表した。

 

授業を終えた綿引教諭は、正午過ぎに町内の病院へ同僚の見舞いに訪れていた。前夜に小学校60周年創立記念行事の打ち上げの宴席があり、その帰りに5年1組担任の佐橋教諭がバイク事故を起こしていた。彼女は佐橋の妻に見舞金を渡して、程なく帰った。

12時30分頃には学校へ戻り、すぐに同僚2人と45分発のバスで講演会へと向かった。講演会はマイクの不調で聞きづらかったらしく一行は途中退席。15時頃、綿引教諭は同僚のひとりと水戸駅行きのバスに乗り込んだ。同僚は15時40分頃に石川町停留所で下車、そのあと16時頃に国鉄職員の知人が綿引教諭と水戸駅前ですれ違っており、生前最後の目撃情報となった。

中央が千波湖、バスは西から水戸市中心街を抜けて水戸駅

上は現在の水戸付近の地図で、同僚が下車した石川町は左上の赤印、バスは西から東へ水戸市の中心街を抜けて千波湖の東に位置する水戸駅へ向かった。教諭の実家があった「舟付」の地番は残っていないが、バス停のあった駅の北口から南口へ出て、約1.5キロ南下した現在の「舟付坂上」バス停周辺とみられる。

 

家族関係と“取りっ子”

綿引教諭は両親と早くに死別し、親戚や兄姉に育てられた。1946(昭和21)年に女子師範学校を出た後、大原国民学校、大原中学校を経て大原小学校で教鞭を振るった(大原村は合併前に存在した友部町の一部。友部駅の北に位置する純農村地域)。48年4月に大原中の教頭をしていた親類の世話により、従兄弟の昌三さんと結婚した。

近しい人には「兄や姉はそれぞれの生活に追われて自分はあまり面倒を見てもらえなかった」「兄の戦死や事故死が重なり、嫁入り支度も碌にしてもらえなかった」と身の上を語り、「運勢が悪いのは実家の門が鬼門に当たるせいだと占いで言われた」と話したこともあった。

仲人だった親戚の土地に別宅を建ててもらって2児が生まれるまでそこに暮らし、1961年に水戸市千波の家を兄から譲り受けた。姉の家からコメの援助が受けられたため食費は多くかからず、夫婦の収入はそれぞれ手取りで約3万円とそれなりの稼ぎがあった(大卒公務員初任給が当時約2万円)。金は個別に管理し、それぞれ約30万円程の貯金があった。

夫・昌三さんの仕事は国鉄の荷扱い車掌で、連泊もあれば連休もあり、時間に不規則な仕事だった。若い頃は妻と衝突することもあったが、年を経て水戸に転居する頃には小言を言われても受け流すようになった。煙草は日に一箱、酒は飲んでもお銚子一本と決まりよく嗜む程度で、趣味も庭いじりや近くのグラウンドで野球や陸上を眺めるだけという、無口でおとなしい倹約家であった。

友部小の同僚は、彼女の口ぶりから夫婦仲はそれほど円満ではないような印象を受けていたともいう。だが娘たちから見た母親は、朗らかで勝気、憂鬱そうに沈む様子はまずなかったと言い、「2人の性格がまるで違うので夫婦仲は普通、私たちにとってはとても優しい両親です」と述べている。夜の営みが絶えていないことからすれば、おしどり夫婦とまではいかなくとも破綻するほど険悪でもなかったと想像される。

また「殺される2、3日前に、学校で大人のことは難しい、先生の間でお母さんを“取りっこ”している、と話していました」という娘の証言もあるが、“取りっこ”の具体的な内容は分かっていない。

 

職場関係

校長は「私的には分からないが、公的には模範教員だった」と評価し、熱意ある様子から卒業学年を任せたと述べている。6年4組担任の他、音楽部の副主任を務めており、会議での発言も活発で、いつも18時頃まで学校に残っていた。

校長の言葉に含みがあるのは、彼女が大原中学校に勤務していた当時、妻子持ちの同僚と不倫関係にあったことを聞き知っていたためである。相手男性は台湾からの引揚者で、彼女の義兄が口利きして教員になった経緯があり、家族ぐるみの付き合いがあった。そのうち男女の特別な間柄は近所でも周知の事実となり、相手の妻が中学へ押しかけたこともあった。相手が転任して関係は途切れたが、逸話はその後も付いて回った。教頭は彼女の異性関係を気に掛けていたが、赴任してからの半年余りは特に問題は見られていなかったという。

 

6年生のほかの担任3名は男性教諭だが、各人プライベートで飲みに行くような付き合いはなかった。だが隔週の金曜に4組の教室で学年会議が行われ、話し合いがまとまった後に親和会と称して「軽く一杯」酌み交わすというのが慣例となっていた。

同僚の女性教諭は「何事もよく気のつく人でした」と語り、夏に旅先で事故に遭って入院したとき、綿引教諭が病院に残って看病してくれたことを感謝している。

教務の男性教諭は、大原小在職時の綿引教諭を知る人物だがやや距離を置くようにしていた。というのも、職員間の派閥争いがあった折、「〇〇は教頭派」と名指しした匿名の怪文書が校長の手に渡って問題視されたことがあり、どうもその筆跡が綿引教諭のものらしかったというのである。

またその当時の出来事として、1959年頃に「時限爆弾騒ぎ」というのもあった。爆弾を仕掛けたとの連絡が入り、爆発などの実害は結局何もなくただの悪戯と思われた。だが後日、なぜか綿引教諭宛に「ああいう風なことがまた起きるぞ」と友部局消印のはがきが届いた。差出人などに思い当たる節もなく、警察に届けたが犯人は特定されなかった。

こうした風評の原因を男女関係のトラブルと見るのも軽率であろう。かつての教え子たちやその父兄など一方的に恨みを買う相手には事欠かない商売でもある。

 

11月27日(金) 創立60周年行事

11月28日(土) 午前のみ授業。昼過ぎに同僚をお見舞いしたあと、講演会に参加したが途中退席。

午後1時半頃、生徒が教室と新校舎出入り口を施錠。宿直は1組山地教諭。

11月29日(日) 親類の婚礼準備の予定だった。

宿直は3組福本教諭。

11月30日(月) 遺体発見。指導案の提出期限。

 

被害者が6年4組の教室を訪れた理由として考えられたのは、11月末が提出期限の「指導案」であった。12月上旬に県教委らによる視察が迫っており、そのとき披露する授業の見取り図となる指導案を30日午前中までに完成させていなければならなかった。

綿引教諭はこの指導案が未提出で、2科目分が書きかけの状態で教室から発見されている。11月27日(金)には60周年記念行事と夜には祝宴があり、28日(土)には午前の授業、午後には学外での講演会、さらに彼女に限っては29日(日)に親類の婚礼と予定が詰まっていた。

実際に休日返上で指導案を作成したという教諭もおり、綿引教諭も同じ目的で教室に入ったとも考えられるのだが、だとすれば宿直に声を掛けるなりして職員室にカギを取りに行くのが自然である。しかし2つのカギは職員室の所定の位置に掛けてあり、合鍵を用いた形跡もない。

 

疑惑の同僚

遺体発見から2日後、発見者のひとり福本教諭に関する有力情報が寄せられた。

ひとつは、福本教諭が28日午後に笠間中で行われた講演会に出席せず水戸に行っていたというもの。

また聞き込みで、28日23時半頃、建具職の男性が町内で福本らしい男を小型トラックに便乗させたというもの。その後、職人男性は「もう夜のお昼(午前0時)になっちまぁや。はあ、帰っぺ」と言って親戚宅を出たことを思い出したため、0時5分か10分頃に時刻を訂正した。後の首実検(逮捕前の面通し)でも、車に乗せたのは福本に間違いないと証言する。

地元酒店の店主は「28日夜、友部小に痩せ型の男先生らしい人が入った」との噂を耳にしており、話に聞いた男の特徴がどうやら以前学校に酒を届けたときに見掛けた福本に似ているという。後に誤解だったことが判明するが、捜査本部は28日夜に福本教諭が被害者と会っていたとの線で裏取りを進めていく。

 

福本本人は11月30日の最初の供述調書で、28日の行動について「笠間中の講演会に行ったがマイクの調子が悪くて会場を早く出た。笠間市内のパチンコ店で17時半まで遊び、18時の汽車で帰宅した」と述べていた。

講演会に出席した同僚らも同様のアリバイ証言をしていたが、執拗な調べが続くと「講演会の不参加を口止めされていた」と白状し、福本の虚偽が発覚。捜査本部は色めき立った。

 

福本一夫は友部町内の平町で36歳の妻、5歳の長女と3人暮らし。自身は前年の1963年4月から友部小に勤め、妻も同町立宍戸小の教諭をしていた。4年ほど前に結婚したが、妊娠が発覚して以後のこととされ、夫婦仲はよいとは言えず、彼は酒癖が悪いという。

勤務態度は精励で、頼み事には嫌な顔も見せずよく手伝い、器械体操を得意とし、性格はどちらかと言えば内向的で短気なところがあった。児童によれば、事件後に掃除の仕方が悪いとしてびんたを張られたり、女子も勉強のことで3人が頬を叩かれている。

父親は神官をしており、福本を土浦の師範学校へ、弟も大学へやっていることから経済的には不自由のない暮らしぶりだったとみられる。父が関西旅行をする際に旅費を援助したり、弟が帰郷した際に小遣いを渡すなど身内思いな面があった。母親は「土浦の師範に合格したのは、同じ高等科5、6人の受験者で一夫ひとりでした。親孝行で気の優しい自慢の息子」と語った。

6年2組担任の成川隆平教諭(34歳)は、福本と綿引教諭は親しげにしていたが男女関係を不審に思ったことはないという。だが事件後の福本は顔色が優れず、宿直の見回りでは木刀を手にするようになったと語る(事件後、宿直当番が二人一組とされた)。また綿引先生は何をしに教室に来ていたのかと話していたところ、福本は「指導案でもあるめえし、何かほかにあったんでは」と返したという。ほかの同僚からは、宿直時に福本がうなされていたとの話も上がった。

 

捜査本部は12月10日頃までに県鑑識課から被害者スカート裏地に付着した精液斑痕の血液型について知らせを受けていた。うち3個はA型、2個はAB型で、1個はA型と思量されるも確定できないと報告された。後に公判のための再鑑定が行われ、AB型を示すのは一箇所とされた。

被害者はA型、夫の昌三がB型、友部小の男性職員で唯一のAB型が福本、A型男性職員は間柄教頭、事件当夜の宿直だった6年1組担任で学年主任の山地春雄教諭(36歳)、2組担任の成川教諭の3人であった。

20日余りの捜査の結果、友部小の男性職員、前任地での交際相手、周辺での性犯罪前歴者、素行不良者ら180名がふるいにかけられ、福本と山地を除く全員がシロと判断された。

 

戦後の刑事訴訟法で客観的証拠なしには逮捕、起訴してはならないことが原則とされはしていたが、現場で犯人につながる遺留品や凶器といった強力な物証が出なければ、人々の証言に頼らざるを得ない。今日のように個人の同定・識別が可能なDNA型鑑定技術や防犯カメラもない当時、刑事裁判では「自白は証拠の女王」として依然として大きなウエイトを占めていた。

12月18日、事件当夜に水戸から友部方面に客を送ったタクシー運転手に再聴取が為された。当初の証言では、乗せた男女は農家風の男と若い女性工員風だったと言い、運行ルートも外れていたため、事件とつながりがないと見なされていたが、後に犯人と被害者だったとされる。何らかの誘導があったように思えてならない変遷である。

12月20日、6年生を受け持つ山地、成川、福本の3教諭は任意でポリグラフ検査を受け、その結果、山地、成川が帰された。検査で動揺の見られた福本への追及は厳しいものとなり、同日深夜、容疑否認のまま緊急逮捕された。

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福本はそれまで講演会を途中で抜けて笠間市内でパチンコなどして午後6時頃に帰宅したとの証言をしていたが、午後5時過ぎに水戸市内で彼女と会ったと供述を翻した。

映画を見たあと、地下食堂で飲食し、9時半頃にタクシーに乗車した。車内で手を握られてその気になり、友部町下市原の彼女の実家近くで揃って下車。そのまま近くの裏山で情事を遂げ、実家へ送り届けた後、通りすがりの軽4輪ミゼットに便乗させてもらって自宅近くの高安自転車店で降りて歩いて帰宅したものとされる。

前述の建具屋の証言が正しければ、福本を車に乗せたのは0時過ぎで、男は勤め先の学校名まで明かして饒舌に喋りつづけたと言い、自転車店の前で降ろした時刻は0時15分頃のことという。

福本の妻は、夫は夜半になって帰宅し10分ほどで床に入ったと述べたが、正確な時刻までは記憶していなかった。だが公判の場で、寝付く前に時計の長短は直角を示していたような気がすると述べ、帰宅時刻を0時35分から40分頃と推測した。友部小に赴任して以来、そこまで帰りが遅くなったことはなかったという。

 

しかし捜査当局は、福本と綿引教諭の痴情のもつれを軸としつつ、以下のような筋立てをする。

タクシーを降りて、男女は裏山で体を弄り合ううち、被害者が平らな場所がいいとの理由から別の場所に移ることを提案。二人は人目を避けるために別行動で小学校へと向かった。被害者はカギを用いずに二重の密室を解錠し、福本は注意を払って職員室に忍び込み、カギを使って西側出入口から新校舎の6年4組教室へと向かった。しかしそこで痴話喧嘩がエスカレートして福本は扼殺に及び、現場を施錠しないままカギを職員室に戻して帰ったというものである。

 

綿引教諭の実家近くの裏山は落ち葉が堆積し、時季的に肌寒くはあったが情交を果たすには都合がよい場所とされる。屋内を望むにせよモーテルや連れ込み宿ならばともかく、徒歩20分もかけて宿直がいる職場で事を為そうという気になるベテラン教諭がいるものだろうか。背徳感に飢えた獣のようではないか。

本来ならば宿直当番は午後5時までに交代すれば問題なかったが、福本は生徒の制作発表準備を手伝うため、29日(日)は朝10時に登校して、そのまま一晩泊り、30日の事件発覚を迎えることとなる。少なくとも丸々一晩の猶予があったにも拘らず、男は遺体を教室から動かさなかったということになる。

 

逆転無罪

一審で被告側は、自白内容について取調の刑事による作話だとしてその任意性を争ったが、水戸地方裁判所は取調手続きに問題はなく、自白内容は真に迫ったものだと認定し、検察側の主張を概ね受け入れた。被告は教職という立場にあり道徳的・倫理的に大いに非難さるべきとしたが、被害者から情交関係をけしかけたきらいもあり、殺害という結果は本人も予期していなかった過失に近いと思量されて、11年の求刑に対して懲役3年を言い渡した。

供述の変遷、情交の事実、AB型精液痕の存在、判廷で反省や悔悟の情のない言動が判事たちの心証を左右したものとみられる。

 

二審・東京高裁は、原判決を破棄し、疑惑が完全に晴れたとは言えないものの有罪とするには証拠不十分のため無罪とした。「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫かれたものの、アリバイなどで完全に疑いを排除しきれた訳でもないという「グレー」な決着であった。

死亡時期についての疑問や付着精液だけで犯行をも断定するには検討の余地が残される、と判断。また現金強取の疑いについても、日頃から生徒の支払いを立て替えるなどして不規則な出納状況であったことから被告人の所持金が被害者から奪われた金と断ずることはできないとした。

そもそも公判は検察側が有罪責任を立証する場であり、被告、弁護人が潔白を証明する必要はないのだが、被害者の夫・昌三さんは「中途半端で終わるのはやりきれない気持ち」とその決着に無念を語った。

検察側は上告を断念し、福本氏は逆転無罪が確定した。逮捕により懲戒免職とされていた氏はその後も4年半余りを県教委との話し合いに費やし、免職処分の取り消しを認めさせ、退職扱いとして恩給を受けることとなった。結果的に無罪が認められたとはいえ、事件がその後の人生に与えた影響は計り知れない。

 

もうひとりの同僚

『逆転無罪』の著者足立氏は福本が無実であるとの視点に立ちながら取材に当たってきた経緯から、事実と裁判的事実との間に越えがたい溝のあることをはっきりと悟らされたと総括している。客観的事実とされる物証でも作為や錯誤の入り込む余地があり、人のことばも常に真実ばかりとは限らない。

本件についても、死亡時刻を絞り込む「消化時間」に関して被害者が元々胃下垂で消化速度が人並みより遅かったとされるなど一般論と個体差の問題は現代の法医学でも残る問題であろう。死亡直前の性交の有無についても福本は既遂を主張し、検察側は未遂のまま殺害に至ったと判断した。AB型精液について福本本人のものかは技術的に断定しえず、A型とB型が混在した反応とも捉えられなくはないという。また肋骨4本の骨折についても相応の暴行があったとする自白もなく、倒れた被害者の上に犯人が覆いかぶさるようにして腹部に膝をついた際に折れた可能性が示されている。

司法解剖であっても死体から犯行のすべてが見抜ける訳でもなく、鑑定人の力量によって推定に違いが生じたり、裏付け捜査に引っ張られて変動することもある。男性の犯行とは言えてもその人相までは突きとめられないのが当時の科学技術の限界であった。

 

足立氏は捜査取材やポリグラフ検査、裁判記録を通じて「黒」を示す証拠や綿引教諭との不適切な交際は見当たらなかったとした上で、28日の宿直だった山地教諭の不自然さにも言及している。

6年2組担任の成川教諭の12月10日の証言によれば、「山地先生は福本、綿引両先生のやることについては別に反対せずにやっておりました」とこれまでの三者の関係に問題はなかったとしている。

一方で「山地先生ですが、職員室にお茶を飲みに来る回数が少なくなりました。冗談などをこれまで言った方なのですが、事件後はさっぱり軽口などを飛ばさなくなったのです。それに教室に引っ込みがちで、帰りを急ぎ、服の着替えが早くなりました。事件後は体育の時間に教室で過ごすようになり、顔色も優れません」とその変化を指摘する。

福本逮捕から一週間後の他の職員証言でも「新聞や世間の噂では学校内部の者だということが強くなって参り、私の考えも山地先生か福本先生の二人のどちらかの犯行ではないかと強く感じられました」と述べられており、学内でも宿直だった山地教諭への疑いは完全に払拭されていた訳ではなかった。

 

疑惑の第一の理由は、A型男性職員の中で犯行時刻とみられる28日深夜から29日未明にかけての明確なアリバイがないためである。

福本が綿引教諭と情事を遂げたとする深夜0時過ぎ、徒歩20分かかる小学校まで出掛けた理由があったとすれば、前述の指導案を取りに行ったか、あるいは宿直が山地教諭と知っていて何か用事があった可能性も排除できない。「実家に泊まってくる」という家族への口実も事前にその晩は男と過ごす約束があったのではないか。事の前後は定かでないが「先生の間でお母さんのことを取りっこしている」状況を自ら生じせしめ、その背徳に愉悦を覚えていたものかもしれない。

そもそも山地教諭が被害者の来訪や異変に一切気付いていないこと自体がやはりどこか不自然に思われる。たとえば綿引教諭が指導案を取りに学校に出向き、宿直だった山地教諭も手伝い等と称して一緒に教室へと向かい、やがて何がしかのトラブルが生じたと見る方がよほど自然ではなかろうか。仮に出退勤を示す木札や出勤簿の押印が犯人による偽装工作とすれば、29日宿直の福本より28日宿直の山地教諭の方がそのメリットは大きいとも言える。

スカート裏地から検出したA型を示す斑痕は、A型だった被害者の膣分泌液が反応したものだとして、犯人性を絞り込む証拠とはされなかった。だが被害者がA型だからといってA型男性の接触がなかった証明になる訳ではない。AB型の福本の他に、A型男性が精液痕を残したとも考えられるからだ。

また事件直後、山地教諭の右手薬指には血のにじんだ傷があったとされる。それだけで犯人と断定できるものではないが、被害者からの抵抗を受けて怪我を負った可能性もある。被害者の両手袋の親指と人差し指付近に付いた血痕について、警察は被害者の流血と判断したが、首にかけられた相手の手を解こうとしたときに付着したとも推測された。

 

さらに山地教諭の証言の移り変わりについて見ていくと、事件直後は福本と他の教諭と三人で講演会に出席したと証言していたが、12月20日ポリグラフ検査の後の取り調べに及んで「福本は突然水戸に行くからと言って、参加していたことにしておいてくれと念入りに頼まれていた」と白状した。そこには動揺と作為が隠されていはしまいか。

また28日の宿直当番で、午後6時半前後・午後8時半前後・29日午前6時40分前後の3回の巡回報告を記帳していたが、「実際には29日朝の巡回はしていなかった」と述べた。夜は職員室での作業を終え、午後9時40分頃に宿直室に入り、2度小用に立ったという。一度目は午後10時半頃、二度目は午前0時ちょっと前で、外の便所まで行くのは手間なので音楽室脇の戸を開けて石段あたりで立ち小便をしたというのだ。

12月24日の調書では、小用に立った時刻は午後10時半と11時半の二度で、音楽室脇の戸の輪錠はその都度かけていたと述べた。その間、職員室のある西側本館は全て施錠されており、「ガラスでも割らないかぎり入れません」とまで断言する。朝7時半頃に起きてからも外の便所へは行かずに廊下の手洗い場で用を足したことを明かした。

 

12月20日 ポリグラフ検査。深夜、福本逮捕(犯行は否認)

12月22日 福本、自白供述を開始

12月23日 福本、自白録音

     朝刊で29日0時過ぎに福本を車に乗せた人物の証言が報じられる

12月24日 福本、弁護士と接見後に自白を翻し、殺害を否認

     捜査本部、自白を開始した旨を報道陣に伝える

     山地教諭、音楽室脇はその都度施錠していた、侵入は不可能と証言

     記者が音楽室脇の侵入可能性を検証

12月25日 朝刊で福本一部自供の報道

     山地教諭、音楽室脇の施錠に関して供述が曖昧に

 

足立氏の指摘によればこの12月24日にターニングポイントがあったという。20日深夜に逮捕されていた福本は「綿引教諭との情交」について明かしていたがその後は帰宅したと主張し、22日夜に至って警察の言いなりになるほかないとの心境に至り、23日には学校に忍び込んで落ち合った綿引教諭を殺害した旨の自白を録音を採取されていた。だが24日午前に弁護士と接見し、「裁判で一番大切なことは真実を述べることだ」と諭され、福本は殺害の自白供述を撤回していた。

しかし捜査本部は同夕、「逮捕以来初めて犯行の一部自供を始めた」として学校侵入があったことを仄めかしていると伝え、「殺人についてはまだ認めていない」と記者に誤った取調状況を漏らし、25日には新聞各社がその旨を報じていた。

24日夜、捜査本部のリークを受けて記者はすぐに友部小へと足を運んだという。24日の宿直は山地教諭であった。彼は音楽室脇の戸を開けて小用を二度したが、その都度輪錠を掛けていたため外部から職員室に忍び込むことはできない旨を説明した。記者は輪錠を外からは開けられないことを検証した。

すると25日になって山地教諭は、音楽室脇の戸を「施錠していたか断言できない」、今思えば「常より手応えがなかった」等とその内容を翻す供述を申告した。足立氏の推察では、24日の取り調べで「職員室には自分以外だれも立ち入れなかった」旨の証言をしたが、その夜の記者とのやりとりで福本が学校に侵入したと自供していることを知り、それに便乗しようと軌道修正したのではないかとみている。

一審でも被告人から山地教諭に激しい質疑が繰り返されたが、25日に施錠の証言を変えたのは後になって思い出したからだとしつつ、施錠の有無は確証がないとした。また手洗い場で用を足したことについて、前夜と同じく音楽室脇からであればまだ理解できるがそうしなかったのは理由はあったのかと問われても「横着した気持ちからじゃないと私考えております」と歯切れの悪い返答をしている。

 

今日のような科学捜査技術が確立されていれば真実が明らかにできていたかもしれない事件のひとつである。人々の生活環境の変化に伴って科学捜査の手法も進歩を遂げ、防犯カメラ記録や通信履歴からの行動解析など証拠の収集力も上がっているようにも思える。だがその反面で、山間や農村部など情報技術から隔絶された環境でスマートフォンを所持しない高齢者やこどもたちを発見するのは依然として困難を極める。またDNA型鑑定技術にしても、足利事件のような作為性、あるいは今市事件のコンタミネーション(試料汚染)のような人的ミスによって、「客観的ではない証拠」になりうる可能性が露見している。

早期逮捕、犯人への処罰を求めるのは誰しもが期待するところだが、拙速な予断は悲劇を広げかねない。裁判が騙し合いの場ではなく、真実追及の審理に生かされることを願う。

 

被害者のご冥福をお祈りいたします。

 

なぜ韓国へ?—中村三奈子さん行方不明事件

留守中、自宅から消えた少女はなぜ韓国へと向かったのか、第三者の介入や北朝鮮による拉致も疑われる謎多き失踪について記す。

よく似た人物を見かけた、犯行を匂わせる話を耳にしたなど、心当たりのある方は以下で情報提供を受け付けている。

新潟県警察 長岡警察署 0258-38-0110

中村 三奈子さんをさがす会 090-4279-4724、MAIL; sagasukai98@gmail.com

中村三奈子さんをさがす会のブログ

中村 三奈子 | 特定失踪者問題調査会

 

失踪

1998年(平成10年)4月6日、新潟県長岡市に住む中村クニさんが仕事から帰ってくると、二女・三奈子さん(当時18歳)の姿がなく、行方が分からなくなった。

中村家では父親を早くに亡くし、長女は親許を離れて関西の大学に通っていたため、当時は教員勤めの母親クニさんと三奈子さんの二人暮らしだった。

その日もクニさんは寝ている三奈子さんに声を掛け、朝早くに出勤。夜7時過ぎに一度帰宅すると、普段であれば電灯が点いているはずが家中真っ暗だったため不思議に思った。どこかに出掛けているのだろうかとも思ったが、クニさんは町内の集まりがあったためすぐにコミュニティセンターへと出掛けて行き、夜8時頃に再び戻った。三奈子さんはまだ帰っておらず、不安になったクニさんは知人に確認を取ったり、図書館やビデオ店など立ち寄りそうな場所を方々捜し回ったがだれもその行方を知る者はなかった。

身長約165センチ、目が細く色白。当時は髪が長く三つ編み

三奈子さんは3月に県立長岡高校を卒業したばかり。新潟大学への進学を目指して地元の予備校に通うことになっており、その日は入学金を納めに行く予定だったが用意していた封筒の金は家に残されたままだった。

 

現在でこそ自宅周辺は住宅街となっているが、当時はまだ一画にしか住宅は建っておらず周囲に田圃が多かったという。三奈子さんは日頃の外出にはかかさず自転車を使ったが、それもなぜか置きっぱなしになっていた。遠出するにしても、自宅は駅から2キロ以上離れており、徒歩で30分ほどはかかる。

なくなっているのは財布と帽子くらいのもので、衣類や下着の抜けはなく、普段使っていたカバンや、気にして毎日塗っていたアトピー薬もそのまま置いてあった。一日待ってはみたものの、8日早朝に地元警察に届けを出した。しかし署員には「所持品が財布だけなら2、3日もすれば戻るでしょう」と当初は軽くあしらわれたという。

失踪時の服装は帽子とパーカー、デニム姿、スニーカーといった普段着姿、荷物は白い財布だけと見られている。

帽子は青系のチェック柄

 

不可解な状況

18歳というと進路、家族関係、恋愛などの悩みから自発的に家を出ることは充分に考えられる年齢だが、三奈子さんは周囲に悩みを打ち明けたり、家を出たい素振りを見せてはいなかった。むしろその年の正月には、親戚に「ママが独りになっちゃうから遠くには行かない」と言って母親の身を気遣ってさえいたという。

家出であればお金があるに越したことはない。だが「3万円借ります」というメモが見つかり、用意していた入学金50万円から実際に3万円だけ抜かれていたことが判明する。そのほかの所持金は1万円前後だったとみられ、どれだけ多く見積もったとしても5万円から8万円程度と推測されている。

ノンフィクションライター菅野朋子さんによる文藝春秋掲載の記事(初出2011年。菅野氏はソウル在住で渡韓時の捜索活動を支援している)では、チラシの下から見つかったメモに「3万円借りました。私の通帳からおろしてください」と書かれていたとされる。また部屋に貯めていた「10円玉貯金」も中身が空になっていたというが、その総額もたかが知れていよう。

クニさんによれば、失踪前夜も家出を思わせる兆候はなく、学校の掲示物の準備、紙の切り貼りなどを手伝ってくれていたという。生徒たちの様子などについてあれこれ話し聞かせ、いつもと変わらぬ様子であった。

近隣住民も三奈子さんがその日外出する様子を見かけておらず、実際にはいつどこでどうやっていなくなったのか状況が全くつかめなかった。

日常的に着用していたパーカー

クニさんが娘の部屋をあらためると、ゴミ箱から執拗に千切られた紙片が見つかり、つなぎ合わせると「新潟県」の売店で「証明写真」を撮ったレシートだと分かった。長岡から新潟までは電車を使っても1時間半以上かかり、当初は思い当たる節もなく不思議に思った。

だがほどなく写真は「パスポート」の申請に使用されていたことが判明する。申請は3月25日に行われ、4月3日に交付されていた。パスポートの発行手続きは地元長岡の出張所でも可能なので不思議に思われたが、県庁での手続きなら一週間ほど早く発給できたという。あえて新潟市まで出向いて3日に交付を受け6日に失踪とあらば、彼女は何か理由があってパスポート取得を急いでいたとも考えられた。

本来、発行には保護者の承諾を必要とするが、図書館のカードをつくる口実で親の保険証を借りたままになっておりそれを身分証にしたと考えられる。申請書類の保護者記入欄も彼女本人の筆跡と確認された。

パスポートということは、目的地は国外ということか。クニさんは空港や旅行会社をしらみつぶしに当たった。その後1か月ほど経って、航空券を購入した旅行会社を突きとめ、新潟空港にカメラ記録は残されていなかったものの、失踪翌日の4月7日9時40分発KE764便でソウル・金浦空港へ出国した記録が確認される。

旅行会社では、三奈子さんの名前で「中年のハスキーな声の女性(文春記事では「24、5歳くらい」とも)」が電話予約してきたという。クニさんによれば三奈子さん本人は“甘い声”だったと言い、印象論にはなるが電話の声とは異なるように思われた。

また女性は「なるべく早い韓国行きのチケットがほしい」「旅行は慣れているので当日に空港で発券する」と往復券を買い求め、ホテルの予約等は断った。だが三奈子さん本人は海外旅行の経験さえなく、そんなやりとりは不自然である。

空港業務員は当日「派手なブラウスを着た女性」に搭乗券を渡した、荷物は少なく人を探している様子できょろきょろしながら搭乗口方面へ向かったという。三奈子さんは普段からクニさんのおさがりなど落ち着いた色味の服装を好み、これも実像と食い違っていた。

当時の若い女性の間では安室奈美恵に影響を受けた「アムラー」やダンス・ボーカルユニットSPEEDの人気でゆるいシルエットのストリート系ファッションが流行していたが搭乗口の女性はそうしたスタイルとも異なっていたのであろう。

母親や友人たちに韓国への興味や家出、海外旅行を匂わせることもなかった少女がなぜ突然韓国に行かなくてはならなかったのか。

 

特定失踪者問題調査会では、パスポートの期限だった2003年、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない特定失踪者としてリストアップ(第四次公開)し、現在も調査・捜索活動を続けている。代表・荒木和博氏は「事前に本人がパスポートを申請するのはレアケース」と指摘する。元工作員らの証言によれば手口としては船による密航が主な輸送手段で直接平壌近くの港に上陸することが多いとされる。

金浦空港では三奈子さん名義の入国カードが提出されていたが、その写しを得られたのは2004年になってのことだった。筆跡は三奈子さん本人のものと確認された。また本来ならばホテル名などを記す「滞在先」の欄には波線が記されていた。入管関係者によれば「T/S(トランシップ)」、現地滞在ではなく「経由での乗り換え」を示すものではないかとされた。しかしその後も韓国国内での足跡も分からず、出国した記録も確認できなかった。本人が韓国に入国したとすれば、身分を隠して今も留まっているということなのか。

「韓国行きの航空券がほしい」新潟で18歳少女が謎の失踪…不可解な足跡にちらつく“ハスキー声の女” | 未解決事件を追う | 文春オンライン

菅野氏の記事によれば、座席名簿を見ると三奈子さんは三人掛けのシートの窓際、隣は空席、通路側に座った女性が「ハスキーな声で派手な服装らしいことが分かった」とされる。なぜ声や服装まで分かったのかは記事にはないが、三奈子さん出国への関与が疑われる。

女性は韓国出身で70年代に日本人男性の許に嫁ぎ、日本に帰化長岡市近郊に韓国式の寺院を建て、宗教法人の代表を務めていた。クニさんが女性に尋ねると、「(三奈子さんは)生きてますよ」と話したという。

後に菅野氏が取材で証言の根拠を尋ねると、

「韓国式の寺を建てるために設計師ら3人で視察に行った」

「近くに座っていた女の子については全く記憶にない。警察にもそう話した」

「生きていると言ったのは、その人の後ろにある者を見て話をするから」

「三奈子さんという女の子がおばあさんに連れられているのが見えたからそう答えただけ」

と言い、疑いを向けられることに憤慨したという。

韓国にいる宗教家女性の知人に取材すると、日韓サッカーW杯が終わった頃(2002年夏頃か)、「日本でいなくなった女の子について取り調べを受けたと文句を言っていた。『その女の子と金浦空港で一緒に出口まで出た。空港には男女二人が迎えに出ていて、ほんの少しの謝礼しかもらえなかったのに、こんなことになって』と」と彼女が話していたというのだ。

2021年10月の新潟経済新聞ではクニさん、菅野氏も参加した拉致被害・特定失踪者に関する市民集会を報じている。菅野氏の講演内容を文春記事と照らし合わせてみると、どうやら韓国の「知人」が一方的に宗教家女性を告発したらしく、捜査機関は曖昧な部分が多いと判断したとされる。宗教家の発言も情報としての信憑性が低く、知人との間で何かトラブルがあったか何かして、知人が虚偽通報したような印象を受けるが真相は分からない。

中村三奈子さんをさがす会と新潟県長岡市が「特定失踪者と拉致問題を考える市民集会」を開催 | 新潟県内のニュース

 

母親の思い

クニさんは調査会や拉致被害者の活動に積極的に参加し、「拉致被害者の奪還なくして特定失踪者調査の進展なし」と訴えている。国内での署名活動やビラ配り、講演活動などのほか、1999年から韓国へも10数回訪問し、大使館を通じてソウル鍾路警察に失踪届を提出し、データベース照会のために指紋やDNAも提出している。

2008年には高麗大学で韓国語の習得にも短期間挑戦した。現地支援者の提案でマスコミ各所にも報道協力を求め、2019年にはKBS1テレビの視聴者参加型歌番組へも出演。歌詞の慕情が娘との再会への思いに重なるとしてチョー・ヨンピル釜山港へ帰れ』を披露し、韓国市民に情報提供を呼び掛けた。少しでも娘の発見に役に立つと思えばなりふり構わず何でもやる、娘のために何かせずにはいられないという母の強い思いが伝わってくる。

ハングルで書かれたチラシ

 

失踪から四半世紀、三奈子さんもすでに40代半ばになる。人々の記憶に刻まれた彼女は、テニス、卓球、バレエに山登りと様々なスポーツに汗を流したスポーツ少女、大好きな栗を使ったケーキを誕生日に貰って大喜びした頃の笑顔のままだ。クニさんは「25年経った今の三奈子の姿が全く分からなくて本当に悔しいし残念です」と時の流れに悔しさをにじませる。

日々の出来事や家族の話を手紙にしたため、いつかどこかで三奈子さんに届くと信じてウェブ上で公開している。娘の誕生日にはかかさずプレゼントを用意し、マロンケーキやパイを焼いて、祝福のメッセージを送る。古いプレゼントは未開封のまま、包装が色褪せたり破れたりして、長い時間の経過を物語っている。

新潟県横田めぐみさんや曽我ミヨシさん・ひとみさん母子の拉致被害があったこともあり、メディアや市民の関心理解が比較的高い地域である。地元のコミュニティセンターでは一画に写真パネルや拉致問題の関連書籍などが常設展示されている。

クニさんは三奈子さんの母校で講演会を行い、平穏な日常を送れることのありがたみ、唐突に一方的に家族の幸せを奪い去る拉致の残酷さを子どもたちに語り伝えた。拉致問題に関する授業も取り組まれており、問題解決に向けたバトンを次世代へとつないでいる。

2019年に鍾路警察で作成された40歳予測似顔絵

新潟空港でも定期的にパネル展が開催され、発見に一縷の望みをかけた呼び掛けが続けられている。「写真もあの子が残していってくれたものですし、皆さんに伝わってほしい。三奈子のところにも届いてくれたらいいなと願っています」「本当に、どこへでも探しに行くので、見つかって、早く一緒に生活ができればという思いばっかりです」と再会への希望を語っている。

 

北朝鮮の状況

ご家族の意向や活動に冷や水を浴びせるつもりはないが、筆者としては本件に関して北朝鮮による拉致被害とは異なる印象を抱いている。先に北朝鮮情勢と拉致問題を振り返っておきたい。

対南工作員養成のために日本人拉致作戦を立案・指揮した金正日は、事件当時、国家元首となり独裁政権を築いていた。それだけ聞けば疑わしい相手に思われるかもしれないが、1991年に北朝鮮に留学した李英和氏が帰国前に現地有識者から聞かされたいわゆる「拉致講義」によれば、作戦は1976~87年で完了し、それ以外の時期にはやっていないとされている。無論、有識者の発言は個人によるものではないと考えるべきであろう。内容の全てを鵜呑みにすることはできないが、北朝鮮側はこの時点で拉致問題を対日交渉のカードとして切っていた。

国家主席金日成の没後1994年から体制が大きく移行し、96年から党員の大規模粛清が開始され、97年に後継者・金正日朝鮮労働党総書記に就任する。その間、朝鮮戦争後最大規模の大飢饉が発生し、人口2000万人のうち4年間で30万とも300万とも言われる多くの餓死者を出す未曽有の危機に陥っていた。ソ連崩壊の余波、農業の衰退、工業インフラの老朽化と燃料不足など、経済状況も苦境を極め立ち直りにも時間を要した。96年正月の労働新聞は、その国難をかつて日本統治下で抗日パルチザンとして乗り越えた国父・金日成のエピソードになぞらえて「苦難の行軍」と表現している。

そうした国民の危機的状況にもかかわらず、かねて核開発を外交カードとして利用してきた金正日は国費を軍事開発に傾注し、98年8月31日、中距離弾道ミサイルテポドン1号」を日本海・太平洋に発射。日本政府に強い警戒感を抱かせるとともに、核軍縮や査察の受け入れを強く求めるアメリカに対して揺さぶりをかけた。

 

1970年代後半に立て続けに起きたアベック失踪事件以来、国家ぐるみでの日本人拉致は警察関係者や専門家の間で強い「疑惑」とされてきた。1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫の証言から、その動機や潜入工作の実像が明るみとなり、91年以来、日本政府としても国連などで拉致問題を提起した。北朝鮮側は「拉致講義」でその存在を匂わせておきながらも、公には認めようとはせず、返還に向けた協議などの具体的な進展はなかった。

97年に入り、脱北者の証言などから20年前に失踪した横田めぐみさんが北朝鮮へと拉致されており生存している可能性が高いとの情報がもたらされる。父・滋さんを中心に拉致被害者救出を求める「家族会」が組織され、国民的関心事となったが、北朝鮮側は依然その事実を認めなかった。双方が優位に交渉を進めたいという思惑から水面下での駆け引きが続いていたのか、日本側に交渉準備(交換の手札)が足りなかったのかは分からない。

2002年9月、総理大臣小泉純一郎らが訪朝。当時国防委員長だった金正日との首脳会談で北朝鮮側は初めて日本人拉致を認め、公式に謝罪した。これを受けて日本の世論も沸騰したが、北朝鮮側は拉致被害者の安否について不明・死亡との報告を続け、2004年に帰国が実現するのは地村さん・蓮池さん・曽我さん家族らに限られた。

国内状況を省みず独裁的な強権支配を敷いて“強請り”のごとき外交を展開してきた金正日が、80年代で外国人拉致を完全にストップさせたとは断言できない。しかし90年代初頭には金丸訪朝などもあって一時的ながら協調路線を取り、韓国・金大中政権の誕生で融和に向けた対南政策の転換、国内は新体制の構築と党内粛清に追われていた98年当時、「日本人女学生を拉致する必要があった」とは筆者には如何とも想像しがたい。

一方で、89年に金正日の専属料理人となり、自らの意思で日朝を行き来した藤本健二氏(仮名)のような人物もいた。藤本氏によれば、調理師会の会長の薦めで82年から83年にかけて平壌の寿司屋で働いた折に正日と知己を得、帰国後に再び呼び戻されることとなったとされる。党員として仕え、現地で妻子を持った。二男正哲、後に総書記となる三男正恩の遊び相手に指名されるなど料理人として以上の親交をもったという。

90年代には食材の買い付けなどで度々来日していたが96年には入管法違反で逮捕され、帰国後は北朝鮮からも監視対象とされていた。98年、北京に買い出しに行った際、日本の警視庁関係者に電話したことが盗聴されて露見し、1年半の軟禁拘束に置かれた。身の危険を感じた藤本氏は2001年に脱北し、日本のメディアに登場したり、国に金正日のプライベートに関する情報を提供していた時期もあったが、その後、再び平壌に戻っている。

女学生に藤本氏のような職能はないが、「若い女性」という面だけでいえば、来賓をもてなすために組織され「喜び組」とも称された舞踊集団や夜伽の相手となる外妾役に置くことなども懸念される。だが三奈子さんは韓国語ができず、舞踊や楽器の特技も聞かれない。またそうした人員の確保も当時は食うに事欠く北朝鮮国内から募ることが容易な状況であり、日本ではめぐみさんの拉致問題が紛糾していたことからも、あえてそこに日本人をあてがうリスクは採らないものと考えるがはたしてどうだろうか。

 

拉致説の検討

韓国国内でも北朝鮮による拉致被害は多く存在するが、朝鮮戦争の停戦以降、1950年代から70年代にかけて、延べ3835人が被害に遭い、うち3729人は漁業関係者、そのほか69年の大韓航空拉致事件の乗客や軍関係者、国外での拉致被害と続く。チュチェ思想への転向、スパイ養成に適さない場合は、日本人拉致被害者ほどの厚遇はなく工員や技術者に従事させられたと言われる。

2000年の南北首脳会談以来、帰還事業が急速に進んだが、今も500名以上が北朝鮮に残されていると推計されている。横田めぐみさんのように女学生が拉致されるケースは韓国内では認知されていない。

工作員金賢姫は、めぐみさんの場合、拉致してきた成人外国人に洗脳教育を施すことが難しいと分かって、より若年世代に目を付けていたのではないかと述べている。そのほか80年前後には外国人拉致被害者同士を結婚させ、北朝鮮で生まれ育った子どもをつかった工作員の養成も計画されていた。そうした経緯を見ても98年に至って18歳の女学生拉致というのは動機が見えづらいのである。

 

本件に関して、パスポート取得やいわゆる「背乗り(はいのり)」と呼ばれる諜報活動が目的ではないかとの声も聞かれる。想起されるのは、1980年6月に起きた大阪に住む調理師・原敕晁(はら・ただあき)さんの拉致、いわゆる辛光洙(シン・グァンス)事件である。

北朝鮮工作員として1973年(昭和48年)に日本に密入国した辛は、在日朝鮮人工作員(土台人)として組織する一方、韓国の情報収集も命じられていた。1978年に福井県で地村保志さんと後に妻となる富貴恵さんのアベックを拉致。さらに完全に日本人になりすました上で対韓工作を続けよとの指示を受け、1980年4月、在日工作員に次の条件に合った45~50歳前後の日本人男性を探させる。

・未婚で親類縁者がない

・パスポートを発券したことがなく、前科がない、当局に顔写真や指紋が押さえられていない

・借金や銀行預金がない

・長期間行方不明になっても騒がれる心配がない

鶴橋・千日前通りで「宝海楼」を経営していた在日朝鮮人大阪府商工会理事の李三俊は従業員の原さんに目を付け、「いつまでもこの仕事ではきついだろう。知り合いに事務職を募集している会社がある」とさる貿易会社の面接を受けるように薦めた。辛が専務、朝鮮学校の元校長だった金吉旭(キム・キルウク)が常務役を演じ、面接とは名ばかりで即採用が決まる。そのまま酒宴が開かれて泥酔した原さんは「別荘に行こう」と夜行列車に乗せられた。

大分県・別府で一泊した後、宮崎市の青島海岸へ連れて行かれると待ち構えていた工作員4人が原さんを目隠し拘束。ゴムボートで工作船に拉致され、4日後、平壌近郊の南浦港に着いた。原さんから家族構成や過去の生活歴の詳細を聞き出し、5か月後に再び密入国した辛は「日本人・原敕晁」として住民票を東京都に移し、自動車免許証、パスポート、国民健康保険証などを取得(辛は戦前の日本統治時代に日本で生活していたため順応が容易だった)。82年3月から計7回の出入国を繰り返し、各地で対韓工作活動や拠点づくりに勤しんだ。しかし85年2月、ソウルに潜入していた辛は関係者の通報により韓国当局によって逮捕。現地の調べによって原さんの拉致被害が明らかにされた。

辛は無期懲役囚として収監されたが、金大中政権下での南北会談によるいわゆるミレニアム恩赦により15年で刑期を終えて2000年9月、北朝鮮へと送還された。その後の北朝鮮側の報告によれば、原さん本人は78年に拉致されていた田口八重子さんと結婚したが、86年に肝硬変で亡くなり、八重子さんも同年に交通事故で死亡し、二人の墓地は洪水により流失したとされている。

 

一方、大韓航空機爆破事件の実行犯・金勝一と金賢姫の場合、蜂谷真一名義のパスポートは在日朝鮮人によって実在する存命の人物から借り受けたものが流用され、真由美名義のものは模して造られた偽造パスポートだった。

また安明進氏の報告によれば、金正日金賢姫が自殺を阻止されたうえに爆破工作の事実を暴露、転向した事に激怒し、女性工作員が当面登用されなくなったとされる。10年経って仮に18歳の優秀な女性エージェントが誕生していたとしても同じ轍を踏むとは筆者は思わない。

 

なぜ韓国へ?

本件では第三者による誘導・手引きが強く疑われる。だがその反面、三奈子さん自身もパスポート申請など少なくとも出国に同意しているように見えるのが単なる拉致事件とは大きく異なっている。

三者が日本人のパスポートを必要としていたのであれば、新潟での受け取り直後や自宅で奪えばよいのであって、わざわざ本人まで現地に連れて行く必要はない。彼女のものでなくても、たとえば若い女性の家に侵入窃盗を繰り返せばパスポートを入手すること自体は難しくないように思う。

通貨危機後の1998年、金大中大統領は経済再建に向けた一つの柱として文化産業振興を打ち出し、2000年代には映画、ドラマが続々と世界に向けて発信された。日本で大きなインパクトとなったのは2003年4月から放送されて「ヨン様ブーム」を巻き起こした純愛ドラマ『冬のソナタ』、翌年NHK総合で放送された『宮廷女官チャングムの誓い』が熱烈なファンを獲得した。だが韓流が日本の若者たちに浸透するのは2010年前後の東方神起や少女時代らK-POPが席巻するまで待たねばならない。その後、女性誌を中心として韓国美容・コスメやファッションにも注目が広がり、BTSやNewJeansは世界的な人気を博する若者の憧れとなった。

だが98年当時、女学生が韓国に行きたがる理由というのは何だったのか。年上女性は何の目的で誘導していたのか、少女は自分の行き先を知っていたのだろうか。子どもを車に乗せるのと、18歳を飛行機に乗せるのとでは訳が違う。

98年の韓国旅行者数は約200万人〔社会実情データ図録〕

書き置きのメモと3万円の抜き取りは何を意味するのか。50万円を丸ごと持ち去るのは親の厚意を踏みにじるようで心が痛んだのか、どこか控えめな態度は第三者ではなく本人の行動を思わせる。おそらく出国計画と共に予備校の入学金も彼女の算段に入っていたのであろうが、目的達成のために「不足分を補う」ような、やむをえずといった状況が窺える。「私の通帳からおろしてください」というメッセージも、深読みすればすぐには家に戻らない意志を感じさせる。

筆跡については、鑑定士の経験を要する属人的な測定技術となるため、DNA型鑑定のように99.9999…%で本人のものと断定することはできない。だがメモの短文だけではなく、住所氏名といった書きなれた記載事項もあったことから本人のものである可能性は極めて高いと見るべきだろう。これを単純に突き詰めて考えれば、本人に国外に出向く意思があったということになる。

三者の介入についてどのようなものが考えうるのか。事件直前まで進学校の高校三年生で、アルバイトの情報などはないことから、通っていた図書館などが接点になったと考えられる。さらに父親がなく母親は仕事で日中家を空けると分かれば連れ出しには都合がよい。

浪人生や予備校生を狙う学生サークルを装った新興宗教やカルトへの勧誘なども考えられなくはないが、足のつくやり方で国外から少女を攫ってくるほど強引なカルトならば他の面でもすぐに様々な問題が明るみとなるはずだ。たとえば92年に「合同結婚式」が日本でも話題となった旧統一教会のような大きな団体であれば、拉致のような手荒なやり方は回避されており、友好的な勧誘や「家庭」を土台にした信仰強制といった手段をとる。ありうるとすれば日本では知られていないような小規模団体になろう。

駆け落ちのようなかたちで家出をけしかけられたことも考えられるが、日本人同士はもちろんのこと、あるいは在日韓国人であれば3世世代と重なるが、やはりひとまず県外に逃れてから…というのが標準的な行動に思え、いきなり韓国には向かうとは考えにくい。やはり「韓国」行きに何らかの目的があったとみるべきだろう。

たとえば韓国からの留学生のような相手と恋愛関係になったとすれば、留学期間満了や卒業などを機に帰国するタイミングに合わせたということはあるかもしれない。だが、だとすれば相手は中流以上の家庭の育ちと想定され、親が子の失踪や女子連行を通報しないという選択肢はやはり考えづらい。それとも半島に渡った恋人たちは人知れず全く新しい人生を手にしたのだろうか。

イメージ

新しい人生という側面で言えば、韓国はかねてより美容整形大国として知られていた。今日では割合としては1000人当たり8.9件で世界一の整形率である。都市部の10代から40代女性に限ってみれば5人に1人が施術を受けているとも言われ、国外からもメディカル・ツーリズムを求めて多くの観光客が訪れる。

韓国の美容意識については様々な角度から論じられているが、口唇裂の再建手術への貢献で広く知られる形成外科医デビッド・ラルフ・ミラードによって美容整形がもたらされたと言われている。朝鮮戦争で韓国に駐留した彼は、アメリカ軍兵士の現地妻や娼婦たち、韓国人通訳らに「二重瞼」手術を施した。

その後も東アジア人に多い一重瞼や低い鼻といった特徴は、映画やドラマで目にする欧米人の「ぱっちりとした二重瞼」「彫りの深い顔立ち」に強い憧れを抱かせ、西欧的な美的観念を普及させた側面もあるかもしれない。だがそれよりも血統的に運命づけられ、幼少期から否応なく背負わされる身体的コンプレックスにメスを入れることで精神的解放に有益なことが韓国社会では肯定的に受け入れられた。

さらに2000年代のカメラ機能付き携帯電話とプロフィール画像をフィルターとしたコミュニケーションツールとして若者文化の中で美容術やルッキズムは強化され、K-POPアイドルたちのような「オルチャン(美女・イケメン)」と呼ばれる進化を生み出した。近年では大学受験を終えた高校生への「卒業祝い」や就職活動を控えた学生への「合格祈願」、親から一種の通過儀礼としてオペ費用が贈られることさえあると聞く。

最後に強引なこじつけにはなってしまうが、たとえば三奈子さんもひょっとすると自身の顔立ちや荒れがちな皮膚に想像以上の苦悩や劣等感を抱えていたかもしれない。だが腹を痛めて産んでくれた、長年懸命に育ててくれた一人親に向かってそうしたことを思っても口にできなかったのではないか。大切に思う相手だからこそ打ち明けられないこともある。

受験勉強で悶々とする日々を送るなか、ハスキーボイスの年上女性と知り合い、自分とは見た目も性格も異なる彼女につよい憧れを抱いたとすればどうか。「安く施術してくれる医者を知っている」「試験が終わったら一緒に整形しに行かない?」とアプローチされれば、進学に先立って自分自身を変えたいと心を動かされてもおかしくない。親に言っても反対されるだろう、ならば理由を告げずに事を済ませて戻ればだれも言い返せない。そんな若者の勢いに突き動かされた家出だったのではないか。

年上女性を頼り、術後の経過を見て戻ろうと考えていたところ、行った先で何がしかのアクシデントに見舞われたのか。頼れる人を失って帰りたくても帰れない、苦しい境遇を今も強いられているかもしれない。この年代の、大事に育てられてきた少女がふとしたきっかけからそれまでにない経験、大きな変化を求めることは間々起こりうる。動機が美容整形か否かは差し置いても、筆者は自発的家出もないとは言いきれない心象を抱いている。

 

三奈子さんのご無事と、ご家族が一日でも早く再開できることを祈ります。

 

Highway of Tears 涙のハイウェイ

カナダ・ブリティッシュコロンビア州内陸部のプリンス・ジョージは人口7万人を抱えるある州内最大の都市だ。そこから太平洋を臨む西部の都市プリンス・ルパードへとつながるおよそ724kmのハイウェイ16号は、1960年代末から今日に至るまで多くの悲劇を生み、“Highway of Tears (涙のハイウェイ)”と呼ばれるようになった。

ハイウェイ16号沿いにはヒッチハイク禁止を呼び掛ける看板が

カナダ国家警察(王立カナダ騎馬警察;RCMP)によればこのハイウェイ近郊では、女性13人が殺害され、5件の失踪事件が起きたと報告されている。だが地域住民らの訴えによれば不自然な失踪や犠牲者の数は40人以上ではないかとも推定されている。

2005年、ブリティッシュコロンビア州を管轄とするRCMPのE部門では、ハイウェイ16号及び沿線で発生した多くの女性失踪または殺害事件の連続性・関連性を調査する指令が下される。そのプロジェクトは、天に向かう魂を迎え入れるイヌイットの女神Panaと連結され、E-Pana計画と呼ばれる。

E-Panaは、①被害者が女性であること②失踪時に目撃者のない孤立環境に置かれていた等のハイリスク行動があったこと③ハイウェイ16号、97号、5号、24号の近くが失踪現場あるいは遺体発見現場であること④事故・自殺・DVによる死亡根拠がなく、容疑者が特定できないことを基準として被害者リストを作成。報告された18人のうち、13人はティーネイジャーの少女で、10人がカナダ先住民の子孫であった。

 

2016年の国勢調査によればカナダの総人口は3520万人で、バンクーバートロントモントリオール三大都市に1250万人が生活する。21.9%が国外出身者(過半数が中華系)で占められる移民国家で、大都市圏ではその割合がより大きくなり、国の人口増を牽引している。先住民族は約170万人、人口のおよそ5%を占め、50以上の民族が全国に630以上のコミュニティに分かれて暮らすが、その大半が内陸部の遠隔地にあり、涙のハイウェイを生み出した文化的背景として語られる。

以下、個別事件の概略を見たのち、カナダの歴史と先住民(ファースト・ネイションズ)の迫害に注目してみたい。

 

乾かぬ涙

〔1〕グロリア・ムーディ(26歳・先住民族)…1969年10月25日、ウィリアムズ湖のバーを出て以来、目撃者がなく、その後、10キロ離れた牧場の森の中で遺体となって発見された。

〔2〕ミシュリーヌ・パレ(18歳・白人)…1970年7月にハイウェイ29号のフォート・セントジョン近郊で目撃されていたが、8月8日、ハドソンズ・ホープ近くで遺体となって発見された。

〔3〕ゲイル・ウェイズ(19歳・白人)…クリアウォーター出身の彼女は1973年10月にカムループス方面までヒッチハイクする姿が最終目撃となり、翌74年4月にハイウェイ5号沿いの溝で遺体となって発見された。RCMPはボビー・ジャック・ファウラーに嫌疑をかけたが、彼を有罪とする決定的な証拠は存在しなかった。

〔4〕パメラ・ダーリントン(19歳・白人)…73年11月、カムループス在住の彼女は地元のバーへ行くためヒッチハイクしていたが、翌日公園で殺害されているのが見つかった。同じくボビー・ジャック・ファウラーに嫌疑が向けられた。

〔5〕モニカ・イグナス(15歳・白人)…1974年12月13日、学校から帰宅途中、ハイウェイ16号沿いのソーンヒルを一人で歩いているところを目撃されたが、4か月後に目撃地点から数キロ東の砂利場で絞殺遺体となって発見された。失踪当夜、現場付近では男女が乗った車が停車されていたのが目撃されていた。

〔6〕コリーン・マクミレン(16歳・白人)…1974年8月、ラックアッシュの自宅を出てヒッチハイクで友人宅へ向かったものと見られたが、1か月後に遺体となって発見された。2012年、DNA型鑑定によりアメリカ人ボビー・ジャック・ファウラーが強姦殺人犯と特定されたが、当人は06年にオレゴン州の刑務所で死亡していた。男は事件当時ブリティッシュコロンビア州で働いていた。

ボビー・ジャック・ファウラーのマグショット

〔7〕モニカ・ジャック(12歳・先住民族)…1978年5月6日、メリットの二コラ湖近くで自転車に乗っていたところ行方不明に。遺体発見は1996年6月のことで、林業従事者が20キロ離れた山の伐採道路で作業中に白骨遺体を発見する。

その後、11歳少女キャスリン・メアリー・ハーバート殺害の潜入捜査の過程で、被疑者ギャリー・テイラー・ハンドレンがジャック殺害について犯行を自白する。2019年、第一級殺人で有罪判決が下された。

〔8〕モーリーン・モ―シー(33歳・白人)…1981年5月8日、サーモン・アーム付近でヒッチハイクしていたのが最終目撃。翌日、16キロ離れたハイウェイ97号の出口で遺体となって発見され、ひどい殴打痕が確認された

〔9〕シェリーアン・バスク(16歳・白人)…1983年5月3日、アルバータ州ヒントンから失踪。最終目撃地点はハイウェイ16号近くで、数日後、アサバスカ川付近で彼女の遺留品とみられる衣類、血痕が見つかる。

〔10〕アルバータ・ウィリアムズ(24歳・先住民族)…1989年8月25日に失踪し、1か月後、プリンス・ルパード近郊のタイイー陸橋近くで絞殺遺体となって発見された。遺体には性的暴行の痕跡が確認されている。

〔11〕デルフィン・ニカル(16歳・先住民族)…1990年6月14日、ハイウェイ16号でブリティッシュコロンビア州スミザーズとテルクワの自宅間をヒッチハイク移動しようとしていたがそのまま行方不明に。

〔12〕ラモーナ・ウィルソン(16歳・先住民族)…1994年6月11日、スミザーズの友人宅に向かうためヒッチハイクしていた。10か月後、ハイウェイ16号の空港近くで遺体となって発見される。近くに彼女の遺留品が整理しておかれており、他にもロープ、ネクタイ、ピンク色の水鉄砲などが付近で見つかった。

初期入植者と先住民族をルーツとするエスニシティである「メティ」の映画監督クリスティン・ウェルシュは、この少女の死をメインテーマとしてドキュメンタリーフィルム『Finding Dawn』(2006)を制作した。

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〔13〕ロクサーヌ・ティアラ(15歳・先住民族)…1994年11月、プリンス・ジョージから失踪。バーンズ湖近くのハイウェイ16号の外れで遺体となって発見された。

〔14〕アリーシャ・ジャーメイン(15歳・先住民族)…プリンス・ジョージ在住だった彼女は、1994年12月9日にハイウェイ16号に近い小学校の傍で遺体となって発見された。

〔15〕ラナ・デリック(19歳・先住民族)…1995年10月7日、ヒューストンのノースウェスト・コミュニティカレッジの学生だった彼女は、テラス近くのガソリンスタンドでヘーゼルトンの自宅方向に歩いているのが目撃されていたが、以後、消息を絶った。

〔16〕ニコール・ホア(25歳・白人)…アルバータ州出身の彼女はプリンス・ジョージ近郊で植樹の仕事に就いていた。2002年6月21日にハイウェイ16号でプリンス・ジョージからスミザーズ間でヒッチハイクしている姿が見られていたが、以後、消息を絶った。2009年8月、殺人により終身刑となっていたリーランド・スイスを重要参考人として、当時彼が所有していた近郊の山林や付近のゴミ捨て場などの捜索が行われたが手掛かりは得られなかった。

〔17〕タマラ・チップマン(22歳・先住民族)…2005年9月21日失踪。ハイウェイ16号、プリンス・ルパードの工業団地近くでヒッチハイク中に消息を絶った。モリスタウン・ファースト・ネーションの出身。

〔18〕アイエラ・サリッチ・オージェ(14歳・先住民族)…プリンス・ジョージの中学に通っていた彼女は、2006年2月2日から行方が分からなくなり、2月10日、東へ15キロ離れたテイバー山近郊のハイウェイ16号沿いの溝で遺体となって発見された。

上記以外でも少女や女性の行方不明者は各地に点在し、時期や地理的に近接するケースも多い。しかし通報・捜査の遅れや目撃情報の不足、そして犯罪性が確認できない自発的失踪の可能性等によりリストから外れているものもある。E-Panaでは少女や若い女性に限ってリストアップしたが、少年や中高年女性、LGBTQの失踪者・犠牲者も当然存在したと見るべきだ。全てが連続犯によるものとは考えにくく、ボビー・ジャック・ファウラーのように重犯罪者が関与したケースもあれば、単発的な犯行やグループ犯罪の場合もあるだろう。

事件当初から注目されたのは非先住民のホアさんのケースであった。アルバータ州では捜査のための手厚いチャリティ支援活動が行われた。またリスト外の失踪者マディソン・スコット(20歳)の場合も家族に豊富な資金やネットワークがあったことから、看板やポスターの設置、専用ウェブサイト等に資金を割くことができた。対照的に、大半の先住民の家族は貧困と阻害、社会的リソースの不足から効果的な事件啓発や捜索活動はままならず、被害者遺族らの連携や啓発運動も長らく進んでこなかった。

1990年、モヒカン族がゴルフ場開発に反発して固有領土を訴えたことをきっかけに、先住民たちによる様々な抗議行動がカナダ全土に拡大した。橋や鉄道、主要道路の封鎖や送電塔の破壊行為などが繰り返され、警察や軍との武力衝突も頻発した。92年5月、ノースウェスト準州の領土を分割し、後に約17500人のイヌイットによる自治区ヌナブト準州として認められることとなる。

ハイウェイ16号周辺での失踪や殺人事件の頻発、とりわけ先住民女性の被害が多いことは90年代から指摘が挙がっていた。だが議会や行政は採算が取れないとして先住民居留地と都市部をつなぐ路線バスの導入をずっと先送りにしてきた。自前の産業もなく、多くの者が働き口に事欠きながらも暮らしてきた先住民たちが自前で共同バスを維持することなど夢物語だ。人々はハイウェイを横断する車に、見知らぬ人々の善意に頼って生活することを強いられてきた。

ようやく2000年代になって涙のハイウェイが国民的議論となり、改めて先住民政策の弊害や地理的な生活の不便さ、長年維持され続けてきた経済格差、都市部とは異なる危険と隣り合わせの日常が浮き彫りとなったのである。隔離と自治だけでは解消されない、守るべき尊い命の問題が突き付けられた。

2007年以降、RCMPは750件のDNAサンプルを収集、2500件の再聴取、1413人の関係者を調査し、100件のポリグラフ検査を実施したと報告している。しかし人権団体の調査によれば、先住民に対する偏見や差別から捜査はないがしろにされ、むしろ女性たちの飲酒や路上売春などを疑って、その被害の深刻さが過小評価され、被害者に落ち度があったとして責任転嫁されていたとの報告もある。

The Country Boy Killer: The True Story of Cody Legebokoff, Canada's Teenage Serial Killer

2010年に逮捕されたコディ・アラン・レゲボコフは、2年間で4件の殺人を犯し、涙のハイウェイに新たな悲劇を積み重ねた。1990年生まれのカナダ最年少のシリアルキラーのひとりとしても知られる。

11月27日21時45分頃、車で走行中の新人警官が、山の伐採道からハイウェイ27号に進入してくるレゲボコフのピックアップトラックを見とがめる。極寒の真夜中、人里離れた山道をうろついているのは不審に思え、当初、森の奥地で密猟でもしていたのではないかと疑い、検問停車を求めた。車内には血まみれのマルチツールやレンチ、似つかわしくないバックパックが置かれ、中にあった財布には「ローレン・レスリー」名義の小児病院カードが見つかった。

血痕について質問されたレゲボコフは「シカを棍棒で打ち殺した」と答えたが、荷台に獲物を載せてはおらず、「田舎者なので、遊び半分でやったことだ」と言い逃れをした。警官は野生生物保護違反で男を逮捕し、トラックのタイヤ痕と山中の足跡をたどっていくと、雪の中に埋もれて発見されたのは殴り殺されたシカではなくローレン・レスリー(15歳)の遺体だった。

その後の取り調べと家宅捜索、DNA型鑑定などにより、ジル・ストチェンコ(35歳) 、ナターシャ・モンゴメリー(23歳)、シンシア・マース(35歳)の3人の死との関連が新たに判明した。レゲボコフはコカイン中毒者でしばしばセックスワーカーを利用して、異常性欲の捌け口とした。若年のローレン・レスリーは片眼の視力が50%、もう片方が全盲の少女で国内SNSネクスピア」を通じて知り合ったという。半世紀近くに渡るハイウェイの悲劇は新たな手口を組み入れながら、また次の世代へと継承されていたのである。

 

カナダの成り立ちと先住民政策

日本人にはややなじみの薄い植民地主義とその後の多文化主義となったカナダの歴史を簡単に見ておこう。

15世紀末、イングランド王ヘンリー7世治世下で派遣されたジョン・カボットがカナダ東端のニューファンドランドを発見し、以降は西欧諸国に豊かな漁場として認知されることとなるが、英国による植民地化は主に五大湖以南の大西洋沿岸部で展開されていく。16世紀になるとフランスがセントローレンス川下流域の探検を進め、インディアンたちとの毛皮貿易の拠点として、17世紀初頭、ケベック州にヌーベルフランスと呼ばれる居留地を興して統治を開始した。

植民開始当初、北米全土のインディアンが115万人、うちカナダには22万人程度が存在したと推測されている。フランス人植民者たちは多くの部族と同盟関係を結び、当初の交易は両者にとって有益であったとみられ、入植した白人男性と原住民女性との結婚も行われていた。部族とヨーロッパ人との橋渡し役として、毛皮貿易が衰退する19世紀初頭まで数世代にわたって文化的・生物的混交は続き、双方をルーツとし独自の文化や言語をもつ混血先住民「メティ」が成立する。

フランス人が持ち込んだブランデーは先住民の社会秩序に深刻な悪影響を及ぼしていたが、見てみぬふりで取引は拡大を続けた。植民者はインディアン居留地を設けて改宗や教育による「文明化」を試みたがうまくいかず、ヨーロッパからもたらされた天然痘やはしか、インフルエンザや赤痢といった疫病が先住民族をさらに苦しめる脅威となった。

18世紀、英仏間の対立が北アメリカ植民地にも飛び火し、それぞれの植民地と同盟を結んだ先住民族を巻き込み、各地で抗争や代理戦争が繰り広げられた。1763年のパリ条約でフランス側はケベック州植民地を放棄し、以後はイギリスの支配下となった。フランス系植民者は約65000人おり、すべてカトリック信徒であった。英国議会はイングランド国教会への強制改宗ではなく融和策を選択し、フランス民法典とカトリックが容認された(1774年ケベック法)。戦争とイギリス統治への転換は、それまでフランス人植民者との友好関係を築いてきたインディアンやメティに敵対感情を植え付けた。

1763年、英国議会はインディアンとの衝突状態を避けるため、それまでの主従隷属を強制する方針から、交易相手として一定の土地と独立性を認める共存統治に政策転換。オタワ川より西岸の五大湖北部(現在のオンタリオ州)をアッパー・カナダ、東岸のケベックと大西洋沿岸地域をロウア―・カナダに区分して統治した。またアレクサンダー・マッケンジーら商人たちはアッパー・カナダ、ロッキー山脈を越えての更なる西部探検を推し進めた。

1783年、東部植民地13州に端を発するアメリカ独立戦争終結し、グレートブリテン王国アメリカの独立を承認する。敗れた王党派(ロイヤリスト)ら35000人は北進してケベック州東部やセントローレンス川の南に位置するニューブランズウィック、さらに東のノバスコシアへと流入した。

1812年に第二次独立戦争ともいわれる米英戦争が勃発すると、アメリカはロイヤリストの駆逐とカナダの占領を目指したが、ケベックへの侵攻は半ばで撃退された。防衛戦での勝利は英/仏の垣根を越えたカナダ人としての国威につながり、政府樹立を求める機運にもつながっていく。

戦後は開拓と企業誘致が加速し、本国での穀物法(安価な外国産小麦輸入を禁じ、穀物価格の高値維持を目的とした地主向けの保護政策)と人身保護法の廃止の影響もあり、移民が激増する。アッパー・カナダを中心に多くのコロニーが設けられ、8万人程度だった非インディアン人口は1830年までに22万人、1850年までに80万人にも膨れ上がった。だが一方では入植推進のためにもたらされた多額の補助金を握る統治階級の腐敗が表面化し、暴動や反乱が両州で頻発する事態となった。

新規入植者たちによってもたらされた改革の機運は、英国議会にアメリカ独立戦争の記憶を思い起こさせた。ヴィクトリア女王はカナダ総督ダラム伯爵ジョージ・ラムトンから、植民地に自治を認めれば忠実に従うであろうとの報告を受け、1840年、連邦制の導入を決める。植民地に立法府が認められ、カナダ東・西へと地域区分は改められ、両州から議員が選出されることとなる。暴動による国会議事堂消失などに遭いながら移転を繰り返し、連邦政府は65年にオタワを首都とすることで落ち着いた。

旧来の連邦法は東部に住むフランス語話者とそれ以外の人々との平等化を目指して策定されていた。そのため西部でのイギリス系入植者の急増に伴って、法解釈の齟齬や行政面での支障が生じるようになり、議会はねじれ現象による機能不全を起こした。英国議会はカナダ統一のため、1867年英領北アメリカ法を制定し、英連邦下に自治領カナダ政府を認める。

1871年国勢調査では総人口3689257人。初代首相となった保守党ジョン・マクドナルドは改革党(自由党の起源)に政局安定のための大連合を求め、国家基盤の整備に奔走した。国境区分が不明瞭だった西海岸ブリティッシュコロンビアも領地に加え、五大湖や河川の利用、漁業権についてもアメリカ政府との間で条約を制定。1885年には大西洋岸から太平洋岸までを東西を横断するカナダ太平洋鉄道が完成した。

カナダの先住民居留地分布

連邦カナダでは、フランス系、イギリス系植民者の双方に配慮がなされ、多文化国家としての道を歩むこととなる。その一方で、1876年にはインディアン法を定め、先住民族を「保護区」に定住させて管理しようとした。当初は「同化」政策として、伝統的衣装を奪い、宗教行事や酩酊物の使用を禁止し、キリスト教への改宗を推し進め、農業を奨励し、「文明化された」と認められた暁には参政権を認めることとした。だが先住民たちは民族的アイデンティティや伝統的な慣習を完全に放棄することはなかった。

1883年には寄宿学校制度が導入され、先住民族の子弟らを親元から引き離し、130ある寄宿学校や工業学校で教育を受けることを強制する。制度は1996年まで存続したが、先住民族を「野蛮人」「未開人」とみなす植民地主義が色濃く、こどもたちへの精神的・肉体的虐待の実態が明るみとなり今日では大きな批判を受けている。寄宿学校や教会の運営を任された聖職者たちは、こどもたちに強制労働を課し、性暴力の餌食にもしており、寄宿生の失踪・不審死が異常に多いばかりか、妊娠した女生徒は暗黙の裡に堕胎させられてきた。寄宿学校跡地にはそうした「墓標なき墓」が数百単位で見つかっている。

先住民への迫害はカナダ建国に伴う歴史的事実として捉えられ、2006年にはインディアン・レジデンシャル・スクール和解協定が成立。歴史的事実として継承されること、新たなパートナーシップの構築、和解とその癒しが約束された。2008年には政府と国民を代表してスティーブン・ハーパー首相が寄宿学校制度の過ちを謝罪した。

 

現在地

RCMPの2014年報告によれば、1980年以降の過去30年間で殺害された先住民女性の数は1049人、行方不明者は172人とされていた。

しかし2016年、連邦政府は、改めて行方不明および殺害された先住民女性・少女に関する全国調査を開始し、不釣り合いな非暴力率に対処する具体的な行動計画や予防策につなげると明言した。カナダ先住民相キャロリン・ベネットは、他殺が疑われるにもかかわらず自殺・事故死・過失死・自然死として処理された先住民女性は数千人にも及ぶと試算し、これまでの捜査当局の怠慢を非難した。

2019年の最終報告書では、先住民女性は他の女性より暴力を受ける可能性が12倍高く、殺害される可能性は7倍近いと結論付けた。これまでの法制度が先住民、とりわけ女性、少女、2SLGBTQQIA(いわゆるLGBTQに「2スピリット」「クエスチョニング」「インターセックス」「アセクシュアル」を加えた性的マイノリティ)の基本的人権を永続的に侵害してきた事実上の「ジェノサイド(大量虐殺)」に相当するとし、カナダ先住民の安全・正義・健康・文化の向上に向けた231の対策を提案し、包括的な改革を求めた。

先住民女性の生存権を訴える市民運動

世論の圧力を受けて、ブリティッシュコロンビア・トランジット協会はハイウェイ16号に3つの新規バス路線を提供することを約束し、2018年の州運輸省の報告では年間5000人近い利用者があったという。しかし請け負っていた民間バス会社の事業撤退によりサービス提供はコロナ禍前から中断され、即効的な対処さえも思うようにはならない現実を突きつけた。

建国以前から存する民族問題、広大な国土で孤立するコミュニティと都市の問題、先住民に対する差別・搾取・迫害の歴史など、涙のハイウェイは一朝一夕に解決できない多くの課題を孕んでいる。涙をぬぐい、もう二度と同じような悲劇で頬を濡らさないためには何が必要なのか、国民的議論は現在も続いている。

 

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CANADA - Information Pages dealing with our history

ブタを積んだトラック――アイオワ州運送業男性行方不明事件

畑に囲まれた田舎道の真ん中に大型トラックが乗り捨てられ、後部コンテナには大量の仔ブタが生きたまま取り残されていた。ドライバーは一体どこへ消えたのか。

 

概要

2023年11月21日(火)の未明、アメリカ中西部アイオワ州ウォールレイク在住のトラック運送業デビッド・シュルツさん(53歳)が仕事中に行方が分からなくなったと家族から捜索願が出された。当然、交通事故が真っ先に懸念されたであろうが、周辺で該当する事故の報告はなかった。

その日の午後になって、デビッドさんの携帯電話から妻の元に電話が入った。彼女は前夜からすでに30回は電話を掛け続けていた。

「ああ、ようやく」と思って、応答すると、相手は聞きなれない女性の声。

ダグラス近郊の住民から「無人のトラックが早朝からずっと停めっぱなしになっている」との通報が入り、トラックを確認しにきた女性警官だった。

デビッドさんのトラックが見つかったのは州間ハイウェイ20号線から北に逸れた畑に囲まれた田舎道。コンテナには搬送途中の多数の仔ブタ、携帯電話など僅かな遺留品が残されていたが、本人の行方はその後も分からなかった。

行方不明となったデビッド・シュルツさん

トラックのドアは無施錠で、車内には財布、現金、携帯電話、カギ類が残されており、血痕や争った形跡は見当たらなかった。近くの側溝から彼の冬用ジャケットも発見され、中には軽業務で使うポケットナイフ、イヤフォン、ぼろ布などの私物が残されていた。

捜査機関は遺留品に第三者の痕跡が残されていないかなどを調べるため、DCI犯罪研究所に遺留品の鑑定を依頼したが何も検出できなかった。

 

日本で50歳代男性の行方不明といえば、金銭トラブル、家庭不和、病気などを動機とする自発的失踪ないしは自殺が疑われるケースが多い。しかしデビッドさんの妻サラさんは、彼が自殺や失踪する動機はなく「荷を残したままにして居なくなるなんて、彼の職業倫理から見ても絶対にありえない」として、事件性を強く疑っている。

サック郡保安官事務所と捜索救助の非営利団体ケイジャン連合海軍」ら数百名のボランティアの協力を得て、近郊数十キロの範囲を一斉捜索し、12月までに地域一帯の潜在可能な範囲の捜索はすべて完了したと報告された。上空捜索やドローン、警察犬なども導入されたが大きな成果はなかった。

行方不明から100日以上が経った現在も、デビッドさんの消息は分かっておらず、発見につながる有力情報や新たな手掛かりも得られていない。

 

時系列と地図

11月20日(月)夜7時にウォールレイクの自宅を出発したデビッドさんはイーグル・グローブの現場に向かった。自宅からおよそ90マイル、休憩なしで車で片道およそ1時間半の距離である。彼はここで大量の仔ブタが収容されたコンテナをトラック後部に積載した。

10時30分頃にイーグル・グローブの現場に入り、10時50分頃に現場を発った。来た道をほぼ引き返すような格好で、届け先の農家があるサック・シティ方面へと向かったはずだ。

下のマップはイーグル・グローブから届け先までのおおよその予想ルートを示す。イーグル・グローブから南下したトラックは、州間ハイウェイ20号線を西に進んだとみられる。

程なく午後11時15分、フォート・ドッジ近郊の道路カメラが側道の休憩帯で停車中の彼のトラックを捉えていたとされる。画像公開はなくカメラの位置は分からないが、20号のロードサイドは下のストリートビューで分かる通り、延々と畑が続く一本道で店や自販機も見当たらない。

深夜にこんな場所でヒッチハイクがあったとも思えず、事故などがあれば何らかの痕跡が残されていたはずだ。考えられるとすれば、電話応答、便意、何かトラブルを察知したのか、不意な用事のために停車したと考えるべきだろう。

 

本来ならそこから1時間もあれば届け先に到着できたはずだが、彼のトラックは一向に到着せず、電話をしても応答がない。心配した家族が警察に通報したのが21日午前2時23分だった。

しかし見つかったトラックは、目的地から7~8マイル、車で10分程の位置に乗り捨てられていた。下のストリートビューはトラック発見現場とされる交差点付近。車体は「路肩」ではなく「走行車線上」に停まっていたという。

またジャケットが見つかった「溝」の位置ははっきりしないが、日本でしばしば自転車の転落事故や高齢者の転落死などが聞かれるような「コンクリート護岸の大きな用水路」は見当たらない。おそらくは幅40センチほどの細いコンクリート用水路か、土岸の溝を示すものと思われ、デビッドさんが転落して埋もれたり流されたシチュエーションは考えにくい。

 

 下の地図は、届け先の農家があったサック・シティと車両が発見されたダグラスのおおよその位置関係。サック・シティから更に16マイルほど南進したウォールレイクに自宅があった。なぜトラックは20号線から目的地のある「南」に向かわず、「北」に進路を取ったのか。地元出身の彼が道を誤ったとは到底考えられない。

 

GPSの照会により、20号線から「北」へ向かった時刻は「午前0時18分」、交差点付近で停車したのは「午前0時40分」とされている。この予期せぬ動きは、やはり何かしらの事件性を疑わないことには説明がつかない。

 

もうひとりの失踪者

デビッドさん失踪の3週間前、アイオワ州カルフーン郡の中心部ロックウェルシティ在住のマーク・リーズバーグさん(54歳)が消息を絶っていた。警察は両事件の関係性を否定しているが、地理や二人の年代が近いことからも当初何かしらの関連があるのではないかと注目された。

下の地図で右上の☆がイーグル・グローブ、青◎がデビットさんのトラック発見現場、その下の二つの☆がサックシティと彼の自宅があったウォールレイクの位置関係である。

赤で囲まれた地域がカルフーン郡〔google map〕

リーズバーグさんは10月28日から勤めに姿を見せなくなり、同僚たちが自宅を訪ねたが彼の姿は見当たらず、11月1日、勤務していた医療機器メーカー「エッセンシア」から行方不明の届け出が出された。ハイウェイ20号沿いの自宅には財布と携帯電話が残されていたが、自家用車のクライスラーPTクルーザーが車庫からなくなっていたため自発的失踪と考えられた。

連絡を受けて駆けつけた妹のメアリー・ブラウンさんは「兄が仕事を放り出していなくなるとは考えられない」と述べ、財布や携帯電話を残して車だけがなくなっている状況について記者から問われると「たとえば夜中に誰かが玄関で助けを求め、それに応対しようと思って、何も持たずに外に出たのかもしれません…なぜ車がないのか、彼が見つからないのか、理由は私にもわかりません」と困惑した様子で答えた。

 

3週間後のデビッドさん失踪を受けて、アイオワ州捜査当局も捜索に本腰を入れ、「ケイジャン連合海軍」の協力により一帯の合同捜索に乗り出した。

12月1日午後、カルフーン郡の「木々に覆われた放棄地」の奥でリーズバーグさんのPTクルーザーが発見された。車内からリーズバーグさんの遺体が見つかり、「一発の銃創」を死因とする予備調査の結果が報告された。

不正行為(犯罪の証拠)は確認されておらず、遺体は検視局に送られたが事後報告がないことから自死と断定されたものと思われる。

 

検討

デビッド・シュルツさんの妻サラさんによれば、夫は「きみは僕の妻、僕の人生そのものだ」といつも愛情を注いでくれる家庭人で、家族を捨てて自ら失踪したとは思えないと語る。また泊りや遅くなるような時は必ず家に連絡を入れていたと言い、逆説的に電話が掛けられない状況に置かれていたのではないかと危惧している。

夫婦関係、家族仲は円満だったという

運送業という職業柄、遠方や地方では現金支払いが必要とされる場面が多く、彼は日頃から千ドル以上のまとまった現金を持ち歩いていた。一週間分の現金をまとめて財布に入れておく習慣があり、「月曜日に入れた分」が手つかずで残されていたという。

また自発的失踪説を遠ざける根拠として、デビッドさんは新しいトラックを購入したばかりで乗り換えのための整備に励んでいる最中だった。根っからの「トラック野郎」だった彼が、新車に乗らずにいなくなるなんて考えられないと妻は語る。

 

アイオワ州は人口約320万人でその85%を白人種が占め、ヒスパニック6.8%、アフリカ系5.2%、アジア系3.0%、ネイティブアメリカン1.4%と続く(2020年国勢調査)。州としては製造業、バイオテクノロジー、金融保険サービスなどの経済活動に優れ、失業率も平均より大幅に低い4%前後である。またブタ、牛、卵、トウモロコシ(エタノール)、大豆の生産も国内最大規模である。

行方不明となった周辺エリアは豊かな自然に囲まれた酪農や牧畜業が盛んな一帯で、皆無ではないだろうがおよそ犯罪には似つかわしくない土地に思える。

仮に自発的失踪をするのであれば、空港や駅など交通アクセスのよい場所まで出向いたり、残金もあることから愛車で遠方まで行くこともできたはずである。

また氷点下にもなる11月の深夜、上着を脱ぎ棄てての失踪というのも理解しがたい。にもかかわらず「凍死」という結果も報告されていない。能動的な失踪であれば、財布や携帯電話のように車内に置いていってもよいものを、なぜかトラックの近くで落としていった。それが本人によるものか第三者によるものかは断定しえないが、どこか作為的な印象を受ける。

仮に自死を想定したとて、自宅から30分程の何の変哲もない農道脇で決行する理由がない。仕事の合間、しかも生き物を放置したままにしてというのはあまりに不釣り合いな状況に思われる。最後の仕事を完遂してよきタイミングを見計らうか、トラック野郎として最期を車中で迎えるというのならばまだしも、深夜に畑の真ん中から一体どこへ姿を消したというのか。

失踪時の愛車は赤白ストライプ。新車は黄色だった

失踪当初、サラさんが絶望に駆られる中、彼女の弟は、ひょっとすると心臓発作か何かで病院に向かおうとしたのかもとアイデアをくれたが、救急搬送は記録されていなかった。デビッドさんの性格を知るトラック仲間は、もし車にトラブルがあって緊急避難させたのだとしたら、彼は積載していたカラーコーンを車両の周りに並べて周囲に異常を知らせるだろうと予測した。だがカラーコーンは置かれておらず、車体のトラブルも確認されていない。

サラさんは状況の不自然さから、トラックを放置したのは夫ではなかったのではないかと捉えており、彼はだれかに連れ去られたのであろうと主張する。「彼は素早いし屈強だし愚かではないので難しいとは思うけれど」と前置きしたうえで、どこかでちょっとした休憩をした際に「彼は何か見てはならないものを目撃して、相手に脅されて連れて行かれた」か、「ひょっとすると優秀なドライバーを必要としていた集団に拉致されているのではないか」とも口にしている。

いずれにしても危険な状況に置かれているように思われるが、彼女は夫の生存を固く信じている。きっと家族に安否を知らせたがっているに違いないが、それができない状況に置かれているか、相手に家族の居場所が知られることを恐れて「家族を守るために」あえて連絡してこないのかもしれない、と。

 

サラさんのアイデアから想像されるのは、デビッドさんがイーグル・グローブから南下して20号線に入るまでの区間ですでに運転者が入れ替わっていた可能性である。

夜7時に自宅を出てから、真っ直ぐ行けば片道1時間半のところ、荷積みの現場に到着した時刻は「10時半」とあまりに遅い。用事があったのか、食事でもしていたのか、寄り道した場所があったのかは明らかになってはいないが、「行き」の道中ですでに何らかのトラブルに遭っていたのではないか。しかしデビッドさんは何とか現場にたどり着き、荷積みを終えて、再出発したところをすぐに見つかって襲われた、と筆者は考えている。

 

ハイウェイ20号線・フォート・ドッジ近郊の道路カメラが午後11時15分に「停車中のトラック」を捉えていたとされているが、その運転手が誰だったのかまでは言及されていない(公表されていない)。このときすでに入れ替わっており、停車したのは、仲間と連絡を取り合っていたか、後方からくる仲間の遅れを待っていたのではないかと推測する。

運転技術に長けたベテランドライバーのデビッドさんならば仮に方角を誤ったとしても切り返すことは容易である。畑に囲まれた道にトラックが残されていた状況は、犯人がひと気のない場所まで運転して、文字通り「乗り捨て」、追尾してきたか呼び出したかした仲間の車に乗り込んで去っていったようにしか思えない。

読めないのはその発端と、動機の部分である。たとえば貨物窃盗団のようなグループに目を付けられて、デビッドさんが降車させられたとしても、コンテナの中味が大量の仔ブタというのはすぐに分かりそうなものである。また強盗団が相手であれば、財布や現金に手を付けないというのもどこか腑に落ちない。

地理的に見て、よそからやってきた「流れ者」による犯行の可能性はやや薄いだろう。彼は地元出身者であることから、長年の内に仲違いやトラブルになった相手も周囲に少なからずいたと考えられる。だが仮に恨みを持つ相手がいて付け狙われたとしても、連絡を取り合う「業務中」を狙った犯行は賢明な判断とは思えない。逆説的に、地元民かもしれないが旧知ではない相手という見方ができる。長きにわたって恨みを買うような相手であれば、聞き込みからも浮上しそうなものである。

最も当てはまりやすいのは、煽り運転や迷惑駐車などの交通トラブル、あるいは薬物取引や強引なナンパ行為などをデビッドさんから注意されて報復に及んで拉致したケースである。トラックの運転に第三者が介入したとすれば、不可解な発見場所の説明や、側溝で見つかったジャケットは偽装工作という解釈も成り立つ。しかしおそらく近郊の素行不良者もその数は限られており、案外、普段は問題行動の目立たない社会適応性の高い人物や中高年者かもしれない。

自発的失踪や自死、殺害の可能性さえ見極めにくい不可解な事案である。

 

家族

夫が失踪して1か月もするとクリスマスがやってきて、子どもたちは捜索活動の支援者や心配してくれた人たちから山のようにプレゼントをもらった、とサラさんは振り返る。例年とは全く違ってしまったクリスマスは彼女に夫の不在を一層強く感じさせた。それは思いがけないかたちでたくさんの贈り物に囲まれた子どもたちにとっても同じ気持ちだったであろう。

そんな子どもたちを見守るサラさんの複雑な心中を察したのか、支援者のひとりが「あなたにはティディベアをつくってあげる」と提案した。彼女はテディベア制作の素材として、デビッドさんのお気に入りだったトラックメーカー「ピータービルト社」のワッペンが入ったキャップやいくつかの古着を提供したという。

「それは私にとって、たった一つの、最高のプレゼントになるに違いありません。だって、お父さんだと思って、いつでもハグできるでしょう」

www.youtube.com

サラさんはフェイスブックで頻繁に近況を報告している。事態に進展があれば警察から連絡してもらうことにはなっているが、身元不明男性の遺体発見のニュースが耳に入ると、いてもたってもいられず自ら当局に確認してしまうと綴っている。自分の夫ではないことが確認されると、そうした見ず知らずの死者に対しても居たたまれず、日々祈りを捧げているのだという。

サラさんたちは定期的にメンタルセラピーを受けながら警察や弁護士らとのやりとり、情報発信や取材対応をされている。記事を読むと、家族にできることは限られていることが実感され、悶々と悩み、悲しみ、それでも子どもの成長と家族を支えて生きる姿に胸を打たれる。

https://www.facebook.com/sarah.bogue.96

地元サック郡防犯協会の出資と支援者からの寄付により、発見につながる情報提供には最大で28,000ドル近い懸賞金が設定されている(2024年2月末現在)。懸賞金の額がどれだけ情報提供や犯人逮捕につながるのか具体的には分からないが、事件の周知や風化阻止のためには有効な手段である。

一方で一家の大黒柱を失ったシュルツ家には小学生の子どももおり、事態の長期化により財政状況の逼迫が懸念される。捜索活動の継続に向けて以下のリンクからドネーションを受け付けている。

www.gofundme.com

 

家族の思いがデビッドさんの元に届いていること、一日でも早く家族が再会できる日が来ることを祈ってやまない。

嘘つきな母親——ケイリー・アンソニー殺害事件

「子どもたちの聖地」として知られるフロリダ州オーランドで起きた悲劇。娘に何が起きたか知らないと嘆く母親は殺人の罪に問われ、「毒親」として全米に悪名が知れ渡ったが、深刻な刑罰を免れた。しかし今も尚、母親への疑惑は払拭されず、その法的措置に疑義が唱えられている。

 

事件の発覚

2008年7月15日、フロリダ州オーランド郡郊外のチカソー・オークス地区に夫と暮らすシンディ・アンソニーはその日、2度にわたってオーランド警察に通報した。ひとつは娘に車と金を盗まれたというもの。もうひとつは、まもなく3歳になる孫娘ケイリー・アンソニーが行方不明になっているという内容だった。

夫妻が最後にケイリーの姿を見たのは、6月16日の午後1時前だという。

「なぜ一か月前に連絡してこなかったのですか?」

幼児の行方不明は一刻を争う緊急事案である。911通報を受けた通信司令員は尋ねた。

「娘がケイリーを連れて家出して、どうにかして見つけようと連絡を試みていたのですが…」

シンディは、娘には再会できたがなぜか孫娘ケイリーの所在を明らかにしないと語る。そして娘が使った車両からは「死体のような腐敗臭」を感じ、万が一、殺害されたおそれがあるため通報したと打ち明ける。

 

報せを受けた郡の保安官代理が出向いて夫妻の話を聞いた。シンディによれば、7月になってSNSMySpace」を介して娘とようやく連絡がついたものの、再会を拒絶されていたという。直後の7月7日、娘は「与えられたものは奪われる可能性がある。誰もが嘘をつき、だれしもが死ぬ」と綴り、夫妻に不穏な想像を掻き立てた。

この日、夫妻は家の車がレッカー移動されているとの通知を受け、車両を引き取りに行った。娘が乗っていった車「ポンチャック・サンバード」はガス欠で駐車場に乗り捨てられていたという。その車内には遺骸の腐敗臭のような強烈な匂いが充満しており、祖父母に最悪の事態を直感させた。

車内で見つけた電話番号に連絡してみると、娘の友人とつながり、彼女はボーイフレンドの家にいるという。夫妻はボーイフレンドの家へと押しかけ、ケイリーの母親ケイシー・アンソニー(当時22歳)と一か月ぶりに再会した。しかし連れて行ったはずの幼児の姿はなく、当惑する夫妻の問い掛けにもまともに応じようとしなかった。車の異臭については「ボンネットからリスが潜り込んで死んでいた」と説明した。

保安官代理ユーリ・メリッチ氏がケイシーに直接事情を聴くと、「6月からユニバーサルスタジオで働いていたために実家を離れただけ」「娘は以前から世話になっている乳母の家に預けた」と証言した。二人は乳母のアパートを訪ねることになったが、彼女は住所がはっきりしないとして何箇所か移動を余儀なくされた。最後にたどり着いたアパートの部屋は中から応答がなかった。

するとケイシーは「実は一か月前、乳母に娘を誘拐された」と告白する。「家出中も自力で捜索していたが見つけられなかった」「ユニバーサルの同僚に捜索の手助けをしてもらった」と証言を変遷させたが、携帯電話を紛失して当の「同僚」の連絡先さえ分からないという。

メリッチ氏は彼女と別れた後、乳母のアパートについて再度調査させてみると、5か月も前から空き部屋で前の住人も乳母とは別人だったことが分かった。その後の調べでもケイシーが連れ去りを主張する「乳母ザニ―」(ゼナイダ・フェルナンデス・ゴンザレス)なる人物は実在しないことが濃厚となる。

2008年7月逮捕時のマグショット〔フロリダ州警察〕

翌7月16日、メリッチ氏はユニバーサルスタジオに確認に赴き、ケイシーが2006年4月以来就労していなかったことや同僚として挙げた人物も虚偽と判明した。虚偽証言による捜査妨害、一か月にわたって娘ケイリーの所在不明を通報しなかった育児義務放棄の容疑でケイシー・アンソニーは逮捕される。ケイリーの捜索に加え、殺害の可能性も視野に入れ、ケイシーの家出中の行動の裏取り捜査が開始された。

当局では幼児の早期発見を優先し、捜査協力すれば釈放条件を軽減するとケイシーに提案したが、彼女は「どこにいるか分からない」「娘を殺すはずがない」と嫌疑を否認し続け、審問では「あの子は死んでなんかいない」と生存を仄めかした。名目上は児童福祉法違反を理由に拘留されることになるが、当局は50万ドルもの高額な保釈金を設定して取り調べの時間が確保された。

 

母親への懐疑

ケイシー・アンソニーは高校中退後、19歳で出産したシングルマザーで、娘ケイリーの出生証明書に父親の記載はない。ケイシーの兄リー・アンソニーによれば、出産から約1年後に相手の男性は別の州で交通事故で死亡したという。両親はケイリーの父親を知らず、彼女が妊娠7か月になるまで懐妊にも気付いていなかったとしている。

母子はオーランド郊外の実家でケイシーの両親と同居していた。ケイシーはバー、クラブ、レストランなどで商品の宣伝・売り子として散発的に働き、複数のボーイフレンドがいた。アンソニー夫妻は孫育てを積極的に支援していたと見え、誕生日のプールパーティや失踪直前に曾祖父のお見舞いに訪れたときのものなど多くの写真や動画が公開されている。

ケイシーに犯罪歴はなく、友人たちは「良い母親だった」と口を揃え、児童福祉局から虐待やネグレクトの疑いを持たれることは一度もなかったが、アンソニー夫妻との親娘関係は円満なものとばかりは言えなかった。ケイシーの素行に問題があれば、シンディは「ケイリーの親権を剥奪する」と発言することさえあったとされ、事実、911通報は娘による孫娘の誘拐(ないし殺害)を告発するものだ。

ケイシーの虚言癖に関して、夫妻の育て方に問題があったのではないか、いわゆる愛情不足を指摘する声もあがった。その理論を推し進めると、ケイシーは自分の両親から愛情を注がれて育つわが子を妬ましく思った、あるいは両親への憎しみが転じて彼らが宝物のように扱う孫を奪ったという動機も成り立つのではないかと人々は議論した。

 

ケイシーは妊娠中の2005年1月にジェシー・グランド氏から求婚され、8月にケイリーを出産。12月末までに彼のプロポーズに応諾したが、翌年5月に破局していた。グランド氏によれば、彼女の愛情が自分から離れ、娘のケイリーに向いていったためだとしている。

2022年11月に公開されたドキュメンタリーで、ケイシーはパーティーでレイプされて妊娠したことを自ら告白し、生物学的な父親を明かさないつもりでケイリーを出産し、当時の交際相手ジェシー・グランドに父親であると信じ込ませたと主張している。しかし兄リーの証言も含めて、ケイリーの父親に関する話の真偽はどれも定かではない。

一部の人々は、ケイシーとの駆け落ち、復縁、あるいは復讐のために、彼女の交際遍歴こそ容疑者リストだと考えた。

元フィアンセのジェシー・グランド氏

ケイシーの身辺調査を進めると、6月に知り合ったボーイフレンドの大学生トニー・ラザロ氏や友人の部屋を泊まり歩き、ナイトクラブでパーティを楽しんでいたことやショッピングや飲み会に明け暮れていたことなどが明らかとなる。家出中だったケイシーと交流した友人たちはケイリーが行方不明とは知らされておらず、「乳母とビーチにいる」「乳母とシーワールドに行っている」等と聞かされており、「母から連絡があっても何も言わないで」と口止めさせられていた。更に出先で「Bella Vita(イタリア語で“良い人生”)」のタトゥーを入れていたことも判明する。親の監視と育児の手から離れた母親は自由と若さを謳歌していたのである。

ラザロ氏は「彼女はパーティを楽しみ、困っているようには見えなかった」と証言


父ジョージはガレージからガス缶2本が盗まれていたことや娘がトランク内の荷物を取り出すことを拒んでいたことについて不信感を打ち明けた。隣人は6月にケイシーがシャベルを借りに来たことを思い出し、その用途を不審に思った。

異臭車両は押収され、死体探知犬はトランクに人間の遺体が積載されていた痕跡を検知した。鑑識作業を経て、顕微鏡検査でケイリーとの類似性が見られた人毛サンプルはDNA型鑑定に回されたが、毛根や組織の核DNAは抽出できず人定には至らなかった。母系血統を示すミトコンドリアDNAは一致したが、家族の車両から血縁者の毛髪が出てきただけでは殺害の証拠と認められようはずもない。

子育てを負担に思った“シンママ”がわが子を手に掛けた。捜査当局も、大半のオブザーバーもそう信じて疑わなかった。だがすぐに口を割るだろうと信じて調べに当たった刑事たちも、容疑者が取調中に一度も泣いたり取り乱したりすることなく、常に「平静を保っていた」ことに驚きを示した。その態度や言動は「何の反省も懸念の色も示していなかった」という。

 

ケイシーの逮捕後、アンソニー夫妻は孫娘の捜索のためにただちに基金を立ち上げ、目撃情報や資金提供を募るなど市民社会により広いサポートを求めた。まん丸の瞳、ふっくらとした頬に手を当てる幼女の愛くるしい無垢な表情は人々の胸を打った。

「ケイリーは必ず生きています」

祖母シンディは、車内の異臭はデマだったと前言を撤回し、「若い母親が幼児を虐待した事実はなく、死亡したという証拠は何もありません」「私が彼女を愛してきた以上に、ケイシーは自分の子どもを愛していた」と訴え、ケイリーの3歳の誕生日8月9日までに再会できることを強く望んだ。

行方不明のニュースは、幼児への深い同情の念と母親への不信感を多くの人々に喚起した。そして祖父母との確執や彼らのどこか歪んだ生還への希望、母親の偽証は、アンソニー家に対する好奇や猜疑心をも膨らませ、大きな注目を集めることとなる。地元では捜索活動が広がり、周辺の湖沼などでの潜水捜索も行われたが、発見につながる手掛かりはすぐには浮上しなかった。

当初ネット上では、第三者の介入により幼児が生存している可能性もゼロとは言えないと希望的観測を語る者もいた。しかし殺害を確実視していた捜査班は、車内の空気サンプル鑑定を導入し、8月27日、トランクに人間の遺体があった可能性が極めて高いとの見解を公表した。

ある篤志家と保釈代理人が「ケイリー捜索の一助になれば」と母親の保釈手続きを買って出たが、彼女は代理人とのやりとりに決して乗り気ではなかったという。また渦中の母親の帰宅は地域に緊張関係をもたらすとして、アンソニー家周辺では反対アピールが湧き起こり、早期釈放は頓挫した。アンソニー夫妻が保証金を支払うことを約束し、電子追跡装置を付けた娘の身柄引き受けが実現したのは9月5日になってのことだった。

しかしケイシーはその後も態度を変えず、ケイリー捜索に大きな進展は見られないまま、10月14日、第一級殺人、加重児童虐待、加重過失致死、警察への虚偽申告による4件で大陪審に起訴される(ネグレクトはケイリーが存命の場合にのみ有効になるとして児童放置罪は取り下げられた)。判事は改めて保釈なしの拘留を命じた。28日の罪状認否を受け、ケイシーは全ての容疑について否認し、無実を訴えた。

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一方、通報から1か月と経たない8月11日のこと、公共施設の検針員ロイ・クロンク氏が小用を足そうと雑木林に立ち入ると、奥の窪地に不審な包みと人骨のようなものを目にする。騒動の渦中となっていたアンソニー家から数百メートルしか離れておらず、よもやと思い、保安官事務所に通報。だが事務所ではなく通報窓口に掛け直しを指示され、言われた通り掛けたところ応答が得られなかった。

クロンク氏は12日、13日にも通報し直して、ようやく副保安官が対応に赴いたが、包みを見かけた窪地の辺りは水没してしまって地表が見えない状況になっていた。リチャード・ケイン副保安官は水面を金属棒で揺らすなどして覗き込もうとしたが「何も見えない」と言ってそれ以上の捜索を諦め、現場を離れた。

心残りのあったクロンク氏はその後も現場を訪れ、4か月後の12月11日、人骨の入ったゴミ袋を再び発見。頭蓋骨や髪に付着したダクトテープなどが回収され、さらに山林では散逸した骨が複数発見された。12月19日、郡監察医ヤン・ガラバリアらのDNA型検査によって遺体はケイリーのものと確認された。すでに腐敗が進行しており、死因の特定には至らなかった。

下のストリートビューは発見現場付近に市民が設置したモニュメント。私有地だが現在も雑木林のままとなっている。

 

第一発見者クロンク氏は、過去に元交際相手の誘拐容疑で告発されたこと(起訴には至らず)、また妻と離婚して養育費約1万ドルの未払いがあったことなどから、一部には事件への関与を疑う憶測記事が流れた。2009年1月にABC「グッドモーニングアメリカ」への出演を承諾したクロンク氏は、8月の通報に対して保安当局は責任ある捜査対応をしなかったと批判。

事件関与の噂について「名乗り出た唯一の理由は、自分には隠し立てすることが何もないからだ」と真っ向から反論した。彼の弁護士も「アンソニー事件によって彼の生活も泥沼に引きずり込まれた」と加勢し、誹謗中傷したゴシップ誌に損害賠償を求めると発表した。尚、クロンク氏が犯行に関わった証拠はその後も出ていない。

保安官事務所は、森林が湿地帯になっていたため、現場は立ち入りが困難な状態だったと会見で釈明し、担当したケイン副保安官への内部調査を行うこととした。しかし当局が市民の怒りの矛先をすでに逮捕されていた若い母親に向けるように誘導していることは明らかだった。

「みなさん、肝心なのは、こどもがこんな目に遭うべきではなかったということだ」

 

2009年4月、検察当局は前例を覆して、死刑求刑の見通しを明らかにした。

メディアは家族や周囲の人間たちを次々に俎上に上げて少女の不幸な死をよりスキャンダラスなニュースへと変貌させ、市民の社会正義と野次馬根性は、FacebookTwitterなどで多くの関連報道をバイラルしながら顰蹙や好奇を過熱させていった。母親はなぜ嘘を重ねたのか、通報もせず遊興に耽っていた31日もの間、何を思って行動していたのか、人々はその説明を求めた。

テレビジャーナリストの多くがケイシーを悪魔のように扱い、視聴率競争は激化させていき、その注目度や裁判の経過からしばしばO.J.シンプソン事件と対比された。その後、タイム誌は、その後の裁判に至る人々の反応がダイレクトに可視化された事件の経過をたどり、「世紀のソーシャルメディア裁判」と評することとなる。

 

裁判とその後

2011年5月24日、オーランド郡裁判所(ベルビン・ペリー裁判長)で審理が開始され、検察側・弁護側双方の冒頭陳述が行われた。

検察側は、被告の家出中の遊興行動から見て、殺害の動機は育児負担だったと説明。自宅のPCに「ネックブレイキング」など殺害に関連する検索履歴があったとして、以前より娘の殺害計画があったとした。車両や遺体の髪の毛の鑑定、08年3月に「クロロホルム」を検索していた事実に基づいて、ケイリーを無力化するためクロロホルムが用いられたと主張した。昏睡させた女児をダクトテープで窒息状態に至らしめたかトランク内に放置して殺害し、後日、被告人が近所の雑木林に遺棄したものと陳述した。

被告の弁護人ホセ・バエズ氏は、「母親であればわが子の行方不明を30日も放置できるはずがない、正気の沙汰とは言えないだろう。何かがおかしい。だがその答えは簡単だ」「そもそも行方不明などではなく、6月16日にプールで溺水して死亡していた」と自宅での事故死を主張する。15日、ケイリーは祖父母と自宅のプールで遊んで過ごし、その後、幼児が一人でプールに入らないようにするガード用ハシゴの取り外しを怠ったことが事の発端だとした。

翌日、小さな死体を胸に抱いた祖父ジョージは「お前が何をしでかしたか見てみろ!母親(シンディ)はお前を絶対に許さないぞ!ネグレクトの罪で刑務所に行き、お前の残りの人生は狂わされることになるんだ!」とケイシーを叱責し、事故死の隠蔽を主導したとする。母親としてその行動は過ちではあったが、被告は娘の死をひた隠しにしてこれまで何事もなかったかのように振る舞ってきたという。

彼女のバックグラウンド、機能不全となった家族関係として、「ケイシーへの不適切な接触は8歳から始まった。彼女は父親の性的虐待の被害者だった」と述べ、性虐待を隠して学校生活を過ごしてきた彼女はそうした振る舞いには慣れていたと説明し、「偽証はすなわち有罪の証拠とはならない」と主張した。また兄からも強姦を受けており、ケイリーの父親ではないかと親子鑑定を求めたこともあったとしている。

祖父ジョージは元警官で、罪状認識は当然のこと、捜査手順も念頭にあった。ケイリーの遺体にダクトテープを“あえて”残したのは、ケイシーによる単独犯行と見せかけるため、自分は係わりがないように見せかける偽装だったと指摘。死体の遺棄はクロンク氏によるものと推定。警察は捜査失敗の非難から免れるため、「平凡な溺水事故」ではなく「母親による子殺し」であるかのようにマスコミの熱狂を煽った責任があると批判した。

娘を亡くし、被告人となったケイシー・アンソニーは素っ気ない白シャツ姿で顔をこわばらせ、冒頭陳述の最中はずっと泣いていた。彼女の一挙手一投足に耳目が注がれ、6週に及ぶ公判の間に、ピンク色やレース、フリル付きブラウスを着こなすようになり、ときに目を丸くさせたり表情をほころばせたりするように表情にも変化が見られた。さらに専門家は、椅子を引いて周囲の人よりも体つきを小さく見せていた点に着目し、「人殺しなど出来そうもない、か弱い女性」を演出する見え透いた法廷戦術だと喝破した。

祖母と孫娘

 

シンディはプールのハシゴは外していて孫娘一人で侵入できる状態ではなかったと述べ、ジョージはケイシーへの性的虐待の疑惑や事故死隠蔽の主導など弁護側の主張について全面的に否認した。シンディは自らの911通報時の録音テープを聞いて涙し、車内に孫娘が愛玩していた赤ちゃん人形を見つけたときのことを証言すると嗚咽が止まらず一時休廷を求めた。幼女を何より可愛がった老夫婦は、ともすれば自分たちの娘を死刑に追い詰めるかもしれない微妙な立場にあった。

 

検察側は「死因不明の殺人」を立証するため、車内に遺体があったか否かを重要な争点として、37名もの科学者・研究者を証人に並べた。

最初に腐敗臭を認識したレッカー業務に当たった男性は、過去にも死骸を積んだ放置車に遭遇したことがあり、そのときと同じ「記憶から消せない臭気だった」と証言した。またジョージは刑事、シンディは看護士であったことからも「人間の死体の匂いを知っていた」とも言える。

オークリッジ国立研究所の法医学人類学者アーパド・バスは空気中に含まれるガスや化学物質の鑑定により「クロロホルムの顕著な含有が認められた」と指摘し、「トランクに人間の死体が存在した」と結論付けた。だが臭気鑑定はバス教授独自のデータベースに依存しており学術的に認められておらず、法的根拠とはいえないものであった。弁護人はその耳慣れない新鑑定を「ジャンク・サイエンス」と断じて斥けた。

検察側はウェブ検索履歴と併せて「殺害にクロロホルムの使用があった」根拠とした。しかしケイシーがクロロホルムやその材料を購入したり、所持していた証拠はなく、彼女の恋人が遊びに来ていた際に検索した可能性もありえた。ダクトテープについても同じことで、「事故ではなく殺人が起きた」証拠にはなりうるが、彼女が購入した、所持していた、犯行に用いたという証拠は皆無であった。弁護側は、検察側の主張を「推測の強制であり、憶測にすぎない」と唾棄した。

「先週はクロロホルム、今週はダクトテープと検察は有罪にするために次々に手を変える。だが母親が無実である可能性、事故死という合理的にあり得る仮説に対する反証が全く為されていない」

 

弁護側は、証人のひとりとしてリバー・クルーズことクリスタル・ホロウェイの出廷を求めた。彼女はボランティアたちが懸命の捜索活動に奔走している間、ジョージからアプローチを受けて親密な関係になったと雑誌に暴露していた人物である。

ジョージから事件について聞かされたことはあるかとの問いに対し、まだ行方不明とされている期間に「亡くなっていると聞かされた」とホロウェイ氏は言い、ジョージから「雪だるま式に制御不能になった事故だった」ことを打ち明けられたと証言した。

さらに公判前、ジョージが薬物の過剰摂取とアルコールの併用により自殺未遂を図ったことが法廷で暴露された。攻撃対象とされたジョージは困惑しながらも不倫関係を否認。しかしやっていないことを証明する手立てなど存在しない。弁護側としては、人々にジョージへの不信感を植え付ける戦略だったにちがいない。彼に「娘への性的虐待」と「ボランティア女性に対する不貞行為」「自殺未遂」を印象付けることで、言外に「孫娘の死因」に彼が深く関わっていることを想起させようとしていた。

 

7月5日、12名の陪審員は被告人が第一級殺人、加重児童虐待、加重過失致死について、10対2で最終的に無罪であるとの評決を下した。法執行機関に対して虚偽の情報を提供した4件につき有罪判決とし、7日の量刑審理で懲役4年と罰金4,000ドルが科せられることが決した。

「ケイリーに正義を!ケイリーに正義を!」

静寂に包まれた法廷のはるか上空からは取材ヘリの飛び交う音が響き、屋外からは周囲を取り囲む極刑を信じて疑わなかった500人余の群衆から抗議アピールが押し寄せ、審理の行方を見守っていた数百万の国民にも怒りの声は拡散した。タイム誌は州検察はその物証の乏しさから「事件を根拠に事件を組み立てた」と批判し、多くの専門家は「提示された状況証拠のみでは良識ある人々に死刑を宣告することはできない」「司法制度の欠陥が導いた結果である」と結論付けた。

世論調査ではアメリカ人の約3分の2の割合で、「間違いなく」「おそらく」ケイシーが娘を殺害したと信じているとの結果が出た。また「間違いなく」と回答した男女比は、女性28%男性11%と二倍以上の開きがあった。虐待事案は母性の理想に対する脅威であると捉えられ、感情的な反応が大きかった。

州検事は訴追を断念し、「リトル・ケイリーの遺骨回収の遅れがかなりの不利をもたらした」と悔しさを滲ませた。検察側は「こどもができたら親にとって宝になる」と国民感情に訴えかけ、その親の責任を問う法廷戦術を採った。罪状が過失致死や第二級殺人であったならば、あるいは育児義務違反を基調とした審理がより深まっていれば、死刑でなくとも重罰に至ったであろうとする見方もある。

しかし陪審員や国民世論は、先んじてメディアによって断罪された被告人が実際のところシロなのかクロなのかの答えを求めていた。検察が揺るぎない証拠を提示して犯行の一部始終を解き明かすことを期待していた。ペリー裁判長は陪審員の公表を10月まで控えたが、一部の陪審員はメディアに対し「どのような犯罪があったのか証明されなければ、いかなる罰を下すべきか判断できない」と述べ、別の陪審員は「感情に全面的に委ねれば」ケイシーへの有罪もあり得たとしたが「提示された証拠に基づいて」判断したかったと述べた。数々の情況証拠は「嘘つきな母親」への不信感を強める役割を果たしたが、殺害の合理的な説明というには「パズルの重大なピースが欠けていた」。

後にペリー裁判長は、陪審員の中には検察側の示す動機の弱さを指摘する声もあったと振り返った。また心理学者は国民の関心の高さは犯行動機の不確実性に関係するとの見解を述べた。法医学精神科医は、「メディアによる断罪的な報道が国民の報復感情を過熱させた」「可哀そうな小さな愛らしい子どもが、報復欲求に駆られた暴徒たちのリンチに遭った」と事件を総括し、母親ケイシーについて「殺害云々は別として、彼女も明らかに多くの精神的問題を抱えている」と付け加えた。

 

2011年7月17日、ケイシー釈放。度重なる脅迫のため、矯正局は生命に危険が及ぶと判断し、彼女の仮釈放者データは公表されなかった。

8月11日、フロリダ州児童家族局は、ケイシーに娘の死の責任があったとする報告書を発表。「加害者とされる人物の行動又は不行動が、最終的には悲劇的な子どもの早逝につながったか、或いは死亡の一因になった」と述べている。

州当局は失踪事件の捜査費用51万6,000ドルの償還をケイシーに求めた。ペリー裁判長は、ケイシーに総額21万7,000ドル以上の支払い義務を命じた。

ケイシーは虚偽供述での4件の有罪判決について、ミランダ警告(拘留取調べにおける黙秘権の通知)が為されていなかった不当取り調べに当たるとして控訴。控訴裁判所は、各供述は二度の事情聴取で行われたものであり、「ふたつの犯罪行為」と見なすべきと判断。2013年1月25日、虚偽の情報提供2件について有罪判決を破棄した。

同日、ケイシーは連邦破産法第7章の適用を申請して約80万ドルの負債を放棄した。

 

本件の反応として、子どもの死亡または失踪を法執行機関に通知する保護者への義務を課す「ケイリー法」がフロリダ、オクラホマ、ニューヨーク、ウエスバージニア州で制定された。子どもの安全を守るうえで有用にも思える法制度だが、保護者による過剰遵守や虚偽通報につながり、厳格なあまり弊害や逆効果をもたらすとして批判的な声も聞かれる。たとえば単なる迷子や不可解な事故を原因とした過失死であっても、保護者への社会的責任やメディアの追及、衆人からの疑いの目が無用にエスカレートするおそれがある。

 

テレビからSNSYouTubeへとメディアの拡張・転換期にあって多くの人に消費され尽くした事件の結末は、「犯人なき事件」という抜け殻だけが残された。ケイシーは今世紀最も嫌われた「母親」として記憶され、炎上騒動、社会的報復の端緒ともいえる事件であった。母親や祖父母がその後、どうやって暮らしを立て直していくのかは神のみぞ知るところである。

故人のご冥福をお祈りいたします。

 

ケイリーの検視報告書〔フロリダ中央大学〕

 

過去を捨てた男——ピーター・バーグマンの死

アイルランドの浜辺で見つかった男性行旅死亡人。その死の直前の行動は不可解な謎に包まれていた。

後半では、後に身元が判明した「ライル・ステヴィク」の事例を参考に取り上げる。

 

不可解な遺体

2009年6月16日、アイルランド西岸の町スライゴ近郊の「ロセッスポイントビーチ」で、トライアスロンの早朝トレーニングに訪れていた地元住民のキンセラさん父子は、浜辺に倒れた男性の遺体を発見する。

半裸姿の男性は年の頃50代半ばから60歳代、身長1.79メートルの痩身の白人で、白髪は短く刈り込まれていた。紫色のSpeedo社製競泳パンツの上に下着を履き、その中にネイビーのTシャツを詰め込んでいた。

目立った損傷はなく、一見して遊泳中に溺れて岸に打ち上げられたものかに見え、父子は祈りを捧げると、すぐにアイルランド警察(ガルダイ)に通報する。8時10分には医師により男性の死亡が確認され、身元不明の遺体は検視局へと移送された。

警察は周辺捜索により、遺体発見現場から約300メートルの場所で男性の所持品とみられる遺留品を発見する。黒革のジャケットやネイビー色のチノパンツ、「トミー・ヒルフィガー」の黒系ベスト、紺色の靴下、「KeyWest」と打刻された黒革のベルト、サイズ44の黒色の靴、ポケットティッシュ、小銭、白紙、絆創膏、アスピリン錠、腕時計、ホテルの石鹼。衣類のタグは全て切り取られており、財布や身元特定につながるものは何も出てなかった。

男性は「事故」ではなく、自らの命を絶つために海岸を訪れていたのだろうか。身元確認を急いだが、同定される失踪者情報は届いておらず、旅行者と推定して近郊の交通機関、宿泊施設などに捜査範囲を広げた。

 

遺体は検視にかけられたが、肺は海水に浸潤されておらず「典型的な溺死」の兆候が窺えないばかりか、「殺人」を疑わせる兆候も見当たらず、司法医クライヴ・キレルガンを困惑させた。

歯の状態は良好で、ブリッジやクラウン、差し歯、金歯や銀の詰め物など頻繁な治療の痕も見受けられた。だが整った外見に反して健康状態は悪く、進行した前立腺がんと骨腫瘍が確認され、過去には心臓発作を起こした兆候もあり、腎臓は片方が切除されていた。

深刻な病状からはアスピリンやアヘン系の鎮痛剤、何らかの治療薬の服用が想像された。検視官は毒物や過剰摂取などによる「薬物死」の可能性を疑ってあらゆる検査を行ったが、どういう訳か市販の鎮痛剤を含め、いかなる薬物反応も検出されなかった。検死解剖や検査は5か月にも及んだが、男性の死因は特定されることなく、遺体はスライゴタウン墓地に埋葬された。

 

追跡

スライゴは大西洋に面した入江の小さな町で、ホテルや市街地には防犯カメラが点在し、いくつかの行動履歴をキャッチすることができた。男性は遺体となって発見された現場から約9キロ離れた町の中心部にある「スライゴシティホテル」の宿泊客と判明する。

赤色ポイントがホテル、☆が発見現場となったビーチ[googlemap]

6月12日(金)にはじめてホテルを訪ねた彼は予約を入れておらず、フロントで「3日間の滞在」を希望。宿泊にパスポートや身分証の提示は不要だった。名簿には氏名「Peter Bergman」、住所に「Ainstettersn 15, 4472, Vienna, Austria」と記入し、支払いは現金での先払いだった。

捜査員はオーストリア警察へ問い合わせを行ったが、長年そのような住所は存在していないことが分かった。その後、ヨーロッパやアメリカ全土、可能な限り問い合わせてみたものの、「ピーター・バーグマン」に該当する失踪の届け出などはなく、男性は偽名を使用していたことが判明する。その後も、彼の指紋とDNAは国外の捜査機関でもデータベース照合に掛けられたが、一致するものは見つからなかった。

タグの切り取られた着衣のいくつかは、多国籍衣料チェーン「C&A」で販売された量産品と判明したが、ヨーロッパ内だけで1300近い数の小売店舗があり、オンラインショッピングもできることから購入先の特定は不可能だった。

 

6月12日、男は黒い鞄を手にホテルを訪れた

その顔貌はゲルマン人風で、ドイツ訛りの英語だったとされ、立ち振る舞いはまともな職業人に見えた。バーグマンは会話を避けていたのか、物静かな旅行者と認識されていた。従業員が記憶していた彼の発言は、外での朝食から戻ったときに答えた「美味しかった」という感想くらいのものだった。

滞在中は喫煙室に出入りする姿が頻繁に見られ、部屋ではインターネットを使用していたとみられるが、他の通信トラフィックと入り乱れてその履歴を詳らかに解析することはできなかった。清掃係の女性がマスターキーを使って彼の部屋を訪れたとき、中にいた彼はひどく驚いて緊張した面持ちとなり、その場に固まってしまったことがあった。女性が「自分はホテルの従業員で片づけにきただけだ」と説明すると、ようやく彼は安堵の色を見せたという。

喫煙習慣が彼の体を蝕んだのか[missingdoe.com]

13日(土)、バーグマンは郵便局を訪れ、「82セント切手」と「エアメールのステッカー」を購入。その場で国際郵便を投函したとみられるが、彼がどこの誰にどんな内容の手紙を送ったのかは明らかではない。ただひとつ言えることは、その時点で彼にはアイルランド国外の家族か友人か誰かに通信する意志があったということだけだ。

14日(日)、彼が町のタクシー運転手に声を掛けていたことも分かった。バーグマンは「静かなビーチで泳ぎたい」と伝え、近郊の地図を差し向けた。運転手は、それなら10数分で行けるロセッスポイントビーチがよいと提案して車を走らせた。ビーチを見渡した彼は、ほどなく満足したような表情でタクシーに戻り、町まで帰るようにと運転手に指示した。

バーグマンの行動で最も注目すべきは、何かを詰めた「紫色の小袋」を携えてしばしば宿から出歩き、いつも手ぶらで帰着していたという点だ。街頭カメラは至る所で一人で散策する男の姿を捉えていたが、「袋の中身」をどうしていたのかは分かっていない。彼は人知れず「私物を捨てる」ために町を散策していたと想定された。カメラ映像の解析作業のほか、地元住民のゴミ捨て場、公園や不動産、私有地の庭や駐車場など、地元警察は男性の身元を明らかにする手掛かりを捜し求めたが、全て徒労に終わった。

私物の遺棄がカメラの死角で行われていたことははたして偶然なのだろうか。その遂行は細心の注意を払って監視の目を免れているかのようにさえ見えた。彼はとくに変装もせず、街頭カメラや人々の目を積極的に避けようとしていた訳ではないにもかかわらず、なぜか彼自身の痕跡を少しずつ、だが着実に消去しようとしていた。見えざる力が彼の「任務」を後押しでもしているかのように。

紫色の小袋を手にした姿[missingdoe.com]

15日(月)、その日チェックアウトする予定だったバーグマンは、フロントで「滞在時間を1時間伸ばしたい」と滞在の延長を訴えた。裏を返せば、彼は少し遅い時刻の電車やバスに乗ろうとしていたことが考えられる。彼には取るべき行動があり、明確な目的があった。最終的に13時6分にホテルを離れるが、その時点で彼は黒色のショルダーバッグ、黒色の手提げ鞄、紫色の小袋を手にしていた。

その後、ホテルからショッピングセンターに向かい、店の出入り口付近で何か躊躇するように立ちすくんでいる姿がカメラに捉えられていた。10分程してバスターミナルに向かったことが特定できたが、ショッピングセンターからバスターミナルまでの区間で、黒色の手提げカバンは人知れず処分されていた。ターミナルで軽食をとったあとバーグマンはその場で何かメモを書いたか、メモを眺めていたようだが破って捨てた。カメラの映像を確認できたのは、彼の死から34日後だったためメモは回収できず、そこに何が書いてあったのかは分かっていない。

13時40分頃、コーヒーショップでカプチーノとハムチーズサンドを食した

6月15日の午後、少なくとも10数人が彼の姿を目撃していた。何に追われるでも隠れるでもなく、彼は自身の意志に従って動いているように見えた。運転手の記憶にはなかったが、バーグマンはおそらく14時20分発のバスに乗り、その最後の目的地を訪れた。

ビーチに人影はまばらだったが、散歩に訪れていた地元民が彼の姿を記憶していた。長身で上下黒づくめの男の装いは目を引いたという。小脇に新聞を抱えていたが、その姿はほとんど場違いに思われた。婦人たちが30分程で散歩を切り上げて戻ってきたときにも男の姿はまだその場にあり、奇妙に感じたと振り返る。

ある夫婦は、足元をたくし上げて手を後ろに組みながらビーチと平行に水際を歩いていく男の姿を見たという。夕日を背景に、鮮烈に輝く海原とそこに浮かび上がる彼のシルエットが印象的だったと語る。

夜10時半頃、恋人とビーチを訪れた男性も、黒革のジャケットを着た白髪の男性とすれ違った。彼は若者たちにそっと会釈しただけで、何を語るでもなく通り過ぎていった。翌朝、ランニング中の親子が遺体を発見するまでの8時間の間に、バーグマンはこの世を去った。

 

残された謎

バーグマンはおそらく自分の過去をすべて捨て、私たちにいくつかの謎を残してその生涯を閉じた。多くの人は、彼が深刻な病状を憂いて、自らの命を絶つために見知らぬ町の海岸を選んだのだと推測する。ベッドに縛られて最期を迎えるよりはその人にとって自由を感じられる選択だったかもしれない。だがなぜ名前や住所を偽ってまで能動的な孤独死を遂行しなくてはならなかったのか。

ある人は、彼は自尊心や相手への思いやりの気持ちから、周囲の人間に苦悶や嘆き、その死に行く様を見せたくなかったのだと主張した。ある人は、生命保険の制約から「自殺」の判定を避けるために、行方不明による「緩慢な死」を選んだのではないかと唱えた。彼が最期に宛てたエアメールは相手に無事届いているのだろうか。

遺体に激しいショックや加害の兆候はなく、体内から何らの薬物も検出されないにも関わらず、彼は自分の死期を悟って宿をとり、その瞬間を迎えるためにバスに乗ったとでもいうのだろうか。知らない町の、思い入れもない静かな海辺で、水着姿になって?

Rebecca Giosによる復顔図, 2019 [missingdoe.com]

男性はどこからこの海辺の町を訪れたのか。スライゴにも小さな空港はあるが、首都ダブリンとの直通便が日に数本という限られた航行で、該当するような乗降客はなかった。となれば陸路より他ないが、200キロ離れたダブリンから終点スライゴ駅までの12駅でもその姿は確認されなかった。

スライゴでのバーグマンの姿は、12日午後6時半近くにバスターミナルで確認されており、そこからタクシーで町の中心部へと向かった。一軒目で宿泊を断られ、たどり着いたのが「スライゴシティホテル」だった。彼は130キロ離れた島の北部、イギリス・北アイルランドのロンドンデリー市からを長距離バスでスライゴへ移動してきたことまで遡ることができている。しかし管轄から外れてしまうことや国外の空港の情報セキュリティの問題もあってか、デリー以前の行動履歴について詳細は得られていない。なぜバーグマンは宿も決めずにふらりとその地を訪れ、最期の地としたのか。

Webフォーラムのロンドンデリー出身者は、バーグマンのデリー以前の行動が充分調べられていれば、身元特定につながったはずだと嘆く。ロンドンデリーは北アイルランド第2の都市だが、都市圏人口は10万人程度。空港はあるが国際アクセスポイントではなく、2009年当時の年間乗客は35万人に満たない。空港と聞くと巨大な国際線ターミナルを想像しがちだが、日本の旅客数で単純比較すれば丘珠、佐賀、岩国、静岡空港と同程度(国内40位前後)の地方空港にすぎず、当時はライアンエアー航空によりロンドン、リバプールマンチェスターグラスゴーなどの都市につながっていた。イギリス政府、北アイルランド捜査当局が努力を惜しまなければ彼の足取りを追うことはできたのではないか。

 

あるいはバーグマンは常日頃から個人情報を持たずに行動する人種だったのではないかとする声もある。軍や諜報機関で鍛えられ、町では目立たずに闊歩しながらも、いざというときは監視カメラを逃れる優れた洞察力を備えていたのではないか。あるいは人目に付かないどこかのポイントで何かの任務を遂行していた、誰かに荷物を渡していたとは考えられないか。特命をこなしつつも、致命的な失敗を犯し、謎の手段で命をとられた高齢のエージェント。それとも重大な犯罪行為に加担した過去から、病院に通うことができなくなった逃走犯。被害者か仲間たちの報復を恐れて高飛びでもしてきたのだろうか。

“過去を捨てた男”の最期は人々の感性を刺激し、想像力を喚起した。キアラン・キャシディ監督は19分の短編ドキュメンタリー『ピーター・バーグマンの最期の日々』でその謎を広く提起し、世界中の人々を答えの出ない迷宮へと誘い込んだ。前衛的な観客の一人は「手の込んだでっちあげだ」と発言したが、残念ながらこれは真実である。インスパイアされた舞台脚本家トレサ・ニーロンは戯曲『A Story Of Dying』でその謎多き男の「正体」のひとつを描出して見せた。

www.youtube.com

アイルランド警察は2019年、2021年と、死亡した男性の身元確認の協力を国民に度々呼びかけている。2023年、身元不明・行方不明者の捜索活動を支える英国の非営利団体「Locate International」は新たに動画を作成し、以下の事柄を呼び掛けた。

・ウィーンの偽の住所に何か心当たりはありませんか?

・この時期にスライゴからの郵便を受け取った人を知りませんか?

・警察、軍隊、ドイツNVA(東ドイツ軍)、または諜報機関などの訓練で、彼と似たような男性と一緒になった経験は?

・歯科医の方で、2009年以前に金歯を施した男性との係わりは記憶にありませんか?

・ 2000年代後半に、報告に一致するガン治療をした人を知りませんか?

・ドイツまたはオーストリア出身者で、スライゴ、デリー、アイルランド西海岸とかかわりをもつ人を知りませんか?

・突然失踪した人、連絡が取れなくなった人は彼と似ていませんか?

単なる行旅死亡人ではなく、その行動の背後にそこはかとない思慮深さを感じさせる男、通称「ピーター・バーグマン」の捜査は今も続けられている。

 

行旅死亡人の特定;「ライル・ステヴィク」のケース

参考までに、長期間、行旅死亡人とされていたが特定された事例、「ライル・ステヴィク」と呼ばれたアメリカのJohn Doe(身元不明男性)のケースについて見ておこう。

 

2001年9月17日、ワシントン州アマンダ・パークという小さな避暑地の湖畔モーテル「レイク・クイノールト・イン」で、滞在日数を確認しに部屋を訪れたメイドがコート掛けに首を吊った宿泊客の遺体を発見する。

緊急通報を受けたグレイス・ハーバー郡当局は、室内ゴミ箱から白地に「suicide(自殺)」と書かれたくしゃくしゃのメモと、寝台の照明脇に「for the room(部屋代として)」と書かれた160ドルを発見し、現場状況からすぐに自殺と判断した。

現場(青色◎)は都市部から離れた山間部のモーテル [googlemap]

男性は身分証明書を携行しておらず、所持品は歯ブラシと歯磨き粉、残りの小銭だけで身元特定につながるものは出てこない。宿の台帳には、アイダホ州メリディアンの住所と「ライル・ステヴィク」という名前が記されていた。だが確認を取ってみると、住所は別の宿の所在地と分かり、宿泊施設側は男性について何も関知していなかった。該当する住民登録も存在しないことから偽名であったと判明する。

男性の身体的特徴は身長約188センチ、体重63.5キロ、黒髪にヘーゼル色の瞳。司法解剖虫垂炎手術の痕跡、歯列矯正痕があった。また捜査員は、男性のベルト・ホールに着目し、彼が以前よりもきつく締めるようになっていた、死亡前には体重が以前よりも13-18キロ程度減少していた可能性を示唆した。20-30歳代、白人/ヒスパニック系ないしネイティブアメリカンとの混血とみられる行旅死亡人として報道され、復顔図も公表されたが、身内や知人からの連絡もない。

法医Diana Trepkovによる復顔図、Washington 2001

適合するような家出捜索者の届けが出されることもなく、指紋やDNA型もデータベースとの照合が行われたが登録されてはいなかった。都市部や犯罪多発地域であれば防犯カメラも普及していた時期だが、現場周辺にはほとんどなく、おそらくはバスで現地入りしたと見られたが運転手たちも記憶しておらず、行動履歴さえ謎に包まれていた。男に関する唯一の情報は「僅かなカナダ訛りがあった」という店員の証言だけだった。身元調査はすぐに暗礁に乗り上げ、氏名不詳者「John Doe」として捜査は事実上凍結した。

グレイズハーバー郡保安局で捜査に当たった元刑事レーン・ユーマンズ氏によれば、「ライル・ステヴィク」の偽名はジョイス・キャロル・オーツの著書『You Must Remember This』(1987)からの引用ではないかとしている(綴りは若干異なる)。作品の舞台は1950年代マッカーシズム下のアメリカの家族が描かれ、全体を通して自殺未遂が多発する内容である。中古家具店を営む登場人物ライル・ステヴィクもある晩、垂木にロープを括りつけ自殺を図る場面が描かれている。

You Must Remember This

ウェブ上のフォーラムでは、殺人事件ではないこともあり、「おそらく彼の身内は名乗り出たくない、身元を明かしたくないのではないか」と危惧する者もあった。メキシコやカナダからの不法入国者ではないかとの見方もあり、何かから逃走していたか逃亡犯などのケースが想定された。しばしば社会問題となる「先住民の自殺」を感じ取る者もあった。なぜ彼は偽の住所を書くことができたのか、宿泊施設の元滞在者、元従業員や出入り業者にも思われたが、施設側はどれほど協力的だったのか、警察はどこまで把握できたのか。

中には「荷物を何者かに奪われたのではないか」という見方から偽装自殺、つまりは現場となったモーテル関係者や彼の部屋を訪れた第三者による殺人説を唱える声もあった。たしかにシーズンオフの湖畔や森林地帯で人知れずトラブルに巻き込まれた可能性は排除できない。また彼が命を絶つ5日前にはいわゆる「9・11」同時多発テロが発生し、被害当事者や家族でなくても多くのアメリカ市民がうつ状態に駆り立てられていた時期であることや、当時のテロ対策の一環としての国境封鎖の影響も何かしらの関連を予感させた。

『このことを忘れないで』と題された本からの引用が事実とすれば、それは周囲の人間関係から分断されたライルの最期のメッセージのようでもあった。続報が絶えてからも10数年にわたって安楽椅子探偵たちは細々とその推理を重ねた。

2015年には「瘦せる前」の復顔図も作成された

しかし2018年1月、DNA型鑑定や遺伝家系調査を行う非営利団体「DNA Doe Project」による調査が始まると事態は一変した。翌2月には「ライル」のDNA型がニューメキシコ州北部をルーツにもつ母系集団と適合することが発表された。

団体はマーガレット・プレスとコリーン・フィッツパトリックによって創設され、20人のボランティアが調査に当たり、費用は掲示板フォーラムに集う有志などからの寄付によって賄われる。もちろんあらゆるケースで身元特定が期待できるわけではないが、血縁の逆引きから地縁を追跡し、不明者家族の特定に導くという画期的な試みである。

調査の進捗は団体のフェイスブックページや各掲示板のフォーラムで報告され、彼のDNA型の抽出成功、遺伝系統から得られた特徴が明らかにされ、系統樹のパズルを埋めるピースが徐々に埋まっていくこと、一歩一歩「彼」のルーツへと近づいていく進展に人々は歓喜した。

更にこの「続報」が注目を浴びたことで「ライル」を名乗ったJohn Doeの再周知につながり、新たに「生き別れた自分の弟かもしれない」といった人々も現れた。電子フォーラムの人々は、尋ね人か否かは判断できないが、その努力が報われることを願い、捜索者にエールを送った。遺伝的ルーツとそうした新たな情報の集積などによって、4月にはいくつかの家系へと焦点が絞り込まれていった。

日本ではなじみが薄いが、奴隷制の歴史があり、養子縁組が多く、人種のるつぼである北米では、自らの生物学的な両親や先祖、家系図をたどるために「GEDmatch」などの商用サイトにDNA型情報を登録する人たちが少なくない。そうした登録情報の解析と紐づけによって民間にもDNA型データは集積されており、身元不明者「John Doe」「Jane Doe」の絞り込みや追跡に役立てられる。

ほとんどの州では、事件性のない個人情報は法的に保護されるため、特定できたとしてもその実名や家族関係が公にされることはない。それでも長年事件を追ってきた者たちは、名前を失くした彼らがアイデンティティを取り戻す日を願い続ける。

 

5月8日、「ライル・ステヴィク」を名乗ったJohn Doeの身元が特定されたことが報告された。DDPの鑑定グループは、カルフォルニア出身の男性登録者との一致の可能性を導き出し、警察を通じてその親戚に連絡を取り、最終的には家族から提供された「指紋」によって死亡男性との一致が確認された。

家族は、男性が亡くなっているとは思っておらず家族と関わりたくないのだろうと思い込んでおり、捜索届を出していなかった。彼の実名等は公表されていないが、16年半ぶりにその偽名を捨てる日が訪れたのである。

 

所感

日本は欧米と比較して自発的失踪—家出、蒸発—を容認する文化があると見なされている。島国という地勢、治安が良い国という幻想から、拉致などに対する強制失踪への危機感の薄さは少なからず働いているかもしれない。警察の民事不介入や、個人・地域も「家庭」の問題に口を挟むことは憚られることなど理由はさまざまである。

人によっては「理由があって自殺したのだろうからそっとしておいてやれ」という見方もあるかもしれない。だがその遺体は本当に知人や家族から見放されてしまった、自ら命を絶ったといえるのだろうか。それこそ価値観の押し付けに他ならない。死後何年も経過して死因さえも分からない人々が毎年津々浦々で発見されており、全てに事件性がないとは言いきれないのが実情である。社会全体が行方不明者を放置し続ければ、死刑囚が告発するまで事件性が取り沙汰されてもいなかった茨城上申書事件のような事例が当たり前に起こるかもしれない。

「ライル」のように家族が彼の死の事実を知らずにいるだけの場合や、見つけ出したいが警察の厄介にはなりたくない、大事にはしたくないという家族や、不明者の親族ではないために捜索届が認められないケースもあるだろう。キリスト教に限らず信仰によって自殺の禁忌の戒律意識は強い。「バーグマン」のように身元を能動的に伏せながら、あるいは、現金3400万円を遺して孤独死し大きな話題となった『ある行旅死亡人の物語』(2022, 毎日新聞出版)のように注目を集めるケースというのは極めてまれである。

ある行旅死亡人の物語

行旅死亡人の多くは、発見時にわずかに地元紙が取り扱うだけで人知れずその存在を忘れられてしまう。現状すぐにそうなるとは思わないが、DNA型登録の義務化などによってそうした名もなき死者は過去の遺物となる日が来るかもしれない。どこかで彼を探す人、彼女の帰りを待つ人がいる可能性があるうちは、見ず知らずの人たちの手で見送る手伝いをしてもよいのではないか。

 

死者のご冥福をお祈りいたします。

 

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Sligo Man — Locate International

UM-0075 – MISSING DOE EUROPE

Lyle Stevik Article Links - DNA Doe Project

両脚のない漂流者——サンディ・コーブのジェローム

カナダ東部ノバスコシア州にはある奇妙な男の実話といくつかの逸話が残されている。

 

沈黙の漂流者

1863年9月8日のこと、カナダ東部ノバスコシア州ディグビー郡サンディ・コーブ海岸で海藻採集をしていた漁師たちが奇妙な男性を発見する。

大人たちと一緒に作業をしていた通称“コリー”ことジョージ・コリン・オルブライト少年(当時8歳)は、ファンディ湾の岩浜にうずくまる黒い人影を認めた。近づいてみるとずぶ濡れになったその男には両脚がなく、傍らには水差しと乾パン缶が置かれていた。亜麻色の髪、青い瞳、年は19-20歳前後と若く見えたが、金も身分証明となる所持品も身につけていない。

漁師たちが語り掛けても男からまともな応答はなく、すっかり凍えて衰弱しきっていた。漁師たちはディグビー・ネック村へと男を運び、ひとまずコリーたちが暮らす家で引き取られることとなった。

 

包帯が巻かれただけの男の脚は、左右とも膝のすぐ上で切断されていた。偶然の怪我などではなく、切断面から外科医か、明らかな熟練者による仕業と見られ、患部は比較的新しいが塞がりかけているようだった。とにかく詳しいことは男の回復を待って聞くよりほかない。暖を取り、飲み物や食事を口にするようになったが、男はうめくばかりで言葉を発しなかった。謎の漂流者の噂を聞きつけ、村には野次馬が群がった。

漁師のひとりは、前日、セント・メアリーズ湾沖合800メートル辺りを往復していた船があったことを記憶していた。ビスケット缶と水差しがあったことから、男はひとりで漂流してきた訳ではなく、暗いうちに船で連れてこられ、何者かによって岩辺に放置されたのではないかと考えられた。

外国人ではないかと考えた者たちは船乗りたちを呼び寄せ、フランス語、ラテン語、イタリア語、スペイン語などで質問が試みられたが、男は理解しているのかいないのか、いずれも対話は成立しない。好奇でからかう者に対して、男は犬のように唸り声を出して敵意を示すこともあった。唯一、「ジェローム」と聞こえる単語があったことから、その男は以来ジェロームと呼ばれることとなる。

 

ジェロームの手のひらは柔らかく、地元の漁師たちと違って“タコ”ができていなかった。服は上質な布から仕立てられたものだったため、近郊の漁民や港湾関係の肉体労働者とは思えなかった。何も喋れない、語ろうとしない男の出自は人々の想像力を刺激し、様々な憶測が流れ、人々に一層興味を抱かせた。

彼はどこかの士官で、反乱を試みた罰として切断刑に遭って幽閉され、その後、島流しの刑罰が下されたのではないかといった仮説が支持を集めた。ある者は海賊船から投げ出されたのではないかと言い、ある者はもはや戦地で役立たずとなって船を降ろされた傷痍軍人説を唱えた。また別の者は、資産家の家に生まれたが相続権争いのために斥けられて幽閉された末、脱走に失敗して脚を切られ「追放」の憂き目にあったのだと噂した。いずれも推測の域を出るものではなく、確たる証拠は何もなかった。

文字通り「ジェローム」と発音したとすると、英語やフランス語の男性名のようでもあり、イタリア語の「ジローラモ」、オランダ語の「ジェローン」にも似通っている。あるいは人名でも何でもない全く別の外国語が偶々そう聞こえたとも考えられる。西欧諸国も今日ほど統一言語化されていなかったため、船乗りたちがジェロームの「訛り」を理解できなかっただけかもしれない。

その地中海風の風貌からフランス人かイタリア人ではないかと見る声も挙がった。イタリアの国家統一は1870年まで時を要したため、半島には多くの小国家が林立しており、戦火で脚を失ったとも考えられた。イタリアの港湾都市トリエステの話を聞かせると、なぜかジェロームはひどく腹を立てたという話もあるが、「トリエステ」に反応したと見るべきか、話者に対して苛立ったのかははっきりしない。

また彼の振る舞いにはどこか威厳があり、キャンディやタバコ、果物などの贈り物は受け入れたが、金銭を差し出されると苦々しい表情を見せたとも伝わる。誇り高い人間が“施し”に屈辱を感じたとも取れる報告であり元々は高貴な身分の出であることを想像させたが、食い物の価値は心得ていたものの金の価値が分からなかっただけとも捉えられる。

 

ジェロームは回復すると見た目も態度もジェントルで、機敏に移動することもできたが普段は座って大人しくしていたため、世話にはそれほど手がかからなかった。だが裕福ではないコリーの家では食い扶持に困り、ジェロームは村の家々を転々とすることとなった。

その村は英語を話すバプテスト派(プロテスタントの最大教派)のコミュニティだった。いつしか人々は、彼はカトリック教徒に違いないと判断し、発見から半年ほど経った1864年2月、「彼のために」フランス人コミュニティのメテガンへと追いやった。訴えを受けた州政府も彼が同地に留まらざるをえないものと判断し、週2ドルの生活費を拠出することを決め、財務報告書にも「ジェローム」の項が加えられた。

今日のカナダ南東部(ノバスコシア州-ニューブランズウィック-ケベック州周辺地域)は、ヌーベル・フランス(フランス人北米入植者)の植民地のひとつとして17世紀から定住化が進んだ。彼らは現地化が進み「アカディア人」として新たなアイデンティティを構築したが、英仏関係の悪化により植民者間でも衝突が起こり、18世紀半ばには多くの先住民を巻き込んでフレンチ・インディアン戦争が勃発。数で圧倒的に劣るフランス側は敗れ、追放や迫害の憂き目に遭った。以後、アカディア人は二等市民扱いされることとなり、一方でアメリカの独立などを受けてエスニック・アイデンティティを強めていった。

端的に言えば、面倒ごとをメテガンのアカディア人に押し付けた、陳情された州政府も処置に困り、そうするより他ないと判断したということであろう。

 

メテガンでは、コルシカ出身の脱走兵で片言ながら数か国語に通じたジャン・二コラがジェロームを預かることとなる。彼の試みでも言語は取り戻せなかったものの、およそ7年間を共に過ごした。ジェロームは子どもが遊ぶ様子を眺めていることを好んだとされ、ジャンの妻ジュリットや娘のマドレーヌらも彼を慕った。彼は日頃、日向ぼっこや暖をとることはしたが、仕事らしい仕事はしない動物のような日々を送ったとされる。喋れないからといって筆をとることもなく、本や読み物、写真にさえ関心を持たなかった。

ジュリットが亡くなると、ジャンはヨーロッパへ戻ることになった。ジェロームは近郊のサン・アルフォンス・ド・クレアに暮らすジャンの義弟デディエ&エリザベス・コモー夫妻のもとに身を寄せることとなる。夫妻には4人の子がおり、ジェロームを迎え入れてから更に9人の子をなしたため、たくさんの「子守」は彼の心の慰めになったかもしれない。

コモー夫妻の家は村のバスの停留所の目の前で、鉄道が敷かれる1870年代末までは人と物を運ぶための地域拠点となっていた。一家はジェローム知名度を利用して、入場料を取って見世物とし、州からの俸給と併せて裕福な暮らしを送ったという。

今日の倫理観に照らせば強欲に思えるかもしれないが、当時はサーカスや見世物興行が娯楽の王道であり、小規模ながらコモー家も繁忙期には数百人の見物客で賑わったとされる。ジェロームは時々顔を挙げるが大体はうつむきがちで、怪訝な態度を見せたり唸り声をあげたりするばかりだったと報告されている。

19世紀半ばには精神医療も黎明期であり、知性の欠如である「白痴」、あるいは周囲にトラブルを及ぼしかねない「狂気」に類型化するほかなく、有効な生活対処や緩和治療なども整備されてはいなかった。肉体労働が基本とされた時代、心身にハンディキャップを抱え労働力にならない人々は村で「愚か者」「無駄飯食らい」と冷遇されるか、豊かな家であれば「座敷牢」に幽閉されるのが通例だった。サーカスのような見世物であれ就労機会を得ることは、そうした暮らしに比べればはるかに人間的、人道的と捉えられなくもない。もちろんそこで虐待がなければの話ではあるが。

ジェロームのミステリーはアメリ東海岸でも度々報じられ、コモー夫妻の息子がニューヨークを訪れた際には「“ジェローム”のことを知っている」という2人組の女性たちから声を掛けられた。女性たちは、かつて彼はアラバマで生活しており親許を逃げ出したのだと告げた。コモー氏によれば、女性のひとりは確かにジェロームと瓜二つだったという。彼女はジェロームに渡してほしいと手紙を託し、コモー氏は届けたが、足のない男は封筒を何度もめくった後、中身を見ることなく小さく破いてしまった。彼が自分の正体を知る人間との接触を恐れていたのか、あるいはそれが何を意味する紙なのか理解が及んでいなかったのかは定かではない。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、バスから鉄道へ、木炭から石炭へ、漁業は水産加工業へと時代は、人々の暮らしは目まぐるしく移り変わった。コモー家の子どもたちもそれぞれ独立し、1902年、夫妻は丘の上の邸へと引っ越したが、同年、家長のデディエが亡くなった。以来10年余、エリザベスがジェロームの世話を買った。

〔Daily Echo] 1912-04-19掲載

謎多き男の身元を突きとめるために半世紀以上にわたって数十人のジャーナリストが挑み、数えきれないほどの野心家たちの手で多くの試みが行われたが成果はなく、彼は終生自分が何者なのかを語ることはなかった。

コモー夫妻のもとで40年余り過ごしたジェロームは、1912年4月15日に老衰と気管支炎により世を去り、メテガン教区墓地に埋葬された。

奇遇だが、タイタニック号が大西洋に沈んだ世界最悪の海難事故もこの日のことであり、かつての騒ぎに比して彼の訃報はささやかなものとなった。デイリー・エコー紙の記事では「体格が良く、年齢は75歳から80歳の間のように見え、知的な容貌と形の良い頭を持つ男性」と描写されている。

彼を直接知る人々もほとんどいなくなった2000年、メテガン教区墓地にはジェロームを祀る新たな石碑が設けられた。

 

アナザーストーリー

カナダは文書化された歴史が少ない国とされ、地域の記憶の多くは逸話として口頭伝承されてきた。サンディ・コーブのジェロームの物語もノバスコシアの人々の間で、親から子へ、孫の代へと、“本当にあった奇妙な昔話”のひとつとして語り継がれた。後世の詩人ケン・バブストックや小説家アミ・マッケイ、映画監督フィル・コモーなどにインスピレーションを与えた。

Jerome: Solving the Mystery of Nova Scotia's Silent Castaway

郷土史フレイザー・ムーニー・ジュニアは『ジェローム――ノバスコシアの静かな漂流者の謎を解く(未邦訳)』(2008, Nimbus Pub)のなかで、ジェロームに関する記録の断片と、派生した多くの伝聞を紹介。後半では、ファンディ湾の対岸ニュー・ブランズウィック州立図書館に眠っていた公文書記録を駆使して、ノバスコシア州ではあまり語られてこなかったひとつの有力な新解釈を提示している。

 

1859年12月のこと、ニューブランズウィック州を流れるガスペロー川北側で木こりの集団がキャンプ地を引き上げ、家族とクリスマスを祝おうと家路を急いでいた。村へ向かって凍てつく山道を下る途中、雪に埋もれた若い外国人男性を発見する。

男性は村へ運ばれ、チップマン教区の貧困者の救済支援を行う保険福祉監督に保護された。福祉監督は郡に報告して保護費用の援助を請い、村人たちは見知らぬその男を甲斐甲斐しく世話した。凍死の危機こそ逸したものの、彼はフランス語も英語も解さない。さらに深刻な凍傷から両脚に壊疽を負い、このまま毒が廻れば再び死の危険に晒されようとしていた。

61年3月にはグランド湖の対岸にあるゲージタウンのヘンリー・ピータース医師の許へ運ばれ、両脚の切断を余儀なくされた。彼は「イタリア移民」として住民登録が取られ、通称「ガンビー;Gamby」と呼ばれた。彼はしゃべりかけられても会話できなかったが、「常に“ガンビー”と繰り返していた」とされる。上手く発声することができず偶々そう聞こえたのか、それともイタリア語の「脚;gamba」に起因するものか、あるいは周囲の人間たちが言葉にならない男性の言葉をそう解釈したのかは定かではない。

ガンビーの体は徐々に回復したが知性の制御がままならず、食事を与えても、肉を食べきり、パンを食べきり、スープを飲み干すというように単品ずつでしか口を付けようとしなかった。やや女性蔑視の傾向が見られ、男性でも一部の人にしか懐かなかったとされる。人々の暮らしに余裕はない中、彼は山仕事はおろか手仕事さえもできなかった。

4年後、コミュニティの評議会はその負担から男の追放を決断し、W.コルウェル氏に彼の行く末を任せた。正確な依頼内容は定かではない。だが川下の港町セント・ジョンへと運ばれ、そこから貨物船で送還されることで話が付いていたとみられる。コルウェル氏は両脚とことばを失った男をブライヤー島まで送り届けたことを依頼者に報告した。

 

ムーニー氏はこの「足を失ったアイスマン・ガンビー」の物語が、ファンディ湾を挟んだ対岸に位置するサンディ・コーブで置き去りにされていた「ジェローム」の物語に接続するものだと主張する。今日の感覚で見れば、ガンビーやジェロームが脳障害や生死をさまよった後遺症が生じていた可能性が疑われる。またジェロームが海岸で発見される以前に人間不信に陥るような苦難に遭っていれば、しばしば大人には猜疑心を、子どもに愛着を見せた逸話とも合致する見方だ。

ジェロームの発話の困難は、発話制御を司るブローカ野の脳損傷に起因すると考えられ、動物のようにうめくことはできるが理解可能な言語であっても発語できなかった可能性があるという。ガンビーにも同じことが起きていたかもしれないが、彼が「ガンビー」と発話できていたとすれば、ジェロームはなぜ「ジェローム」としか言えなかったのか。「ガンビー」と「ジェローム」では聞き違えようはずもなく、強いて想像を膨らませるならば、ガンビーは実際には「ガンビー」と繰り返していなかったが、誤って、或いは恣意的にそうと記録された可能性がある。

更に20世紀初頭にチップマン地元紙が書いた記事には、ガンビーが凍死寸前で発見された当時、髭を伸ばし、その風貌は「26歳前後に見えた」という報告もある。どちらもあくまで印象論レベルでの話であり、瀕死状態であったことからその見た目も様変わりしていた可能性はある。山奥で木こり仕事をする人々と海辺で漁業を営む人々では人相に対する印象も違って当然かもしれない。だが26歳前後に見えたガンビーがニューブランズウィック州で4年程過ごした後、対岸で発見されたとして20歳の見た目になるのかは疑問が残る。

筆者はフレイザー氏の説が真相だとは受けとめていない。いずれも若者であることから労働力として売買されたか、大陸での仕事を求めて流浪した人物と推測する。ジェロームは何がしかの私刑や報復に遭って足を切断されたようにも、ガンビーは精神疾患や規則違反によって雪山に棄てられたようにも見える。ガンビーがジェロームになった訳ではなく、「公的記録」や「歴史」として残存した、再発見されたのが偶々その二人だったのではないか。ガンビーのような境遇、何らかの理由で脚を失い、棄てられるということは当時としては珍しくなかったのではないかと想像されるが、通常「棄民」の記録が残されることはそうないだろう。

 

後年、ジェロームを世話したコモー夫妻の孫娘は、「両脚のない謎の沈黙者が最期に密かにしたためたその半生」を書簡体小説(ファウンド・フッテージ)として物語化し、高校の作文コンクールで優秀賞を獲得したという。

両脚とことばを失った漂流者の謎は永遠に解き明かされるべきではないのかもしれない。事件に真相はつきものが、物語に正解はない。

 

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Great Unsolved Mysteries in Canadian History

http://www.mysteriesofcanada.com/Nova_Scotia/jerome.htm