いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

福岡市西区予備校生殺害事件

2016年、福岡県で発生した予備校に通う女性が襲撃された事件について記す。加害者は同予備校に通う少年で、以前女性に交際を申し入れたが断られたことが事件の発端になったとみられている。

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■概要

2016年2月27日20時50分頃、福岡市西区姪の浜6丁目の路上で近くの住人から「女性が男に襲われている」などと110番通報があった。被害に遭ったのは付近に住む予備校生・北川ひかるさん(19)。警官が駆けつけた時点で意識を失って倒れており、手には抵抗した際に掴んだとみられる短い頭髪が握られていた。すぐに病院に搬送されたが3時間後に死亡が確認された。

現場に逃げ回ったような形跡はなく、目撃者は男の唸り声と抵抗する女性の悲鳴を聞いていた。ひかるさんのショルダーバッグには財布などが手付かずで残されていたほか、付近に凶器とみられる全長20数センチのナイフ2本と手斧1本が落ちていた。男は馬乗りになって襲い掛かり、顔や首など上半身を中心に20カ所以上を刺したうえ、手斧で頭部を多数回殴打。防御創を含め全身の傷は59カ所にも上った。死因は出血性ショック死。

 

21時10分頃、現場近くの交番に自称福岡市中央区在住の少年(19)が「知人の女性を刃物で刺した」などと話して自首。少年は犯行直後に近くの川に飛び込んだと話しており、自殺を図ったとみられる。また両手から血を流し、指の付け根まで達する重傷を負っていたため病院で手当てを受けた。

当初、少年は被害者と同じ予備校に通っており「トラブルになった」「バカにされたと思った」などと動機の一部が報じられたため、被害者側にも少年に対してそれだけ強い恨みを抱かせる行動や落ち度があったのではないかとする見方もあった。しかし予備校の知人らによれば男女に交際関係はなく、親しい友人関係でもなかったことが明らかとなる。

 

■浪人生活

ひかるさんは中学時代には剣道部、高校ではダンス同好会で汗を流したほか、学業も優秀で生徒会長を務めたこともあった。学区外から熊本高校へ進学し、現役で九州大学に合格したものの第一志望の学部を目指すために駿台福岡校での浪人生活を選んだ。難関国立クラスを受講しており、センター試験を終えた後も二次試験に向けて集中授業にしっかりと参加していた。

当時は福岡市に住む大学生の兄と一緒に暮らしており、襲われた現場は自宅からわずか50メートルほどの距離だった。事件後の取材で、同居していた兄は「交際関係とか全くなかったので、そういうのじゃない」と語り、加害者とひかるさんとの間に交際関係があったのではないかとする見方を一蹴した。

 

事件当日の27日、ひかるさんは志望していた国立大の二次試験が終わった打ち上げを兼ねて、昼過ぎから予備校の友人ら合わせて6名で福岡市中央区天神の焼き肉店で飲食し、その後、カラオケ店で遊んだ。男4人女2人のグループには加害者となる少年も含まれていた。彼もひかるさんと同じ大学同じ学部を志望して予備校でも同じコースだったためである。

女性宅の最寄り駅である地下鉄姪浜駅(地下鉄天神駅から6駅目)の防犯カメラにはひかるさんよりも先に少年が到着していた様子が映っていた。少年は17時頃にカラオケ店でひかるさんたちとは別れ、先回りして姪浜駅待ち伏せていた。後頭部や背中にも傷があることから、帰宅途中のひかるさんを見つけて後をつけ、駅から北へ800メートル程行った住宅街で背後から襲い掛かったとみられている。

 

前年の2015年4月に二人は予備校で知り合った。同年齢で同じ熊本県出身者、親許から離れての予備校生活だったため共通の話題があったのかもしれない。5~6月頃にかけて、少年はLINEを通じて好意を伝えていたが、ひかるさんから「勉強に専念しよう」「友達でいよう」などと「言葉を濁され」、交際には至らなかった。夏に凶器とされたナイフ1本、年明けにも手斧とナイフ1本をインターネットで購入しており、襲撃の計画性を窺わせた。

後の公判で証人尋問に立った少年と同じ予備校の寮で生活していた友人は、夏頃にナイフを見つけて少年に問いただしたが「自分は頭がおかしい。人とは違う。(女性を)殺したい」と泣き喚き、「自分で捨てる」と言ってナイフを渡さなかったという。

二人に交際関係があった訳ではなく、少年が一方的に好意を募らせ、自分の気持ちを無碍にされたと感じ、一転して殺意に至ったストーカー殺人との見方が強まった。その後の調べにより、少年が自傷行為などを図り、メンタルクリニックに通院していたことも判明した。

ひかるは見事に大阪大法学部に合格しました。

他にも、ひかるは
明治大法学部、同志社大法学部、立命館大法学部の
3校にも合格することができました。

本当によくやってくれました。
ひかるは、とっても親思いの優しい子でした。
ひかるもきっと喜んでくれていると思います。
今回、ひかるが無事に大学に合格できたのも、
ひとえに、これまで
ひかるを支え続けてくれた学校関係者の皆様、
地域の皆様、ひかるのお友達、恩師など、
多数の皆様のおかげだと感謝しております。
本当にありがとうございました。

3月9日、ひかるさんに事件2日前に受験した第一志望をはじめ、各大学から複数の合格通知が届いていたことが公表された。遺族はあくまで合格の報告とねぎらいと感謝に終始した文面だが、合格しても入学できない無念さ、祝ってやれない悔しさを噛み殺しながら絞り出した言葉にちがいなく、読む者の胸を打つ。

 

3月初旬から少年が暮らした予備校の寮を家宅捜索、入院先での事情聴取が開始され、11日に逮捕された。尚、少年は第一志望には不合格だったとされる。予備校は加害者・被害者とも相談などは受けておらずトラブルは把握していないとし、ひかるさんについては「非常にまじめで模範的な生徒」とした一方、加害者については「個人情報」を理由にコメントを控えた。

少年の親は取材に対してノーコメントを通したため、少年に関する情報は多くないが、小・中学時代は野球に打ち込み、高校生になってからは柔道の私塾に通っていたことが伝えられている。取材に対して柔道教室の指導者は「優しい子ですよ。おとなしくて非常に真面目」と答えている。

福岡地検は少年の事件前後の行動から精神面が不安定だった可能性があるとして、3月28日から3か月間の鑑定留置を行い、刑事責任能力の有無などが調べられた(その後、約1カ月の延長が認められた)。7月24日、いくつかの発達障害の兆候は見られるものの刑事責任を問うことは可能との判断が下る。「起訴前」の捜査段階で被疑者だった元少年は20歳になっていたため、家裁送致なく成人として起訴された(新聞報道では留置延長前の6月時点で20歳表記とされている)。

 

2017年2月、被害者遺族は下のコメントを発表した。

「事件から1年となりましたが
 私たち家族の悲しみが癒えることはなく
 犯人を許す日は来ないと思います。
 裁判で一日も早く真実を明らかにしてもらいたい」

 

■裁判

2017年10月12日、福岡地裁(平塚浩司裁判長)で裁判員裁判の初公判。元少年の被告人・甲斐敬英は殺人、銃刀法違反などの罪に問われた。甲斐は罪状認否について間違いありませんと内容を認めた。その声はか細く、目を泳がせ、しきりに瞬きし、着席してからも落ち着かない様子だった。

検察側は、甲斐は被害者に交際を断られて以降、告白したことや自分の秘密を女性に言いふらされたと思い込んで苛立ちを募らせ、勉強に集中できないのは被害者のせいだとする考えから殺害を企てたと主張。事件5日前にも凶器を準備して待ち伏せしていたことや、遺体に59カ所もの傷跡があった執拗な犯行を指摘し、身勝手極まりない動機による計画的な犯行だと糾弾した。

弁護側は、甲斐は2015年夏頃から統合失調症を発症し、周囲からののしられる幻聴が続いて強い被害妄想を抱いていたと説明。犯行当時は心神喪失心神耗弱状態にあったとして量刑の減軽を求めた。起訴前に行われた精神鑑定では不十分だとして、弁護側は再度の鑑定を要請したが、却下されている。

被害者遺族も意見陳述に立ち、「ひかるの夢も家族の夢も、ささいな日常も一瞬で奪った被告を一生許せない。ひかるを返してくれ」「ひかるは合格の知らせを聞けなかった。おめでとうと言ってあげたかった。一生許すことはできない」と突然娘の命を奪われた憤りを訴え、極刑を求めた。甲斐は最終意見陳述で「ご本人やご家族に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです」と謝罪を述べた。

 

10月31日、判決審。平塚裁判長は鑑定証言などを元に甲斐に精神障害があったことを認めた上で、犯行への影響は限定的だったとの判断を示した。犯行直後に自首するなど「善悪の判断は保たれていた」とし、数日前には大学入試の二次試験を受験するなど「行動制御の能力にも問題はなかった」ことなどから、犯行当時の完全責任能力を認定した。

「態様は執拗であまりに残忍。被害者の恐怖感、肉体的苦痛は甚大で、無念さは察するに余りある」「被害者は将来のある若さで突如、命を奪われ、遺族が厳しい処罰を望むのも当然。自首し、謝罪の弁を述べたことを考慮しても、同種事案の中でも重い部類に属する」と説明し、求刑懲役22年に対し懲役20年の判決を言い渡した。

控訴期限となる11月14日までに双方とも控訴せず、判決が確定した。

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遺族は代理人を通じて「娘に非がなかったということを認めていただき名誉を守ることはできましたが、娘が帰ってこないことに変わりはなく悲しみがぬぐえません」とコメントを発表。北川さんの友人は「被告には更生する機会があるが、ひかるに「これから」がないと思うとやりきれない。被告にはしっかり罪を償ってほしい」と話した。

 

■所感

熊本県下一の進学校出の才媛が、何の落ち度もなく唐突に命を絶たれた。福岡市中心街の有名予備校を舞台に始まった悲劇は、九州の若者たちを中心に大きな衝撃を与えた。同予備校ではカウンセラーを設置して生徒の心理面でのケアを図るなど対策に追われたという。

当時、加害者が19歳だったことから少年犯罪と見なされて実名・顔出しの報道は行われず、少年の保護者も表舞台に出てこなかったことから、報道は被害者と被害者遺族への同情を誘う内容へと傾いた。却って被害者のプライバシーばかりが晒される状態が続いたことで、「少年法」による加害少年保護への違和感は高まり、風当たりを強くした印象さえある。

 

弁護側が主張した甲斐の「統合失調症」について、一部に詐病を疑う声もある。本件のように殺害の外形事実を覆せない事案の場合、「心神喪失者の行為は罰しない。心神耗弱者の行為はその刑を減軽する」と定められた刑法39条に係わる刑事責任能力の有無が争点となる裁判は非常に多い。それゆえ弁護側の法廷戦術としての側面を感じさせなくもない。

判決では、甲斐に精神障害があることを部分的に認められたが、「幻聴や妄想については、時間が経ってから始めた供述で採用しがたい」と統合失調症を示唆する主張については却下されている。文面だけ見ると、さも統合失調症についての主張は後付けで行われたかのような印象を抱かせるが、逮捕直後から「私は統合失調症でして…」と供述を始める加害者はそうそういない。そもそも甲斐自身にその自覚はあったのだろうか。

メンタルクリニックで診療を受けた時期や当時の診断、適切な処置はあったのか、それとも通院当時は発達障害だけで統合失調症との診断には至らなかったのか。処方薬によってある程度制御された上で犯行が行われたのか、あるいは自らの意思で断薬したのか、熊本から福岡に転居したことを機に通院を辞めてしまった経緯などがあったのか。それらの詳しい事情は一切報じられない。

当然、病歴、薬歴は極めてプライバシーに関わる事柄ではあるが、裁判の争点とされる以上は追及や説明が為されて然るべきとも思う。責任能力の可否判断を下す裁判長だけでなく、症状などの程度が知れないあるいは症例への理解に乏しい裁判員にとっても、被告人の人格、心理状態と犯行を結び付ける上での重要な判断材料である。

仮に裁判の場で「詐病」が実在するならば、弁護人は差別や偏見の助長に加担することになり社会的道義から外れた下衆な法廷戦術だと言わざるを得ない。だが実際に凶悪犯罪を犯す人間の多くは、何かしらの精神障害に陥っている可能性が高いことも事実である。

平成30年度犯罪白書で10万人あたりの検挙率を罪種別に見てみよう。

「窃盗」

健常者86.39人/精神障害者23.01人

「強制性交等・強制わいせつ」

健常者2.96人/精神障害者0.82人

「詐欺」

健常者7.85人/精神障害者2.96人

「傷害・暴行」

健常者36.91人/精神障害者16.12人

と、ここまでは実数としては健常者の方が優に多い。

だが「強盗」では健常者1.35人/精神障害者1.28人と僅差となっており、「殺人」では健常者0.69人/精神障害者2.34人、「放火」では健常者0.46人/精神障害者2.16人と4倍近い差をつけて逆転している。

この結果から見えてくることのひとつは、人口比率から言えば精神障害者の犯罪傾向は高い数値であるということ。また殺人や放火事案でこれだけ多くの精神障害者が認められるのは、起訴前に精神鑑定が行われることが背景といえる。

だが殺人や放火でこれほど精神障害者の比率が高いのであれば、他の罪状では却って「低すぎる」との印象すら抱かせる。検挙者全員が精神鑑定を受けていれば、どの罪状も精神障害者の比率は罪状に偏りなく高まるのではないか、穿った見方をするならば「殺人」「放火」といった死刑に係わる重犯罪では精神鑑定を実施するが、他の罪状では精神障害が疑われる・見込まれる被疑者に対して充分な鑑定が行われていないことも予感させる。

精神障害者は凶悪犯予備軍だから危険だ、といった主張をする気は毛頭ない。本件内容からはやや離れてしまったが、開かれた精神鑑定により事件と精神障害の関連性はもっと論理化される必要があると考えている。先天的な発達障害、慢性的なストレス環境に晒されたことで生じる後天的なもの、強い衝撃により意識や記憶が改変・消失される一時性の症例まで千差万別には違いない。診断や刑事責任能力の線引きは明確に区分できるとは思えないが、一定の目安となる共通認識は構築できないものなのか(何かしらの区分ができればそれがまた新たな差別の助長につながる側面も懸念される)。

もしかすると本件加害者は長らく精神障害を抱えており、現役受検失敗のショックや生活環境の変化で大いに症状を悪化させたとも考えられ、起訴時には「元少年」になっていたが寮生活を認めた保護者の責任も感じざるを得ない。確認する術はないが、精神障害を抱えた少年との生活から逃れるために寮暮らしへと送り出したのではないか、とまで思えてしまうのである。元少年とてはじめから殺すつもりで誰かを好きになった訳ではなく、恋するために予備校を選んだわけではない。少女はなぜ命を奪われなくてはいけなかったのか、殺さずにいられないほど少年が追い詰められていったのはなぜなのか、残念ながら納得できる答えは存在しないように思う。

 

亡くなられたひかるさんのご冥福を祈りますと共に、ご遺族の心の安寧を願います。

石野桜子『同窓会のお知らせ(Yちゃんとの再会)』書き起こし(OKOWAチャンピオンシップ2019開幕戦より)

石野桜子

大阪NSC8期生、吉本天然素材初期メンバー。先輩芸人からのいじめやプライベートのトラブルを契機に2001年ごろ精神疾患を発症し、閉鎖病棟に入院。2011年R-1グランプリで復帰し、現在は活動をセーブしつつ野良の躁鬱病ピン芸人として、ネット番組おちゅーんLIVE、石野桜子の監禁Baby Reboot等に出演中。痔は手術済み。

 

OKOWA:OTUNE KOWAI OHANASHI WORLD ALLIANCE
怪談・都市伝説・講談・落語・裏実話・・・「怖い話」ならジャンルレス&プロ、アマ、性別、国籍、一切不問の1vs1タイマントークバトル!大阪発信のWEB番組・おちゅーんLive!が放つ、最恐王者決定トーナメント。「怖い話」を語る行為を、ひとつの技術と捉え、「話」としての怖さとともに、話者の「話術」「個性」までをも包括的に評価し、「今、最も怖い話を語る者」を明確にし「最恐」の称号とともにチャンピオンベルトを与える為の組織。

youtu.be

 

 私は、ちょっと精神疾患閉鎖病棟に入ってたんですけれども、面会に来るのは母親ぐらいでした。ただ、一人だけ友達がきてくれたんですよ。今日はその友人の話をします。

 

 

 

Yちゃんは、中学時代の同級生で、親友というほどでもなかったんですけども、好きな本とかの種類が一緒で、まぁ、楽しく話をしてたんです。

中学卒業してからは、あんまり連絡を…というか、全く連絡を取らなかったんですが、10年以上ぶりに家の留守番電話に声が入ってました。

“同窓会のお知らせ”でした。

 

入院してますから行けるわけがないんですね。でも折り返して、行けないよ、ってことは言おうと思って電話しました。

そしたらYちゃんがめっちゃ喜んでくれて、

「もうありがたいわぁ。みんな忙しいか知らんけど、あかんてことすら電話してけぇへんねん。ほんま助かるわ」って。

その声がもう朗らかで、言わんでええこと言ってしまったんです。今の私の状況です。重いでしょ、10年以上ぶりにそんなん言われたら。

でも、ほろっと「実は今ちょっと精神病棟に入院してんねん」って。そしたらYちゃん、「お見舞い来たい」って言ってくれて。

 

(いや、それは・・・)

当時私ね、10㎏以上太ってたんです。もちろん綺麗な服も持ってきてない。お化粧もしない。女の見栄もある。人間の見栄もある。

でも、「Yちゃんに会いたい」って気持ちの方が勝ってもうたんです。だから、つい面会の手続きを取りました。

もう当日は、後悔で、

(同窓会の話のタネをただ探りに来るんじゃないんだろうか)

(動物園に来るような気持ちで来るんじゃないのか)

(芸人が落ちぶれて…)

被害妄想で頭がパンパンなんです。

 

 

 

 でもYちゃんは、一瞬でそれを溶かしてくれました。

「石野さん、久しぶりやん」

「同窓会な、みんな忙しいから、なしになったわ」

「昔好きやった本持ってきたで。入院してたら暇やろ」

変に同情することもなくて、すごい助かったんです。

 

だから私、また甘えてしまって、

「私なぁ、自殺したくてここに居んねん。外に居ったら勝手に死んでしまうから、ここに閉じ込めてもらってんねん」て。

そしたらYちゃん、

「“死にたい”なんか私も思うよ。誰かて思うって。思うぐらいはええねんって」

めっっっちゃうれしかったんです。

だってね、みんな言うんですよ、“死にたい”なんて思ったらあかん、って…

だからもうそれが本当にうれしくて。

 

Yちゃんはそう自分が思ったとき、“日記”を書くんですって。もう思ったことをいっぱい書く。

「お父さんお母さん先立つ不孝をお許しください」みたいな、不謹慎かもしれへんけど、死にたい場所ランキング、死ぬときの状況ランキングとか書いてるうちに笑けてくる。

「だから桜子ちゃん、一緒にここで書こうよ」

そっからもう、きゃっきゃきゃっきゃ言いながら書いたんですよ。

そのときのことは、今思い出しても“幸せ”です。

なんか、“放課後”みたいでした。

 

でも、面会室ってそんな長いこと居られないんですね。

「そうや、これな、どうせ自分暇やし、清書して手紙で出してくれへん?」って住所教えてくれて、「これ、私一人暮らししてるから気軽に遊びに来てよ」。

「分かった、行くわ。手紙も出すわ」

 

バイバイって、そのときは楽しく解散しました。

で、私は看護師さんに頼んで、封筒とか買ってきてもらって、手紙を書いて出しました。で、「ありがとう!」ってまた留守電が入ってて。時間が経って、退院して、連絡して、その子のうちに遊びに行けることになったんです。

 

 

 

 昔から頭が良くてしっかり者の人だけあって、シンプルな綺麗な家で、一人暮らしにしては広いんですね。さすがやなぁ、と思って。なんか持っていったお菓子とか食べながら、またきゃっきゃきゃっきゃ言うて。

ああ、このままずっとここに居たいなぁ、って思ってたら、

「今日泊っていったらいいやん」て。

「泊まる!泊まる!」

 

で、トイレ借りたんです。

ドア開けたら、

(…別の部屋やった。ああ、失礼なことした)

って閉めようとしたら、中に、ふと、私の写真が見えたんですよ。

面会室きてくれたときに、2人で2ショットを記念で撮ったんです。

(飾ってくれてる!うれしい)

と思って、ちょっと中まで入って見てしまったんですね。

 

その写真は、2ショットを真ん中から切り取って、“私の方だけ”をボードに貼ってるんです。その隣に私が出した“手紙”が貼ってありました。

(んん~?)

その隣に、全然知らん女の人の写真が。それもどうやら2ショットをトリミングしてる感じ。で、その下にまた手紙。

 

 

 

言いようのない違和感が、腹から湧いてきて…

(いやいや、でも自分の写真を絶対飾りたくないって人は居る。私もどっちかといえばそうやから…)

言っても、拭えなかったんです。

 

だからってずっとそこにいる訳にもいかないんで、トイレ行って、お部屋に帰った。

 

Yちゃんが「遅かったなぁ。どしたん、迷ったん?」

正直に言うたらよかったんですけど、「いや、迷ってないよ」と言っちゃった。

 

そしたら

 

「もしかして、見た?」

 

「…見てないよ」

 

「ふぅ~ん・・・」

 

もう、この家帰らなあかん、て思いました。

もう言葉にできない恐怖感を感じて、(これは病人の妄想であろうと、今日は帰ろう、失礼であろうと…)と思って、

「ごめん、Yちゃん。具合が悪くなってしまった、だから今日は失礼する」

「ええ~、泊まっていってよ」って止めてくれるんです。

「ごめん、今度来たとき“必ず”泊めてもらうから…」って言って、鞄持って帰ろうとしたら、

Yちゃんがその鞄をガッと掴んで、

 

 

「なんでよ!全部!用意!してたのに!」

 

 

 

 

 

逃げるように帰りました。

 

 

 

この話は、これで全部なんです。

これで終わりなんですよ。

 

 

 

ただ、OKOWAに出るに当たって、Yちゃんのことを調べました。何もなかったらボツにすればいい。

そしたら、その時期、Yちゃんから“同窓会のお知らせ”が来た人は一人もいませんでした。

そして、Yちゃんの周りで、自殺者が多数出てました。

 

 

 

それで、やっと気づいたんです。

 

 

 

ああ、私、面会室で、“遺書”を書かされてたわ。

 

 

 

〈了〉

片岡健『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』感想

片岡健『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(2019、笠倉出版社)の感想など記す。

いわゆる死刑囚、無期懲役囚との対話本であり、読み切りやすいコンパクトな文量で8事件を取り上げており、重大殺人犯との距離感なども近すぎず遠すぎずバランスがとれていて、各事件の概略や裁判での争点、社会的影響や疑問点などもつかみやすい良書である。(死刑確定後は面会、手紙のやり取り等が原則禁止されるため、取材は係争中当時のもの)

平成監獄面会記 (サクラBooks)

塚原洋一さんの作画で『マンガ「獄中面会物語」』もリリースされている。(未読)

マンガ 「獄中面会物語」

 

著者・片岡健氏は1971年広島県出身のノンフィクションライター、フリージャーナリストとして新旧様々な事件を取材している。出版社リミアンドテッド代表。編著に『絶望の牢獄から無実を叫ぶ—冤罪死刑囚八人の書画集—』(鹿砦社)、『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』など。

note.com

YouTubeチャンネルdigTVによる連続シリーズ【和歌山毒物カレー事件の真相を追う】などにも出演されている。

www.youtube.com

 

■目次

多くの事件報道は捜査機関や関係者への取材、裁判の傍聴などの客観的な取材が主流であり、「犯人の身勝手な主張をそのまま伝える」では報道にはならない。とはいえ、警察が伝える公式・非公式な情報、家族や近隣住民が知る人物像だけでなく、「凶悪犯」とされる人物の肉声を聞きたいというのも事件の真相究明を願う人々の本望である。

まえがきで片岡氏は「会えるなら、できるだけ会いたいといつも思っている」「だれもが知っているような有名事件であっても、犯人本人に会ってみないと分からないことが必ずあるから」と殺人犯たちの実像に迫る上でのこだわりを述べている。

筆ぶりからは法権力に対して前のめりに疑ってかかるような姿勢は見受けられないが、40名近い面会体験を通じて通常の報道では削ぎ落されてしまう捜査体制の問題点、少年凶悪犯や刑法39条の法倫理的課題、捜査当局や司法の根幹に係わる「冤罪」の疑惑まで丁寧にキャッチアップしている。より真実性を追い求めて犯人と対峙する姿勢は、裏返せば「凶悪な犯人像」を分かりやすく「編集」してお茶の間に提供する類のメディアに対する批判精神をも伴なう。

 

元厚生事務次官宅連続襲撃事件(平成20年)—「愛犬の仇討ち」で3人殺傷

小泉毅

相模原知的障害者施設殺傷事件(平成28年)—19人殺害は戦後最悪の記録

植松聖

兵庫2女性バラバラ殺害事件(平成17年)—警察の不手際も大問題に

高柳和也

加古川7人殺害事件(平成16年)—両隣の2家族を深夜に襲撃

藤城康孝

石巻3人殺傷事件(平成22年)—裁判員裁判で初めて少年に死刑判決

千葉祐太郎

関西連続青酸殺人事件(平成19~25年)—小説「後妻業」との酷似が話題に

筧千佐子

鳥取連続不審死事件(平成16~21年)—太った女の周辺で6男性が次々に…

上田美由紀

横浜・深谷親族殺害事件(平成20~21年)—無実を訴えながら死刑確定

新井竜太

いずれも凶悪事件には違いないのだが、執拗な残酷描写や犯人の偏執的な側面ばかりにクローズアップして貶めるようなこともない。いわゆるゴシップ誌にありがちな金やセックス、犯行の異常性で読み手の妄想を刺激するような煽情的な書き方は抑えられ、書き手の良識やバランス感覚を窺わせる。各事件のブリッジに付されたコラムも短いながらも凝縮された内容で“食後のデザート”のように味わい深いので、事件マニアでない方にも読みやすい一冊かと思う。

以下、忘備録も兼ねて簡単に各事件に触れておきたい。

 

■元厚生事務次官宅連続襲撃事件

2008年11月18日、さいたま市南区で元厚生事務次官だった夫とその妻が自宅で刺殺体となって発見される。その夜、約13キロ離れた東京都中野区で同じく元厚生事務次官の自宅に宅配便を装った男が押し入り、在宅していた妻が包丁で襲われて瀕死の重傷を負った。

当時、社保庁年金記録に膨大なミスがあることや不正流用などが取り沙汰されていたことから、在職時に年金行政改革に携わっていた両氏を立て続けに狙った「年金テロ」ではないかとする見方が強まった。

しかし同晩、凶器の包丁を持参して小泉毅(46)が自首。「34年前、保健所で殺された家族の仇討ちだった」と真相を語った。保健所による動物の殺処分は厚生省管轄の狂犬病予防法が法的根拠になっている。とはいえこどもの頃に愛犬を殺処分されたことの、いわば逆恨みというべき犯行理由は容易には受け入れがたい。

著者は小泉との対話、生い立ちから襲撃計画までを丹念に調べ上げ、その主張は本意であると結論付けている。さらに「私が殺したのは、人ではなく、心の中が邪悪なマモノである」と言い切る小泉の独自の論理に、動物愛護の側面から共鳴する支援者がいることに驚きを滲ませる。社会における善悪の基準とは何なのか考えさせられる事案である。

 

■相模原知的障害者施設殺傷事件

意思疎通のできない障害者を「心失者」と呼び、死刑も覚悟の上で犯行に踏み切ったと語る植松聖。2016年7月26日未明、かつて勤務先であった神奈川県相模原市の知的障碍者施設「津久井やまゆり園」を襲撃し、入所者19名を殺害、施設職員を含む26名に重軽傷を負わせた犯人は、Twitterでの「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」という犯行声明と自撮り画像の投稿、警察車両で移送される際に映された不敵な微笑みによって、身勝手な論理を振りかざす差別主義者のようなイメージを先行させた。

片田珠美氏の著書『拡大自殺—大量殺人・自爆テロ・無理心中』でも指摘されたように、自分の人生がうまくいかないことに対する社会への恨みを、障害者への差別感情へと投影した「拡大自殺」の側面が極めて強い事件である。また当時ドナルド・トランプ前大統領やイスラム過激派ISILからの強い感化を認めており、「心失者の安楽死」のほか「大麻解禁」「美容整形の促進」など独自のマニフェストのような考えを主張し、犯行直前には政治家の賛同を得ようと直訴していた。

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自己愛性パーソナリティ障害と診断された植松について、片岡氏は「美」に対する執着と自身への強い劣等感を読み取る。肥満や障害者に対して強い差別感情を露わにする一方で、著しく自己評価も低い側面を指摘している。漫画家の母親を持つ植松は個性的な絵画を描くことでも知られる(一時期はタトゥー彫師に憧れていた)が、獄中で描いた「心失者」のイラストは、男が障害者に対していかに強く「醜」を感じ、おぞましいほどに嫌悪していたかが伝わってくる。

 

■兵庫2女性バラバラ殺害事件

2005年1月9日、兵庫県相生市の溶接工・高柳和也(39)は自宅で交際相手の女性(23)と口論になった末にハンマーで頭を殴り、その場に居合わせた女性の友人も口封じのため撲殺した。風呂場で2人の遺体を解体して姫路港や上郡町の山中に遺棄した。当時のメディアは、高柳が2001年に交通事故で母子を死亡させて実刑判決を受けて仮出所からすぐの犯行だったといった凶悪性、事件性を見過ごした姫路署の捜査怠慢や被害者情報に関する虚偽のリークを行った等の対応を糾弾した。

「かんたんなことばだとわかるけど むずかしいことばはわからない(IQ63)」

高柳の手紙は知的障害を窺わせる内容で、会えば発話コミュニケーションにも難がある。実家は汲み取り便所で被害者の実家よりも小さく、女性が「資産家の息子」と言われて信じていたとは考えにくい。判例を具に確認していくと、被害者は「資産家の息子」を騙る高柳に騙されているフリをして金銭を要求し、果てには暴力団員の伯父の名を出して逃げられないよう追い詰めていったと弁護側は情状の余地を求めていた。

高柳は身分の詐称や殺害、死体遺棄については認めながら、知的障害であることを当局に利用され、思うままに調書がつくられてしまったと訴える。滋賀県・湖東記念病院の呼吸器取り外し事件でいわゆる「グレーゾーン」の西山美香さんが取調官に誘導されてやりもしない犯行を認めてしまった冤罪事件と根幹は近しいように思う。「殺人犯は死刑で当たり前」と考える方もいるかと思うが、捜査当局はどんな手を使ってでもホシをあげることに躍起になる。捜査の目的が事件の真相解明ではなく「凶悪犯づくり」になると危惧される。

 

加古川7人殺害事件

2004年8月2日未明、兵庫県加古川市に住む藤城康孝(47)は同じ町内の親族ら2家族7人を金づちと骨すき包丁(牛刀)で次々と殺害し、1人が瀕死の重傷を負った。犯行後、自宅にガソリンや灯油を撒き放火して現場を後にする。車を壁に激突させ、助手席シートに火を放つなど自殺を試みるが、車内のガソリンに引火して驚いて車から飛び出したところを身柄確保される。大やけどの治療後に逮捕という流れは後の京アニ事件を思わせる。

片岡氏が面会したのは事件から9年後の上告中で、「職員からのいじめ」で精神的苦痛を受けており取材は辞退したいと一度断られ、その「いじめ」について聞かせてほしいと願い出てようやく実現した。その内実は職員の通常業務や規範行動が、藤城にとってはいやがらせや監視に感じるらしい、いわば典型的な被害妄想に苛まれている状態だった。そもそもの事件の動機も、藤城が子どもの頃から「本家」にあたる伯母や近隣とのトラブル(盗み聞きや悪口を言われたり、暴力を受けたりした)により「積年の恨みを晴らすため」とされたが、周辺住民からは10数年前から藤城が投石や迷惑行為を繰り返しているとして警察に相談しており、3度の精神鑑定でも妄想性障害を指摘されている。

刑法第39条に照らし合わせれば、「心神喪失者の行為は罰しない、その刑を減軽する」とされ、藤城の状態や鑑定結果を踏まえれば減刑されてもおかしくない。しかし一審神戸地裁・岡田信裁判長は、「精神障害ではなく、人格障害の特徴を有していたにすぎない」と藤城の完全責任能力を認め、死刑判決を下した。責任能力の判断は裁判官による専権事項とされており、精神鑑定の結果と齟齬が生じていても問題がない。裁判員制度導入前の最後の死刑囚となったが、はたして裁判員裁判であればその結末は変わったのであろうか。2021年12月21日死刑執行。

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石巻3人殺傷事件

2010年2月、DV被害のため宮城県石巻市の実家に逃げのびた少女(18)を追って、交際相手の無職少年(18)が連日押しかけ、10日早朝、少女を匿っていた姉、姉の友人女性を牛刀で殺害、姉の交際相手である男性も説き伏せようとしたが重傷を負わされ、少年は交際相手を車に押し込んで逃走。その後、市内で未成年者略取誘拐の現行犯で逮捕され、3人の殺傷についても立件された。逃走中には同伴させていた後輩少年に罪を着せ、少女にも口裏を合わせるよう指示していたとされる。

少年少女とも学校に通っておらず、赤ん坊を授かったが定職に就いてもいなかったこと、少年自身も被害者であり加害者ともなったDV、過去の暴走行為、周囲は交際や出産に難色を示していたことなどから、非行少年の暴発的犯罪としてメディアは報じた。

2014年8月に面会の際、23歳になっていた千葉祐太郎は事件当時の記憶がないと言って片岡氏を驚かせる。しかも知り合って1カ月ほどだった後輩少年に盗んでこさせた「牛刀」は殺害のためではなく抵抗された際に「脅すつもりで」用意した、そもそも殺し目的で向かうのであれば後輩少年だってのこのこ付いてくるはずがない、と主張する。取調べでは当時の状況を語ることができず、被害者遺族の極刑を望む訴えを受けて「殺すつもりで」押し入ったことにされてしまったという。彼の弁護士も殺傷の事実は認めているが、その経緯については大きく事実誤認があると見ている。

千葉いわく、少女の姉に通報された途端に頭が真っ白になったという。2度の精神鑑定では千葉は情動行為(憤怒や不安などから突発的に起こる情動の運動性爆発で、本人の判断の余地なく遂行される)が指摘されており、意識障害による記憶の欠損も認められ、弁護側が行った臨床心理士の鑑定では解離性障害に陥っていたとの意見もあった。

千葉の犯行当時の凶暴性を供述したのは、同伴していた後輩少年だった。しかし彼自身も千葉の控訴審で、捜査官から「被害者の気持ちを考えろ」と圧力を掛けられて一審では事実とは異なる(検察の主張に沿った)証言をしてしまったと内実を明かしている。裁判員裁判における初めての少年事件で死刑が確定したことで知られる本件だが、検察側は裁判員を味方につけるためのある種の印象操作を行ったと言ってもよいのではないか。

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が、当然のことながら一審での「事実」認定が覆るはずもなく、2016年に死刑確定。その後も「事実」認定の見直しを求め再審請求が行われているが、2021年10月、最高裁への特別抗告は棄却された。

 

■関西連続青酸殺人事件

2014年、4人の夫や交際相手らが次々と不審死を遂げ、10億円以上に及ぶ多額の遺産を手にしたとされる女が注目を集めた。取材に対して「私は人を殺すようなアホな女やないです」と言い返す筧千佐子(逮捕当時75)を、メディアは黒川博行が著した小説『後妻業』に擬えて「後妻業の女」と呼んだ。複数の高齢者向け婚活サービスに登録し、年より若く見える装いや貞淑な考え、男心を掴む仕草で多くの同世代男性を手玉に取ったとされる。

京都府警は青酸化合物を用いた3件の殺人および重篤な青酸中毒に陥らせての強盗殺人未遂の疑いで逮捕、起訴。2017年に京都地裁で行われた裁判員裁判ですべて有罪とされ死刑判決が下された。

 

片岡氏が面会を始めたのは死刑判決直後である。逮捕前から筧に取材を続けていた記者からは、逮捕後に認知症が進行したと噂され、公判中も供述に激しく変遷があることが伝えられていた。最初の結婚から20年ほどして夫が病死して失くして以降、大阪で印刷会社を一人で切り盛りしたが50代半ばで廃業。一男一女のこどもたちも巣立った後、婚活に励むようになった、印刷業で使っていた青酸化合物を手元に残して。

認知症患者の記憶は子ども時代のことでもときに鮮明になったり、数分後には全く逆の内容を語り出したり、あるいは全く別の出来事や人間と取り違えていたりと、聞き手を非常に困惑させる。聞き返すとまた別のことを言い出したり、取り繕ってその場しのぎの(すぐばれるような)言い訳をしたりする。しかも詐欺師のように騙そうという意図や、他人の目には自分がこう映るはずだといった深慮もなく、何のてらいもなくそうした言動を行う。

片岡氏の問いに対して、女は「殺したのは筧さん(最後の夫)だけです」と声を荒げ、殺す理由がないとして他の犯行を否定する。それは一見すると認知症による事実誤認のように見える。だが突飛な見方をすれば、彼女にとっては一人目も二人目も三人目も区別がなく、初めの夫とは別の「男」を殺して金を奪うという意味で一度きりのことと認識されていたのかもしれない。同じような犯行を繰り返していたのではなく、いつからか認知症を患った彼女が認識できたのは「筧さん」だけだった可能性もあるのではないか。

片岡氏は「認知症により、これらのこと(筧さん以外に対する犯行)を全部忘れてしまったのか。それとも元々、人を殺すことや嘘をつくことに罪悪感を一切覚えない人間なのか」、「悪人というより何か重篤な精神医学的な問題化、心理学的な問題を抱えた人物なのではないかと思うようになった」と、筧のサイコパシーな性質なのか認知症の影響なのか見定められずに当惑を示している。

 

鳥取連続不審死事件

2009年、「毒婦」と呼ばれた2人の女が注目を浴びた。周囲の4人の男性が不審死した首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗(34)と周辺で6人の不審死が疑われた本件の上田美由紀(35)である。ふたりは共に美人とは見なされがたい肥満体で、なぜ男たちが彼女に金を貢いだり騙されていたのかと人々に下世話な関心を抱かせた。

虚飾に塗れた生活をブログで綴っていた木嶋とは対照的に、上田は2度の結婚やいくつかの同棲を経て、内縁の男性(46)と5人のこどもと共に「ゴミ屋敷」状態の平屋アパートで暮らしていた。上田は男と共に働いた多数の詐欺や窃盗と、男性2人の殺害容疑で逮捕、起訴される。殺害については否認したが、2012年12月に全て有罪とされ死刑判決を受けた。

2人の男性は上田との間に金銭トラブルを抱えており、亡くなる直前には現場となる海や川へ上田と一緒に向かったことが確認されていた。遺体からは共に睡眠薬が検出されており、一緒に軽食をとっていたことも明らかにされた。

片岡氏によれば、上田は前項の筧千佐子と趣きがやや異なる意味で自らの冤罪を訴えることが指摘されている。手紙では礼儀正しく、性格がよさそうな文章が綴られ、会えば褒め上手で、とても嘘を言っているとは思えない表情で「息をするように嘘をつく」人物と評され、「嘘をよくつくが、嘘は決してうまくなかった」とたしなめられている。虚言癖は、劣等感が強くプライドの高い性格、努力は続かないが他人に認められたい欲求、孤独や寂しさから周囲に構ってほしい承認欲求などと表裏一体にある。被害に遭った男たちは、女を愛していた訳ではなく、憐れんで捨て置けない気持ちに付け込まれてしまっていたのかもしれない。

 

■横浜・深谷親族殺害事件

2009年8月、埼玉県深谷市に住む男性(69)が一人暮らしの自宅で包丁を刺されて死亡しているのを知人から通報を受けた警察官が発見する。県警は交際相手らの証言から高橋隆宏をマークし別件逮捕で殺害について追及した。半年間に渡って再逮捕と起訴を繰り返し、2010年6月にようやく高橋は自白を開始する。しかし殺害について認めたものの、首謀者は3つ年上の従兄弟・新井竜太だとしたため、殺人容疑で揃って逮捕される。

調べを進めると、2008年3月、戸籍上は高橋の養母にあたる女性(46)が新井の母親が経営する内装工事会社兼自宅の浴室で溺死しており、3600万円の死亡保険を受け取っていたことが判明する。高橋は出会い系サイトで知り合った女性たちに売春などをさせてヒモ暮らしをしており、彼女も「金づる」のひとりだった。高橋は本件についても新井の指示で保険金目的で殺害したと自供。新井は男性殺害に使用された凶器や「事故死」した女性にかけられた保険などに深く関わっており、高橋の「自白」に強く裏打ちされて共犯を確実視されてしまう。

公判で高橋は反省の態度を示して無期懲役となり、対照的に新井は無実の訴えが「不合理な弁解に終始し、責任逃れに汲々としている」と悪印象を招いて死刑判決が下される。詳細は本書や片岡氏の記事でご確認いただきたいが、裁判資料の調べや新井の釈明、高橋からの返事の手紙を踏まえ、高橋が苦し紛れに新井を首謀者にでっち上げた冤罪事件だと氏は確信している。

 

 

 

松岡伸矢さん行方不明事件について

1989(平成元)年、徳島県で発生した松岡伸矢さん(当時4歳)の行方不明事件について記す。目を離した僅か数十秒の間に忽然と姿を消した「平成の神隠し」とも呼ばれる。

2019年現在も発見には至っておらず、特定失踪者問題調査会のリスト「拉致の可能性を排除できない失踪者」にも含まれている。

www.police.pref.tokushima.jp

情報をご存知の方は

徳島県警察本部 警備部公安課 088-622-3101(公安課担当係) 又は

徳島県美馬警察署 0883-52-0110

 

 

■概要

3月5日(日)、茨城県牛久市で暮らす松岡さん一家の許に、徳島で離れて暮らす伸矢さんの祖母が急逝したとの訃報が届く。一家5人は急遽徳島へと赴き、翌6日、小松島市で営まれた葬儀に参列した。

その後、小松島市から西へ約60キロ、車で1時間強の美馬郡貞光町(現つるぎ町)平石の山間にある親戚宅で一夜を過ごした。

 

3月7日(火)朝8時過ぎ頃、父・正伸さんは子どもたちを連れて散策に出た。朝食ができるまでの間、普段見ているテレビ番組が放映しておらず子どもたちが手持ち無沙汰にしていたので退屈しのぎに出かけたのだという。まだ幼い二男を胸に抱えて、伸矢くんと長女、親戚の子(伸矢くんたちの従姉妹)と一緒に家の近くを10分ばかり歩いた。

ほどなく親戚宅まで戻ってくると、伸矢くんは「まだ散歩をしたい」とせがむ様子だった。正伸さんはそのまま女の子たちと一度家の中に入り、抱えていた二男を居間にいた妻に託した。すぐに玄関先へと戻ったが、そこにいたはずの伸矢くんの姿はなかった。ちょっと目を離した隙に、少年は忽然といなくなったのである。

体感としては僅か20秒、その後の検証でも40秒ほどの極く短時間であった。

 

散策した道を戻って探すも見当たらなかったことから一家は騒然となり、親戚や地元消防団らと手分けして近隣一帯を捜索するも見つけることができず、10時頃に警察へ通報した。

上の地図でも分かる通り、現場となった平石地区は農家が僅かに点在するだけで、一帯はほとんどが山林で占められている。

JR貞光駅周辺には住宅街もあるが、親戚宅のある山間部は通り抜けができないため車通りはほとんどない地域である。その時間に現場から100メートルほど離れた畑で農作業中の住民もいたが通行人や車の出入りには気付かなかったという。

 

貞光警察署員10数名が集められ、機動隊員、消防団員、住民らも併せて100名体制、翌8日には200人体制で捜索が行われた。見落としのないよう隊列を組んでの「山狩り」が行われたが遺留品すら発見することができなかった。警察犬21頭も動員されたものの、晩に降った雪の影響もあってか、車の通れない林の中で匂いを見失った。

貞光署は身代金誘拐の可能性も考慮し、親戚宅に録音機材を設置。予期せぬ事態に一家は同地での滞在を伸ばしたが、長男の消息は掴めないまま17日に茨城の自宅へと戻った。

その後も現地での捜索活動は続けられたが、有力な手掛かりを得ることなく3か月後に打ち切りとなった。

 

■特徴・状況など

松岡伸矢くんは行方不明当時4歳。身長約110センチ、体重約19キロ、やせ型の体格だった。

手は左利き。左眉の上中央付近に蜂に刺されてできた米粒大のうすい傷跡があった。

自宅の住所や電話番号も記憶しており、読み書きや計算もできる年の割にしっかりとした利発な子で、電車が好きだった。

半年ほど前にも同じ親戚宅に訪れたことがあり、そのときはドングリ拾いなどをして遊んだ。

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松岡さん一家は父正伸さん、母圭子さん、姉、伸矢さん、弟の5人家族。

正伸さんは香川県出身で、日本のソフトウェア企業に勤めた後、外資系コンピュータ関連企業に転職しマーケティング部門を担当した。以前は残業や休日出勤などでこどもたちと過ごす時間が取れなかったことも転職理由の一つだったという。

89年初頭に茨城県牛久市に新築一戸建てを購入して、新生活が始まったばかりだった。

 

祖母の死を「急逝」としたのは、訃報が伝えられるつい30分ほど前まで圭子さんと電話で話していたためである。「また会いたいね」などと話していたが、思いがけないかたちでの徳島行きとなった。

祖母の葬儀は徳島県小松島市で行われた。祖母は再婚しており圭子さんも義父方とは疎遠であったため、参列者は松岡さん一家とは縁遠い顔ぶればかりだったとされる。

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親戚宅は標高200メートル前後の山裾にあり、町道の終点付近だったため外部からの出入りは極めて限られる。周辺で交通事故などの痕跡は見られないことからも、当初は「山での遭難」が強く疑われた。

建物は傾斜地のやや高台にあったため、舗装路とは別の近道として、道路から玄関までの急勾配に約10メートルの石段があった。そのため平地と違って道路から人が上がってくるにも時間を要する。

仮に父親が目を離した時間に数十秒程度の誤差があったとしても、こどもにとっては幅の広い急な石段で駆け下りるのは困難なことから、そう遠くへは行けないように思える。

 

 

■不審な電話

一家が親戚宅に留まり捜索を続けていた3月16日の夜、母親宛に不審な電話が入る。電話口の女性は「ナカハラマリコの母親」を名乗った。応対した正伸さんは「だれか分からないけど徳島弁だよ」と言って妻に替わった。

女性の話は、「S幼稚園」のクラスの父兄で見舞金を集めたのでどこにおくればよいか、(徳島から茨城へ)もう戻ってくるのか、という内容だった。S幼稚園は伸矢さんの姉が通う茨城の自宅近くに実在する幼稚園である。母親は、明日17日(金)に帰る旨を答えた。だが茨城に戻ってからは音沙汰もなく、数日経って幼稚園に確認してみると、見舞金を集めた事実はなく、ナカハラマリコという名前の生徒は存在しないことが分かった。

後に正伸さんが警察へ事情を話し、当時の録音テープの内容確認を求めたが、「何も入っていない」として確認を拒まれたという。食い下がってようやくテープを聞かせてもらうことはできたものの、電話を取り次ぐ正伸さんの声は残っていたものの女性とのやりとりの部分はなぜか収録されていなかった

 

この電話についてだけでも様々な疑問が浮かぶ。

第一に徳島の人間と思しき人物がなぜ茨城県の幼稚園のことまで知っていたのか。公開捜索は開始されておらず、茨城の知人が伸矢くんの行方不明を知らされていたのは極く少数と思われる。また茨城県の人間が徳島の親戚宅の電話番号を知っていた(調べてかけた)とはまず考えにくい。

町内放送を聞きつけた近くの住民であれば「茨城から来た男の子が行方不明になっていること」は知れたであろうし、捜索参加者であれば「姉がいること」を窺い知ったとも推測できるが、姉の幼稚園名やクラスまで伝えていたとも思えない。

徳島の近しい親戚や圭子さんの旧友ならば茨城での生活や幼稚園についても話を聞いていたかもしれないが、それとて人数は限られ、声色などからもすぐに目星がついたことであろう。あるいは先日の葬儀に参列した遠縁の親戚などであれば、行方不明のことや家庭の事情を耳にする機会はあったかもしれない。

知らない相手だったことから圭子さんが会話の流れで「S幼稚園の方ですか?」「○○組のですか?」といった問いかけをし、相手がそれに調子を合わせるかたちで返答していたことも考えられる。

録音が残されていなかった点についても、通常であれば「録音機材のトラブルや誤操作」とみるのが妥当なところか。たとえば電話に出た父親が録音ボタンを押し、失踪とは無関係な相手(妻の知人)だと早合点してしまい無意識に録音をオフにしていたり、電話を途中で代わった母親がすでに録音中と気付かず録音開始のつもりで誤ってオフに切り替えてしまった等といった可能性である。連日の捜索で家族は疲弊し、「まさか誘拐犯からの電話ではないか?」といった緊張が重なって無意識に誤操作が生じる可能性は高いように思う。

 

またご両親の作為をくさす意図なく、テレビ制作のやりくちを疑ってみれば、そもそも電話自体なかった、番組出演の際に話題性を加味するための「仕込み」エピソードということは考えられないだろうか。

今日でも広く知られる未解決事件には、印象的な電話や怪文書が多く存在する。

・鈴木俊之くん事件の「なーに、トシちゃん?」の怪電話

・ワラビ採り事件の「この男の人わるい人」のメモ

・安達俊之さんの「俊之つかまっているよ」の怪電話

西安義行さん事件の「明かりをつけましょぼんぼりに…」の怪電話

・南埜佐代子さん事件の「ああ、苦しい…悔しい…」の怪電話

加茂前ゆきちゃん事件の「ミユキサンカアイソウ」の怪文書

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

・増山ひとみさん事件の「お姉ちゃんだよ」の怪電話  などが知られている。

そうした全てがメディアによる「捏造」だとは思わないし、多くは第三者の悪戯(又は行き過ぎた善意)と考えられるが、犯人やその関係者が実際にアクセスしてきた可能性も完全にゼロとは言い切れない。こうした文書や音声として残されるメッセージから滲み出る得体の知れなさ、不穏さは、意味やその意図が不明瞭であるがゆえに却って人々の脳裏に刻み込まれる。

 

ナカハラマリコの母親を騙った電話の目的は何だったのか。会話は偽りであり、父親に伝えてもおかしくはない内容であったのに、なぜ父親ではなく母親と話そうとしたのか。疑問符は際限なく浮かぶが、通話内容からすると犯人や事件解決に結び付く線とはいえないだろう。

一家が徳島を離れたとて捜索が続くことは明白であり、この電話で何かの目的が達成されたようにも思われない。おそらくは母親に励ましの言葉でもかけるつもりで電話を掛けたが、父親の応対に慌ててしまい嘘を重ねた、といったところではないか。

 

■たくさんの“伸矢さん”

事件後、正伸さんは捜索活動に時間を当てるため会社勤めを辞めて自営業となり、以降50回以上ものテレビ出演等で情報提供を訴えた。

目撃者が警察への通報をためらうことを危惧してか、当時は警察不信もあったのか、自ら電話番号を公開して全国各地から情報を受け付けた。

なかには無関係な情報や嫌がらせの類もあったには違いない。しかし両親は一本一本の電話に真摯に応対し、それと予感させる情報が飛び込んで来れば現地へと駆けつけて詳しく話を聞いて回った。

テレビ番組で放映された情報提供の事例をいくつか紹介する。 

◆「山形県米沢市のデパートの前で、そっくりの男の子を見た」との情報提供から、現地でビラ配りを行ったところ、「この子なら上杉公園(宮城県仙台市)で見た」「売店にいた」という情報を新たに得たがそれ以上のことは分からなかった。

◆神奈川県の電車で見掛けて、心配になり声を掛けた。少年の「手首は傷だらけだった」。「おじさんと一緒に住んでいる。おじさんから嫌なことをされる」「普段はよく女の子の格好をさせられている」と不穏な暮らしぶりを語るため、連絡先を渡して別れた。(1998年4月17日放送)。この証言者は後述するYouTube番組にも情報を提供している。

◆「96年8月、山手線の車内で手に包帯を巻いた少年を見掛けた」「男の方が両脇に2人座られて、手の甲とかそういうところに傷がありまして……」(1998年9月11日放送)

◆「夫婦らしき男女に敬語に近い言葉で話して、本当の親子に見えなかった」「お遍路さんいう感じの白い服装」(1999年12月29日放送)

岡山県レンタルビデオ書店で「本を選んでいる伸矢さんらしき少年」の目撃談が寄せられ、現地に話を聞きに行っているVTRも放映された。「手首には多数の傷が見え、付き添いの男性は暴力団員風で見張っているようだった」と言い、不審に感じた店員が店長に報告してから様子を見に戻るとその姿はすでになかったという。

 

番組で取り上げられたものだけでも各地から様々なケースが寄せられており、いずれも切迫した少年の暮らしを想像させる内容である。

だがいずれも本人確認が為された上での情報ではなく、第三者の目から見て「親子には見えない」、「普通の生活をしている子どもではない」といった不安感が失踪した伸矢さんの「その後」を予感させ、松岡さんの元へと連絡したものが多いようだ。

多くの人は伸矢さんに生きていてほしい気持ちと、かわいそうな子どもを見つけて「もしかしたら…」と思うと放っておけない責任感からそうした情報提供を行っており、その中に伸矢さん本人の情報が含まれていた可能性もないとは言いきれない。

とはいえ寄せられた情報の全てに充分な追跡を費やせるものでもなく、できるかぎりのことを続けていく以外に道はない。

母圭子さんは「一日一日、どんな環境のなかでも生きるエネルギーをあげられるのはやっぱり母親の私しかいないのかなと思うので、どんなに自分が辛くても頑張って、あの子に力をあげ続けたい」と決意を語っている。その懸命でけなげな姿、人生を捧げる家族の愛情は全国の人々の胸を打ち、伸矢さんは今なお人々の心に刻まれている。

 

拉致・誘拐被害の中で、そうした親の懸命な捜索活動が本人の目に触れ、生還につながった事例として埼玉県朝霞市で起きた誘拐監禁事件がある。

少女は犯人からの精神的拘束を受けて長期の軟禁状態に身を置いていたが、自分の捜索を続けている両親の姿をインターネットで見つけて脱出を決意したとされる。

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北朝鮮による拉致説

事件から約1か月、徳島県内で「少年の神隠し」は大きく報道されていた。そんな89年の4月か5月の終わり頃、徳島県海部郡日和佐町(現海部郡美波町)の弁天浜で伸矢君によく似た子を抱いて海を眺める不審な男性がいたという目撃情報がある。

情報提供者は目撃当時、事件と係わりを持ちたくない思いから通報を躊躇したが、10年近く経って良心の呵責から連絡に至ったと語る。

浜へ釣りに訪れた際、子連れの男性を目にし、その子の顔が連日報道されていた伸矢さんにそっくりだったことから目を凝らすと、男性はその子を隠すように背を向けてしまったという。特定失踪者問題調査会によれば、日和佐は北朝鮮の船が来航する港の一つとされている。

 

また徳島県近郊での特定失踪者として2005年2月25日(第12次)に公開された戸島金芳(としまかねよし)さん(当時19歳)がいる。

戸島 金芳 | 特定失踪者問題調査会

金芳さんは1956(昭和31)年1月14日、暗くなってから「東京に住む弟に会いに行く」と言って美馬町の自宅から出かけたまま消息を絶った。出掛けに母親が小遣いを持たせていたが、翌日郵送で送り返されてきた。自宅に残された写真の裏には「さようなら 彼(か)の山 彼の川 そして彼の家」と書き置きのようなものがあった。

普段は農家の手伝いをしており、農閑期には山口県へ出稼ぎに出ていた。失踪の半年ほど前から、夜中に部屋から朝鮮語のラジオ放送が聞こえ、悩んでいる様子だったという。
どういった経緯で北朝鮮による拉致被害が疑われているのか(ラジオ?)、詳しい住所や目撃情報の有無などはweb上では確認できないが、「失踪現場」は貞光駅とされており、伸矢さんがいなくなった親戚宅の最寄り駅(約2キロ)で非常に近い。

 

筆者は拉致問題に疎く、一方で北朝鮮による拉致そのものは過去に存在した事実なのでその可能性を完全に否定するつもりはないが、いくつかの疑問が浮かぶ。

まず1989年当時、北朝鮮の船が日和佐や周辺地域に来航した記録はないこと。だがこれは密航の可能性を考えれば大きなネックとは言えない。過去に就航していれば接岸できる箇所など周辺の目星はつけられる。

では「4歳児」を拉致する目的についてはどうか。日本人拉致はそもそも対南(韓国)のテロ工作員養成のために行われた「訓練」のひとつと理解される。1987年11月に起きた大韓航空機爆破テロの実行犯・金賢姫らの日本語などの指導に当たった拉致被害者田口八重子さんとされる)もいたが、爆破テロ以降は西側諸国の強い警戒から「日本人を装った工作員」の密入国・テロ工作は行われなくなった、新たな日本人は必要なくなったと考えるのが筋であろう。

当時の情勢を少し確認しておくと、88年、韓国がソウルオリンピックを成功させロシアとの国交を回復し、南北の溝は一層広がっていた時期に当たる。対外的孤立と食糧難などに陥った北朝鮮は、90年に金丸信副総理の訪朝団、91年に日本からの留学生第一号となる李英和氏受け入れなど、急速に日本との接近を試みている。そうした南北関係・東西情勢の危ういバランス、国交正常化を謳った(植民地支配に対する「賠償金」の引き出しを狙ったとみられる)日本との外交関係をよそに、山で4歳の少年を攫うリスクを冒すとは俄かには考えづらい。

また91年の北朝鮮留学時、李英和氏が聞かされたいわゆる「拉致講義」でも金正日が立案・指揮した日本人拉致作戦は1976~87年で完了したとされ、それ以外の時期にはやっていないとされている。

たとえば伸矢さんが祖母の葬儀が行われた小松島市や、かつて朝鮮船の来航のあった日和佐町のような沿岸地域で迷子になっていたというならばいざ知らず、山間部の家の玄関先まで来て親がいつ戻るかも分からない一瞬の隙を突いて子どもを攫う工作員の姿を想像するのは些か難儀を極める。

工作員であれば作戦前にそれなりの人定を行うものと考えられ、急遽徳島を訪れることになった4歳の少年を狙う意図があるとは思えないのである。

 

■記憶をなくした青年

2018年1月31日にTBS系列で放映された『緊急!公開大捜索’18春 今夜あなたが解決する!記憶喪失・行方不明スペシャル』に出演した和田竜人さん(仮名)について、年齢や境遇などから「伸矢さんではないか」との声が寄せられて注目を集めた。

番組で、和田さんは「記憶を欠損した身元不明者」として出演し、約17年間「おじさん」によって軟禁状態で育てられたと述べた。

4歳頃に両親と思われる人たちと車で移動中に居眠りし、目覚めると「おじさん」のところにいたと説明。「おじさん」は当時50~60歳で大柄な体格だったと言い、家は2階建の一軒家。97年8月21日に「今日で5歳になった」と告げられた。付き添われて15歳頃に10回ほど歯医者に通院した以外、外出した記憶はないと話した。

TVを盗み見るなどして言葉を習得し、20歳頃に児童虐待などのニュースを見て自らの置かれている環境の異常さに気付き脱出を決意。2014年6月に「おじさん」の家から逃走し、愛知県弥富市のショッピングセンター内トイレで脱水症状で意識不明のところを保護された。

しかし過去の虐待に対する防衛本能によるものか、それまでの記憶のほとんどを失ってしまい、施設で保護されてから回復後は便利屋として働いていると紹介された。

 

番組内では三重県四日市市のコンビニで7~8年前にバイトしていたキタザワヒサシさんに似ているとする情報も寄せられていた。中学時代のキタザワヒサシさんの卒業アルバムが流出し、Twitter上では元同僚という人物も現れ、「あっ、これはキタザワですねwwww」とツイート。

ネット上ではいわゆる“特定班”が動き、2012年6月の朝日新聞「僕が支えなきゃ貯金53万円で2700票」なる見出し記事で登場した「三重県から武道館に来た会社員北沢尚さん(22)」ではないかと指摘される。同様にAKB48松井咲子“推し”としてワイドショー番組「ミヤネ屋」にも登場していたことが判明する。

4歳当時の伸矢くんの写真と和田竜人さんは、第三者の目から見れば「どことなく似ている」風貌で、過酷な日々を送ったことを考えれば多少雰囲気が変わっていてもおかしくはないようにも思われた。

だがキタザワさんの卒アルやミヤネ屋出演時の松井咲子“推し”は、だれがどう見ても和田竜人さんと「瓜二つ」であった。このことからネット上では番組側による「仕込み」「ヤラセ」が疑われ、話題となった。

「緊急!公開大捜索」放映の翌日、徳島県警が伸矢さんのご両親と男性のDNA鑑定を行う方針と報じられ注目が集まった。しかし翌日には「別の有力情報が入ったため」DNA採取を見送ったとされ、何やら雲行きが怪しくなる。だが却下する意味合いでの「見送り」ではなく、より本人の可能性の高い情報も寄せられたため、一時DNA鑑定は保留とされるかたちだった。だが結局は当初の予定通り、3日に夫婦の口内からDNA採取が行われた。

 

放映から一週間後の2月6日、正伸さんは自身のFacebook上でDNA鑑定の結果、和田竜人さんを名乗る男性との「親子関係は認められなかった」ことを報告した。鑑定前から親の直感としてこの結果を予想していたと語っている。男性の身元判明を願いつつ、思わぬかたちで伸矢さんへの注目が高まったことに驚きと感謝の意を表した。

 

 

尚、番組放映後に三重県四日市市の男性が「2014年に自宅からいなくなった息子ではないか」と名乗り出ており、DNA鑑定の結果、「親子として矛盾しない」ことが確認された。

親子は当時三重県川越町に住んでおり、男性の発見場所である愛知県弥富市とは木曽川を挟んで12キロしか離れていなかった。以前にも記憶を失って行方が分からなくなった時期があったという。

通常の行方不明者であれば本人確認がなされるものの、和田竜人ことキタザワさんは「本人」である記憶が欠損し、事実にない記憶が形成された解離性遁走だったことから特定が困難だったと考えられる。また愛知県一宮市心療内科院長が患者本人の同意を得たうえで、放映より2年前の「2016年4月17日」に番組で紹介された内容と全く同じ症例を紹介している。キタザワさんが以前に遁走した際の診療で得られた症例ではないかとされている。

 

■目撃者

恐怖体験談や未解決事件を扱うYouTubeチャンネル『ネオホラーラジオ』では、かつて神奈川県の電車内で伸矢さんによく似た少年を目撃した女性がTV等で伝えきれなかった情報を補足紹介している。

 

女性は事情により日本を離れることになったが相当に印象に残っており、少年を苦しい境遇から救うことができず心残りとなっていたことがよく伝わる。

たとえこのときの少年が伸矢くんでなかろうともどこかで生き抜いていることを願いたい。

 

■澁谷美樹さん事件

「ほんの僅か目を離したすきに」幼児の行方が分からなくなった事例として、宮城県川崎町で起きた澁谷美樹さん(当時3歳11か月)の事件がある。

1983(昭和53)年11月1日16時頃、祖父喜代治さんが美樹さんの通う町内の保育園へ車でお迎えに行った。両親は勤めに出ており、お迎えはおじいちゃんの日課だった。

長閑な田畑を臨む帰り道で知人の姿を見掛けた喜代治さんは車を停めて、美樹さんを助手席に残したまま25mほど離れた田んぼへと降りていった。農作業の打ち合わせのために知人と2、3分程のごく短時間会話をして、車に戻ってみると美樹さんの姿はなく、鞄と帽子だけが残されていた。助手席のドアが数十センチ開いていたことから、慌てて知人と周辺を探し回ったが見つけることができず、大河原署に届け出た。

 

行方不明当時は知人が脱穀機を稼働させており、周囲の音が聞き取りづらい状況だったとされ、祖父は助手席のドアが開く音などに気付いていなかった。地図でも分かるように見通しの利く一帯で、側に人家もあり、誤って水路にでも落ちなければ忽然と姿を消すとは考えにくい場所である。

近くで農作業をしていた女性は、美樹さんらしい女児が車の前に立って祖父たちの方を見つめる姿を目撃していた。11月の宮城県川崎町の日の入り時刻は「16時38分」頃で、辺りはまだ真っ暗ではないにせよ街灯もない道は薄暮にかかっていたと考えられる。

翌日、警察の調べにより祖父の車を停めていた近くで、5m程のスリップ痕、路上から美樹さんと同じO型の血痕が検出された。尚、当時はDNA型鑑定技術がなかったため、美樹さん本人の血痕とは同定されておらず、試料の保存が為されなかったのか、鑑定の上で不一致だったのか、その後も情報は出ていない。

血痕近く、祖父の車から約15m程の位置に「薄茶色(「黄土色」とも)の車」が停車しており、車のそばに30歳前後の男女の姿を見たという目撃証言もあった。薄茶色の車について、およそ400m先の路上で猛スピードで走り去っていくのを対向車が目撃していた。そうした状況から総じて大阪市住之江区で起きた田畑作之介さんのひき逃げ連れ去り事件(1978年)のごとく、車外に居た美樹さんが交通事故に遭い、事故の発覚逃れのために連れ去られたものと推察されていた。

また行方不明から2日後、自宅に無言電話、その後身代金を要求する電話もあったとされるが犯人によるものかは特定されていない。澁谷家に対する「私怨」についても聞き込みが行われたが、周辺地域では親戚縁者が多いため口の重い住人が多く当時の捜査は難航したとされる。

 

県内で約7万台もの同色系車両について洗い出しが行われ、その後、大河原町で飲食店を経営する男性(31)が何度も事情聴取を受けている。男性は美樹さんの父親と同級生で、事件のあった時刻に澁谷さん宅の近くにある酒屋へ仕入れに出ていたが、事件後に該当する薄茶色の車両の所在が分からなくなっていた。

しかし逮捕には至らず、その後の捜査資料の再検討などにより、道路の血痕は行方不明直後に付いたものではない可能性があること、路上のスリップ痕は以前からあったとの情報が複数得られたことなどから捜査方針の見直しが行われた。「ひき逃げ」説は減退したとみられ、「連れ去り誘拐」の可能性を視野に入れた捜索が続けられている。

祖父は孫娘との再会を待たずに逝去されたが、家族は事件から40年近く経った現在も当時の写真や服を大切に保存し、美樹さんの部屋をそのままにして帰りを待っている。

 

■所感

僅かな時間、ほんの少し目を離した隙にこどもがいなくなる事件はこわさ以上に悲しさが押し寄せる。近くで遺留品や遺体が出ないことなどから、「人攫い」が疑われるためである。「こども」を狙う誘拐犯にとって、幼児は容易に抱え上げることもでき、赤ん坊に比べて保護しやすく、移動に自立歩行させられる利便性もある。

不明現場が比較的山中であり、小さなこどもであるため、遭難や猛禽の類による急襲なども脳裏を過るが、数十年が経過して尚も遺留品ひとつ出てこないというのは第三者による作為がなければ不自然に思える。

 

誘拐について想像していくと、前述の通り、伸矢さんが家の前でひとりになったのは偶発的な出来事であり、犯人が散歩途中からずっと後を付けて隙を窺っていたとはやや考えにくい。

尾行できたとすれば犯人も徒歩ないしは自転車ということになり、極めて近距離で生活していた人間に限られるからだ。

また10m程の石段は犯人にとって非常に大きな心理的・物理的なハードルとなる。仮に攫われたとすれば、伸矢さんは石段を上がった玄関前ではなく、石段の下の道路にいたのではないか。そこに偶然にも「幼児を求める人物」が車で通りがかり、周囲に大人の目がないと見て瞬時に連れ去ったのであろうか。

 

上述の「たくさんの“伸矢さん”」「目撃者」の段で触れたように、行き過ぎたしつけなのか虐待なのかも判別しがたいような「家族とは思えない家族」も世の中には多くある。一方では、養子縁組や親の再婚などにより血縁関係のない家族や年の離れた親子も存在する。私たちは部外者には一目では窺い知れない様々な家族のかたちを大なり小なり抱えている。

たとえば独身男性がある日突然に子どもと生活を始めれば、人里離れた一軒家に一人暮らしででもなければ家族や近隣住民は大概すぐに異変に気付く。しかしながら現実には新潟女児監禁や綾瀬コンクリート詰め殺人のような、家庭内暴力や歪な家族関係から肉親ですら部屋に立ち入れない・告発できないケースも現実に存在する。社会の隙間、歪な家族にカモフラージュされて無戸籍児として生活していることは充分にあり得る。

 

だがそもそも車通りのない道で偶然にも「幼児を求める人物」が現れ、瞬時に連れ去りの犯行ができるものであろうか。老若男女、夫婦か独身かを問わず、こどもはほしいが授かれない境遇やどうしても男児がほしいと切望する人々は少なくない数存在する。

とはいえ朝8時過ぎの山裾で、偶然にも望みの子どもを見掛けたからといっていきなり行動に移せるようにも思えない。いかに人攫いと言えども、声を掛けて様子を窺ってから、という段階は踏むと思われ、「40秒で決行した」とはどうしても思えない。

仮に実行できたとするならば、場所柄、疑いの目は周辺住民に向くことになる。しかし人々の結びつきの強い農村集落で「みんなで必死に探していた」男児を密かに育てていくことなど到底不可能である。

 

何らかのかたちで生き延び、いつか戻ってきてくれることを願うのは当然だが、ひとつの仮説として「迷子・遭難」に立ち返らざるを得ない。先述のように幼児は概して「かくれんぼ」が得意であること。また2016年5月に北海道七飯町の林道で親が数分間置き去りにして行方が分からなくなった田野岡大和さん(当時7歳)のように約5キロの山道を歩いて自衛隊の宿舎にたどり着き、食料こそなかったが水道水と布団にありついたことで6日後に発見・救出された事例も存在する。

曲がりくねった山道や自然豊かなその土地は、郊外の平野にある住宅地に暮らす少年の冒険心を激しく揺さぶったには違いない。自発的に近くの農作業小屋や廃屋などにたどり着き、却って屋外よりも捜索の目が届きにくかった可能性はないだろうか。建物内の倒壊や物の転倒事故などによって身動きが取れなくなり衰弱。その後、管理者が発見するも行方不明から時間が経ってあまりに事態が大きくなっていたことから名乗り出ることができなくなったとも考えられる。

 

すでに行方が分からなくなってから30年以上が経過し、世の中も大きく変わった。美樹さんや伸矢さんがどんな境遇にあるのか、どんな思いでいるのかは想像もつかないが、ご家族と再会できる日がくることを心より願っています。

 

福島女性教員宅便槽内怪死事件について

30年以上経った現在も日本有数の「不気味な事件」として語られる福島県の女性教員宅便槽で起きた怪死のミステリーについて記す。

新聞、雑誌の報道やネット上で出回る諸説、また青年の怪死と福島原発とのつながりを謳った映画『罵詈雑言』について検討しながら、はたしてどういう事件なのか考えてみたい。

 

■概要

1989(平成1)年2月28日(火)、福島県田村郡都路村古道(ふるみち)の教員住宅に住む小学校教諭Aさん(23)が学校から17時10分頃に帰宅し、和式トイレの便器奥に「靴のようなもの」を見かけた。

不審に思い、外の便槽汲取り口に回ると鉄製の蓋が開いており、穴の中に人間の足のようなものが見えた。

すぐに教頭らに連絡を取り、同僚教職員らが駆けつけ18時20分頃、近くの古道駐在所へ通報した。

 

約30キロ離れた三春署員が到着する頃には既にバキュームカー2台が停まっており、村の消防団員も召集されていた。便槽内の人間を外から引っ張り出すことができず、重機で便槽ごと掘り出して破壊することになった。

便槽は「凹字型(U字型)」で、汲取り口の内径36センチ、深さ107センチ、底面の奥行きが125センチ。槽内は成人男性が入るにはぎりぎりの狭さだった。

中の男性はすでに息がなく、真冬にもかかわらず上半身は裸で、衣類(フード付きジャンパー、トレーナー、下着2枚)を胸に抱えるようにして膝を折った姿勢で発見された。発見現場と、近くの消防団の屯所で2度洗浄された。

 

男性は、車で10分ほどの岩井沢地区に住む村民Kさん(25)と確認された。24日10時頃に自宅を出たまま行方が分からず、家族から捜索願が出されていた。

地元診療所の医師により、死因は凍え兼胸部循環障害とされ、硬直状態などから死亡したのは26日頃と推定された。ひじ、膝の擦り傷は見られたものの目立った外傷はなかった。

 

警察も当初は「変死」事案として捜査を始めたが、現場周辺に争った形跡などはなく「自らの意思で入ろうとしないと入れない」と事件性なしの見方を強めた。

はたして自ら入って動けなくなりそのまま凍死したものとして「事故死」と判断され、地元の新聞報道では「誤って転落したのではないかとみている」等の表現がされている。

 

Aさんは24日から27日にかけて休暇をとって県内の実家に帰省しており、男性が転落した当時は留守だった。

 

■事実関係

Kさんは両親、祖母との4人暮らし。

原発プラントの保守点検業務も手掛けるUバルブサービス社で営業主任として勤めていた。元野球部のスポーツマンで、中学時代にはギターを始め、高校時代にはバンドを組んで活躍。

独身で死亡当時も特定の交際相手がいた訳ではなかったが、祖母いわく「電話が鳴りやまないくらい」モテていたと言う。青年団ではレクリエーション部長を務め、友人たちからは結婚式の司会を頼まれるなど周囲の信望も厚かった。

3月末、Kさんの同僚や友人らが怪死の真相解明を求めて、再捜査を嘆願する署名活動を行い、1か月足らずの間に3800人ほどの村の人口を大きく上回る4300筆を集めた。

しかし三春署は「犯罪の匂いが出てくれば捜査もできるが、何ひとつ犯罪に結びつくような材料はない」として再捜査を拒否した。

 

19日(日) 村長選挙

23日(木) 先輩の送別会

24日(金) 大喪の礼(1月に亡くなった昭和天皇国葬につき休日)

       10時頃、Kさんが自宅を出る(父親談)

       Aさん、実家へ帰省する

26日(日) 死亡推定

27日(月) 現場近くの農協駐車場でKさんの車が発見される

28日(火) 18時頃、Kさんの遺体発見

事件の9日前には、2月19日には村長選挙が行われており、4選を期す原発推進派の現職候補と対立候補が争った。Kさんは現職候補支持の立場で応援演説などにも参加していた。一票2万円ともいわれる「実弾」が飛び交う熱戦となり、投票率95.33%、1976対745の差で現職村長が勝利した。

後のAERAの取材に対して、村長は「たしかにいい男で、本当に残念だと思う。選挙も応援してもらって、一生懸命やってもらった。これからの青年だったのに、惜しいことをしたと思います。あんなことする男じゃないと思う。憶測でいろんな話が出ることは困ったことだなと思っている」とコメントを寄せた。

都路村は、郡山市双葉町へとつながる国道288号が東西に通っているものの、駅や都市部からは隔絶された「山間の小村」である。かつて周辺は葉たばこの生産や養蚕が盛んな土地柄だったが、1970年代には過疎地域に指定された。

県東岸部に位置する双葉郡福島原発が稼働すると、約半数近くの世帯が原発関連の仕事と何らかのつながりをもつようになった。村から双葉郡大熊町福島第一原発までおよそ25キロ、楢葉町の第二原発までおよそ35キロの距離にあり“お膝元”とまでは言えないまでも、山々と太平洋に囲まれて産業基盤に乏しい周辺地域における超一大産業である。

 

事件と同じ1989年の1月4日、東電の原発運転管理責任者が上野駅で飛び込み自殺をしたことが報じられた。東京本社での仕事始めの帰路での出来事である。

しかし1月6日、福島第二原発3号機で再循環ポンプ内の回転翼が破損し、金属片が炉心に流出する事故が発覚したことで、管理責任者の自殺が改めて注目を集めることになる。

すでに前年の暮れから警告アラームが鳴っていたにもかかわらず運転を続けていた事実が判明し、東電職員は責任追及を恐れて命を絶ったものとみられている。

 

■怪死図

現在でもネット上ではKさんの死の真相について様々な議論が為される。

その要因のひとつは、AERA1989年7月4日号掲載の略図である。一見すると、何をどうやったらこれほど狭い場所に入ることができたのか想像できず、禍々しい力によって無理矢理閉じ込められてしまったかのような印象を見る者に抱かせる。

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だが付された便槽の実寸の数値と照らし合わせてみると、そもそもの縮尺が大きく異なっていることが分かる。深さ107(60+47)センチ、底面の奥行き125センチとされているが、図像を計測すると比率は概ね72:64と縦方向が実際より長く、横方向が短く図示されてしまっている。おそらく紙面構成上の問題で、縮尺バランスを変更してしまったためと考えられる。

 

■便槽とのぞき

今日では東京、神奈川、大阪などの大都市、政令指定都市は下水道整備が完了し、「便槽」を知らない世代も少なくない。

普及率の推移は地域差が大きいものの、事件当時は全国で45パーセント程度とまだ汲み取り式トイレが多かった(なお2020年現在は全国でおよそ8割の普及が達成している)。

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国土交通省

佐賀女性7人連続殺人事件などでも見られたように、身近にあって汲み取りの場面以外では人目に触れにくいことなどから、「死体遺棄」の現場とされることもある。当時の都路村であればほぼ全域が汲み取り式だったと想像される。

便槽に死体を遺棄する理由として「発覚までの時間稼ぎ」のほか、尋常ならざる怨恨や報復感情などから相手に「凌辱的な死に場所」を望んだケースが思い浮かぶ。あるいは「凄惨な死にざま」を周囲の人間や対抗勢力に対して見せつけることで、自らの力を誇示するため「見せしめ」の意図をもって残酷な手法をとったとも受け取れる。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

便槽内に自らの意思で入ったとすれば、第一に考えられることは「のぞき目的」である。Kさんの人柄を知る遺族や友人らはそんなはずがないと死亡理由に強い疑いを抱き、真相解明を求めた。

以下、「のぞき目的」とされる他の便槽事件と比較してその実現可能性について考えてみたい。

①1990年4月17日、東京都足立区西新井の諏訪木東公園の公衆トイレの便槽内で、汲み取り作業員が男性の死体があるのを発見した。遺体は槽内に横向きに倒れており、遺体の真上にマンホールの蓋があった。年齢は30~50歳、身長165センチ、死後1~2カ月が経過しており、セーター、ズボンの上にジャンパー2枚を重ね着し、上から雨がっぱを着込んでおり、サンダル履き。目立った外傷はなく、死因は溺死とされ、槽内に溜まったメタンガスを吸って気分が悪くなり、汚物に顔を突っ込んだものとみられている。

②1999年6月13日、秋田市下浜海水浴場の公衆トイレで女性客から「物音がして様子がおかしい」と通報があり、槽内から自動車代行運転手の男性(42)が発見されて逮捕された。便槽は「大人一人が入れる程度の大きさ」とされ、男女兼用の個室トイレ3つとつながっていた。工具を使って便器を取り外して侵入したと言い、釣り用の長靴(腰まで防水されるウェーダー)を着用していた。「10人くらい入ってきたが半分は男だった。匂いがひどくて死ぬかと思った」等と供述している。

③2010年5月19日11時過ぎ、新潟県上越市稲田の上稲田公園で、清掃業者が便槽内に死体があるのを発見した。遺体は市内に住む無職男性(42)で、外出先で友人と別れて以降2週間ほど行方が分からなくなっており、家族が捜索願を出していた。便槽は縦横1メートル、深さ1.5メートル。目立った外傷はなく、食道や胃から糞尿が見つかっており、存命中に自ら槽内に入った可能性が強いとされた。死因は糞尿を吸い込んだことによる水死か、酸欠による呼吸機能障害とされた。

近郊の田村市で2月の平均気温はマイナス0.4度、最低気温はマイナス4.7度にもなる厳寒期に侵入しようと思うものだろうか。

先に挙げた3事案はいずれも季節は春から初夏で、亡くなっている方も含めてそれなりに防水・防寒対策を施した上で侵入している。真夏はガスによる悪臭や有害性が増すため、素人考えでも春や秋の方がハードルは低いだろうと分かる。

のぞき目的の視点に立って考えれば、「便槽に入る」以前にいくつかの性犯罪のステップを踏んできたものと考えられる。たとえば住宅の浴室のぞき、温泉やプールといった場所での不特定多数に対するのぞきなどである。山間部の小村で「公衆トイレ」はほとんどなかったであろうし、海まで片道1時間、公衆浴場や温泉も近場にはない。そもそも「のぞき」に不向きな土地と言ってよい。

便槽に入ってまでもという場合、のぞきよりも「排泄行為」や「排泄物」への執着、いわゆるスカトロ趣味の性向が強いと考えられる。前段階としては、下着類の窃盗や生理用品、オムツの収集などであろうか(よく分からない)。過去には便槽に貯め置かれた排泄物を盗み取ることもあったかも分からないが、便槽に入るほどということは排泄行為を直接見たい、さらには「浴尿」や「糞食」が目的と考えられる。古い便は細菌が繁殖しているため塗ったり食べたりすると非常に危険とされ、新鮮なものが求められる。

 

■侵入といくつもの謎

Kさんの父親は重機で壊された便槽現物の一部を持ち帰り、Kさんの勤め先の協力により復元してもらって自宅に所持していた。

「身長169.2センチ」「体重69.5キロ」で、野球やギターで鳴らした筋肉質なKさんの肩幅や体躯は決して小さくはなかったと考えられ、25~29歳男性の平均的な肩幅は40.4センチとされることからも物理的な困難が想像される。

現場写真などは残されていないが、警察は当然Aさん宅に侵入した痕跡についても確認したと思われる。便器を外した形跡等がないこと等から、「外部からの侵入」と判断したとみるのが妥当である。閉肩姿勢での侵入は困難であるため、腕から先に入ったものと考えられ、事実として内部に収まっていた。

他殺説を唱える人のなかには、「警察も信用できない、村ぐるみで事件を事故に見せかけている」「便槽に入っていたこと自体が捏造である」といった主張も見受けられる。

しかし先に偶発的な殺人が起きていた場合、はたして奥まで人が入れるものかも分からない便槽に無理矢理押し込もうと考えるだろうか。周囲は山々に囲まれており、山中で遭難して凍死してしまったように見せかけることも、崖道から車ごと転落させることも出来る。少なくとも汲み取り作業時には見つかってしまう便槽に遺棄するするという発想には通常であれば至るまいと思う。

 

また小村ゆえに、村人たちは事件の真相を「口止め」されている、村ぐるみの隠蔽があるのではないかと疑う意見もなくはない。

しかし転勤の多い学校教諭や、消防団員の若者たちも便槽の解体に立ち会っており、だれも村から離れなかったとは考えられない。

もし「便槽に入っていたこと自体が捏造」であれば、村を出た後も20年30年と経った今日に至るまで全員が「口止め」されていると考える方が難しい。

 

便槽のレプリカには、便槽の内径36センチよりさらに狭い直系約30センチのマンホール受けの金枠が付いていた。

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これについても相当無理をすれば成人男性でも通ることができる。下は1994年に放映されたレプリカ便槽での検証キャプチャ。

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ほら。

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あれ?

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金枠が外れてしまった。

元々現物はコンクリ部分に固定されていたがレプリカに接合することができなかったので上に載せていたのか、あるいは現物も経年劣化などで蓋受け部分の金枠自体が外れていたものかは不明である。

 

そもそもAさんと親交のあったKさんであれば、当時彼女の不在を知っていた可能性がある。もし仮にのぞき目的だったとしても何日も前から裸で張り込むとは思えず、はたして入れるかどうかもギリギリの槽内からどうやって地上に戻るつもりだったのか等、合点のいかない状況が多々見受けられる。

片方が「便器の奥に見えた」とされ、もう片方が「家の近くの土手」にあったとされるKさんの靴は不可解である。左右とも便槽の外にあった、あるいは中にあったのならば不思議はないが、なぜ別々に発見されたのか。理由は判然としないが、何者かが便器側から片方の靴を落としたシチュエーションなどが思い浮かび、にわかに事件性を疑わせる。

また近くの農協駐車場で発見されたKさんの車は未施錠で、キーを差した状態で残されていた。しかし着替えやタオル類、石鹼類、抗生物質などのぞきに結びつくものが発見されたという情報はない。

 

衣類をどこで脱いだものかについても判然としない。仮に第三者に脱がされて入れられたのならば、Kさんを内部に押し込んでから足元に投げ捨てるようなことはあっても、わざわざ手に持たせて入るよう強要はしないだろう。

地上で自ら脱いで、置き去りにはできずに持ち込んだ可能性もある。上で見たように侵入口は非常に狭く、侵入が困難だったために脱いだものかもしれない。

仮説として、1902年1月に起きた八甲田山雪中行軍遭難事件、1959年2月に起きたディアトロフ峠事件のごとく「矛盾脱衣」が生じたのではないかとする声もある。矛盾脱衣とは、極寒状態に長時間いることで体内で熱をつくろうとする代謝の働きが強まり、外気温と体感の温度差に大きなギャップが生じて「燃えるような暑さ」と錯覚を引き起こして脱衣する現象である(アドレナリン酸化物による幻覚作用、体温調節中枢の麻痺とされる場合もある)。

便槽内で脱げるスペースがあったのかは分からない。しかしKさんが24~26日にかけて存命だったとすれば、極寒状態に長時間身を置いて、槽内に溜まったアンモニアやメタンガス、暗所閉所による恐怖感、呼吸器圧迫による酸欠や昏睡などによって、脱衣に至るほどの著しい変調をきたしたとしてもあながち不思議ではないように思える。

 

■事件説

無論Kさんに「のぞき」などの性犯罪歴はなく、スカトロ趣味などにつながる性向も知られていない。だからこそ余計に「便槽でのぞき」という警察判断は彼をよく知る人々には受け入れがたかった。周囲からは到底そんなことをするとは考えられない「明るく真面目な」青年と映っていたのである。

1994年、Kさんの父親はフジテレビ系番組『超常現象を見た』に出演し、息子の怪死について真相究明の糸口を求めた。警察が「単独事故」と決着したこと、世間から「のぞき目的」扱いされた愛息の不名誉、無念の思いを晴らさんがためである。

番組内で霊能力者・木村藤子氏は「息子さんは殺されたんじゃないか」「詰め込んでぎゅうぎゅう詰めにしている姿が見えるから、これは違う場所で亡くなったんじゃないか」との霊視結果を示した。

番組後半でKさんの父親は、夜2時から2時半の決まった時間に「おやじッ、俺は何にもやってねぇんだ。悪いことなんてやってねぇ、おやじ分かるだろ」と亡き息子が夢枕に現れると語っている。

 

江戸川乱歩賞受賞のほか1980年『文藝春秋』8月号で近藤昭二とともに三億円事件モンタージュ偽造問題を指摘したことでも知られる推理作家・小林久三氏(上の番組テロップでは「久二」と表示されている)も出演しており、「悪戯心はあったと思う」「槽内の糞便でつるっと滑って身動きが取れなくなったんじゃないか」「警察の事故死という判断は間違ってないだろうと思う」と警察の見立てを追認している。

 

だが朝倉喬司氏の『都市伝説と犯罪 ——津山三十人殺しから秋葉原通り魔事件』(現代書館)では、Kさんの父親が青森県のさる有名な祈祷師を訪ねたエピソードが記されている。まだ何も言っていないのに、祈祷師の体を通して“おやじッ、俺は殺されたんだ、俺は殺された”というKさんの無念の声を聞かされたというのである。

本文に名前は載っていないが、その祈祷師こそ青森県むつ市を拠点として当時注目を集めていた木村氏そのひとではないかと思われる。上の番組だけを見ると、両者の関係は分かりづらいが「先生!」と呼ぶ熱のこもった父親の声には強い信頼関係が透けて見える。

木村氏は偶然キャスティングされた訳ではなく、番組制作サイドが他殺説を盛り上げるための演出意図があったと考えられる。

 

事件だとすると疑問になるのが、腕の擦り傷などのほか目立った外傷がなかった点である。集団リンチ等があれば上着の上からでも相応の打撲痕などは負うにちがいない。

たとえば刃物などで脅迫されて服を脱ぎ、槽内に入らされたにしても、Kさんとて言われるがまま「はい、わかりました」と全く無抵抗に入ったとは思えない。声を上げるなり、衣類に血痕や切り跡が残るなり、抵抗した痕跡が見当たらず、周囲で暮らしている教諭らも全く気付かなかったというのは奇妙としか言いようがない。

また他殺であれば、汲み取りで発覚するにせよ「マンホールの蓋」を閉じておくのが自然な流れに思える。それとも隠す意図はなく、早期に家主のAさんによって発見されることを狙ったものであろうか。だとすれば、俄然Aさんとの関係が深い人物が絡んでいた可能性が浮上する。

一部にはAさんが家を空けていた理由が明らかにされていないこと、すぐに警察へ通報せず同僚らを先に呼び出していることなどから、「遺体があることを知っていた」など殺害に協力していたのではないかとする見方もある。だが借り物とはいえ自宅を死体遺棄現場に提供する人間がどこにいるだろう。

都路村は殺人はおろか交通事故も年に数件という平和な村で、地元の駐在は事件捜査に不慣れだったと考えられる。便槽に人がいると聞いてすぐに不審死や事件性を疑わず、とにかく人手を集めて引っ張り出そうとした。そのため多くの村人が現場に出入りしており、適切な現場対応や指揮が取れていたとは言いがたい。三春署員が到着した時刻は19時前後としても、証拠保全や鑑識が機能しなかった可能性は大いにあるだろう。

 

■バリゾーゴン

もうひとつ「事件性」を感じさせる大きな要因の一つに、渡辺文樹監督の映画『バリゾーゴン』(1996)がある。

■映画のつくりについて

映画を見たことがない方でも、この強烈なメインビジュアルでご存知の方も多いのではないだろうか。事件を考える上で避けて通れないのが本作である。

映画パンフレット バリゾーゴン 渡邊文樹・監督

渡辺監督は「87年に『家庭教師』で衝撃的デビューを飾り、『島国根性』『ザザンボ』と過激な題材と大胆な手法で大きな反響を巻き起こしてきた」と評され、本作が4作目に当たる。

デビュー作『家庭教師』では、監督自身のキャリアを基に、問題児や落ちこぼれ、登校拒否児に対して暴力も辞さないやり方で人間関係を築き、ときに女生徒に恋をしたり教え子の母親と不倫する破天荒な家庭教師を自ら演じている。

2作目『島国根性』も家庭教師・教材販売を営む主人公が息子の片思いの相手である女子生徒と関係を持ち、それが相手の親に発覚して…というスキャンダラスな内容を踏襲している。

3作目『ザザンボ』は1976年実際に福島県で起きた少年の自殺をモチーフに、事件の背景をさぐり真実を追求しようとするドキュメント・タッチな内容だが、監督は少年に体罰を加えていた教師役としてストーリーテラーとなり少年の死の真相を突きとめようとする。

 

本作誕生のきっかけは地元・福島で映画を自主公開中にKさんの父親が訪れ、息子の変死と事件性を訴えたことによるものとされる。映画冒頭では「真相解明を求める人たちの協力によりつくられた」と銘打たれ、Kさんの両親と祖母、他にも勤務先の社長、Kさんと付き合いのあった元村会議員、村長や反原発派ら多くの人物が登場する。

内容の多くは監督が思い描く事件の再現ドラマだが、実在の人物とフィクションの人物のインタビュー場面、三春署、選挙関係者、村医、Aさんの勤め先や実家への突撃取材といった場面が度々挿入される。

たとえばKさんの父親のように顔が知られていれば、観客も「現実のKさんの父親」と認識できるが、ほとんどの登場人物が実在の人物か否かは不明である。また役者なのか制作に協力している一般人なのかも、巧妙な芝居なのか下手な演技なのか現実のドキュメンタリーなのかさえ見分けがつかない部分も多い。

フィクションとノンフィクションに明確な区別をつけず、意図的に混在させているように見える。ある意味で、どの場面、どの人物を「真実」と読み取るかは「観客任せ」に制作されているのである。

渡辺監督は誰かの役を演じている訳ではなく、真相解明を求める取材者、リポーターとしてフィルム内に登場する。相手に対して「俺が調べたところあんたの言ってることがおかしい」「〇〇はこう言ってる、あんたは嘘をついている」と独善的にも見える半ば言いがかりに近い取材攻勢をかける。

監督自身は調べがついているのかもしれないがどのような調べを重ねてきたのかは示されておらず、観客は監督の言葉が信憑性のあるものなのか見当がつかない

 

カメラを向けられて「止めろ撮るな」と抵抗する人々。私たちはかつてのワイドショーでカメラを退けようとしたり、怒鳴ったり、カメラマンに向けて水を撒いたりといった似たような態度を示す「犯人」たちの姿を数多く目にしている。さも取材に難色を示しているように、言いたくないことがあるかのように映し出されるが、突然職場に押しかけられて捲し立てながらカメラを向けられればだれでも同じ反応をする。

また顔出しせず「村長」や「Aさんの親」に取材を行う場面も存在する。素直に見ればさも実際に取材したかのように見えるが、顔も声も知らない相手の「顔を直接映さない」ことが真実の証明にはなりえない。断言はできないが、監督がメディアの常套手段を逆手にとって「ドキュメンタリーに見える」ように仕立てたシーンである可能性も否定できない。構成・演出はすっきりと見やすいものではなく、観客は114分の間、「だれが嘘をついているのか」「何を信じるべきか」といった観点に頭を悩ませる。

罵詈雑言のタイトルは、亡くなったKさんや遺族に浴びせられたものか、それとも観客を試し続けるような挑発的な作品にしたことで罵詈雑言を浴びることを覚悟して付されたものかは分からない。事実なのか、はたまたそれ自体も仕込みの演出だったのかは不明だが、全国各地の公民館や小ホールなどで自主公開された本作は不評と顰蹙を買ったとされる。

 

■映画の内容

物語の大まかな内容としては、いわゆる原発村で推進派村長を支持していた青年が、実在の福二原発でのトラブルと関係者の不審死や、ばらまき選挙の実態に触れて嫌気がさし、告発しようとしていたが村長陣営に勘付かれて殺害され、便槽に遺棄されたという流れである。警察の買収や村民への口止めについては村長陣営が取り仕切り、検死結果の捏造など背後には原発利権を握る国政代議士の関与を示唆している。

たしかに当時としては、電力会社とのパイプ役を担う大物国政議員、つながりのある行政首長らを通じて地方への「金の流れ」は裏に表にあったにはちがいない。村長選で買収紛いのやり方がまかり通る現実を目にした青年は、仕事に対する誇りや情熱を踏みにじられたように感じても不思議はない。だが自殺した東電の運転責任者とは異なり、Kさんは下請け孫請けの営業主任であり、告発する程の重要機密をつかんでいた証拠はない。

 

新聞記事では、死亡したKさん、現場となった女性教諭Aさんしか具体的な人物は登場していない。ワイドショーでも珍事件のような扱いで報じられたとされるが、当時の映像を今日では目にすることができないため、現在ネット上で語られる人間関係や背景は概ね本作に依拠したものと考えられる。映画でKさんの死に関する不審な点されている情報を確認しておきたい。

・Kさんは選挙前日の応援演説に呼ばれていたが、演説にはいかなかった。選挙に対する不満がある様子だった。

・職場では信頼されており、(反原発的な)偏ったことを言わない人物として原発関連の取材対応を任されていた。

・23日の送別会について出席者に確認すると、Kさんは「自分の車で帰った」「酔っていたので別の車に乗せてもらって帰った」とする食い違う証言があった。また送別会は「村長選の打ち上げ」だったとも噂される。

作中の再現シーンでは、送別会の席でKさんが選挙への不満や原発推進への不信感を顕わにしたことで青年会から集団暴行を受けたように描かれている。

・24日10時頃、父親がテレビを見ていた際に、ドアの向こうから「ちょっと行ってくる」とKさんの声を聞いた。はっきりKさんの姿を見た訳ではなく、普段Kさんは行き先を伝える習慣があった。

上のフジテレビ系番組では、Kさんの行方不明は「24日10時」ではなく「23日深夜」以降としている。

・Aさんはかねて嫌がらせ電話を受けており、相談を受けたKさんは犯人をほぼ特定していたとされる(映画では過去に性犯罪歴のある人物としてインタビューを受けている。「顔も見たことがない」とは言うものの「遠くから見て男が好きそうな体型だった」等と発言)。

朝倉氏の著書によれば、Aさんの婚約者とともに録音をとって三春署に提出したが捜査に動いてもらえなかったという。

・Aさんには同校教諭の婚約者(村長の選挙参謀Fの二男)がいたが、男性関係が多いと噂される人物だった。元村会議員なる人物いわく、AさんはKさんとも男女関係の噂があり、Kさんがのぞきに入る理由はないとしている。

Aさんに婚約者がいたこと、嫌がらせ電話を受けていてKさんと婚約者が犯人を突きとめようとしていたことは具体性があり、事実と考えられる。作中では触れられていないが、Aさんを巡ってKさんと婚約者がトラブルに発展した可能性なども勘繰ってしまう。

 

しかしAさんの男女関係の噂についてはやや疑問符が付く。Aさんは23歳であるから赴任して2年前後、村外から来て教員住宅に暮らしていた。4棟並んでいた教員住宅には他の女性教諭らが暮らしており、それとは別棟で校長の住居もすぐ近くに存在した。新任の教諭が短期間のうちに片や職場には婚約者がありながら、人目をはばからず村の男たちと情事に耽っていたとはいささか考えづらいのである。

想像にはなるが、村民からすればAさんはいわば余所者であり、事件後に「Kさんとも関係があったんでないか」「親元から離れて、若いから村中からチヤホヤされて浮かれてた部分もあったんでないか」と根も葉もない風説が流布した可能性もあるのではないか。

・遺体発見前日の27日に農協でKさんの車が発見される。車の発見者である農協職員が「気になることがある」と発言していたが、翌日確認すると「なかったことにしてくれ」と撤回。車体は斜めに停められており、普段は施錠する習慣があったが鍵は差しっぱなしの状態だった。

・家族がKさんの友人に連絡すると「自分たちで探すから今日一日待ってほしい」と通報を遅らせたいような発言をした。

選挙参謀H(村長の従兄弟)は、妻からKさんの遺体発見の連絡を受けた後も行方が分からないかのように振舞っていた。

選挙参謀Fの長男は、事業所が営業時間外にも関わらずバキュームカーを手配していた。

こうした事件後の村内の人々の動向についてはご遺族が集めた情報がベースになっていると考えられる。小さな村で地縁や血縁のあるご遺族では表沙汰にできずにいた様々な疑問や疑惑について、監督が代弁者として追及していったと捉えられる。

 

・もう片方の靴は「家の近くの土手に落ちていた」。

Kさんの父親が発言しているため、まるで遺体発見現場から7キロ以上離れた「Kさんの自宅付近の土手」で見つかったかのようにミスリードされがちだが、靴が発見されたのは「Aさんの家(教員住宅)の近くの土手」である。詳細な位置は不明だが、小学校と中学校の敷地の間に高低差があるため近辺だと推測される。他殺説の根拠として「片方の靴が脱げた状態で能動的に長距離移動するはずがない」「自宅付近で拉致された」といった発想につながりがちである。

 

・担当した医師は事件直後に34年間勤めていた監察医を辞めている。

上のフジテレビの番組によれば、当初解剖が行われなかったという。家族側で要望して解剖が行われ、結果は変わらず凍死とされた。

医師の年齢や村内の医療事情は不明だが、60歳定年制が一般的だった当時であればリタイアしても年齢だったのではないか。後継者や後任が決まっていれば、2月の事件後、3月を区切りとして退職しても不思議はない。

 

・その後Aさんの実家が新築された際、電力会社主宰のモデル住宅コンテストで県知事賞を受賞した。

監督は、電力会社からの「口止め」であったかのように追及している。

 

■映画の真意

監督の意図は何だったのかについて個人的な憶測を述べる。

ひとつの見方としては、上述の通り、Kさんの父親の「息子の無念を晴らしたい」という思いに突き動かされて、監督なりに「怪死」を事件として捉えた結果、「村長選挙」さらには「原発問題」といったテーマに行きついたとも考えられる。「事件」として捉えた場合、まず若者同士のいざこざ、三角関係のもつれといったことが思い浮かぶが、ジャーナリスト精神や反権力を志向する作家性の強い監督であるため、あえて「巨悪」を対立軸に挙げたとも考えられる。

また監督はそもそも一福島県民として「反原発」をテーマにした作品を描こうとしていたのかもしれない。山間の小さな村全体を覆う原発産業と政界の闇を炙り出すための切り口として青年の怪死をモチーフにしたようにも見える。皮肉なことに映画よりだいぶ後になるが「3・11」東日本大震災以降、それは日本全域が抱える問題として再注目されることになった。

実際、作中の再現シーンでは青年団に便槽に担ぎ込まれるだけで、「便槽内に閉じ込められた」かのようなシーンを描いてはいない。監督にとってはいかにして槽内で絶命したかは問題ではなく、「自ら便槽内で死んだ」かのように事実を捻じ曲げた「勢力」を問題視している。

権力によって閉じられた蓋を開くこと、声なき声を拾い世に問いただすことがジャーナリズムの使命である。監督が描いたように原発問題が青年の怪死の背景にあったか否かは別として、見る者を非常に刺激し、一度は決着したはずの「怪死の謎」を再び俎上に上げたことは間違いない。

 

■所感

私見では、青年の怪死は「未解決事件」ではなく「事故」だと確信している。

ひとつは、自分の意志で入ろうとしなければ服を抱えた姿勢は取れないこと。つまり槽内に入った時点でKさんは意識があったことが最大の証左である。口を塞がれていた痕跡はなく、呼ぼうと思えば助けを呼べたはずであり、Aさんは不在だったにせよ周囲の住民がだれ一人気付かないとは考えづらい。物理的に声を出すことができても「自ら助けを呼べない理由」があったのである。

 

さらに「他殺説」はその根拠の多くを『バリゾーゴン』に依拠していること。上述のように、映画は監督の一考察とでもいうべき体裁であり、反原発説を唱えるための情報を並べて物語を成している。すべての情報が「嘘」だとは思わないが、必ずしも出処は確かとはいえず、そのほとんどは「他殺説」を信じて疑わないKさんの父親による言説である。

筆者は、藁をもすがる思いで霊能力者に頼らざるを得ないKさんの父親の訴えを目にして悲哀と同情を禁じ得ない一方で、明らかに「冷静さを失っている」印象を強くした。冷酷に思われるやもしれないが、ただでさえ情報収集や捜査のプロではないご遺族が取り乱した心理状態では(たとえ本人が意図していなくとも)バイアスのかかった証言に傾く。素直に鵜呑みにはできないと感じてしまったのである。

 

そうしたご遺族を間近に見れば、親密なつながりのあった村の人々、Kさんと親交のあった人々は「いやいや、のぞきかもしれないぞ」等とは口が裂けても言えるはずがない。事件直後、周囲の人々はご遺族の無念を晴らすつもりで署名活動に尽力し、納得のいく決着を見ようとしたのである。しかし再捜査は行われず、ご遺族は無念をずっと抱えたまま、それどころか警察への不信感や他殺への疑念を一層強め、映画まで撮ったが再捜査の機運にはつながることなく、やがて失意のもと村を去った。

署名に賛同した人々の全員がKさんの知り合いという訳ではないだろう。「絶対にKさんはやっていない」「事件に巻き込まれたに違いない」といった確信よりは、ご遺族のショックを聞いて「励ましのエール」の気持ちとして協力を惜しまなかったのだと思う。青年の怪死を「事件」と結びつけたのは、山間の小村の「闇」などではなく、「父親の息子への思い」と、助け合って支え合って励まし合って生き抜こうとする「人々の思いやり」だったのだと私は思う。

 

亡くなられたKさんのご冥福と、ご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

 

桶川ストーカー殺人事件・ドラマ『ひまわり』感想

2003年12月テレビ朝日系列・土曜ワイド劇場枠で放映されたドラマ『ひまわり』の感想など記す。
原作は同系列の報道番組『ザ・スクープ』に出演していたジャーナリスト鳥越俊太郎・取材班らによる『桶川女子大生ストーカー殺人事件』で、冒頭にもご遺族への取材を基にした物語と表記されたノンフィクションドラマである。

桶川女子大生ストーカー殺人事件

本稿ではドラマでは省略された事件内容についても触れつつ振り返りたい。

■事件概要①出会い

1999年1月、埼玉県大宮市のゲームセンターで猪野詩織さん(21)が女友達と遊んでいると、自動車ディーラーと称する「誠」たちに声を掛けられ、2人はほどなく交際に発展した。
青年実業家らしく羽振りの良い「誠」はバッグや衣類などの高級ブランド品を次々に贈ろうとする。あまりに高額なプレゼントなので詩織さんが受け取りを拒もうとすると、人目もはばからず逆上して怒鳴り散らすなど暴力的な面を見せるようになった。
やがて「誠」が偽名であることや、暴力団員風の男たちと親しくしていることなど男の身辺に不信を抱き、交際に不安を募らせていく。

3月、詩織さんが「誠」のマンションに遊びに行くと、盗撮と思しきビデオカメラが仕掛けられているのを発見。問いただすと男は激怒して、「お前は黙って俺のいうことだけ聞いていればいいんだ」と拳で詩織さんの顔すれすれの壁を何度も殴りつけた。恐怖のあまり別れを切り出そうとすると「俺に逆らうのか」「これまでのプレゼント代100万円を払え」「払えなければ風俗で働け」と脅迫し、交際の継続を強要。以降、携帯電話による束縛や行動監視が激しくなる。
その後も万が一を思って秘かに遺書までしたためて別れを訴えた際、男は伝えていないはずの彼女の家族の身辺について語り始め、「親父をリストラさせてやる」「別れれば家族をめちゃめちゃにしてやる」と脅した。彼女の家族について秘かに調査させていたのである。家族への危害をおそれた詩織さんは男に土下座して許しを請うた。この時期、友人らに「殺されるかもしれない」と身の危険が差し迫っていることを相談していたが、4月半ばには友人との連絡を絶つため男に携帯電話を破壊させられている。

■出演キャストと時代背景

被害者・猪野詩織さん役を内山理名さん、「誠」を名乗った元交際相手・小松和人役を金子賢さんが演じている。細い吊眉で一見するとイマドキの女子大生ながらも奥手な性格だった詩織さん、優し気な笑顔の裏に凶暴性を併せ持つ小松和人ともに優れた配役だと感じた。
詩織さんは父親(渡瀬恒彦さん)、母親(戸田恵子さん)、弟らとも家族仲が良く、作中では演出だとは思うが小松の口から「きみはよく“お父さんの話”をする。ファザコンなんだ」とまで言わせている。この後、激化する小松のストーキングに対抗するために家族一丸となる描写は事実と思われ、父親を身近に感じていたからこそ却って交際関係を打ち明けられずにいた娘心が一層悔やまれる。父親もまた大学生の一人娘がバイトや交友で親離れしていく日々に成長の喜びと戸惑いが交差していたように感じられる。

また当時世間には90年代後半のいわゆるギャル文化や女子高生ブームの余韻があったことも、事件後の二次被害・三次被害に大きな影を落とす。後述するが「厚底ブーツにミニスカート」「ブランドバッグ」といった“ギャル(=派手な若い女性)”像が一般に浸透しており、恣意的なものか意図的なものか警察発表や一部報道は詩織さんをそうした文脈に当てはめて非難した。
男女の出会いの場面では「プリクラ」や「カラオケ」が象徴的に使われ、劇中では宇多田ヒカルの大ヒット曲『First Love』が使用されている。「携帯電話」はすでに広く普及した時代であり、NTTドコモの携帯電話インターネット「iモード」のサービスは(交際時期と重なる)99年1月からなので、いわゆる「出会い系」犯罪が流行する前夜にあたる時期であった。


■事件概要②脅迫と警察

6月、精神的圧迫や嫌がらせに疲弊しきっていた詩織さんは意を決して男に訣別を伝え、それまで隠してきた交際についても家族に打ち明けた。
その夜、「誠」は強面の男たちとともに猪野家に押し掛ける。強面のひとり(小松の兄。演じるのは宇梶剛士さん)が当惑する母娘に「おたくの娘と交際していた男がうちの会社の金を500万円横領して、その金で貢いでいた」「うちの社員(「誠」)が女のせいで精神的におかしくされて病院に通っている。誠意を見せろ」と凄んだ。1時間以上に渡って脅迫は続いたが、その日は父親が帰宅して「警察で話を聞こう」と反論し、押し問答の末にどうにか帰らせることができた。
「私が馬鹿だったの」泣きながら自分の愚かな交際を悔やむ娘。父親は警察への届出を決意する。

家族は所轄の埼玉県警上尾署に被害を訴え、詩織さんは男たちとの前夜のやりとりを録音したテープを持参して相談に臨み、「このままでは何をされるか分かりません」と窮状を訴えた。しかし署員は男女の色恋沙汰、民事不介入として「何かあったら来てください」と訴えを退ける。猪野家には連日連夜の無言電話が続いた。法律相談にも救いを求めたが「娘さんもプレゼントを貰っていい思いしたんでしょ」とぞんざいな扱いを受け、まともに取り合ってはもらえなかった。
小松からの嫌がらせの電話に「警察に相談している」と告げるとすぐに電話は切れた。その後、猪野家は電話番号を変えたがその2日後には新たな番号も知られてしまい電話は鳴り止まなかった。
翌週、父親は上尾署を訪れ、これまでの小松からの贈り物を全て送り返したことを報告した。後に、警察側はこの報告を「問題にすべて片が付いた」と曲解していたと説明する。
一方、6月後半のこの時期、小松から兄を通じて殺害の実行グループに詩織さん襲撃の依頼が行われていた。

■ストーカーと関連作品

「ストーカー、ストーキング」は行き過ぎた「つきまとい」のことを指し、アイドルや著名人の「追っかけ」行為を意味する言葉(ジョン・レノン事件など)で古くから心理学の分野で研究されていたが、独立して犯罪行為として認められるようになったのは比較的近年になってからである。
アメリカではリチャード・ファーレーによる女優レベッカ・シェイファー殺害事件を契機に1990年にカルフォルニア州で初のストーカー防止法が成立した。イギリスではつきまとい行為を規制する「嫌がらせ行為防止法」が97年に制定された。
日本でも90年代からそうした被害が問題視され始め、本件などを契機として2000年5月にストーカー規制法が成立した。

恐怖のメロディ (字幕版)
1971年公開のクリント・イーストウッドによる監督デビュー作『恐怖のメロディ』はストーカー概念が普及する以前にその恐怖が描かれた先進的な作品とされる。イーストウッド演じるラジオDJの熱烈なファンとして接近した女性が、勝手に合鍵をつくったり自殺未遂をしたりと異常性を見せ、彼の元交際相手ら周囲の人間に牙を向けるという内容である。

日本では1997年1月によみうりテレビ系列でドラマ『ストーカー 逃げきれぬ愛』が放映され、女性からの善意を自分への好意とはき違えた男性が異様な支配欲を見せていくというもので渡部篤郎の怪演でも話題となった。同クールにTBS系列で『ストーカー 誘う女』も放映されており、こちらは同じ会社の既婚男性に思いを募らせた女性社員が強引に肉体関係を迫り、想像妊娠して男性の家族に危害を及ぼすというドラマである。
国内でも偏執的な付きまとい行為に対しての「ストーカー」という言葉は次第に知られるようになったが、「恋愛関係のもつれ」に端を発するものと捉えられがちであった。

■事件概要③告訴

プレゼント返送以降、無言電話のみならず、自宅や大学などに誹謗中傷を書いたビラが貼られるなど嫌がらせはエスカレートを辿っていた。
7月、「被害」の事実をもってして一家は上尾署を訪れ、「告訴」を求めた。だが「裁判となれば嫁入り前の娘さんが辛い目に遭いますよ」「(大学の)試験が終わってからでもいいんじゃないですか」とすぐには取り合わず。
その間も「大人の男性募集中」と風俗広告の体裁で顔写真・電話番号入りのカードが配布され、インターネットへの同様のカキコミも行われており、知らない男たちから連絡が入ってくるようになった。7月末、上尾署はようやくビラによる「名誉棄損」の告訴状を受け取りはしたものの、「被疑者不明」として署員らの机を行きつ戻りつするばかりで捜査は放置されていた。

8月に入ると父親の勤め先と親会社宛に八百通もの中傷文が送りつけられた。大量の手紙の束を持参して捜査はどうなっているのかと迫ると、「いい紙使ってますね。郵送だから費用が掛かってますね」等と言ってはぐらかした。
8月末、告訴受理の決裁を出す立場にあった茂木邦英刑事生活安全担当次長は「告訴ではなく被害届でよかったのではないか」と担当署員を𠮟責した。未処理の告訴件数が増えると警察にとっては「成績の低下」を意味する。単なる被害届であれば県警への報告義務はなく、捜査を急ぐ必要がないためである。
とはいえ告訴を取り下げた場合「再告訴」はできない。にもかかわらず、9月に署員が猪野家を訪れ、犯人逮捕後に再告訴ができるかのように母親に説明して告訴の取り下げを要望した。母親は警察の要求には屈しなかったが、詩織さんは男が根回しして告訴取り下げを迫ったのではないか、警察は信用ならないと疑心暗鬼に陥っていった。その後も深夜に車での騒音被害など執拗な嫌がらせは延々と続けられた。家族は苦悶する彼女を支え、励まし、解決のために手を取り合うことを心に決める。
しかし10月26日、事件は起こってしまった。

■群馬一家三人殺害事件

1998年1月に群馬県群馬町(現高崎市)三ツ寺で発生した群馬一家三人殺害事件も規制法成立以前のストーカー犯罪であり、現在も犯人逮捕に至っていない未解決事件である。
youtu.be

元トラック運転手・小暮洋史(指名手配中)は配送先のドラッグストアに勤める女性に好意を抱き、顔を合わせるたびにデートに誘うようになる。女性が「車の運転が好き」と話したことを受けて、男は新車のスポーツカーを購入するほどの熱の入り様だった。職場で頻繁に顔を合わせなければならないため無碍にもできず、女性は根負けして一度だけ誘いに応じたことがあった。だが彼女には全くその気はなかった。
女性には正式な交際相手が居り、すでに親にも紹介していた。心配を掛けさせたくないため、家族には小暮の執拗な誘いについては相談していなかった。女性のつれない態度をよそに小暮の行動は次第にエスカレートし、車での執拗なつけ回しや自宅への無断訪問、嫌がらせの電話を繰り返した。
職場に相談すると、小暮と顔を合わさなくて済むように配送時の対応は他の同僚が代わる配慮が為され、店長からも小暮本人に彼女が怖がっていることを伝えた。協力の甲斐もあって一時は小暮のストーキングも鳴りを潜めた。

だが平穏も束の間、収まっていた無言電話は再開され、車に「2人で会いたい」旨の手紙が残されるようになる。交際相手はすぐに連絡が取れるよう彼女に携帯電話を持つように勧めた。
1998年1月4日、小暮は運送会社の掲示板に「辞めます」と書いて姿を消し、ドラッグストアにも姿を見せなくなった。安堵した女性は成人式を迎え、家族や交際相手から祝福を受けた。

1月14日、この日は母親の誕生日だった。21時頃に女性が花束を用意して帰宅すると、背後から小暮に襲われて玄関脇の和室へ連れ込まれ暴行を受けそうになった。2時間に及ぶ必死の説得の末、男の危害を免れることはできたが、その間も家族の気配がないことが気に掛かった。男に家族の安否を問いただすと「薬で眠らせている」と言い残し、車で立ち去った。
一緒に暮らしていた両親と祖母の3人は押入や浴室から変わり果てた姿で発見された。両親が勤めに出ている間、祖母が一人で在宅している隙に押し入って絞殺、その後、帰宅した父母も相次いで刺殺されたものとみられている。
家族を奪われた被害女性は「(小暮が)もう死んでいるかもしれないと思うこともある。だが生きているなら罪を償うべきだ」と現在も逮捕を願っている。

■事件概要④事件と報道

10月26日12時53分頃、通学途中だった詩織さんが桶川駅西口の商業施設マイン付近で自転車を降りた際、男にナイフで右わき腹と左胸部を刺された。病院に搬送されたが肺損傷の大量出血により間もなく死亡した。事情聴取の名目で両親は病院に駆けつけることも死に目に会うことも許されなかった。
その日行われた捜査本部による記者会見では、「捜査一課長代理ですから、厳しい質問のないようによろしくお願いします」と含み笑いを浮かべながら事件の説明を行った。
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男は逃走して発見に至らず、その間、マスコミは被害に遭った猪野家をスクラム取材の標的にした。当時、自宅の隣が空き地だったため事件から2か月以上に渡って「張り込み」が続けられていたという。大学受験を控えた長男、小学4年生の次男は学校にも通えず、買い物にも出られないため仕出し弁当で間に合わせていた。フジテレビは侵入取材を掛けようと「父親から許可を得ている」と葬儀場職員を騙そうとするなど手段を択ばず、火葬帰りにも取材陣が待ち受けていたため父親が身を挺して家族を家に帰さなければならなかったという。
www.nippon.com
それほど熱烈な取材の一方で、記事には被害者のプライベートに関する憶測があることないこと書き連ねられた。捜査本部が所持品について「厚底ブーツに黒のミニスカート」「リュックはプラダ」「時計はグッチ」などとわざわざブランド名を列挙するなど偏った情報の伝え方が拡大解釈され、被害者が「ブランド狂い」の遊び人のように書き立てられたのである。『FOCUS』記者だった清水潔氏によれば、数点のブランド小物を持っていたにすぎず、実物の見た目からおそらくは大事にしながら長く使い込んだもので、派手だったり身分不相応な印象はないとしている。
加害者の情報と関連付けて「キャバクラ嬢」「風俗店バイト」等とも書かれたが、風俗嬢などをしていた事実はない。「水商売をしていた」といった警察のリークも、友人に付き添いを頼み込まれて2週間スナックの手伝いをしたことはあったが、実情は酒の席にも付いておらず働いた分の給与すらも断っていた。
読者も書き手も年配男性が多い雑誌やスポーツ紙が「今どきの女子大生」像にかこつけて想像力を掻き立て、ワイドショーはそれを種にして「被害者の行動にも非がある」かのような論調をとった。警察はマスコミに撒き餌を与え、「元気で明るい家族思いな普通の女子大生」だった被害者を全くの別人に変えてしまった。
友人たちが彼女との思い出を偲んで現場に供えた写真をマスコミは勝手に持ち去って流した。鍋パーティーの楽しそうな様子を切り抜いて、放映時にはさも「遊び人」であるかのような印象操作に使われた。堪えきれず「被害者遺族の知人」を装って抗議の電話をしたこともあったが、局側はまともに取り合おうとはせず一方的に切られたという。

桶川ストーカー殺人事件―遺言―(新潮文庫)
清水氏は警察発表頼みにしない独自取材を重ね、詩織さんが友人たちに伝えていた「ストーカー被害」に丹念にアプローチを進めていた。ご両親は事件後マスコミへの不信感を募らせていたが、取材姿勢に信頼を寄せた詩織さんの友人は清水氏に会うように勧めた。
清水氏は詩織さんの遺言にあった元交際相手(小松和夫)が自動車ディーラーではなく、兄弟で池袋の違法風俗店を経営していたことを突きとめると、周辺人脈から実行犯の割り出しを進めた。12月、実行犯が逮捕され、依頼・仲介をした「誠」の兄・小松武史、中傷ビラなどに係わった面々も逮捕されたが、肝心の「誠」こと小松和人だけが逮捕を免れていた。
6月後半、2000万円で犯行グループに襲撃を依頼し、7月以降は約3か月沖縄で対立する風俗店への電話による嫌がらせ工作を仕掛けていたが、事件後はその行方をくらませていた。翌2000年1月16日、「名誉棄損容疑」による異例の指名手配が行われたが、27日、北海道屈斜路湖で水死体で発見された。着衣の乱れがないことや遺書、保険金等から警察は自殺と断定。被疑者死亡により起訴猶予処分とされている。

ドラマでは被疑者死亡のニュースを受けて茫然とする父親の姿が痛々しい。事件被害者遺族にとっては「犯人逮捕」「裁判による真相解明」「判決」といったひとつひとつが多大な負担を伴うものの事件を受け止める上では大切なステップなのだ。その主犯、核心たる小松の自死は「最大の目的」が永遠に果たされなくなったことを意味する。

「詩織は2度も3度も殺された。刺した犯人にだけじゃなく、捜査を放棄した警察やデマを流すマスコミにも殺された」

この切実な言葉の意味を警察やマスコミだけではなく私たちも胸に留めておかねばならない。

■事件概要⑤裁判

栃木リンチ殺人事件、新潟少女誘拐監禁事件など、当時は各地で警察による不祥事が取り沙汰されており、警察改革が強く求められていた時期でもあった。
『Focus』紙の清水記事以降、メディア側の風向きは変わりつつあった。報道番組『ザ・スクープ』ディレクターでAPF通信の山路徹氏らは県警への質問状を送り、鳥越俊太郎氏は3月に同番組での検証報道を開始した。放送前、鳥越氏がご両親に宛てた手紙には「男の蛮行を阻止できなかった警察については、このまま何も罰を下されることなく過ごさせる訳には参りません」と強い決意が記されていた。
参院予算委員会、埼玉県議会警察常任委員会でもこの問題は取り上げられ「告訴取り下げ要請」の有無が質問され、「ストーカー規制」に関する議員立法の準備が行われた。追及を受けた警察庁は「そのような誤解を与えるやりとりがあったかもしれないが、告訴取り下げを要請した事実はない」と答弁した。事件直後にも県警側からは「告訴取り下げ要請は“ニセ刑事”の仕業だ」と記者らへのリークが行われていた。

だが県警による内部調査を行った結果、遺族の言う警察の不誠実な対応があったことは大筋で事実と認められた。調書にあった「告訴」を「届出」に書き換えた上、事件後も捜査ミスを隠蔽するための改ざんがあった事実も確認された。西村浩司県警本部長は、猪野家に謝罪の訪問を行い「訴えを真摯に聞き、捜査が全うされていれば、このような結果は避けられた可能性もあると考えると痛恨の極みであります」と涙ながら述べた。
対応に当たった3署員が懲戒免職、幹部ら9人に減給などの処分が下る。9月には虚偽有印公文書作成、行使により3名に執行猶予3年の有罪判決が下された(上尾署元刑事第二課長片桐敏男・懲役1年6か月、同元係長古田裕一・懲役1年6か月、同元巡査長本田剛・懲役1年2か月)。
また余談にはなるが2000年10月7日、事件当時、生活安全担当次長だった茂木邦英警視の住むマンション玄関への放火事件が起きた。元上尾署員で本件の不祥事により左遷された巡査部長の逆恨みによる犯行であった。

事件から1年後の2000年10月26日、遺族は犯行グループ17人に対し、合わせて1億1000万円の損害賠償を求めてさいたま地裁に提訴した。後の刑事裁判で多くの者は服役するものとみられており、支払い能力があるとは思えなかった。しかし逮捕を免れ、刑事裁判で裁かれる機会さえない元交際相手・小松和人の責任を追及せずにはおけなかった。
2006年3月には小松が死亡前に掛けていた保険金の受取人でもあった小松の両親も含めて損害賠償を求め、合わせて1億566万円の支払いが命じられた。被告人側は、殺害は意図されていたものではなく拉致監禁して強姦・撮影するように依頼があった等の主張をしたが、依頼は殺害の結果を容認する含みをもたせた内容だったとして退けられた。
www.courts.go.jp
小松の遺書には「自分に対する疑いはすべて冤罪である」旨の記述もあったが、信用に足りないとして却下。殺害の依頼は小松による指示に基づいてなされたものと推認された。

殺人事件の裁判では、元風俗店店長で実行役となった久保田祥史は懲役18年、犯行グループの運転手役と見張り役はそれぞれ懲役15年、元交際相手の兄で襲撃の依頼・仲介をした主犯の小松武史は一審で無期懲役の判決を受けた。小松は控訴・上告したが棄却されて、2006年に無期懲役が確定した。
当時は被害者遺族に参加制度が認められていなかったため、加害者家族と同じ傍聴席に座った。詩織さんの母親は「全国犯罪被害者の会あすの会)」設立に参加し、被害者参加制度をはじめとする被害者・被害者遺族の権利確立の活動にも精力を注いだ。

2000年12月22日、被害者遺族は埼玉県を相手取り、県警による捜査放置に対する国家賠償請求訴訟を起こした。4月の内部調査報告を受けて県警本部長は謝罪していたが、裁判ではその態度を一変させて責任回避に終始した。「被害者家族に危機感はなかった。それほど危機感があれば友人や親戚に娘を預けるはずだが行っていない」と被害者側の非さえ訴えた。調査報告書についても、県警への批判の中でまとめられたもの、警察庁が書けというから書いたまでで現実的評価になっていないとして証拠価値を公に否認している。
2003年2月26日、さいたま地裁は県警の不誠実な対応、市民の期待と信頼を裏切ったことを批判した上で、計550万円の支払いを命じた。しかし適切な捜査が行われていたとしても犯行を断念させられたとはいえないとして、捜査怠慢と殺害との因果関係は認定されなかった。
ときに「死んだ娘で商売するなんて最低だ」と心ない非難を浴びせられることもあったと言い、娘の無念を晴らす思いはあっても警察相手に先の見えない係争を続けるのは並大抵のことではなかった。

■栃木リンチ事件との関連

同じ1999年に栃木で起きたリンチ殺人事件の遺族は、警察の怠慢に憤る詩織さんのご遺族の姿に意を決して、国家賠償請求の訴訟に踏み切った。両者は「警察の不誠実な対応」によって最悪の被害を招いた事件背景から互いの裁判を傍聴するなど交流を深めていた。

自動車工の青年(19)が行方不明となり、各方面に多額の借金を繰り返していたことから青年の両親が事件性を疑って栃木県警石橋署はじめ各署に捜査を要望していた。しかし警察側は「仲間と一緒に遊んでいるのだろう」「警察は事件にならないと動かないんだよ」と取り合おうとはしなかった。その間、約2か月に渡って犯人グループ4人により青年は壮絶なリンチ被害に遭い、遊興費のために多額の借金をさせられた挙句、警察の捜査を懸念して殺害された事件である。

2006年4月、宇都宮地裁は県警の捜査怠慢と殺害の因果関係を認定し、署員ら被告側の供述を全く信用ならないとして退ける。県警側は「不明者側から捜索願の取り下げがあった」、対応に不備はなく「事件を予見できなかった」等と説明した。
警察側の責任を全面的に認める画期的な判決を受けて、取材に応じた詩織さんの母親は「ちゃんとした判決を出せる裁判長もいることを娘に報告したい」とその報告に励まされ、きたる上告審での最高裁判決に期待をにじませた。

しかし同06年8月、桶川事件の国賠訴訟は上告棄却。
さらに2007年3月、栃木リンチ事件でも東京地裁富越和厚裁判長は「県警の怠慢がなくても、被害者を救出できた可能性は3割程度」として賠償額を大幅に減額し、被害者側にも責任があるとの見方を示した。
2009年3月、最高裁は上告を棄却し、2審判決が確定。
「ちゃんとした判決」は砂上の楼閣のごとく崩れ去った。

■その後

2000年5月18日、詩織さんが生きていれば22歳の誕生日となるはずだったその日にストーカー規制法が成立した(11月24日施行)。それまで個別の微罪に当てはめざるを得ず、対応に苦慮された付きまとい事案だったが現在ではストーカー対応の専門部署ができるまでになっている。
付きまといや待ち伏せ行為、交際の強要だけでなく、インターネット上での名誉棄損、リベンジポルノ規制、GPS機器による不当な位置情報の確認など規制は以前より強化されてはいるが、この10年の相談件数は年間およそ2万件前後の横ばい状態が続いている。相談窓口や支援団体も増えてはいるが、ストーカー被害者は減っていないのが現状である。
www.npa.go.jp
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また2000年に行われた警察刷新会議では「民事不介入」の名目によって怠慢とみなされる対応が横行している状況を踏まえ、原則にとらわれなすぎないよう提言が為されている。現在では、夫婦の痴話げんかでも通報があれば駆けつける、と語る警察官もおり、対応変化の表れなのか、DV相談件数は年々増加傾向にあり2021年で8万3000人を突破している。

2001年正月、一通のはがきが猪野家に届けられた。はっきりとした平仮名で「いのしおり より」と書かれていた。

「2001ねんのわたしはどんなひとになっているかな。すてきなおねえさんになっているかな。こいびとはいるかな。たのしみです」

1985年に家族で訪れた「つくば科学万博」でポストカプセルに投函した7歳の詩織さんが21世紀の自分に宛てて書いた手紙だった。両親は涙を堪えきれなかった。

裁判が終わっても詩織さんは戻らない。しかし家族は悲嘆にくれるばかりではいられなかった。相次ぐストーカー事件や絶えない報道被害を憂慮して各地で講演活動を行い、ストーカー規制法改正の検討会にも参加して同様の悲劇をなくすために尽力した。制度や組織、社会のあり方を動かしていくことで再発防止に取り組んできたのである。
2019年には京都府警で講演を行い、「呼ばれれば埼玉県警にも行く」と強い思いを示した。2020年には詩織さんの母校で「現代ジャーナリズム論」のゲスト講師として招聘され、「生命の大切さを一番に考えてください」と学生たちに語った。

ドラマのタイトルとなった「ひまわり」は詩織さんが子どもの頃から大好きな花だった。彼女の遺影の額はたくさんのひまわりで縁取られている。その花が決して色褪せることのないように、私たちは事件から学び、成長していかなくてはいけない。

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西浦和也『獄の墓』書き起こし

MUGENJU CHANNEL 月刊怖い話PV獄の墓


こういう話をやっていると、いろんなことが起きるというのはありまして。皆さんもご存知の通り、身内を亡くすということもよくある訳です。
“獄の墓”という話、皆さんもご存知のやつ、があると思うのですけど、これ、なかなかね、全部ちゃんと話す機会というのがないので、ここでしばらくぶりにちゃんと話してみようかな、と思ってます。





そもそものはじまりというのが、僕が高校生に上がったころから始まってまして。
中学の頃からオカルトが大好きで、友達とかともつるんでんでいたのですけれども。高校に入って、家から近い高校ではあったんですけれども、残念ながらその中学時代のオカルト仲間がだれも同じ高校に来なかったものですから、一人どうしたらいいんだろうなー、みたいなことを思っていたんですね。何することもなく、中学生時代はバスケットとかをずーっとやっていて、結構まぁ強くて、高校来るときにもスカウトとかも来たんですが、なんかそこまで本気になる気がなくて、高校に入っても別にバスケをあんまりやる気もなく、何をやりたいのかもわからず…みたいな状態のときに、フラ〜ッと入ったのが“生徒会”だったんですよ。
生徒会で、後に文化祭実行委員会に入るんですけども、そこでたまたま一つ上の“先輩”に出会うんですね。この方が非常にオカルト大好きな先輩で。僕のことをよく引きずりまわしては、「ここはなぁ、ここらへんの地元では怖いとこなんだよ」「ここほら、ここの看板があるだろ、ここはなぁ幽霊が出るって意味なんだよ」とかって色々連れまわしてくれる訳ですよ。僕も自転車でくっついてっては、ああそうなんですね、こうなんですね、っていうので、結構学校の七不思議とか学校の周りとかっていうのを回っていたんですね。



まぁ、思い出深いのは何個かあって、文化祭直前のときに、その方と…先輩と2人で…ここでは仮に、ハンドルネームで“月夜野さん”と呼びましょうか。
月夜野さんと一緒に泊りこんで、学校の文化祭の準備をしていたときに、トイレが校舎内のは使えないんですよ、鍵閉められちゃうから。なので、体育館の脇にある、外からも入れるトイレってのがある訳ですよね。そこに、夜になるとみんなツッカケ履いて行く訳です。
僕と月夜野さんが2人で、ずーっと歩いてトイレの方に向かって行く。トイレの方に行くには体育館の脇を通っていく。
ずっと歩いていくと、体育館の中から
(ド〜ンド〜ン、ドンドン、ド〜ン、ド〜ン…)
太鼓のような音がするんですよ。それも、一定のリズムとかじゃなくて、不規則に鳴る訳です。
(ド〜ンド〜ン、ドンドン、ド〜ン、ドーン)
(なんだろう?)
僕らは実行委員ですから、今、機材が何が入っているか大体分かる訳です。吹奏楽部が明日朝一で練習するので、吹奏楽部の楽器が入っているのが分かっている。言い換えれば、結構“金目のもの”が中に入っている訳ですよ。
(だれか、中に入っているのかな?)
慌てて、僕ら、トイレもそこそこに、体育館の扉をガチャガチャガチャ、ガチャガチャガチャと調べるんですけど、全部中から鍵掛かってるんですね。一応、普通の鉄扉の他に入れるところと言ったら、上の窓を開けて入るとかもあるんですけど、そこも閉まってる。体育教官室ってのがあって、そこの鍵を開けて入ることもできるんだけど、そこも閉まっている。
でも中からは相変わらず(ド〜ンド〜ン、ドンドン、ド〜ン…)と音がする。
(なんだろう?)
とりあえず、ずっとだれか見てよう、てことで、僕と月夜野さんと、あともう一人くらいかな、交代で、体育館の辺りからだれか出てこないかと見張っていた。ちょっと距離離れてるからそんなに音は大きくは聞こえないんですけれど、遠くから(ド〜ン…ド〜ン、ドンドン、ド〜ン…)て音がする。

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だんだん明るくなるにつれ、音が聞こえてこなくなる。
当然、機械警備ってのが入ってるので、人が入っていればセンサーが鳴るはずなので、おかしいね、おかしいね、って言いながらずっと待ってた。
朝になって、7時くらいになって、体育の先生が一人、近くの先生がやってきて。
「先生!先生!ごめんなさい、今、朝方までだれか体育館の中でずっと太鼓の音みたいのがしてたんで、誰か入ってるかもしれない」
「え!なんで連絡しないんだ!」
「いや、連絡先知らないから先生!」
じゃぁ、ってことで先生とついて中に入って。
もちろん中も全部カギが閉まっている訳です。
音は、もうしていない。
みんなでわーって中に入って、見てったら、ステージの上のところに吹奏楽部の楽器が全部並べてある。見たら、そこに大きいティンパニーが置いてあるんです。ほかに太鼓はない。
あれだよ!鳴ってたの、ティンパニーだよ、きっと。と言って、たたたたっと行ってステージに上がってバッと見た。ティンパニーの上には、分厚い布が被せてあるんですよ、音鳴らないように。上から叩いてもボコ、ボコしかいわないで、ド〜ンド〜ンなんて鳴らない。
何が鳴ってたんだろうって話になって、怖いねぇ…と。



そんなような体育館絡みで怖いことが、何回か毎年起きてたんですね。
僕もそうやって月夜野さんと一緒に「ここも怖いよね」「なんかあるよね」「だって他の子たちは、体育館の上のバルコニーをだれか走ってる、って話してましたよね」とかって話をしてた。
学校のできたときの何かないのかな、って話をしているうちに、月夜野さんが
「ここは元は田圃だからそんな怖くないんだけど。俺が通ってた小学校って、すげー怖いんだぜ」って言う。
「なんすか?」って言ったら、
「実はさ、うちのそばって旧中山道のそばじゃん。昔はな、街道の大きい宿場町の手前とかって、必ず処刑場があったんだよ。ここも多分じゃなくて、大きい宿場町の手前に、結構有名な処刑場があった。そこで処刑はするんだけど、晒すのはそこじゃない。街道筋の途中に晒したりするお仕置き場が別にあって、そこで晒すんだよ。それがどうも小学校の場所で、昔はそこで晒してたっていう記録があるんだよね。
「そうなんすか!」
「子どもの頃とかってさ、校舎の窓を見ていると廊下のところを金髪の首が飛んでいくのが見えた。はじめ女の子かなと思っていたけど、それ生首なんだよ。あとさ、音楽室とかだと、手が机の上に這ってるのを見た、とか、階段の途中で、はだしの足が上っていくのが見えた、とか、結構多かったんだぜ。しかも不思議なことにやっぱり“切り刻んだあとのものを晒す場所”だろ?だから、全部“部品”しか出てこない。手だけ、足だけ、首だけ、っていうものしかなくてさ。結構子どもの頃から幽霊で有名でさ。お前ほら俺んちよく寄るじゃん、あそこだよ!」
「ええ!あそこですか」
「んん、あそこだよ」
「ぼくね、こないだ、女の子を送ってくときに先輩ん家の前でしばらく喋ってたんですよ。ほら、あそこ、坂の下だから学校見上げる感じじゃないですか、すぐ横、学校で。
そしたら彼女が突然「綺麗な花ね」って言いだしたんですよ。でも文化祭の準備中、つまり秋口ですよ。花なんか咲く訳ないじゃないですか。何言ってんだろう、と思ってふっと見たら、木のところに白い花が沢山咲いてる。
(ああ、本当だ。花だ)
咲いてる花は、風にそよぐように、ふらふら揺れてるんですよ。ああ、きれいだね、とか言って、よく見てみたら違うんですよ、それ。花じゃない。校舎の窓ガラスに張り付いた“手首”なんです。ガラスいっぱいに張り付いた手首がもぞもぞしてるのが、手前の木を越して見えてるんです。2人でびっくりして逃げたばっかりなんですよ」
「だろ?あそこそんなんばっかりなんだよ」っていう話を高校時代にされたんですね。





昔のことですから、卒業しちゃうと、連絡つかないわけですよ。つまり卒業名簿くらいしかなくて。でも大体卒業すると、専門学校に通うからって下宿して実家出ちゃうとか、すぐに就職しちゃって別のところに住み始めちゃうとかってあるんで、今みたいにケータイがあったり、インターネットがあれば、すぐに検索したり、昔のつながりで、“今どーしてる?なう”みたいなこともできるんですけど。昔はできないので、卒業しちゃうとそれっきりになっちゃう、ってことが結構多かったわけですね。



案の定、僕と先輩も卒業してからしばらくは連絡とり合ってたんですけれども、僕も1年遅れで卒業して、専門学校に通って、就職してって流れの中で、
先輩も先に専門学校卒業して、就職して、結婚してって流れの中で、結局とうとう連絡が取れなくなった。
もう30歳になってからですよ、僕がインターネットとかで怪談を発表して、少しずつやり取りをし始めたりしたときに、突然メールが来て。
「おお、シンヤか!」って。僕(西浦和)、本名シンヤって言うんで。
「久しぶりだな。お前いま何してるの」って。
「ゲームメーカーで働きながら、こんなことしてるんですよ・・・」
「ああ、そうなんだ、俺いま結婚してさ、子どもがいてさ、こんなことやってんだ・・・お前相変わらず幽霊好きだなぁ」
「いやぁ、先輩も好きそうですね」
「いや、俺もいま集めててさ。結婚してね、子どもが生まれてひと段落するまではそんなことできなかったんだけど。子どもが上の子6歳下の子3歳になったんで、まぁ、ようやく自分の時間みたいなのができるようになったから、始めてんだよね、またね」
「今丁度僕イベントとかにレギュラーでずっと出てるんで、今度またやるんで、来てもらえませんか」
「おおいいよ、いくいく」という訳で来てもらったんですね。
僕らがロフト+1てトコでイベントをやってるのに来てもらって、見てもらった。
終わった後に「先輩どうでしたか」って聞いたら「面白いな、お前面白いのやってんだな」と。
「たまたま今こんなことやってるんですけど非常に面白いんですよ。先輩もどうですか、今度ゲストとかできませんか」
「そうだなぁ、面白いんだったらやりたいなぁ」



で、何度か来てもらっているうちに、「次回やりたい」と。
「ああそうですか、じゃぁちょっと紹介しますから、最後壇上上がってください」というのでイベントの最後に、
「今日たまたま次回のゲストの方、月夜野さんが来ていただいてるんでちょっと上がってもらいます。ぼくの先輩で・・・」みたいな紹介したあと、
「次回ゲスト来ていただけますか」
「おう、お願いします」
「どんなのやれます?」って聞いたら「実は今、地元のことを調べてて、その話をやりたいなぁと思ってるんだよ」
「ああ、そうなんですか。そういえば先輩のとこの家のそばって、処刑場があったり、晒し場があったり、不思議でしたよね。ぼくもあそこでこんなことがあって…花みたいなの見たこともありましたし」
「そうそうそう、それなんだよ。実は・・・」って言いながらごそごそッてカバンの中から取り出したのがいちまいの古地図なんです。
で、その古地図には、旧中山道が書いてあって、あと川が書いてあって、線が何本か引いてあって…
昔の本当ザクっとした地図なんで、縮尺とか何も関係ないし、辻堂の曲がり角んとこにも“お地蔵様”とかって、今じゃ分からない目印が書いてあるんですね。川も“何川”と書いてあるのとは違って、ただ単に線が引いてあって“川”って書いてあるだけなんですね。
「この地図が図書館で手に入ったんだけど、これ見てくれると分かるんだけどさ、ここに川があるだろ、川のここに、な、“獄の墓”って書いてある」
地獄の“獄”と書いて、“獄の墓”。
「これなんですか?晒し場のことですか?」
「ちがうんだよ。これ地図で言うと、学校がここらへんだから違うんだよ。多分俺はな、獄の墓っていうのは、処刑しました、で、処刑した時に、首とかは晒したりするし、場合によっては京都に運んだりするわけ。でも胴体とかさ、いらない部分ていうのはわざわざ埋めたりするのは面倒くさいだろ?大概川沿いに捨てたりとか、川っぺりに軽く簡単に埋めたりとかするんだよ。多分俺はそういうんじゃないかなと思う」
「そうなんですか」
「たださ、今これがどこなのかが分からないんだよ。大概の場所っていうのは、そういう場所がありましたっていう記録が残ってるんだけど、これは残ってないから、これを今調べてるから、次回のイベントでやりたい」お客さんもああ面白い、お願いしますって話になって。
「次回12月14日のイベント、月夜野さん、よろしくお願いします」って言って終わるんですね。





しばらくして、月夜野さんの方から連絡があった。
「もしもし、シンヤ?」
「おお、どうもどうも」
「あのさ、、、ちょっとさ、、、ネタ替えたいんだよな」っていう風に言うんですよ。
「え、どうしたんですか。“獄の墓”見つからないんですか」
「いや、そういうことじゃないんだけど、、、ちょっと、嫌なことがあってさ」
「何があったんすか」
「こないださ、かみさんと子ども連れて、ファミレス行ったんだよ。ご飯を食べていたら、3歳の娘がさ、窓の外見てさ「ブドー、ブドー」って指さす。え、何処?って言うと、自分の車の方を指して「ブドー、ブドー」って言う。見てもないんだよ、そんなの。えー?って言ってると、上の6歳の長男も「パパ、ブドー!ブドー!ブドーが浮いてる」と窓の方を見つめる。えーっ?て言って、同じように車の方さしてるんだけど何もない。ブドーって食べるやつか?って聞くと、そう、ブドーっていう」見るんだけど分からない。
(なんだろうな?)
そのうちに家にいるときも、ときどき娘が「ブドー」、窓の外見て、「ママ、ブドー」とかって言う。
それからも母親と外で歩いていても「ママ、うしろからブドーきてるよ」
何か気持ち悪いこと言うな、この子たちと思っていたとき、家に帰って、仕事終わって、ああ、疲れた、と思って、自分の書斎に入ったら、いつも閉まっているはずの書斎の戸が開いてるんですよ。
(あれ?おかしい)
中に行くと、6歳の子が部屋の真ん中に座って、机の引き出しのものを全部広げて見てるんです。
「こら、なにやってんだ。お父さんの部屋入っちゃダメだって言ったじゃないか。しかもお父さんの机の中から色々出しちゃって」
「ちがうよ」
「お前じゃなきゃ入らないし、こんなんならないだろ」
「入るときからこうなってたよ!カギ開いてたもん」
「そんなはずないだろう」
「ちがうほんとだって。こうなってたんだもん!」
あんまり言うんで「じゃぁさっさと出なさい」
出ようとしたとき、「あっ、パパ。これ、ブドーだからね」って言う。

床に散らばってる資料の中の一枚、明治時代の初期に撮られた絵葉書があるんですね。これってお土産物用に、海外に輸出用につくられたやつで、モノクロ写真で写真を撮って、手で色を塗って、絵葉書として配るって中に、日本の資料としてなのかどうか分からないんですけど、その中に処刑場を撮ったものがあるんですよ。その一枚って言うのが、例の、彼の小学校の、お仕置き場の、晒し場の写真だったんですよ。
それは門の前に門番が立っているんですけど。ちょっとしたベストみたいな着物を着てふんどし一丁なんですね。その脇に平台があって、平台の上に生首が並んでるんですけど。その生首が、手前に1こ・2こ・3こ、つまり逆三角形に、ちょうどブドウのかたちのように、生首が並べてある写真なんです。

〇〇〇
 〇〇
  〇

「パパ、これがブドーだからね」



「シンヤさぁ、俺それ聞いたときにゾッとしちゃってさ。それ調べちゃまずいのかなと思って、ネタ替えていいかって聞いたんだよ」
「それは、さすがにまずいっすよね。いいですよ、ちょっと変えたってお客さん怒る訳じゃないから。やめときましょう、今回は」
「そうだよな・・・」ということで止めることになった。





いよいよイベントが近づいて、イベントまであと2日。明後日の夜12時からイベント。大体その時のイベントってのは夜の12時スタートで朝6時に終わるみたいな、ちょっとイカれた時間帯のイベントなんですけど、その前々日の夜に電話がきました。

「シンヤ、シンヤ、明後日の夜12時だよな」
「はい、正確に言うと明後日の24時からです」
「じゃぁ、その時間までに行けばいいんだよね」
「そうです。先輩、やるネタは決まったんですか」って聞いたら、
「んん、“獄の墓”をやることにしたよ」
「ええ?だって、あんなことがあったばっかりじゃないですか。ちょっとまずいんじゃないですか」
「うん、いいんだよ。大体の場所も分かったし。これ一発やったら俺終わりにするから、これ一回だけやる。大体の場所も分かった。結構すごい場所で、これは!と思うような場所」
「そうなんですか。先輩、どこなんですか」って聞いたら、
「それは、お前にだって教えらんねぇわ。当日になったら教えてやるから、楽しみにしとけよ」と言われて、「分かりました」と電話を切った。





翌日、いつもの通り仕事をしていたら、電話が鳴ったんです。
「はい、もしもし」と電話に出たら、
「あの・・・月夜野の家内ですが、今お時間ありますか」
「はい、どうしたんすか」
「ちょっと主人が倒れたので・・・申し訳ないんですけど、こちらに来てもらえますか」
「今日、出張中なんで戻らないんですよ。今晩はちょっと戻れないので、明日朝一で行きますよ」
「申し訳ないです。どこどこにあるなんて言う病院なんで、そこまで来てもらえますか」って言って、電話を切る。

翌日になって朝一で都内に戻る。
奥さんに電話して
「病院の近くまで来てるんですけど、病室は何号室ですか」と聞こうとすると、
「ごめんなさい、申し訳ないです。もう病院にはいないんですよ」
「ああ、退院されたんですか」
「いま葬祭場の方に運んでるんです」
「ええ!?」
「昨日あのまま亡くなりまして。今夜お通夜なんです」

慌ててその足で斎場に行くと、もう棺に入って、祭壇が組まれている状態。
「どうしたんですか」って聞いたら、
「実は、朝方倒れまして。突然家の中でばたっと倒れて。救急車を呼んで病院まで私付き添って行ったんです。原因が分からないんで色々と処置して、MRIを撮るってストレッチャーで運ばれてる時に、私をわざわざ呼び止めて、シンヤに伝えなくてはいけないことがあるから連絡を取ってくれ、と言ったんです。それで昨日、電話させていただいたんです。それが、最期の言葉だったんですよ」って言う。
「大体、私、何のことか知ってます」



その夜、知り合いに連絡をしてお通夜に行って、その足で12時からのイベントに行って。
「実は、今日のゲストの方が亡くなりになりました…皆さん、黙とうをお願いします…」ということで、黙とうしまして。
翌日、告別式にそのまままた行きました。告別式に行って、すっと見てるうちに段々僕もつらくなってきまして、で、もう焼き場に入るのが耐えられなくて、焼く前に帰ろうと思いまして帰ろうとしていたら奥さんに呼び止められまして。

西浦和さん。あの人が何を調べていて、何を発表しようとしていたのか、私は知ってましたし、止められなかったです。ただ今、子どもたちにこれ以上災いが来るのは嫌なので、あの人が持ってた資料、ブドーの映った写真なんかを、全部貰っていただけますか」と紙袋で渡されました。
断れないですよ。
それを受け取って、僕は葬儀場を後にします。



でも、さすがに家に持って帰る勇気はなくて、当時、和光市の方に大きなレンタルのコンテナを僕借りてまして、そこに入れて、そのまんま蓋を閉めて帰ってきました。
その後、そこのおうちのお子さんたちは無事に元気に育って、大きくなられまして。もうあれから10…13年、14年経ちまして、みなさん元気ですけども。
僕の方は資料を何度か見ることになってしまいまして。というのも、倉庫がなくなるので移動してください、ということがあって、持ち帰った時に引っくり返しまして、中味が見えてしまったんですね。十何年ていう歳月は、僕にも多少の知識を与えてくれたので、その場所が、僕も見えてしまいました。つまり、月夜野さんがたどり着いた“答え”に僕もたどり着いたわけですね。

まぁ、ひどい場所です。ちょっと口に出すと騒ぎなるような場所だったりするのでなかなか言えないですけども。今は大きな施設になっている場所、だったりします。
それを調べに行ったときに、目から血を出したとかっていうトラブルがあったので、もう僕自身はそこには触れようとは思っていないのですが、そういう場所って言うのがあったっていうのが。
怪奇とか心霊って言うのは、すごく面白いし興味も湧かせてくれるんですけれども、たまに掘ってはいけない場所とか知っちゃいけないことっていうのがあるんですよね。
ビリビリくるとか、コレは悪いっていう感覚は、そのときに初めて分かった気がするんですが、触れなきゃいけない商売ではあるんですけれども、触れる怖さというのを改めて知った事件だと思います。

なぜこの話を僕が今してるかと言うと、月夜野さんの活躍とか、この月夜野さんがやってきたこと、というのを僕が語らないと、月夜野さんを知る人がいなくなってしまうということもあって、こうやって彼のことも含めて語っているような状態です。
ネットでは、場所はどこだとかっていうのは書かれていますが、言わないようにしています。皆さんもあまり深入りしないようにしてください。<了>