Nスペ『かくて“自由”は死せり ある新聞と戦争への道』についてのノート

 先だって昭和初期に発行された戦前最大の右派新聞がおよそ3000日分が発見されたと報道されたばかりということもあり、Nスペ『かくて“自由”は死せり ある新聞と戦争への道』を見た。

www.nhk.or.jp

ここで取り上げられた『日本新聞』は、大正から昭和初期にかけて司法大臣、鉄道大臣などを務めた政治家・小川平吉大正14年(1925年)に創刊した。発行部数は1万6000部と数の上では少ないが、後に総理大臣となる近衛文麿平沼騏一郎東条英機ら政財界や軍といった国の中枢部や地方の有力者から支持を集めていた。番組では、昭和10年(1935年)休刊までの日本新聞と、長野県下伊那(現在の飯田市)で音楽教師をしていた小林八十吉にスポットを当て、大正デモクラシーから急速な右傾化へと進む10年の歩みをたどっている。

なお当メモでは、番組内容で触れていない事象についても記述する。

 

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公益財団法人無窮会*1所蔵。

 

日本新聞』

 日本主義———万世一系たる天皇中心の政治を主張

        反自由主義的立場

        共産主義的社会運動を赤化(危険思想)と糾弾

        「売国」「非国民」のレッテル

   

大正デモクラシー(1910年代から20年代ごろの自由主義思潮)

 ・普選運動、言論・集会・結社の自由

 ・男女平等、部落解放運動、労働権運動

 ・打破閥族・擁護憲政

 ・天皇機関説民本主義

 ・米騒動原敬内閣成立

 

長野県下伊那(現飯田市

 リベラルな風潮が盛んで“日本のモスクワ”と呼ばれた

 青年たちが自由主義に関する集会を活発に開催

 音楽教師だった小林八十吉は、自由主義的な教育のため自費でピアノを購入して使っていた

 

中谷武世

 日本新聞の社説担当、各地の有力者とつながり日本主義拡大の一翼を担った。

 1932年法政大教授、1933年大亜細亜協会結成。

 大亜細亜主義を唱え、美濃部達吉天皇機関説を批判した。

 戦中、翼賛選挙で当選。戦後、岸信介外交政策ブレーン。

 

大正14年(1925年)日ソ基本条約締結、普通選挙法制定、治安維持法成立*2

大正15年(1926年)1月加藤高明首相(護憲三派/憲政会)病没

         第一次若槻禮次郎内閣発足(憲政会)

         12月大正天皇崩御

昭和2年(1927年)昭和金融恐慌

         田中義一内閣発足(立憲政友会

         立憲民政党成立(憲政会+政友本党

昭和3年(1928年)張作霖爆殺事件

昭和4年(1929年)浜口雄幸内閣発足(立憲民政党

         世界大恐慌

昭和5年(1930年)ロンドン海軍軍縮条約締結(1936年脱退)

        →統帥権干犯問題に発展

         昭和恐慌

        (大量の失業者、民衆の困窮、農村部での身売り)

         浜口雄幸狙撃事件   

 

幣原外交

加藤内閣で外相を務めた幣原喜重郎は協調外交路線を唱えたが、軍部や枢密院とたびたび意見が衝突した。日ソ基本条約締結。対中として内政不干渉の立場を取り、南京事件(1927年)への対応について英米による最後通牒を断念させる。国内では田中内閣の対外強硬路線を批判し、浜口雄幸内閣で外相に復帰。政友会や軍部の反対を排除し、ロンドン海軍軍縮条約締結(1930年、全権は若槻)を支持。第2次若槻内閣では国内の対中感情が悪化し、恐慌の折もあって「満蒙は日本の生命線」とされ、満州事変となる軍部の専行を許してしまう。

 

田中義一

第2次護憲運動により分裂した政友会は第一党の座を失い、高橋是清が総裁を辞任。後任が決まらない中、請われて陸軍から転身し、政友会総裁に就任した。それまで高橋が唱えていた「軍部大臣文官路線」から、対立する憲政会(立憲民政党)の軍縮路線に対抗する対外強硬路線へ転換。また政友会本流の自由主義思想から一転して、鈴木喜三郎、小川平吉ら・反自由主義を唱える人材を入閣させ、親軍派や保守層の支持を集めた。1928年、張作霖爆殺事件の処理に際して軍部の反発に遭い、1929年「関東軍は無関係」と改めて奏上したものの昭和天皇の不興を招き、内閣総辞職する。

 

日本新聞は、浜口内閣に対し「統帥権天皇大権」であり、政府主導の条約締結は天皇の権限を侵した、と非難キャンペーンを張った

 

希望量が達成できなかったこと、また緊縮財政による大幅な予算削減により海軍内では条約派艦隊派が対立。海軍軍令部長加藤寛治天皇に奏上し辞職

大きな反発はあったものの浜口内閣は立憲民政党を推す世論と美濃部達吉の助言によって議会運営を押し切り批准。天皇がそれを認可した

野党・立憲政友会統帥権干犯問題として議会で提起

鳩山一郎「理由なしの政治、これは暴力政治である」

日本新聞「政党政治を排して天皇政治に復(かえ)れ」

 

中谷武世は国家改造を説く北一輝らとも気脈を通じ、革命におけるテロの必要性を感じていた。昭和恐慌によって困窮した若者たちの中には、中谷や北らの革命思想に共鳴する者もあった。昭和5年(1930年)11月、浜口雄幸狙撃事件実行犯・佐郷屋留雄もそうした若者の一人。中谷も示し合わせたわけではないが、狙撃の相談を受けていた

 

昭和6年(1931年)

第2次若槻内閣発足

満州事変(不拡大方針を取る若槻内閣に対し、満蒙問題の武力解決を推進する軍部によるクーデター)

内相・安達謙蔵が与野党と軍部を取り込んでの挙国一致内閣で難局を乗り越えようと画策するも閣内不一致により総辞職

犬養毅内閣発足

 

小林八十吉が暮らす下伊那地域では、恐慌の煽りで主要産業だった養蚕・製糸業が壊滅的に衰退。欠食児童に溢れ、芸術教育どころではない。給金の支払いもままならなくなり、昭和7年(1932年)3月に音楽教師を辞めた

ときを同じくして政党政治の弱体化が進み、収賄汚職事件が顕在化

既成政党への反発

「選挙と言えば買収・腐敗・堕落した選挙」と嘆いている

国内の閉塞した社会状況で民衆が満州侵攻へと傾倒していく

日本新聞「聖戦」「日本人礼賛」

八十吉も「自由」では人を救えない、と転向。日本主義を掲げる政治結社に参加

「国民精神の中心たる天皇 国民はその立場に立って 大生命たる大日本の完成に努力する」「侵略といえど侵略にあらず聖戦なり」

信州郷軍同志会(明治神宮に向かって機関説排斥を唄うデモ行進、陸軍省が経済的支援をしていた)にもその姿があった。

 

 

 

テロの連鎖

昭和7年(1932年)血盟団事件、5・15事件(以後、挙国一致内閣)

青年将校「祖国救済のための捨て石となる覚悟だった」

国民からの同情を集め、減刑を訴える声もあった

元海軍中尉古賀不二人「あのときだれが総理大臣になっとっても倒す、と。一つの転換のモーメントとして」

 

昭和10年(1935年)天皇機関説問題・国体明徴声明

憲法学の最高権威・美濃部達吉によって提唱された憲法解釈

反共主義国粋主義の思想家・蓑田胸喜日本新聞に31回にわたって批判記事を執筆

「生命の原理は生命 生命を支うる生命 その名は日本」(蓑田胸喜祝詞 全く新しきもの』)

陸軍大臣林銑十郎が議会で天皇機関説を否定

→野党立憲政友会・陸軍皇道派が政争に利用し岡田内閣退陣を迫る

 

美濃部達吉貴族院議員辞職、著作は発禁対象となり学説は排斥された

(翌年、暴漢による銃撃受け重傷)

 

1935年7月日本新聞休刊

    「日本転向の十年」「国運の進路は方向を決定した」

1942年小川平吉

敗戦から半年後、蓑田は自ら命を絶った

 

大政翼賛会に参加した八十吉は県内を周り戦争協力を呼び掛けた

戦後は会社員として6人の子を育てたが、戦中の思いを語ることはなかった

7月13日から終戦の日までその日記は切り取られていた

 

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《感想》

 第2次安倍内閣発足以降、その政治風潮や世相を大正期になぞらえる言説を目にするようになった。それは単なる杞憂ではないと思う。左翼的に見れば貧困層の拡大や民衆の転向は目下進行中の危機と実感するであろうし、右翼的に見れば、維新遠からじ我も捨て石たらんと希望を抱く内容だったのではないか。

論壇・知識人や敵対する野党陣営に確たる主義や希望が見いだせない分、状況は現代の方がシビアかもしれない。政治離れした若者、困窮する民衆は、自分の力の未熟さに嫌悪を抱き、理想だけで飯は食えないことを身をもって知っている。それがゆえに劇場型政治家やカリスマのキャッチーな主張にとりこまれやすい。メディアの状況もさらに悪く、投票率を上げたくない、政治に介入してほしくない、と多くの国民の目を背かせてきた結果が「N国」だと私は思っている。政治家も本気で投票率上げるつもりがあるなら、普段の政治ニュースや事前特番を充実させるよう働きかける方が有意義だし、各党候補者らによる公開討論の場でも設けてくれた方が政治意識も高揚するというもの。国民の4割に満たない人々しか投票しないって結局「選ばれた人」しか選挙していないのとそう変わらない。さらに「天皇機関説事件」も、「憲法解釈」に沿って運用される危うさを感じざるをえなず、自民党改憲を進める真意も分かる。ここまできたら現代と比較した番組構成にしてくれよ、と思ってしまう。

視聴者の声には、朝日はじめその他メディアとの比較を求めるものが多くあった。たしかに大衆を戦争へと扇動していったのは大新聞の影響が大きい。番組としては、当時のエリートや有力者と大衆の階級差や、軍部でもなぜ青年将校らが憂国の士であるかのように「テロ行為」に走ったのか等の検証や説明があるとありがたかった。どうして発行部数1万6000部の小メディアが先導的地位だったのか、に関する説明がおろそかだったため、結論ありきで「日本新聞だけが悪者」のような見せ方になっていたのは残念に思うし、検証が待たれるところ。

高校日本史の授業も勉強も足りなかったな、と痛感しつつ、ここで取り上げられた10年間のように大正デモクラシー→戦争に至る政治のメカニズムみたいなものはもっと学ぶ必要がある。

戦後ではなく、戦前に生きていることを実感した。

*1:大正4年平沼騏一郎等により創設された研究調査会。現在は私設図書館、東洋文化研究所を運営

*2:ロシア革命後の共産主義の拡大、米騒動等社会運動の活発化、関東大震災の混乱などから、平沼騏一郎ら司法官僚による制定の意向がかねてより存在していた。2月横田千之助急逝の後、司法大臣に就任した小川平吉が制定を推進した