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気になる事件と考えごと

友部小学校女性教諭殺人事件

茨城県友部町(現在の笠間市)で起きた女性教諭殺害事件について記す。

朝日新聞記者、テレビ朝日報道局次長などを歴任し後にノンフィクション作家となった足立東氏による『逆転無罪 友部小学校女教諭殺人事件の真相』(日本評論社)に依拠する。

逆転無罪―友部小学校女教諭殺人事件の真相

 

教室の遺体

1964(昭和39)年11月30日(月)7時40分頃、茨城県西茨城郡友部町の友部小学校6年4組の教室で女性教諭の遺体が見つかった。

第一発見者はクラスで最初に登校してきたMくんで、宿直明けだった6年3組担任の福本一夫教諭(32歳)に「女の人が倒れている」と異変を知らせた。遺体は鼻から血を流し、顔はむくんで変貌していたが、同年春に赴任した6年4組担任の綿引俊子教諭(38歳)であった。即座に登校してきた生徒たちの入室は禁じられ、笠間署に通報された。

 

遺体は4組教室の廊下に近い机と机の間に仰向けに倒れていた。男性教員1名が宿直として泊まり込むことになっており、福本教諭も夜と早朝に定期巡回していたが、廊下を見回るだけで各教室内までは目を凝らしておらず、廊下からは死角で異変に気づいていなかった。

8時10分過ぎに校医が到着して検案したが、その場で死亡が確認された。右足にかなりの硬直が見られ、下顎付近と左頬につねったような紫色の斑点が確認された。校医の第一印象では、扼殺(手による絞殺)もしくは脳内出血かと目された。死体検案書には、死因を外力による脳部圧迫症、死亡推定時刻を29日午前9時と記入された。

8時40分には笠間署から「他殺体とみられる不審死」として県警本部に報がもたらされた。9時過ぎには県警捜査一課、鑑識課、水戸地検検事らも現地入りし、殺人事件と断定され、最寄り派出所に捜査本部が設置される。

 

地理など

友部町は県庁所在地の水戸から西へ約15キロ、1955年に周辺町村が合併してできた歴史の浅い町で、2006年に笠間市と合併してその町名は消えた。「友部」の名称は1895年(明治28年)に日本鉄道水戸線の駅設置の際に付近の村落の呼称に由来し、その駅名から町名へと採用された。

遺体発見現場となった学校は友部駅から南に延びる目抜き通りの商店街を抜けて200mほどの場所にあり、周辺は住宅や商店に囲まれている。当時は児童数891人で各学年は3~4クラス、教職員は校長の他、男性教諭9・女性教諭17の計27名とそのほか用務員、給食婦ら5名が勤めていた。

校舎は当時とは別の場所に移転し、かつての面影は児童公園に残された僅かな桜の木だけとなっている。下のリンク先・友部小HPでは在りし日の旧校舎の面影を垣間見られる。

概要・沿革 | 友部小学校公式ホームページ

下は1960年代の国土地理院航空写真で、北に列車切り替えし用の扇状の線路が見られる付近が友部駅、中央「+」印が小学校である。駅南や小学校周辺は住宅や店が密集しているが、周縁には田園地帯が広がっている。

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逆さ「コ」の字型に見えるのが小学校校舎  [国土地理院地図]

 

現場と遺体の状況

遺体発見直後から校内は登校時刻を迎えて俄かに慌ただしくなり、警察の到着で物々しさを増した。

綿引教諭はこれまで休日出勤をしたことはなく、当初は30日早朝に出勤して亡くなったものと早合点していた。それというのも出退勤の状況を表す「木札」が被害者の分も出勤中を示す青札に切り替えられており、出勤簿には発見当日の「30日(月)」の欄に押印してあったためである。

たとえば押印だけならば、手間を省くために本人が事前にまとめて押していた可能性も否定できなくはないが、木札まで裏返されていたとなると犯人による捜査かく乱の隠蔽工作が疑われてくる。

また職員用下駄箱には被害者の内履き用サンダルが残っており、新校舎の通称「丸窓玄関」の児童用下足箱の上から焦げ茶色のハイヒールが見つかった。元々は4年生女子の下駄箱に入れられていたのを、登校してきた生徒が不審に思って棚の上部に移したものと分かった。被害者の外靴と断定されたが、綿引教諭が普段その昇降口から出入りすることはなかった。

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西側は職員・来賓用玄関、旧校舎と新校舎には児童用昇降口がそれぞれあった。

校舎は平屋建てで、北側校舎に1~3年生教室、西側校舎に職員室や特別教室、6年1~3組までの教室があった。現場となった6年4組と4・5年生の教室は南側の新校舎にあり、建物は旧校舎から独立して渡り廊下でつながっていた。

新校舎は出入口が三カ所。旧校舎との連絡口となる西側出入口のガラス戸は外からの差し込み式のカギを必要とした。東側の生徒昇降口は内側から締めるねじ込み錠で外からの解錠は不可能だった。靴が発見された中央の丸窓玄関は北の校庭側に面しており、錠は締りが不完全で外側からガタガタ揺すると掛け金が外れてしまう状態だったことが判った。

 

第一発見者Mくんは職員室でカギを借り、西側出入口を解錠するつもりが「回さないうちに戸が開いてしまった、僕の感じでは鍵が閉まっていなかったように思う」と証言。実験によれば、戸をピタリと閉じきってしまうと鍵がうまく嵌らず、約5ミリの隙間を開ける程度に案配すると施錠ができた。

4組教室の窓はいずれも内側からねじ込み錠で施錠されていた。出入口は掛け金式の内鍵で発見時は施錠されていなかった。実験によれば、こちらも廊下側からガタガタ揺すると30秒ほどで掛け金を外すことができた。また生徒によれば4組教室の鍵は小さくて薄いうえに曲がっているので、「慣れている人でも暗くてはちょっと差し込めないと思います」と述べている。

被害者が6年4組教室に入るまでには、新校舎のカギと教室のカギの二重密室を解除せねばならなかった。しかしカギはいずれも職員室の所定の位置に残されていた。被害者は二度にわたって扉をガタガタと揺すって解錠しなければならない理由があったとでもいうのであろうか。

 

教室に置かれた教諭の机は荒らされた形跡なし。また机からは自筆と見られる3組担任福本に宛てたらしいラブレターの下書き便箋3枚が見つかった。

遺体の顔には薄くファンデーションが塗られており、着衣は28日と同じものを着こんでいた。身長は146センチ程で、頭髪に砂様のものが付着し、松葉が一本入り込んでいた。両目は閉じており、両眼瞼結膜に粟粒大の溢血点が確認された。口の周りに表皮剥脱、口唇部に小さな挫傷と皮下出血があった。金色ネックレスは前後が逆(繋ぎ目が正面向き)の状態で、下顎に表皮剥脱の痕があった。

両手にクリーム色の手袋をはめており、左手に血液が付着していた。格子柄コートはボタンが外れ、コートの下のチョッキの左から背にかけて血液が付いている。下半身はコートと同じ格子柄のスカートが捲れるなど着衣の乱れが認められた。陰部に被害者とは異なる7.2センチの陰毛が犯人の遺留物とみられたほか、マメ科の種子が見つかっている。外陰部は比較的綺麗な状態で、傷害の有無は不明とされた。

死体を動かすと首元と腰元から砂様のものが零れた。床には血液と失禁の染みが付いていたことから、殺害現場は4組教室と断定された。

茶色のビニール鞄の中のガマグチ財布には計190円の小銭が入っていたが、所持金額としてはやや少ない手持ちにも思われた。レースの編み袋には、紙包みの中に手付かずの折り寿司が割りばし付きで残されていた。友部駅前の寿司屋で購入されたもので日付は「11月28日付け」であった。

 

見立てと解剖

捜査本部では検証から、殺害現場は教室で、宿直員も騒ぎなどに気付いていなかったことから顔見知りによる単独犯行と推量した。28日(土)放課後に教室は施錠されていたと考えられ、本来ならば教室に入るために2つのカギが必要としたが、前述のとおり物理的にはカギなしでの解錠も不可能ではなかった。

犯人像としては「友部小関係者」、「前任地で交際のあった者」、「友部近辺に土地鑑のある物盗り、性犯罪者、素行不良者」が挙げられ、近郊三千戸以上のローリング作戦で一万二千人近くを対象とする大掛かりな聞き取りが行われた。

 

11月30日午後、司法解剖は新治協同病院大林三郎院長が執刀し、詳しい剖検書は年をまたいで1965年の1月15日の提出となった。

記者らが掴んだ情報をまとめると所見の概要は、

・被害者は肋骨複数本を折られており、抵抗して逆に犯人に押さえつけられるなどした結果とみられる

・口や顎、頸部に多数の傷があり、手掌などで圧挫した可能性がある

・瞼や肺に溢血点が多数あり、窒息死と認められる

・胃や十二指腸に食餌の痕跡なく、摂食後12時間以上経過しており、死斑、硬直状態から死亡推定時刻は28日夕方から29日朝までの間である

・膣内精液は約1ccで、死亡直前の性交はほぼ確実で事後に陰部を清拭したと思われる

というものだった。

しかしその後の捜査や逮捕者の自白などの影響により、剖検の内容は書き換えを余儀なくされた。

 

足取り

死亡した綿引教諭は友部町下市原の出身で、国鉄職員の夫、高校1年生の長女、小学6年生の二女と水戸市千波町舟付の戸建て住宅で暮らしていた。6畳間を知人の交通巡査Sに間借りさせており、当時は5人住まい。事件後Sは転出した。

 

夫によれば、11月28日(土)4時頃、夫婦は避妊具を使わずに性交をしたという。だが生体に残存する膣内精子は大半が体外に放出されるか、体内の酵素で分解されてしまい、20時間前の精子が残存していた可能性は非常に低いと考えられた。一家は6時頃に起床し、7時前に朝食を済ませた。教諭は死亡時と同じ服装を着込み、バスで水戸駅に向かい、水戸8時3分発、友部8時22分着の上り列車を使って出勤した。

彼女は事前に「29日に親類の結婚式があるから、28日は下市原の実家に泊まる」「29日はなるべく早く帰るつもりだが、向こうの都合によってはもう一晩泊まることになるかもしれない」旨を家族に伝えていた。

通勤時に同じ列車に乗り合わせた同僚によれば、普段と別段変わりない様子だったという。学校は通常の土曜であれば4時限目まであったが、この日は3時限目11時半には終了となる変則日課で、職員らは午後から笠間中学校で行われる講演会に参加することになっていた。

3時限目が終わると給食用のコッペパンが生徒に配られ、持ち帰って食べるように言い渡した。教諭は「食べられないから助けて」と言って自分のパンを児童に与えていた。

教室の戸締りは週替わりの当番制だったが、28日午後1時半頃に忘れ物を取りに来た生徒が職員室でカギを借りており、これが最後の教室施錠とみられている。

職員が昼食用にと駅前の寿司店から寿司折を4つ取り寄せており、その中のひとつを福本教諭に持たせており、それが綿引教諭の手に渡っていたことが後に判明する。捜査本部は被害者がコッペパンや寿司折に手を付けていなかったことから、最後の食事は28日に自宅でとった朝食と判断。「食後12時間以上経過」との解剖所見と照らし合わせ、当初は死亡推定時刻を28日18時から21時の間と発表した。

 

授業を終えた綿引教諭は、正午過ぎに町内の病院へ同僚の見舞いに訪れていた。前夜に小学校60周年創立記念行事の打ち上げの宴席があり、その帰りに5年1組担任の佐橋教諭がバイク事故を起こしていた。彼女は佐橋の妻に見舞金を渡して、程なく帰った。

12時30分頃には学校へ戻り、すぐに同僚2人と45分発のバスで講演会へと向かった。講演会はマイクの不調で聞きづらかったらしく一行は途中退席。15時頃、綿引教諭は同僚のひとりと水戸駅行きのバスに乗り込んだ。同僚は15時40分頃に石川町停留所で下車、そのあと16時頃に国鉄職員の知人が綿引教諭と水戸駅前ですれ違っており、生前最後の目撃情報となった。

中央が千波湖、バスは西から水戸市中心街を抜けて水戸駅

上は現在の水戸付近の地図で、同僚が下車した石川町は左上の赤印、バスは西から東へ水戸市の中心街を抜けて千波湖の東に位置する水戸駅へ向かった。教諭の実家があった「舟付」の地番は残っていないが、バス停のあった駅の北口から南口へ出て、約1.5キロ南下した現在の「舟付坂上」バス停周辺とみられる。

 

家族関係と“取りっ子”

綿引教諭は両親と早くに死別し、親戚や兄姉に育てられた。1946(昭和21)年に女子師範学校を出た後、大原国民学校、大原中学校を経て大原小学校で教鞭を振るった(大原村は合併前に存在した友部町の一部。友部駅の北に位置する純農村地域)。48年4月に大原中の教頭をしていた親類の世話により、従兄弟の昌三さんと結婚した。

近しい人には「兄や姉はそれぞれの生活に追われて自分はあまり面倒を見てもらえなかった」「兄の戦死や事故死が重なり、嫁入り支度も碌にしてもらえなかった」と身の上を語り、「運勢が悪いのは実家の門が鬼門に当たるせいだと占いで言われた」と話したこともあった。

仲人だった親戚の土地に別宅を建ててもらって2児が生まれるまでそこに暮らし、1961年に水戸市千波の家を兄から譲り受けた。姉の家からコメの援助が受けられたため食費は多くかからず、夫婦の収入はそれぞれ手取りで約3万円とそれなりの稼ぎがあった(大卒公務員初任給が当時約2万円)。金は個別に管理し、それぞれ約30万円程の貯金があった。

夫・昌三さんの仕事は国鉄の荷扱い車掌で、連泊もあれば連休もあり、時間に不規則な仕事だった。若い頃は妻と衝突することもあったが、年を経て水戸に転居する頃には小言を言われても受け流すようになった。煙草は日に一箱、酒は飲んでもお銚子一本と決まりよく嗜む程度で、趣味も庭いじりや近くのグラウンドで野球や陸上を眺めるだけという、無口でおとなしい倹約家であった。

友部小の同僚は、彼女の口ぶりから夫婦仲はそれほど円満ではないような印象を受けていたともいう。だが娘たちから見た母親は、朗らかで勝気、憂鬱そうに沈む様子はまずなかったと言い、「2人の性格がまるで違うので夫婦仲は普通、私たちにとってはとても優しい両親です」と述べている。夜の営みが絶えていないことからすれば、おしどり夫婦とまではいかなくとも破綻するほど険悪でもなかったと想像される。

また「殺される2、3日前に、学校で大人のことは難しい、先生の間でお母さんを“取りっこ”している、と話していました」という娘の証言もあるが、“取りっこ”の具体的な内容は分かっていない。

 

職場関係

校長は「私的には分からないが、公的には模範教員だった」と評価し、熱意ある様子から卒業学年を任せたと述べている。6年4組担任の他、音楽部の副主任を務めており、会議での発言も活発で、いつも18時頃まで学校に残っていた。

校長の言葉に含みがあるのは、彼女が大原中学校に勤務していた当時、妻子持ちの同僚と不倫関係にあったことを聞き知っていたためである。相手男性は台湾からの引揚者で、彼女の義兄が口利きして教員になった経緯があり、家族ぐるみの付き合いがあった。そのうち男女の特別な間柄は近所でも周知の事実となり、相手の妻が中学へ押しかけたこともあった。相手が転任して関係は途切れたが、逸話はその後も付いて回った。教頭は彼女の異性関係を気に掛けていたが、赴任してからの半年余りは特に問題は見られていなかったという。

 

6年生のほかの担任3名は男性教諭だが、各人プライベートで飲みに行くような付き合いはなかった。だが隔週の金曜に4組の教室で学年会議が行われ、話し合いがまとまった後に親和会と称して「軽く一杯」酌み交わすというのが慣例となっていた。

同僚の女性教諭は「何事もよく気のつく人でした」と語り、夏に旅先で事故に遭って入院したとき、綿引教諭が病院に残って看病してくれたことを感謝している。

教務の男性教諭は、大原小在職時の綿引教諭を知る人物だがやや距離を置くようにしていた。というのも、職員間の派閥争いがあった折、「〇〇は教頭派」と名指しした匿名の怪文書が校長の手に渡って問題視されたことがあり、どうもその筆跡が綿引教諭のものらしかったというのである。

またその当時の出来事として、1959年頃に「時限爆弾騒ぎ」というのもあった。爆弾を仕掛けたとの連絡が入り、爆発などの実害は結局何もなくただの悪戯と思われた。だが後日、なぜか綿引教諭宛に「ああいう風なことがまた起きるぞ」と友部局消印のはがきが届いた。差出人などに思い当たる節もなく、警察に届けたが犯人は特定されなかった。

こうした風評の原因を男女関係のトラブルと見るのも軽率であろう。かつての教え子たちやその父兄など一方的に恨みを買う相手には事欠かない商売でもある。

 

11月27日(金) 創立60周年行事

11月28日(土) 午前のみ授業。昼過ぎに同僚をお見舞いしたあと、講演会に参加したが途中退席。

午後1時半頃、生徒が教室と新校舎出入り口を施錠。宿直は1組山地教諭。

11月29日(日) 親類の婚礼準備の予定だった。

宿直は3組福本教諭。

11月30日(月) 遺体発見。指導案の提出期限。

 

被害者が6年4組の教室を訪れた理由として考えられたのは、11月末が提出期限の「指導案」であった。12月上旬に県教委らによる視察が迫っており、そのとき披露する授業の見取り図となる指導案を30日午前中までに完成させていなければならなかった。

綿引教諭はこの指導案が未提出で、2科目分が書きかけの状態で教室から発見されている。11月27日(金)には60周年記念行事と夜には祝宴があり、28日(土)には午前の授業、午後には学外での講演会、さらに彼女に限っては29日(日)に親類の婚礼と予定が詰まっていた。

実際に休日返上で指導案を作成したという教諭もおり、綿引教諭も同じ目的で教室に入ったとも考えられるのだが、だとすれば宿直に声を掛けるなりして職員室にカギを取りに行くのが自然である。しかし2つのカギは職員室の所定の位置に掛けてあり、合鍵を用いた形跡もない。

 

疑惑の同僚

遺体発見から2日後、発見者のひとり福本教諭に関する有力情報が寄せられた。

ひとつは、福本教諭が28日午後に笠間中で行われた講演会に出席せず水戸に行っていたというもの。

また聞き込みで、28日23時半頃、建具職の男性が町内で福本らしい男を小型トラックに便乗させたというもの。その後、職人男性は「もう夜のお昼(午前0時)になっちまぁや。はあ、帰っぺ」と言って親戚宅を出たことを思い出したため、0時5分か10分頃に時刻を訂正した。後の首実検(逮捕前の面通し)でも、車に乗せたのは福本に間違いないと証言する。

地元酒店の店主は「28日夜、友部小に痩せ型の男先生らしい人が入った」との噂を耳にしており、話に聞いた男の特徴がどうやら以前学校に酒を届けたときに見掛けた福本に似ているという。後に誤解だったことが判明するが、捜査本部は28日夜に福本教諭が被害者と会っていたとの線で裏取りを進めていく。

 

福本本人は11月30日の最初の供述調書で、28日の行動について「笠間中の講演会に行ったがマイクの調子が悪くて会場を早く出た。笠間市内のパチンコ店で17時半まで遊び、18時の汽車で帰宅した」と述べていた。

講演会に出席した同僚らも同様のアリバイ証言をしていたが、執拗な調べが続くと「講演会の不参加を口止めされていた」と白状し、福本の虚偽が発覚。捜査本部は色めき立った。

 

福本一夫は友部町内の平町で36歳の妻、5歳の長女と3人暮らし。自身は前年の1963年4月から友部小に勤め、妻も同町立宍戸小の教諭をしていた。4年ほど前に結婚したが、妊娠が発覚して以後のこととされ、夫婦仲はよいとは言えず、彼は酒癖が悪いという。

勤務態度は精励で、頼み事には嫌な顔も見せずよく手伝い、器械体操を得意とし、性格はどちらかと言えば内向的で短気なところがあった。児童によれば、事件後に掃除の仕方が悪いとしてびんたを張られたり、女子も勉強のことで3人が頬を叩かれている。

父親は神官をしており、福本を土浦の師範学校へ、弟も大学へやっていることから経済的には不自由のない暮らしぶりだったとみられる。父が関西旅行をする際に旅費を援助したり、弟が帰郷した際に小遣いを渡すなど身内思いな面があった。母親は「土浦の師範に合格したのは、同じ高等科5、6人の受験者で一夫ひとりでした。親孝行で気の優しい自慢の息子」と語った。

6年2組担任の成川隆平教諭(34歳)は、福本と綿引教諭は親しげにしていたが男女関係を不審に思ったことはないという。だが事件後の福本は顔色が優れず、宿直の見回りでは木刀を手にするようになったと語る(事件後、宿直当番が二人一組とされた)。また綿引先生は何をしに教室に来ていたのかと話していたところ、福本は「指導案でもあるめえし、何かほかにあったんでは」と返したという。ほかの同僚からは、宿直時に福本がうなされていたとの話も上がった。

 

捜査本部は12月10日頃までに県鑑識課から被害者スカート裏地に付着した精液斑痕の血液型について知らせを受けていた。うち3個はA型、2個はAB型で、1個はA型と思量されるも確定できないと報告された。後に公判のための再鑑定が行われ、AB型を示すのは一箇所とされた。

被害者はA型、夫の昌三がB型、友部小の男性職員で唯一のAB型が福本、A型男性職員は間柄教頭、事件当夜の宿直だった6年1組担任で学年主任の山地春雄教諭(36歳)、2組担任の成川教諭の3人であった。

20日余りの捜査の結果、友部小の男性職員、前任地での交際相手、周辺での性犯罪前歴者、素行不良者ら180名がふるいにかけられ、福本と山地を除く全員がシロと判断された。

 

戦後の刑事訴訟法で客観的証拠なしには逮捕、起訴してはならないことが原則とされはしていたが、現場で犯人につながる遺留品や凶器といった強力な物証が出なければ、人々の証言に頼らざるを得ない。今日のように個人の同定・識別が可能なDNA型鑑定技術や防犯カメラもない当時、刑事裁判では「自白は証拠の女王」として依然として大きなウエイトを占めていた。

12月18日、事件当夜に水戸から友部方面に客を送ったタクシー運転手に再聴取が為された。当初の証言では、乗せた男女は農家風の男と若い女性工員風だったと言い、運行ルートも外れていたため、事件とつながりがないと見なされていたが、後に犯人と被害者だったとされる。何らかの誘導があったように思えてならない変遷である。

12月20日、6年生を受け持つ山地、成川、福本の3教諭は任意でポリグラフ検査を受け、その結果、山地、成川が帰された。検査で動揺の見られた福本への追及は厳しいものとなり、同日深夜、容疑否認のまま緊急逮捕された。

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福本はそれまで講演会を途中で抜けて笠間市内でパチンコなどして午後6時頃に帰宅したとの証言をしていたが、午後5時過ぎに水戸市内で彼女と会ったと供述を翻した。

映画を見たあと、地下食堂で飲食し、9時半頃にタクシーに乗車した。車内で手を握られてその気になり、友部町下市原の彼女の実家近くで揃って下車。そのまま近くの裏山で情事を遂げ、実家へ送り届けた後、通りすがりの軽4輪ミゼットに便乗させてもらって自宅近くの高安自転車店で降りて歩いて帰宅したものとされる。

前述の建具屋の証言が正しければ、福本を車に乗せたのは0時過ぎで、男は勤め先の学校名まで明かして饒舌に喋りつづけたと言い、自転車店の前で降ろした時刻は0時15分頃のことという。

福本の妻は、夫は夜半になって帰宅し10分ほどで床に入ったと述べたが、正確な時刻までは記憶していなかった。だが公判の場で、寝付く前に時計の長短は直角を示していたような気がすると述べ、帰宅時刻を0時35分から40分頃と推測した。友部小に赴任して以来、そこまで帰りが遅くなったことはなかったという。

 

しかし捜査当局は、福本と綿引教諭の痴情のもつれを軸としつつ、以下のような筋立てをする。

タクシーを降りて、男女は裏山で体を弄り合ううち、被害者が平らな場所がいいとの理由から別の場所に移ることを提案。二人は人目を避けるために別行動で小学校へと向かった。被害者はカギを用いずに二重の密室を解錠し、福本は注意を払って職員室に忍び込み、カギを使って西側出入口から新校舎の6年4組教室へと向かった。しかしそこで痴話喧嘩がエスカレートして福本は扼殺に及び、現場を施錠しないままカギを職員室に戻して帰ったというものである。

 

綿引教諭の実家近くの裏山は落ち葉が堆積し、時季的に肌寒くはあったが情交を果たすには都合がよい場所とされる。屋内を望むにせよモーテルや連れ込み宿ならばともかく、徒歩20分もかけて宿直がいる職場で事を為そうという気になるベテラン教諭がいるものだろうか。背徳感に飢えた獣のようではないか。

本来ならば宿直当番は午後5時までに交代すれば問題なかったが、福本は生徒の制作発表準備を手伝うため、29日(日)は朝10時に登校して、そのまま一晩泊り、30日の事件発覚を迎えることとなる。少なくとも丸々一晩の猶予があったにも拘らず、男は遺体を教室から動かさなかったということになる。

 

逆転無罪

一審で被告側は、自白内容について取調の刑事による作話だとしてその任意性を争ったが、水戸地方裁判所は取調手続きに問題はなく、自白内容は真に迫ったものだと認定し、検察側の主張を概ね受け入れた。被告は教職という立場にあり道徳的・倫理的に大いに非難さるべきとしたが、被害者から情交関係をけしかけたきらいもあり、殺害という結果は本人も予期していなかった過失に近いと思量されて、11年の求刑に対して懲役3年を言い渡した。

供述の変遷、情交の事実、AB型精液痕の存在、判廷で反省や悔悟の情のない言動が判事たちの心証を左右したものとみられる。

 

二審・東京高裁は、原判決を破棄し、疑惑が完全に晴れたとは言えないものの有罪とするには証拠不十分のため無罪とした。「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫かれたものの、アリバイなどで完全に疑いを排除しきれた訳でもないという「グレー」な決着であった。

死亡時期についての疑問や付着精液だけで犯行をも断定するには検討の余地が残される、と判断。また現金強取の疑いについても、日頃から生徒の支払いを立て替えるなどして不規則な出納状況であったことから被告人の所持金が被害者から奪われた金と断ずることはできないとした。

そもそも公判は検察側が有罪責任を立証する場であり、被告、弁護人が潔白を証明する必要はないのだが、被害者の夫・昌三さんは「中途半端で終わるのはやりきれない気持ち」とその決着に無念を語った。

検察側は上告を断念し、福本氏は逆転無罪が確定した。逮捕により懲戒免職とされていた氏はその後も4年半余りを県教委との話し合いに費やし、免職処分の取り消しを認めさせ、退職扱いとして恩給を受けることとなった。結果的に無罪が認められたとはいえ、事件がその後の人生に与えた影響は計り知れない。

 

もうひとりの同僚

『逆転無罪』の著者足立氏は福本が無実であるとの視点に立ちながら取材に当たってきた経緯から、事実と裁判的事実との間に越えがたい溝のあることをはっきりと悟らされたと総括している。客観的事実とされる物証でも作為や錯誤の入り込む余地があり、人のことばも常に真実ばかりとは限らない。

本件についても、死亡時刻を絞り込む「消化時間」に関して被害者が元々胃下垂で消化速度が人並みより遅かったとされるなど一般論と個体差の問題は現代の法医学でも残る問題であろう。死亡直前の性交の有無についても福本は既遂を主張し、検察側は未遂のまま殺害に至ったと判断した。AB型精液について福本本人のものかは技術的に断定しえず、A型とB型が混在した反応とも捉えられなくはないという。また肋骨4本の骨折についても相応の暴行があったとする自白もなく、倒れた被害者の上に犯人が覆いかぶさるようにして腹部に膝をついた際に折れた可能性が示されている。

司法解剖であっても死体から犯行のすべてが見抜ける訳でもなく、鑑定人の力量によって推定に違いが生じたり、裏付け捜査に引っ張られて変動することもある。男性の犯行とは言えてもその人相までは突きとめられないのが当時の科学技術の限界であった。

 

足立氏は捜査取材やポリグラフ検査、裁判記録を通じて「黒」を示す証拠や綿引教諭との不適切な交際は見当たらなかったとした上で、28日の宿直だった山地教諭の不自然さにも言及している。

6年2組担任の成川教諭の12月10日の証言によれば、「山地先生は福本、綿引両先生のやることについては別に反対せずにやっておりました」とこれまでの三者の関係に問題はなかったとしている。

一方で「山地先生ですが、職員室にお茶を飲みに来る回数が少なくなりました。冗談などをこれまで言った方なのですが、事件後はさっぱり軽口などを飛ばさなくなったのです。それに教室に引っ込みがちで、帰りを急ぎ、服の着替えが早くなりました。事件後は体育の時間に教室で過ごすようになり、顔色も優れません」とその変化を指摘する。

福本逮捕から一週間後の他の職員証言でも「新聞や世間の噂では学校内部の者だということが強くなって参り、私の考えも山地先生か福本先生の二人のどちらかの犯行ではないかと強く感じられました」と述べられており、学内でも宿直だった山地教諭への疑いは完全に払拭されていた訳ではなかった。

 

疑惑の第一の理由は、A型男性職員の中で犯行時刻とみられる28日深夜から29日未明にかけての明確なアリバイがないためである。

福本が綿引教諭と情事を遂げたとする深夜0時過ぎ、徒歩20分かかる小学校まで出掛けた理由があったとすれば、前述の指導案を取りに行ったか、あるいは宿直が山地教諭と知っていて何か用事があった可能性も排除できない。「実家に泊まってくる」という家族への口実も事前にその晩は男と過ごす約束があったのではないか。事の前後は定かでないが「先生の間でお母さんのことを取りっこしている」状況を自ら生じせしめ、その背徳に愉悦を覚えていたものかもしれない。

そもそも山地教諭が被害者の来訪や異変に一切気付いていないこと自体がやはりどこか不自然に思われる。たとえば綿引教諭が指導案を取りに学校に出向き、宿直だった山地教諭も手伝い等と称して一緒に教室へと向かい、やがて何がしかのトラブルが生じたと見る方がよほど自然ではなかろうか。仮に出退勤を示す木札や出勤簿の押印が犯人による偽装工作とすれば、29日宿直の福本より28日宿直の山地教諭の方がそのメリットは大きいとも言える。

スカート裏地から検出したA型を示す斑痕は、A型だった被害者の膣分泌液が反応したものだとして、犯人性を絞り込む証拠とはされなかった。だが被害者がA型だからといってA型男性の接触がなかった証明になる訳ではない。AB型の福本の他に、A型男性が精液痕を残したとも考えられるからだ。

また事件直後、山地教諭の右手薬指には血のにじんだ傷があったとされる。それだけで犯人と断定できるものではないが、被害者からの抵抗を受けて怪我を負った可能性もある。被害者の両手袋の親指と人差し指付近に付いた血痕について、警察は被害者の流血と判断したが、首にかけられた相手の手を解こうとしたときに付着したとも推測された。

 

さらに山地教諭の証言の移り変わりについて見ていくと、事件直後は福本と他の教諭と三人で講演会に出席したと証言していたが、12月20日ポリグラフ検査の後の取り調べに及んで「福本は突然水戸に行くからと言って、参加していたことにしておいてくれと念入りに頼まれていた」と白状した。そこには動揺と作為が隠されていはしまいか。

また28日の宿直当番で、午後6時半前後・午後8時半前後・29日午前6時40分前後の3回の巡回報告を記帳していたが、「実際には29日朝の巡回はしていなかった」と述べた。夜は職員室での作業を終え、午後9時40分頃に宿直室に入り、2度小用に立ったという。一度目は午後10時半頃、二度目は午前0時ちょっと前で、外の便所まで行くのは手間なので音楽室脇の戸を開けて石段あたりで立ち小便をしたというのだ。

12月24日の調書では、小用に立った時刻は午後10時半と11時半の二度で、音楽室脇の戸の輪錠はその都度かけていたと述べた。その間、職員室のある西側本館は全て施錠されており、「ガラスでも割らないかぎり入れません」とまで断言する。朝7時半頃に起きてからも外の便所へは行かずに廊下の手洗い場で用を足したことを明かした。

 

12月20日 ポリグラフ検査。深夜、福本逮捕(犯行は否認)

12月22日 福本、自白供述を開始

12月23日 福本、自白録音

     朝刊で29日0時過ぎに福本を車に乗せた人物の証言が報じられる

12月24日 福本、弁護士と接見後に自白を翻し、殺害を否認

     捜査本部、自白を開始した旨を報道陣に伝える

     山地教諭、音楽室脇はその都度施錠していた、侵入は不可能と証言

     記者が音楽室脇の侵入可能性を検証

12月25日 朝刊で福本一部自供の報道

     山地教諭、音楽室脇の施錠に関して供述が曖昧に

 

足立氏の指摘によればこの12月24日にターニングポイントがあったという。20日深夜に逮捕されていた福本は「綿引教諭との情交」について明かしていたがその後は帰宅したと主張し、22日夜に至って警察の言いなりになるほかないとの心境に至り、23日には学校に忍び込んで落ち合った綿引教諭を殺害した旨の自白を録音を採取されていた。だが24日午前に弁護士と接見し、「裁判で一番大切なことは真実を述べることだ」と諭され、福本は殺害の自白供述を撤回していた。

しかし捜査本部は同夕、「逮捕以来初めて犯行の一部自供を始めた」として学校侵入があったことを仄めかしていると伝え、「殺人についてはまだ認めていない」と記者に誤った取調状況を漏らし、25日には新聞各社がその旨を報じていた。

24日夜、捜査本部のリークを受けて記者はすぐに友部小へと足を運んだという。24日の宿直は山地教諭であった。彼は音楽室脇の戸を開けて小用を二度したが、その都度輪錠を掛けていたため外部から職員室に忍び込むことはできない旨を説明した。記者は輪錠を外からは開けられないことを検証した。

すると25日になって山地教諭は、音楽室脇の戸を「施錠していたか断言できない」、今思えば「常より手応えがなかった」等とその内容を翻す供述を申告した。足立氏の推察では、24日の取り調べで「職員室には自分以外だれも立ち入れなかった」旨の証言をしたが、その夜の記者とのやりとりで福本が学校に侵入したと自供していることを知り、それに便乗しようと軌道修正したのではないかとみている。

一審でも被告人から山地教諭に激しい質疑が繰り返されたが、25日に施錠の証言を変えたのは後になって思い出したからだとしつつ、施錠の有無は確証がないとした。また手洗い場で用を足したことについて、前夜と同じく音楽室脇からであればまだ理解できるがそうしなかったのは理由はあったのかと問われても「横着した気持ちからじゃないと私考えております」と歯切れの悪い返答をしている。

 

今日のような科学捜査技術が確立されていれば真実が明らかにできていたかもしれない事件のひとつである。人々の生活環境の変化に伴って科学捜査の手法も進歩を遂げ、防犯カメラ記録や通信履歴からの行動解析など証拠の収集力も上がっているようにも思える。だがその反面で、山間や農村部など情報技術から隔絶された環境でスマートフォンを所持しない高齢者やこどもたちを発見するのは依然として困難を極める。またDNA型鑑定技術にしても、足利事件のような作為性、あるいは今市事件のコンタミネーション(試料汚染)のような人的ミスによって、「客観的ではない証拠」になりうる可能性が露見している。

早期逮捕、犯人への処罰を求めるのは誰しもが期待するところだが、拙速な予断は悲劇を広げかねない。裁判が騙し合いの場ではなく、真実追及の審理に生かされることを願う。

 

被害者のご冥福をお祈りいたします。

 

なぜ韓国へ?—中村三奈子さん行方不明事件

留守中、自宅から消えた少女はなぜ韓国へと向かったのか、第三者の介入や北朝鮮による拉致も疑われる謎多き失踪について記す。

よく似た人物を見かけた、犯行を匂わせる話を耳にしたなど、心当たりのある方は以下で情報提供を受け付けている。

新潟県警察 長岡警察署 0258-38-0110

中村 三奈子さんをさがす会 090-4279-4724、MAIL; sagasukai98@gmail.com

中村三奈子さんをさがす会のブログ

中村 三奈子 | 特定失踪者問題調査会

 

失踪

1998年(平成10年)4月6日、新潟県長岡市に住む中村クニさんが仕事から帰ってくると、二女・三奈子さん(当時18歳)の姿がなく、行方が分からなくなった。

中村家では父親を早くに亡くし、長女は親許を離れて関西の大学に通っていたため、当時は教員勤めの母親クニさんと三奈子さんの二人暮らしだった。

その日もクニさんは寝ている三奈子さんに声を掛け、朝早くに出勤。夜7時過ぎに一度帰宅すると、普段であれば電灯が点いているはずが家中真っ暗だったため不思議に思った。どこかに出掛けているのだろうかとも思ったが、クニさんは町内の集まりがあったためすぐにコミュニティセンターへと出掛けて行き、夜8時頃に再び戻った。三奈子さんはまだ帰っておらず、不安になったクニさんは知人に確認を取ったり、図書館やビデオ店など立ち寄りそうな場所を方々捜し回ったがだれもその行方を知る者はなかった。

身長約165センチ、目が細く色白。当時は髪が長く三つ編み

三奈子さんは3月に県立長岡高校を卒業したばかり。新潟大学への進学を目指して地元の予備校に通うことになっており、その日は入学金を納めに行く予定だったが用意していた封筒の金は家に残されたままだった。

 

現在でこそ自宅周辺は住宅街となっているが、当時はまだ一画にしか住宅は建っておらず周囲に田圃が多かったという。三奈子さんは日頃の外出にはかかさず自転車を使ったが、それもなぜか置きっぱなしになっていた。遠出するにしても、自宅は駅から2キロ以上離れており、徒歩で30分ほどはかかる。

なくなっているのは財布と帽子くらいのもので、衣類や下着の抜けはなく、普段使っていたカバンや、気にして毎日塗っていたアトピー薬もそのまま置いてあった。一日待ってはみたものの、8日早朝に地元警察に届けを出した。しかし署員には「所持品が財布だけなら2、3日もすれば戻るでしょう」と当初は軽くあしらわれたという。

失踪時の服装は帽子とパーカー、デニム姿、スニーカーといった普段着姿、荷物は白い財布だけと見られている。

帽子は青系のチェック柄

 

不可解な状況

18歳というと進路、家族関係、恋愛などの悩みから自発的に家を出ることは充分に考えられる年齢だが、三奈子さんは周囲に悩みを打ち明けたり、家を出たい素振りを見せてはいなかった。むしろその年の正月には、親戚に「ママが独りになっちゃうから遠くには行かない」と言って母親の身を気遣ってさえいたという。

家出であればお金があるに越したことはない。だが「3万円借ります」というメモが見つかり、用意していた入学金50万円から実際に3万円だけ抜かれていたことが判明する。そのほかの所持金は1万円前後だったとみられ、どれだけ多く見積もったとしても5万円から8万円程度と推測されている。

ノンフィクションライター菅野朋子さんによる文藝春秋掲載の記事(初出2011年。菅野氏はソウル在住で渡韓時の捜索活動を支援している)では、チラシの下から見つかったメモに「3万円借りました。私の通帳からおろしてください」と書かれていたとされる。また部屋に貯めていた「10円玉貯金」も中身が空になっていたというが、その総額もたかが知れていよう。

クニさんによれば、失踪前夜も家出を思わせる兆候はなく、学校の掲示物の準備、紙の切り貼りなどを手伝ってくれていたという。生徒たちの様子などについてあれこれ話し聞かせ、いつもと変わらぬ様子であった。

近隣住民も三奈子さんがその日外出する様子を見かけておらず、実際にはいつどこでどうやっていなくなったのか状況が全くつかめなかった。

日常的に着用していたパーカー

クニさんが娘の部屋をあらためると、ゴミ箱から執拗に千切られた紙片が見つかり、つなぎ合わせると「新潟県」の売店で「証明写真」を撮ったレシートだと分かった。長岡から新潟までは電車を使っても1時間半以上かかり、当初は思い当たる節もなく不思議に思った。

だがほどなく写真は「パスポート」の申請に使用されていたことが判明する。申請は3月25日に行われ、4月3日に交付されていた。パスポートの発行手続きは地元長岡の出張所でも可能なので不思議に思われたが、県庁での手続きなら一週間ほど早く発給できたという。あえて新潟市まで出向いて3日に交付を受け6日に失踪とあらば、彼女は何か理由があってパスポート取得を急いでいたとも考えられた。

本来、発行には保護者の承諾を必要とするが、図書館のカードをつくる口実で親の保険証を借りたままになっておりそれを身分証にしたと考えられる。申請書類の保護者記入欄も彼女本人の筆跡と確認された。

パスポートということは、目的地は国外ということか。クニさんは空港や旅行会社をしらみつぶしに当たった。その後1か月ほど経って、航空券を購入した旅行会社を突きとめ、新潟空港にカメラ記録は残されていなかったものの、失踪翌日の4月7日9時40分発KE764便でソウル・金浦空港へ出国した記録が確認される。

旅行会社では、三奈子さんの名前で「中年のハスキーな声の女性(文春記事では「24、5歳くらい」とも)」が電話予約してきたという。クニさんによれば三奈子さん本人は“甘い声”だったと言い、印象論にはなるが電話の声とは異なるように思われた。

また女性は「なるべく早い韓国行きのチケットがほしい」「旅行は慣れているので当日に空港で発券する」と往復券を買い求め、ホテルの予約等は断った。だが三奈子さん本人は海外旅行の経験さえなく、そんなやりとりは不自然である。

空港業務員は当日「派手なブラウスを着た女性」に搭乗券を渡した、荷物は少なく人を探している様子できょろきょろしながら搭乗口方面へ向かったという。三奈子さんは普段からクニさんのおさがりなど落ち着いた色味の服装を好み、これも実像と食い違っていた。

当時の若い女性の間では安室奈美恵に影響を受けた「アムラー」やダンス・ボーカルユニットSPEEDの人気でゆるいシルエットのストリート系ファッションが流行していたが搭乗口の女性はそうしたスタイルとも異なっていたのであろう。

母親や友人たちに韓国への興味や家出、海外旅行を匂わせることもなかった少女がなぜ突然韓国に行かなくてはならなかったのか。

 

特定失踪者問題調査会では、パスポートの期限だった2003年、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない特定失踪者としてリストアップ(第四次公開)し、現在も調査・捜索活動を続けている。代表・荒木和博氏は「事前に本人がパスポートを申請するのはレアケース」と指摘する。元工作員らの証言によれば手口としては船による密航が主な輸送手段で直接平壌近くの港に上陸することが多いとされる。

金浦空港では三奈子さん名義の入国カードが提出されていたが、その写しを得られたのは2004年になってのことだった。筆跡は三奈子さん本人のものと確認された。また本来ならばホテル名などを記す「滞在先」の欄には波線が記されていた。入管関係者によれば「T/S(トランシップ)」、現地滞在ではなく「経由での乗り換え」を示すものではないかとされた。しかしその後も韓国国内での足跡も分からず、出国した記録も確認できなかった。本人が韓国に入国したとすれば、身分を隠して今も留まっているということなのか。

「韓国行きの航空券がほしい」新潟で18歳少女が謎の失踪…不可解な足跡にちらつく“ハスキー声の女” | 未解決事件を追う | 文春オンライン

菅野氏の記事によれば、座席名簿を見ると三奈子さんは三人掛けのシートの窓際、隣は空席、通路側に座った女性が「ハスキーな声で派手な服装らしいことが分かった」とされる。なぜ声や服装まで分かったのかは記事にはないが、三奈子さん出国への関与が疑われる。

女性は韓国出身で70年代に日本人男性の許に嫁ぎ、日本に帰化長岡市近郊に韓国式の寺院を建て、宗教法人の代表を務めていた。クニさんが女性に尋ねると、「(三奈子さんは)生きてますよ」と話したという。

後に菅野氏が取材で証言の根拠を尋ねると、

「韓国式の寺を建てるために設計師ら3人で視察に行った」

「近くに座っていた女の子については全く記憶にない。警察にもそう話した」

「生きていると言ったのは、その人の後ろにある者を見て話をするから」

「三奈子さんという女の子がおばあさんに連れられているのが見えたからそう答えただけ」

と言い、疑いを向けられることに憤慨したという。

韓国にいる宗教家女性の知人に取材すると、日韓サッカーW杯が終わった頃(2002年夏頃か)、「日本でいなくなった女の子について取り調べを受けたと文句を言っていた。『その女の子と金浦空港で一緒に出口まで出た。空港には男女二人が迎えに出ていて、ほんの少しの謝礼しかもらえなかったのに、こんなことになって』と」と彼女が話していたというのだ。

2021年10月の新潟経済新聞ではクニさん、菅野氏も参加した拉致被害・特定失踪者に関する市民集会を報じている。菅野氏の講演内容を文春記事と照らし合わせてみると、どうやら韓国の「知人」が一方的に宗教家女性を告発したらしく、捜査機関は曖昧な部分が多いと判断したとされる。宗教家の発言も情報としての信憑性が低く、知人との間で何かトラブルがあったか何かして、知人が虚偽通報したような印象を受けるが真相は分からない。

中村三奈子さんをさがす会と新潟県長岡市が「特定失踪者と拉致問題を考える市民集会」を開催 | 新潟県内のニュース

 

母親の思い

クニさんは調査会や拉致被害者の活動に積極的に参加し、「拉致被害者の奪還なくして特定失踪者調査の進展なし」と訴えている。国内での署名活動やビラ配り、講演活動などのほか、1999年から韓国へも10数回訪問し、大使館を通じてソウル鍾路警察に失踪届を提出し、データベース照会のために指紋やDNAも提出している。

2008年には高麗大学で韓国語の習得にも短期間挑戦した。現地支援者の提案でマスコミ各所にも報道協力を求め、2019年にはKBS1テレビの視聴者参加型歌番組へも出演。歌詞の慕情が娘との再会への思いに重なるとしてチョー・ヨンピル釜山港へ帰れ』を披露し、韓国市民に情報提供を呼び掛けた。少しでも娘の発見に役に立つと思えばなりふり構わず何でもやる、娘のために何かせずにはいられないという母の強い思いが伝わってくる。

ハングルで書かれたチラシ

 

失踪から四半世紀、三奈子さんもすでに40代半ばになる。人々の記憶に刻まれた彼女は、テニス、卓球、バレエに山登りと様々なスポーツに汗を流したスポーツ少女、大好きな栗を使ったケーキを誕生日に貰って大喜びした頃の笑顔のままだ。クニさんは「25年経った今の三奈子の姿が全く分からなくて本当に悔しいし残念です」と時の流れに悔しさをにじませる。

日々の出来事や家族の話を手紙にしたため、いつかどこかで三奈子さんに届くと信じてウェブ上で公開している。娘の誕生日にはかかさずプレゼントを用意し、マロンケーキやパイを焼いて、祝福のメッセージを送る。古いプレゼントは未開封のまま、包装が色褪せたり破れたりして、長い時間の経過を物語っている。

新潟県横田めぐみさんや曽我ミヨシさん・ひとみさん母子の拉致被害があったこともあり、メディアや市民の関心理解が比較的高い地域である。地元のコミュニティセンターでは一画に写真パネルや拉致問題の関連書籍などが常設展示されている。

クニさんは三奈子さんの母校で講演会を行い、平穏な日常を送れることのありがたみ、唐突に一方的に家族の幸せを奪い去る拉致の残酷さを子どもたちに語り伝えた。拉致問題に関する授業も取り組まれており、問題解決に向けたバトンを次世代へとつないでいる。

2019年に鍾路警察で作成された40歳予測似顔絵

新潟空港でも定期的にパネル展が開催され、発見に一縷の望みをかけた呼び掛けが続けられている。「写真もあの子が残していってくれたものですし、皆さんに伝わってほしい。三奈子のところにも届いてくれたらいいなと願っています」「本当に、どこへでも探しに行くので、見つかって、早く一緒に生活ができればという思いばっかりです」と再会への希望を語っている。

 

北朝鮮の状況

ご家族の意向や活動に冷や水を浴びせるつもりはないが、筆者としては本件に関して北朝鮮による拉致被害とは異なる印象を抱いている。先に北朝鮮情勢と拉致問題を振り返っておきたい。

対南工作員養成のために日本人拉致作戦を立案・指揮した金正日は、事件当時、国家元首となり独裁政権を築いていた。それだけ聞けば疑わしい相手に思われるかもしれないが、1991年に北朝鮮に留学した李英和氏が帰国前に現地有識者から聞かされたいわゆる「拉致講義」によれば、作戦は1976~87年で完了し、それ以外の時期にはやっていないとされている。無論、有識者の発言は個人によるものではないと考えるべきであろう。内容の全てを鵜呑みにすることはできないが、北朝鮮側はこの時点で拉致問題を対日交渉のカードとして切っていた。

国家主席金日成の没後1994年から体制が大きく移行し、96年から党員の大規模粛清が開始され、97年に後継者・金正日朝鮮労働党総書記に就任する。その間、朝鮮戦争後最大規模の大飢饉が発生し、人口2000万人のうち4年間で30万とも300万とも言われる多くの餓死者を出す未曽有の危機に陥っていた。ソ連崩壊の余波、農業の衰退、工業インフラの老朽化と燃料不足など、経済状況も苦境を極め立ち直りにも時間を要した。96年正月の労働新聞は、その国難をかつて日本統治下で抗日パルチザンとして乗り越えた国父・金日成のエピソードになぞらえて「苦難の行軍」と表現している。

そうした国民の危機的状況にもかかわらず、かねて核開発を外交カードとして利用してきた金正日は国費を軍事開発に傾注し、98年8月31日、中距離弾道ミサイルテポドン1号」を日本海・太平洋に発射。日本政府に強い警戒感を抱かせるとともに、核軍縮や査察の受け入れを強く求めるアメリカに対して揺さぶりをかけた。

 

1970年代後半に立て続けに起きたアベック失踪事件以来、国家ぐるみでの日本人拉致は警察関係者や専門家の間で強い「疑惑」とされてきた。1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫の証言から、その動機や潜入工作の実像が明るみとなり、91年以来、日本政府としても国連などで拉致問題を提起した。北朝鮮側は「拉致講義」でその存在を匂わせておきながらも、公には認めようとはせず、返還に向けた協議などの具体的な進展はなかった。

97年に入り、脱北者の証言などから20年前に失踪した横田めぐみさんが北朝鮮へと拉致されており生存している可能性が高いとの情報がもたらされる。父・滋さんを中心に拉致被害者救出を求める「家族会」が組織され、国民的関心事となったが、北朝鮮側は依然その事実を認めなかった。双方が優位に交渉を進めたいという思惑から水面下での駆け引きが続いていたのか、日本側に交渉準備(交換の手札)が足りなかったのかは分からない。

2002年9月、総理大臣小泉純一郎らが訪朝。当時国防委員長だった金正日との首脳会談で北朝鮮側は初めて日本人拉致を認め、公式に謝罪した。これを受けて日本の世論も沸騰したが、北朝鮮側は拉致被害者の安否について不明・死亡との報告を続け、2004年に帰国が実現するのは地村さん・蓮池さん・曽我さん家族らに限られた。

国内状況を省みず独裁的な強権支配を敷いて“強請り”のごとき外交を展開してきた金正日が、80年代で外国人拉致を完全にストップさせたとは断言できない。しかし90年代初頭には金丸訪朝などもあって一時的ながら協調路線を取り、韓国・金大中政権の誕生で融和に向けた対南政策の転換、国内は新体制の構築と党内粛清に追われていた98年当時、「日本人女学生を拉致する必要があった」とは筆者には如何とも想像しがたい。

一方で、89年に金正日の専属料理人となり、自らの意思で日朝を行き来した藤本健二氏(仮名)のような人物もいた。藤本氏によれば、調理師会の会長の薦めで82年から83年にかけて平壌の寿司屋で働いた折に正日と知己を得、帰国後に再び呼び戻されることとなったとされる。党員として仕え、現地で妻子を持った。二男正哲、後に総書記となる三男正恩の遊び相手に指名されるなど料理人として以上の親交をもったという。

90年代には食材の買い付けなどで度々来日していたが96年には入管法違反で逮捕され、帰国後は北朝鮮からも監視対象とされていた。98年、北京に買い出しに行った際、日本の警視庁関係者に電話したことが盗聴されて露見し、1年半の軟禁拘束に置かれた。身の危険を感じた藤本氏は2001年に脱北し、日本のメディアに登場したり、国に金正日のプライベートに関する情報を提供していた時期もあったが、その後、再び平壌に戻っている。

女学生に藤本氏のような職能はないが、「若い女性」という面だけでいえば、来賓をもてなすために組織され「喜び組」とも称された舞踊集団や夜伽の相手となる外妾役に置くことなども懸念される。だが三奈子さんは韓国語ができず、舞踊や楽器の特技も聞かれない。またそうした人員の確保も当時は食うに事欠く北朝鮮国内から募ることが容易な状況であり、日本ではめぐみさんの拉致問題が紛糾していたことからも、あえてそこに日本人をあてがうリスクは採らないものと考えるがはたしてどうだろうか。

 

拉致説の検討

韓国国内でも北朝鮮による拉致被害は多く存在するが、朝鮮戦争の停戦以降、1950年代から70年代にかけて、延べ3835人が被害に遭い、うち3729人は漁業関係者、そのほか69年の大韓航空拉致事件の乗客や軍関係者、国外での拉致被害と続く。チュチェ思想への転向、スパイ養成に適さない場合は、日本人拉致被害者ほどの厚遇はなく工員や技術者に従事させられたと言われる。

2000年の南北首脳会談以来、帰還事業が急速に進んだが、今も500名以上が北朝鮮に残されていると推計されている。横田めぐみさんのように女学生が拉致されるケースは韓国内では認知されていない。

工作員金賢姫は、めぐみさんの場合、拉致してきた成人外国人に洗脳教育を施すことが難しいと分かって、より若年世代に目を付けていたのではないかと述べている。そのほか80年前後には外国人拉致被害者同士を結婚させ、北朝鮮で生まれ育った子どもをつかった工作員の養成も計画されていた。そうした経緯を見ても98年に至って18歳の女学生拉致というのは動機が見えづらいのである。

 

本件に関して、パスポート取得やいわゆる「背乗り(はいのり)」と呼ばれる諜報活動が目的ではないかとの声も聞かれる。想起されるのは、1980年6月に起きた大阪に住む調理師・原敕晁(はら・ただあき)さんの拉致、いわゆる辛光洙(シン・グァンス)事件である。

北朝鮮工作員として1973年(昭和48年)に日本に密入国した辛は、在日朝鮮人工作員(土台人)として組織する一方、韓国の情報収集も命じられていた。1978年に福井県で地村保志さんと後に妻となる富貴恵さんのアベックを拉致。さらに完全に日本人になりすました上で対韓工作を続けよとの指示を受け、1980年4月、在日工作員に次の条件に合った45~50歳前後の日本人男性を探させる。

・未婚で親類縁者がない

・パスポートを発券したことがなく、前科がない、当局に顔写真や指紋が押さえられていない

・借金や銀行預金がない

・長期間行方不明になっても騒がれる心配がない

鶴橋・千日前通りで「宝海楼」を経営していた在日朝鮮人大阪府商工会理事の李三俊は従業員の原さんに目を付け、「いつまでもこの仕事ではきついだろう。知り合いに事務職を募集している会社がある」とさる貿易会社の面接を受けるように薦めた。辛が専務、朝鮮学校の元校長だった金吉旭(キム・キルウク)が常務役を演じ、面接とは名ばかりで即採用が決まる。そのまま酒宴が開かれて泥酔した原さんは「別荘に行こう」と夜行列車に乗せられた。

大分県・別府で一泊した後、宮崎市の青島海岸へ連れて行かれると待ち構えていた工作員4人が原さんを目隠し拘束。ゴムボートで工作船に拉致され、4日後、平壌近郊の南浦港に着いた。原さんから家族構成や過去の生活歴の詳細を聞き出し、5か月後に再び密入国した辛は「日本人・原敕晁」として住民票を東京都に移し、自動車免許証、パスポート、国民健康保険証などを取得(辛は戦前の日本統治時代に日本で生活していたため順応が容易だった)。82年3月から計7回の出入国を繰り返し、各地で対韓工作活動や拠点づくりに勤しんだ。しかし85年2月、ソウルに潜入していた辛は関係者の通報により韓国当局によって逮捕。現地の調べによって原さんの拉致被害が明らかにされた。

辛は無期懲役囚として収監されたが、金大中政権下での南北会談によるいわゆるミレニアム恩赦により15年で刑期を終えて2000年9月、北朝鮮へと送還された。その後の北朝鮮側の報告によれば、原さん本人は78年に拉致されていた田口八重子さんと結婚したが、86年に肝硬変で亡くなり、八重子さんも同年に交通事故で死亡し、二人の墓地は洪水により流失したとされている。

 

一方、大韓航空機爆破事件の実行犯・金勝一と金賢姫の場合、蜂谷真一名義のパスポートは在日朝鮮人によって実在する存命の人物から借り受けたものが流用され、真由美名義のものは模して造られた偽造パスポートだった。

また安明進氏の報告によれば、金正日金賢姫が自殺を阻止されたうえに爆破工作の事実を暴露、転向した事に激怒し、女性工作員が当面登用されなくなったとされる。10年経って仮に18歳の優秀な女性エージェントが誕生していたとしても同じ轍を踏むとは筆者は思わない。

 

なぜ韓国へ?

本件では第三者による誘導・手引きが強く疑われる。だがその反面、三奈子さん自身もパスポート申請など少なくとも出国に同意しているように見えるのが単なる拉致事件とは大きく異なっている。

三者が日本人のパスポートを必要としていたのであれば、新潟での受け取り直後や自宅で奪えばよいのであって、わざわざ本人まで現地に連れて行く必要はない。彼女のものでなくても、たとえば若い女性の家に侵入窃盗を繰り返せばパスポートを入手すること自体は難しくないように思う。

通貨危機後の1998年、金大中大統領は経済再建に向けた一つの柱として文化産業振興を打ち出し、2000年代には映画、ドラマが続々と世界に向けて発信された。日本で大きなインパクトとなったのは2003年4月から放送されて「ヨン様ブーム」を巻き起こした純愛ドラマ『冬のソナタ』、翌年NHK総合で放送された『宮廷女官チャングムの誓い』が熱烈なファンを獲得した。だが韓流が日本の若者たちに浸透するのは2010年前後の東方神起や少女時代らK-POPが席巻するまで待たねばならない。その後、女性誌を中心として韓国美容・コスメやファッションにも注目が広がり、BTSやNewJeansは世界的な人気を博する若者の憧れとなった。

だが98年当時、女学生が韓国に行きたがる理由というのは何だったのか。年上女性は何の目的で誘導していたのか、少女は自分の行き先を知っていたのだろうか。子どもを車に乗せるのと、18歳を飛行機に乗せるのとでは訳が違う。

98年の韓国旅行者数は約200万人〔社会実情データ図録〕

書き置きのメモと3万円の抜き取りは何を意味するのか。50万円を丸ごと持ち去るのは親の厚意を踏みにじるようで心が痛んだのか、どこか控えめな態度は第三者ではなく本人の行動を思わせる。おそらく出国計画と共に予備校の入学金も彼女の算段に入っていたのであろうが、目的達成のために「不足分を補う」ような、やむをえずといった状況が窺える。「私の通帳からおろしてください」というメッセージも、深読みすればすぐには家に戻らない意志を感じさせる。

筆跡については、鑑定士の経験を要する属人的な測定技術となるため、DNA型鑑定のように99.9999…%で本人のものと断定することはできない。だがメモの短文だけではなく、住所氏名といった書きなれた記載事項もあったことから本人のものである可能性は極めて高いと見るべきだろう。これを単純に突き詰めて考えれば、本人に国外に出向く意思があったということになる。

三者の介入についてどのようなものが考えうるのか。事件直前まで進学校の高校三年生で、アルバイトの情報などはないことから、通っていた図書館などが接点になったと考えられる。さらに父親がなく母親は仕事で日中家を空けると分かれば連れ出しには都合がよい。

浪人生や予備校生を狙う学生サークルを装った新興宗教やカルトへの勧誘なども考えられなくはないが、足のつくやり方で国外から少女を攫ってくるほど強引なカルトならば他の面でもすぐに様々な問題が明るみとなるはずだ。たとえば92年に「合同結婚式」が日本でも話題となった旧統一教会のような大きな団体であれば、拉致のような手荒なやり方は回避されており、友好的な勧誘や「家庭」を土台にした信仰強制といった手段をとる。ありうるとすれば日本では知られていないような小規模団体になろう。

駆け落ちのようなかたちで家出をけしかけられたことも考えられるが、日本人同士はもちろんのこと、あるいは在日韓国人であれば3世世代と重なるが、やはりひとまず県外に逃れてから…というのが標準的な行動に思え、いきなり韓国には向かうとは考えにくい。やはり「韓国」行きに何らかの目的があったとみるべきだろう。

たとえば韓国からの留学生のような相手と恋愛関係になったとすれば、留学期間満了や卒業などを機に帰国するタイミングに合わせたということはあるかもしれない。だが、だとすれば相手は中流以上の家庭の育ちと想定され、親が子の失踪や女子連行を通報しないという選択肢はやはり考えづらい。それとも半島に渡った恋人たちは人知れず全く新しい人生を手にしたのだろうか。

イメージ

新しい人生という側面で言えば、韓国はかねてより美容整形大国として知られていた。今日では割合としては1000人当たり8.9件で世界一の整形率である。都市部の10代から40代女性に限ってみれば5人に1人が施術を受けているとも言われ、国外からもメディカル・ツーリズムを求めて多くの観光客が訪れる。

韓国の美容意識については様々な角度から論じられているが、口唇裂の再建手術への貢献で広く知られる形成外科医デビッド・ラルフ・ミラードによって美容整形がもたらされたと言われている。朝鮮戦争で韓国に駐留した彼は、アメリカ軍兵士の現地妻や娼婦たち、韓国人通訳らに「二重瞼」手術を施した。

その後も東アジア人に多い一重瞼や低い鼻といった特徴は、映画やドラマで目にする欧米人の「ぱっちりとした二重瞼」「彫りの深い顔立ち」に強い憧れを抱かせ、西欧的な美的観念を普及させた側面もあるかもしれない。だがそれよりも血統的に運命づけられ、幼少期から否応なく背負わされる身体的コンプレックスにメスを入れることで精神的解放に有益なことが韓国社会では肯定的に受け入れられた。

さらに2000年代のカメラ機能付き携帯電話とプロフィール画像をフィルターとしたコミュニケーションツールとして若者文化の中で美容術やルッキズムは強化され、K-POPアイドルたちのような「オルチャン(美女・イケメン)」と呼ばれる進化を生み出した。近年では大学受験を終えた高校生への「卒業祝い」や就職活動を控えた学生への「合格祈願」、親から一種の通過儀礼としてオペ費用が贈られることさえあると聞く。

最後に強引なこじつけにはなってしまうが、たとえば三奈子さんもひょっとすると自身の顔立ちや荒れがちな皮膚に想像以上の苦悩や劣等感を抱えていたかもしれない。だが腹を痛めて産んでくれた、長年懸命に育ててくれた一人親に向かってそうしたことを思っても口にできなかったのではないか。大切に思う相手だからこそ打ち明けられないこともある。

受験勉強で悶々とする日々を送るなか、ハスキーボイスの年上女性と知り合い、自分とは見た目も性格も異なる彼女につよい憧れを抱いたとすればどうか。「安く施術してくれる医者を知っている」「試験が終わったら一緒に整形しに行かない?」とアプローチされれば、進学に先立って自分自身を変えたいと心を動かされてもおかしくない。親に言っても反対されるだろう、ならば理由を告げずに事を済ませて戻ればだれも言い返せない。そんな若者の勢いに突き動かされた家出だったのではないか。

年上女性を頼り、術後の経過を見て戻ろうと考えていたところ、行った先で何がしかのアクシデントに見舞われたのか。頼れる人を失って帰りたくても帰れない、苦しい境遇を今も強いられているかもしれない。この年代の、大事に育てられてきた少女がふとしたきっかけからそれまでにない経験、大きな変化を求めることは間々起こりうる。動機が美容整形か否かは差し置いても、筆者は自発的家出もないとは言いきれない心象を抱いている。

 

三奈子さんのご無事と、ご家族が一日でも早く再開できることを祈ります。

 

Highway of Tears 涙のハイウェイ

カナダ・ブリティッシュコロンビア州内陸部のプリンス・ジョージは人口7万人を抱えるある州内最大の都市だ。そこから太平洋を臨む西部の都市プリンス・ルパードへとつながるおよそ724kmのハイウェイ16号は、1960年代末から今日に至るまで多くの悲劇を生み、“Highway of Tears (涙のハイウェイ)”と呼ばれるようになった。

ハイウェイ16号沿いにはヒッチハイク禁止を呼び掛ける看板が

カナダ国家警察(王立カナダ騎馬警察;RCMP)によればこのハイウェイ近郊では、女性13人が殺害され、5件の失踪事件が起きたと報告されている。だが地域住民らの訴えによれば不自然な失踪や犠牲者の数は40人以上ではないかとも推定されている。

2005年、ブリティッシュコロンビア州を管轄とするRCMPのE部門では、ハイウェイ16号及び沿線で発生した多くの女性失踪または殺害事件の連続性・関連性を調査する指令が下される。そのプロジェクトは、天に向かう魂を迎え入れるイヌイットの女神Panaと連結され、E-Pana計画と呼ばれる。

E-Panaは、①被害者が女性であること②失踪時に目撃者のない孤立環境に置かれていた等のハイリスク行動があったこと③ハイウェイ16号、97号、5号、24号の近くが失踪現場あるいは遺体発見現場であること④事故・自殺・DVによる死亡根拠がなく、容疑者が特定できないことを基準として被害者リストを作成。報告された18人のうち、13人はティーネイジャーの少女で、10人がカナダ先住民の子孫であった。

 

2016年の国勢調査によればカナダの総人口は3520万人で、バンクーバートロントモントリオール三大都市に1250万人が生活する。21.9%が国外出身者(過半数が中華系)で占められる移民国家で、大都市圏ではその割合がより大きくなり、国の人口増を牽引している。先住民族は約170万人、人口のおよそ5%を占め、50以上の民族が全国に630以上のコミュニティに分かれて暮らすが、その大半が内陸部の遠隔地にあり、涙のハイウェイを生み出した文化的背景として語られる。

以下、個別事件の概略を見たのち、カナダの歴史と先住民(ファースト・ネイションズ)の迫害に注目してみたい。

 

乾かぬ涙

〔1〕グロリア・ムーディ(26歳・先住民族)…1969年10月25日、ウィリアムズ湖のバーを出て以来、目撃者がなく、その後、10キロ離れた牧場の森の中で遺体となって発見された。

〔2〕ミシュリーヌ・パレ(18歳・白人)…1970年7月にハイウェイ29号のフォート・セントジョン近郊で目撃されていたが、8月8日、ハドソンズ・ホープ近くで遺体となって発見された。

〔3〕ゲイル・ウェイズ(19歳・白人)…クリアウォーター出身の彼女は1973年10月にカムループス方面までヒッチハイクする姿が最終目撃となり、翌74年4月にハイウェイ5号沿いの溝で遺体となって発見された。RCMPはボビー・ジャック・ファウラーに嫌疑をかけたが、彼を有罪とする決定的な証拠は存在しなかった。

〔4〕パメラ・ダーリントン(19歳・白人)…73年11月、カムループス在住の彼女は地元のバーへ行くためヒッチハイクしていたが、翌日公園で殺害されているのが見つかった。同じくボビー・ジャック・ファウラーに嫌疑が向けられた。

〔5〕モニカ・イグナス(15歳・白人)…1974年12月13日、学校から帰宅途中、ハイウェイ16号沿いのソーンヒルを一人で歩いているところを目撃されたが、4か月後に目撃地点から数キロ東の砂利場で絞殺遺体となって発見された。失踪当夜、現場付近では男女が乗った車が停車されていたのが目撃されていた。

〔6〕コリーン・マクミレン(16歳・白人)…1974年8月、ラックアッシュの自宅を出てヒッチハイクで友人宅へ向かったものと見られたが、1か月後に遺体となって発見された。2012年、DNA型鑑定によりアメリカ人ボビー・ジャック・ファウラーが強姦殺人犯と特定されたが、当人は06年にオレゴン州の刑務所で死亡していた。男は事件当時ブリティッシュコロンビア州で働いていた。

ボビー・ジャック・ファウラーのマグショット

〔7〕モニカ・ジャック(12歳・先住民族)…1978年5月6日、メリットの二コラ湖近くで自転車に乗っていたところ行方不明に。遺体発見は1996年6月のことで、林業従事者が20キロ離れた山の伐採道路で作業中に白骨遺体を発見する。

その後、11歳少女キャスリン・メアリー・ハーバート殺害の潜入捜査の過程で、被疑者ギャリー・テイラー・ハンドレンがジャック殺害について犯行を自白する。2019年、第一級殺人で有罪判決が下された。

〔8〕モーリーン・モ―シー(33歳・白人)…1981年5月8日、サーモン・アーム付近でヒッチハイクしていたのが最終目撃。翌日、16キロ離れたハイウェイ97号の出口で遺体となって発見され、ひどい殴打痕が確認された

〔9〕シェリーアン・バスク(16歳・白人)…1983年5月3日、アルバータ州ヒントンから失踪。最終目撃地点はハイウェイ16号近くで、数日後、アサバスカ川付近で彼女の遺留品とみられる衣類、血痕が見つかる。

〔10〕アルバータ・ウィリアムズ(24歳・先住民族)…1989年8月25日に失踪し、1か月後、プリンス・ルパード近郊のタイイー陸橋近くで絞殺遺体となって発見された。遺体には性的暴行の痕跡が確認されている。

〔11〕デルフィン・ニカル(16歳・先住民族)…1990年6月14日、ハイウェイ16号でブリティッシュコロンビア州スミザーズとテルクワの自宅間をヒッチハイク移動しようとしていたがそのまま行方不明に。

〔12〕ラモーナ・ウィルソン(16歳・先住民族)…1994年6月11日、スミザーズの友人宅に向かうためヒッチハイクしていた。10か月後、ハイウェイ16号の空港近くで遺体となって発見される。近くに彼女の遺留品が整理しておかれており、他にもロープ、ネクタイ、ピンク色の水鉄砲などが付近で見つかった。

初期入植者と先住民族をルーツとするエスニシティである「メティ」の映画監督クリスティン・ウェルシュは、この少女の死をメインテーマとしてドキュメンタリーフィルム『Finding Dawn』(2006)を制作した。

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〔13〕ロクサーヌ・ティアラ(15歳・先住民族)…1994年11月、プリンス・ジョージから失踪。バーンズ湖近くのハイウェイ16号の外れで遺体となって発見された。

〔14〕アリーシャ・ジャーメイン(15歳・先住民族)…プリンス・ジョージ在住だった彼女は、1994年12月9日にハイウェイ16号に近い小学校の傍で遺体となって発見された。

〔15〕ラナ・デリック(19歳・先住民族)…1995年10月7日、ヒューストンのノースウェスト・コミュニティカレッジの学生だった彼女は、テラス近くのガソリンスタンドでヘーゼルトンの自宅方向に歩いているのが目撃されていたが、以後、消息を絶った。

〔16〕ニコール・ホア(25歳・白人)…アルバータ州出身の彼女はプリンス・ジョージ近郊で植樹の仕事に就いていた。2002年6月21日にハイウェイ16号でプリンス・ジョージからスミザーズ間でヒッチハイクしている姿が見られていたが、以後、消息を絶った。2009年8月、殺人により終身刑となっていたリーランド・スイスを重要参考人として、当時彼が所有していた近郊の山林や付近のゴミ捨て場などの捜索が行われたが手掛かりは得られなかった。

〔17〕タマラ・チップマン(22歳・先住民族)…2005年9月21日失踪。ハイウェイ16号、プリンス・ルパードの工業団地近くでヒッチハイク中に消息を絶った。モリスタウン・ファースト・ネーションの出身。

〔18〕アイエラ・サリッチ・オージェ(14歳・先住民族)…プリンス・ジョージの中学に通っていた彼女は、2006年2月2日から行方が分からなくなり、2月10日、東へ15キロ離れたテイバー山近郊のハイウェイ16号沿いの溝で遺体となって発見された。

上記以外でも少女や女性の行方不明者は各地に点在し、時期や地理的に近接するケースも多い。しかし通報・捜査の遅れや目撃情報の不足、そして犯罪性が確認できない自発的失踪の可能性等によりリストから外れているものもある。E-Panaでは少女や若い女性に限ってリストアップしたが、少年や中高年女性、LGBTQの失踪者・犠牲者も当然存在したと見るべきだ。全てが連続犯によるものとは考えにくく、ボビー・ジャック・ファウラーのように重犯罪者が関与したケースもあれば、単発的な犯行やグループ犯罪の場合もあるだろう。

事件当初から注目されたのは非先住民のホアさんのケースであった。アルバータ州では捜査のための手厚いチャリティ支援活動が行われた。またリスト外の失踪者マディソン・スコット(20歳)の場合も家族に豊富な資金やネットワークがあったことから、看板やポスターの設置、専用ウェブサイト等に資金を割くことができた。対照的に、大半の先住民の家族は貧困と阻害、社会的リソースの不足から効果的な事件啓発や捜索活動はままならず、被害者遺族らの連携や啓発運動も長らく進んでこなかった。

1990年、モヒカン族がゴルフ場開発に反発して固有領土を訴えたことをきっかけに、先住民たちによる様々な抗議行動がカナダ全土に拡大した。橋や鉄道、主要道路の封鎖や送電塔の破壊行為などが繰り返され、警察や軍との武力衝突も頻発した。92年5月、ノースウェスト準州の領土を分割し、後に約17500人のイヌイットによる自治区ヌナブト準州として認められることとなる。

ハイウェイ16号周辺での失踪や殺人事件の頻発、とりわけ先住民女性の被害が多いことは90年代から指摘が挙がっていた。だが議会や行政は採算が取れないとして先住民居留地と都市部をつなぐ路線バスの導入をずっと先送りにしてきた。自前の産業もなく、多くの者が働き口に事欠きながらも暮らしてきた先住民たちが自前で共同バスを維持することなど夢物語だ。人々はハイウェイを横断する車に、見知らぬ人々の善意に頼って生活することを強いられてきた。

ようやく2000年代になって涙のハイウェイが国民的議論となり、改めて先住民政策の弊害や地理的な生活の不便さ、長年維持され続けてきた経済格差、都市部とは異なる危険と隣り合わせの日常が浮き彫りとなったのである。隔離と自治だけでは解消されない、守るべき尊い命の問題が突き付けられた。

2007年以降、RCMPは750件のDNAサンプルを収集、2500件の再聴取、1413人の関係者を調査し、100件のポリグラフ検査を実施したと報告している。しかし人権団体の調査によれば、先住民に対する偏見や差別から捜査はないがしろにされ、むしろ女性たちの飲酒や路上売春などを疑って、その被害の深刻さが過小評価され、被害者に落ち度があったとして責任転嫁されていたとの報告もある。

The Country Boy Killer: The True Story of Cody Legebokoff, Canada's Teenage Serial Killer

2010年に逮捕されたコディ・アラン・レゲボコフは、2年間で4件の殺人を犯し、涙のハイウェイに新たな悲劇を積み重ねた。1990年生まれのカナダ最年少のシリアルキラーのひとりとしても知られる。

11月27日21時45分頃、車で走行中の新人警官が、山の伐採道からハイウェイ27号に進入してくるレゲボコフのピックアップトラックを見とがめる。極寒の真夜中、人里離れた山道をうろついているのは不審に思え、当初、森の奥地で密猟でもしていたのではないかと疑い、検問停車を求めた。車内には血まみれのマルチツールやレンチ、似つかわしくないバックパックが置かれ、中にあった財布には「ローレン・レスリー」名義の小児病院カードが見つかった。

血痕について質問されたレゲボコフは「シカを棍棒で打ち殺した」と答えたが、荷台に獲物を載せてはおらず、「田舎者なので、遊び半分でやったことだ」と言い逃れをした。警官は野生生物保護違反で男を逮捕し、トラックのタイヤ痕と山中の足跡をたどっていくと、雪の中に埋もれて発見されたのは殴り殺されたシカではなくローレン・レスリー(15歳)の遺体だった。

その後の取り調べと家宅捜索、DNA型鑑定などにより、ジル・ストチェンコ(35歳) 、ナターシャ・モンゴメリー(23歳)、シンシア・マース(35歳)の3人の死との関連が新たに判明した。レゲボコフはコカイン中毒者でしばしばセックスワーカーを利用して、異常性欲の捌け口とした。若年のローレン・レスリーは片眼の視力が50%、もう片方が全盲の少女で国内SNSネクスピア」を通じて知り合ったという。半世紀近くに渡るハイウェイの悲劇は新たな手口を組み入れながら、また次の世代へと継承されていたのである。

 

カナダの成り立ちと先住民政策

日本人にはややなじみの薄い植民地主義とその後の多文化主義となったカナダの歴史を簡単に見ておこう。

15世紀末、イングランド王ヘンリー7世治世下で派遣されたジョン・カボットがカナダ東端のニューファンドランドを発見し、以降は西欧諸国に豊かな漁場として認知されることとなるが、英国による植民地化は主に五大湖以南の大西洋沿岸部で展開されていく。16世紀になるとフランスがセントローレンス川下流域の探検を進め、インディアンたちとの毛皮貿易の拠点として、17世紀初頭、ケベック州にヌーベルフランスと呼ばれる居留地を興して統治を開始した。

植民開始当初、北米全土のインディアンが115万人、うちカナダには22万人程度が存在したと推測されている。フランス人植民者たちは多くの部族と同盟関係を結び、当初の交易は両者にとって有益であったとみられ、入植した白人男性と原住民女性との結婚も行われていた。部族とヨーロッパ人との橋渡し役として、毛皮貿易が衰退する19世紀初頭まで数世代にわたって文化的・生物的混交は続き、双方をルーツとし独自の文化や言語をもつ混血先住民「メティ」が成立する。

フランス人が持ち込んだブランデーは先住民の社会秩序に深刻な悪影響を及ぼしていたが、見てみぬふりで取引は拡大を続けた。植民者はインディアン居留地を設けて改宗や教育による「文明化」を試みたがうまくいかず、ヨーロッパからもたらされた天然痘やはしか、インフルエンザや赤痢といった疫病が先住民族をさらに苦しめる脅威となった。

18世紀、英仏間の対立が北アメリカ植民地にも飛び火し、それぞれの植民地と同盟を結んだ先住民族を巻き込み、各地で抗争や代理戦争が繰り広げられた。1763年のパリ条約でフランス側はケベック州植民地を放棄し、以後はイギリスの支配下となった。フランス系植民者は約65000人おり、すべてカトリック信徒であった。英国議会はイングランド国教会への強制改宗ではなく融和策を選択し、フランス民法典とカトリックが容認された(1774年ケベック法)。戦争とイギリス統治への転換は、それまでフランス人植民者との友好関係を築いてきたインディアンやメティに敵対感情を植え付けた。

1763年、英国議会はインディアンとの衝突状態を避けるため、それまでの主従隷属を強制する方針から、交易相手として一定の土地と独立性を認める共存統治に政策転換。オタワ川より西岸の五大湖北部(現在のオンタリオ州)をアッパー・カナダ、東岸のケベックと大西洋沿岸地域をロウア―・カナダに区分して統治した。またアレクサンダー・マッケンジーら商人たちはアッパー・カナダ、ロッキー山脈を越えての更なる西部探検を推し進めた。

1783年、東部植民地13州に端を発するアメリカ独立戦争終結し、グレートブリテン王国アメリカの独立を承認する。敗れた王党派(ロイヤリスト)ら35000人は北進してケベック州東部やセントローレンス川の南に位置するニューブランズウィック、さらに東のノバスコシアへと流入した。

1812年に第二次独立戦争ともいわれる米英戦争が勃発すると、アメリカはロイヤリストの駆逐とカナダの占領を目指したが、ケベックへの侵攻は半ばで撃退された。防衛戦での勝利は英/仏の垣根を越えたカナダ人としての国威につながり、政府樹立を求める機運にもつながっていく。

戦後は開拓と企業誘致が加速し、本国での穀物法(安価な外国産小麦輸入を禁じ、穀物価格の高値維持を目的とした地主向けの保護政策)と人身保護法の廃止の影響もあり、移民が激増する。アッパー・カナダを中心に多くのコロニーが設けられ、8万人程度だった非インディアン人口は1830年までに22万人、1850年までに80万人にも膨れ上がった。だが一方では入植推進のためにもたらされた多額の補助金を握る統治階級の腐敗が表面化し、暴動や反乱が両州で頻発する事態となった。

新規入植者たちによってもたらされた改革の機運は、英国議会にアメリカ独立戦争の記憶を思い起こさせた。ヴィクトリア女王はカナダ総督ダラム伯爵ジョージ・ラムトンから、植民地に自治を認めれば忠実に従うであろうとの報告を受け、1840年、連邦制の導入を決める。植民地に立法府が認められ、カナダ東・西へと地域区分は改められ、両州から議員が選出されることとなる。暴動による国会議事堂消失などに遭いながら移転を繰り返し、連邦政府は65年にオタワを首都とすることで落ち着いた。

旧来の連邦法は東部に住むフランス語話者とそれ以外の人々との平等化を目指して策定されていた。そのため西部でのイギリス系入植者の急増に伴って、法解釈の齟齬や行政面での支障が生じるようになり、議会はねじれ現象による機能不全を起こした。英国議会はカナダ統一のため、1867年英領北アメリカ法を制定し、英連邦下に自治領カナダ政府を認める。

1871年国勢調査では総人口3689257人。初代首相となった保守党ジョン・マクドナルドは改革党(自由党の起源)に政局安定のための大連合を求め、国家基盤の整備に奔走した。国境区分が不明瞭だった西海岸ブリティッシュコロンビアも領地に加え、五大湖や河川の利用、漁業権についてもアメリカ政府との間で条約を制定。1885年には大西洋岸から太平洋岸までを東西を横断するカナダ太平洋鉄道が完成した。

カナダの先住民居留地分布

連邦カナダでは、フランス系、イギリス系植民者の双方に配慮がなされ、多文化国家としての道を歩むこととなる。その一方で、1876年にはインディアン法を定め、先住民族を「保護区」に定住させて管理しようとした。当初は「同化」政策として、伝統的衣装を奪い、宗教行事や酩酊物の使用を禁止し、キリスト教への改宗を推し進め、農業を奨励し、「文明化された」と認められた暁には参政権を認めることとした。だが先住民たちは民族的アイデンティティや伝統的な慣習を完全に放棄することはなかった。

1883年には寄宿学校制度が導入され、先住民族の子弟らを親元から引き離し、130ある寄宿学校や工業学校で教育を受けることを強制する。制度は1996年まで存続したが、先住民族を「野蛮人」「未開人」とみなす植民地主義が色濃く、こどもたちへの精神的・肉体的虐待の実態が明るみとなり今日では大きな批判を受けている。寄宿学校や教会の運営を任された聖職者たちは、こどもたちに強制労働を課し、性暴力の餌食にもしており、寄宿生の失踪・不審死が異常に多いばかりか、妊娠した女生徒は暗黙の裡に堕胎させられてきた。寄宿学校跡地にはそうした「墓標なき墓」が数百単位で見つかっている。

先住民への迫害はカナダ建国に伴う歴史的事実として捉えられ、2006年にはインディアン・レジデンシャル・スクール和解協定が成立。歴史的事実として継承されること、新たなパートナーシップの構築、和解とその癒しが約束された。2008年には政府と国民を代表してスティーブン・ハーパー首相が寄宿学校制度の過ちを謝罪した。

 

現在地

RCMPの2014年報告によれば、1980年以降の過去30年間で殺害された先住民女性の数は1049人、行方不明者は172人とされていた。

しかし2016年、連邦政府は、改めて行方不明および殺害された先住民女性・少女に関する全国調査を開始し、不釣り合いな非暴力率に対処する具体的な行動計画や予防策につなげると明言した。カナダ先住民相キャロリン・ベネットは、他殺が疑われるにもかかわらず自殺・事故死・過失死・自然死として処理された先住民女性は数千人にも及ぶと試算し、これまでの捜査当局の怠慢を非難した。

2019年の最終報告書では、先住民女性は他の女性より暴力を受ける可能性が12倍高く、殺害される可能性は7倍近いと結論付けた。これまでの法制度が先住民、とりわけ女性、少女、2SLGBTQQIA(いわゆるLGBTQに「2スピリット」「クエスチョニング」「インターセックス」「アセクシュアル」を加えた性的マイノリティ)の基本的人権を永続的に侵害してきた事実上の「ジェノサイド(大量虐殺)」に相当するとし、カナダ先住民の安全・正義・健康・文化の向上に向けた231の対策を提案し、包括的な改革を求めた。

先住民女性の生存権を訴える市民運動

世論の圧力を受けて、ブリティッシュコロンビア・トランジット協会はハイウェイ16号に3つの新規バス路線を提供することを約束し、2018年の州運輸省の報告では年間5000人近い利用者があったという。しかし請け負っていた民間バス会社の事業撤退によりサービス提供はコロナ禍前から中断され、即効的な対処さえも思うようにはならない現実を突きつけた。

建国以前から存する民族問題、広大な国土で孤立するコミュニティと都市の問題、先住民に対する差別・搾取・迫害の歴史など、涙のハイウェイは一朝一夕に解決できない多くの課題を孕んでいる。涙をぬぐい、もう二度と同じような悲劇で頬を濡らさないためには何が必要なのか、国民的議論は現在も続いている。

 

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CANADA - Information Pages dealing with our history

キリストを模した男——ムンギョン十字架怪死事件

韓国で物議を醸したミステリアスな男性怪死事件について記す。

 

十字架と遺体

2011年5月1日、慶尚北道・聞慶(ムンギョン)市郊外の篭岩面(ノンアムミョン)、鈍徳山の廃砕石場で養蜂家Aさんが死亡している男性を発見し、警察に届け出た。

死亡していた男性は、慶尚南道昌原市で個人タクシー運転手をするキム某さん(57歳)と判明。調べによれば、キムさんは90年代に離婚して以来一人暮らしで元妻や娘と連絡は取っていなかった。先月9日から車で聞慶市を訪れており、山中にテントを張って寝泊まりしていたとみられる。4月10日に弟に電話を入れており、「教会には行ったのか」といった会話が家族との最後のやりとりとなった。

 

その死亡状況はあまりに奇妙だった。遺体は白いパンツ一枚きりの全裸に近い姿で、木製の“十字架”に磔(はりつけ)になった状態で見つかった。磔になっていた大きな十字架は、縦180センチ、横187センチの2本の角材で組まれており、その足元には板の土台が付随して転倒しないようになっていた。設置されていたのは地表から1.57メートルほど高台になった岩場で、左右には細い角材でできた小さな十字架が立てられ、片方には鏡がぶら下げられていた。

左右の足は土台の板に長さ15センチ程の釘で打ちつけられており、両腕はループ帯で拘束され、両手首にも釘が貫通していた。腰と首に中細のナイロンロープが巻かれていたため、膝はやや折れていたものの立ったままの姿勢で絶命していた。頭には「茨の冠」が付けられ、右脇腹には刃物による刺し傷があった。腐敗により正確な死亡推定時刻は分からなかったが、死因は首元のロープによる窒息死と報告されている。

荒涼とした廃砕石場は「ゴルゴダの丘」を、そして男性の死は「エス磔刑」を、脇腹の傷はローマ兵士ロンギヌスが槍を刺してその死を確認したことを模しているのは明白だった。

Jan van Eyck『キリストの受難(左)』(1440), [Metropolitan museum]

 

常識に照らせば、自分で両手足に釘を打ちつけるというのは考えにくい。一般的な自殺志願者は自らの最期にふさわしい場面について様々な考えが頭に過ったとしても、精神的に疲弊しており、最終的には飛び降りや首吊りといった比較的シンプルで確実性の高い手段で遂行するのが常だ。その目的は知れないが「三者の介入があった」と見るのが自然に思われた。

仮に自殺と想定した場合、先に左右の足を打ちつけて固定したまま、両手を打ちつけたことになる。キムさんは身長167~8センチで体重70~80キロ、腹が出た小太り体型で、かかとは角材ににピタリと接しており、釘は足の甲のつま先近くに刺さっていた。実際にかかとを壁に付けたままの状態で足に釘を打つ姿勢を再現しようとすると、前のめりにバランスを崩して岩場から転落するのが自然に思える。

不審死体発見の初報時点では、聞慶警察署もこうした自殺は容易ではないとして、自殺と他殺両面から捜査を行うことを言明した。ニュースを聞いた多くの市民もこれは猟奇殺人の一種だと疑ったにちがいない。

発見された図面と計画書〔『それが知りたい』第804回より〕

 

しかし遺体付近にはハンマーや手動のドリル工具、腹部を刺した刃物が落ちていた。事件であれば、犯人が凶器をそのまま残しておくのは却って不自然にも思われる。またテント内に遺書こそなかったが、ノコギリや十字架制作で生じた木切れ、制作図面や体を固定する手順などを記した「計画書」が見つかっていた。

手の釘は「十字架」の裏から表に突き出ていた〔『それが知りたい』第804回より〕

解剖所見では、腹部の刺創はキムさん自らの手による可能性が大きいと推認された。さらに鑑識官は、足の釘は上方向から打ち込まれていたが、手の釘は「頭」が角材の背面から打ち込まれていた点を指摘する。

聞慶警察署は、現場に第三者の存在を示す痕跡はなく、手動のドリルを使って手に穴を開けてから、体格に合わせて十字架にあらかじめ打っておいた釘を「穴」に通せば「磔」は可能だったとし、キムさん単独での自死とする判断をもって捜査終結とした。

 

第一発見者への疑い

キムさんの死が複雑さを帯びるのは、単純な自死ではなく、宗教的性格に由来するためだ。具体的な教団名などは報じられていないが、調べによりキムさんは日頃からキリスト教に心酔していた(メディアによっては「狂信的」とも表現されている)とされ、近年はインターネットの宗教関連コミュニティで積極的に活動していたことが伝えられていた。

朝鮮日報の報じるところでは、第一発見者Aさんは元牧師で2002年から複数のインターネットコミュニティを運営し、キムさんが参加していたのもそのひとつだったという。さらに記事では、遺体発見前の4月24日がその年のイースター(復活祭。磔刑から3日後にイエスが復活したことを祝するキリスト教の祭日)に当たることから、イエス磔刑を模した自殺幇助の可能性にも触れている。

韓国基督教放送CBSでは、およそ2年前にキムさんがAさんの運営する宗教関連カフェを訪ねたことがあり、調べに対し「そのとき宗教的談話を交わしたが、それ以来会っていない」と話したことを伝えている。

Aさんは朝鮮日報の取材に対し、「キムさんは日頃からキリストになりたいと言っていたが、本当にキリストのようなことをするとは思わなかった。彼が足に釘を打ち込んでいるのを見て、この人の信仰を尊重しなければと思った」と話した。Aさんは生前最後にキムさんと落ち合い、「儀式」を目にしていたことになる。

そもそもキムさんに「自殺」の意志はあったのか、それとも自らの「復活」を本心から信じて疑わなかったのか、あるいは宗教的な「洗脳」状態にあったのか。そのとき傍にいたAさんは、はたしてどこまでキムさんの死に関わっていたのか。

 

韓国では憲法第16条等により、基本的人権のひとつとして信仰の自由が保障されている。2015年の韓国人口統計によれば、総人口は5101万人で、うち43.1%が特定の宗教を信仰している。総人口比での内訳はプロテスタント19.7%、仏教15.5%、カトリック7.9%、その他1%未満とされる(宗教別の割合だとプロテスタント45%、仏教35%、カトリック18%、その他2%となる)神道と仏教がおよそ半々でキリスト教徒は国民の1%程度とされる日本に比べて、韓国では18世紀に宣教師によりもたらされたカトリック李氏朝鮮末期に普及したプロテスタントが広く根付いている。

歴史的には、李氏朝鮮下での長期にわたる仏教弾圧、近代化のための欧化政策により宣教師の活動が支援されたこと、さらに日本による併合で神道教化に抵抗した人々がキリスト教を韓国ナショナリズムと同化させたことが背景に挙げられる。また第二次世界大戦後には、南北分裂に伴って半島北部から100万人近いキリスト教徒たちが韓国に流入したと推計されている。近年では20~30歳代を中心として無宗派層が増加しており、非科学的な教義を掲げて非倫理的犯罪をおかすカルト(サイビー)の増長も懸念されている。

京畿大学犯罪心理学科のイ・スジョン教授は「宗教に心酔していたキムさんの自殺を手助けした協力者がいるなら、必ずや見つけ出さねばならない。さもなければ同様の宗教的な自殺幇助が再発するおそれがある」と捜査の早期終結に警鐘を鳴らした。

 

男性の胃に内容物は残っていなかったが、遺留品から強心剤の一種で多量服用により幻覚や麻痺作用のある医薬品の小瓶が見つかっており、捜査員は医師の助言を踏まえた上で激痛を薬効で紛らわせていたのではないかとの見解を述べている。120錠入りの瓶に残されていたのは僅か5粒だけだった。

警察の主張する自殺説では、衰弱と意識の混濁でやがて自重によって膝から崩れ、首に巻かれたロープが食い込んで窒息死に至ったと推測されている。遺体にはためらい傷や失敗の跡は見られなかった。両足を釘で打ちつけ、腹をナイフで刺し、手動のドリルで手に穴を開け、釘を穴に通すという荒業を感覚が麻痺した状態で遂行することができるものだろうか。むしろ麻酔状態にあったとすれば、第三者が作業を遂行しやすくするためと見る方が自然に思われる。

しかし後の薬物検査ではアルコールや薬物の反応は一切検出されなかった。

 

韓国SBS、2011年6月4日放映の追跡報道番組『それが知りたい』では、科捜研に移管された十字架や遺体状況をCGで忠実に再現し、捜査員の証言を基にした自殺説の検証が行われている。

死亡状況の再現CG〔SBS『それが知りたい』より〕

4月初旬、キムさんは聞慶市を訪れる前に、弟を同行させて新車を購入していた。弟によれば、このときのキムさんは以前と様変わりしており、教会に通わない人間だったのに「教会に必ず行け」と命じたり、「空に行けば楽に暮らせる」などと話し、近々聞慶に行くことも伝えていた。

また車の販売スタッフは、商談中にしばしばキムさんの携帯電話が鳴らされ、第三者と何かを相談している様子だったと証言する。また「山岳会の会長を新車に乗せる」と繰り返し話していたという。だがキムさんが山岳サークルに属していたといった情報はなく、だれを乗せるつもりだったのかははっきりしない。

また奇妙なことにキムさんは自宅や自動車販売店への入庫ではなく、「自分が一番最初から乗る」と言って聞かず、250キロ離れた平沢(ピョンテク)の工場まで自ら車を引き取りに行ったという。彼はその足で昌原市の自宅へは戻らず、聞慶へと向かった。新車購入時点でキムさんはすでに死に場所へと向かっていたことになる。

キムさんは弟を車に乗せる際、シートに直接坐らずに、タオルを敷いてから座ってほしいと頼んだという。これはルカ福音第19章29-36でエルサレムへ向かうイエス一行がオリブ山にさしかかった場面の描写をなぞらえたのではないかと神学者は指摘する。

鈍徳山の廃砕石場は確かに我々がイメージする荒涼とした処刑場・ゴルゴダの丘のイメージに近いものだ。だが捜査員の一人は、地理的に離れており部外者は立ち寄らない、学術的な研究対象でも“聖地”でもないあの場所を選んだこと自体に疑問符を投げかける。聖書をなぞらえて儀式を遂行するのであれば、「最後の晩餐」を共にする弟子たちや処刑を見守るギャラリー、完全なる風化ではなく「復活」を見届ける人間が介在せねばならない。

だが発見前の4月末に彼の地は30ミリ以上の大雨に2度見舞われていた。そのせいで第三者の痕跡が現場から消失したのではないかと番組は推論する。届けを受けて出動した捜査員たちは道が水没していたため、現場まで歩かなくてはならなかったという。そんな過酷な状況下で養蜂業者が廃採石場を訪れることなど不自然であり、断定することは避けるが、Aさんはキムさんの「復活」、あるいは現場の状況確認をしに来たように思えてならない。

 

キムさんは2000年頃に息子から肝移植を受け、自身は健康を取り戻したが、その手術が元で息子が死亡したことを聞かされて著しくショックを受けていたという。息子の命と引き換えに自分が生きながらえ、文字通り「原罪」を背負ってしまったその心中は想像を絶するものがある。その後、頼みの綱を、道標を求めた先が宗教だった。一般的な宗教では答えが得られず、最後に彼がのめり込んでいたのがキリスト教に仏教や道教がハイブリットされたサイビーの一種だった。周囲の知人たちは彼から離れ、話し相手はネットのコミュニティだけだった。

番組は最後にキムさんの姉への取材場面を伝えたが、クルーに聞かされるまで弟の死について何も知らなかったという。宗教が元できょうだいは絶縁状態にあった。

 

所感

法医学者ユ・ソンホ教授は著書『毎週死体を見に行く』の中で本件についても触れており、遺体と接した専門家たちは誰一人として「自殺は不可能」とは唱えなかったという。

心酔していたサイビーがキムさんを死に誘ったのか、本当のところは分からない。だが既存の宗教を否定し続けたキムさん自身、ひょっとするとコミュニティの欺瞞に半ば気づいていたかもしれない。キリスト教では自殺は禁じられているため、その手段として「キリストの受難」の場面を模すことを思いついたのか、それとも精神的に追い詰められた結果、イエスとの自己同一化という誇大妄想に憑りつかれてしまったのかはもはやだれにも分からない。

悲しいことに彼にできたのは奇跡や慈愛といったキリストの行いではなく、聖書の物語を表面的になぞるだけのことだった。自ら宗教指導者になることも、復活することもできなかったのである。

 

故人のご冥福をお祈りいたします。

 

ブタを積んだトラック――アイオワ州運送業男性行方不明事件

畑に囲まれた田舎道の真ん中に大型トラックが乗り捨てられ、後部コンテナには大量の仔ブタが生きたまま取り残されていた。ドライバーは一体どこへ消えたのか。

 

概要

2023年11月21日(火)の未明、アメリカ中西部アイオワ州ウォールレイク在住のトラック運送業デビッド・シュルツさん(53歳)が仕事中に行方が分からなくなったと家族から捜索願が出された。当然、交通事故が真っ先に懸念されたであろうが、周辺で該当する事故の報告はなかった。

その日の午後になって、デビッドさんの携帯電話から妻の元に電話が入った。彼女は前夜からすでに30回は電話を掛け続けていた。

「ああ、ようやく」と思って、応答すると、相手は聞きなれない女性の声。

ダグラス近郊の住民から「無人のトラックが早朝からずっと停めっぱなしになっている」との通報が入り、トラックを確認しにきた女性警官だった。

デビッドさんのトラックが見つかったのは州間ハイウェイ20号線から北に逸れた畑に囲まれた田舎道。コンテナには搬送途中の多数の仔ブタ、携帯電話など僅かな遺留品が残されていたが、本人の行方はその後も分からなかった。

行方不明となったデビッド・シュルツさん

トラックのドアは無施錠で、車内には財布、現金、携帯電話、カギ類が残されており、血痕や争った形跡は見当たらなかった。近くの側溝から彼の冬用ジャケットも発見され、中には軽業務で使うポケットナイフ、イヤフォン、ぼろ布などの私物が残されていた。

捜査機関は遺留品に第三者の痕跡が残されていないかなどを調べるため、DCI犯罪研究所に遺留品の鑑定を依頼したが何も検出できなかった。

 

日本で50歳代男性の行方不明といえば、金銭トラブル、家庭不和、病気などを動機とする自発的失踪ないしは自殺が疑われるケースが多い。しかしデビッドさんの妻サラさんは、彼が自殺や失踪する動機はなく「荷を残したままにして居なくなるなんて、彼の職業倫理から見ても絶対にありえない」として、事件性を強く疑っている。

サック郡保安官事務所と捜索救助の非営利団体ケイジャン連合海軍」ら数百名のボランティアの協力を得て、近郊数十キロの範囲を一斉捜索し、12月までに地域一帯の潜在可能な範囲の捜索はすべて完了したと報告された。上空捜索やドローン、警察犬なども導入されたが大きな成果はなかった。

行方不明から100日以上が経った現在も、デビッドさんの消息は分かっておらず、発見につながる有力情報や新たな手掛かりも得られていない。

 

時系列と地図

11月20日(月)夜7時にウォールレイクの自宅を出発したデビッドさんはイーグル・グローブの現場に向かった。自宅からおよそ90マイル、休憩なしで車で片道およそ1時間半の距離である。彼はここで大量の仔ブタが収容されたコンテナをトラック後部に積載した。

10時30分頃にイーグル・グローブの現場に入り、10時50分頃に現場を発った。来た道をほぼ引き返すような格好で、届け先の農家があるサック・シティ方面へと向かったはずだ。

下のマップはイーグル・グローブから届け先までのおおよその予想ルートを示す。イーグル・グローブから南下したトラックは、州間ハイウェイ20号線を西に進んだとみられる。

程なく午後11時15分、フォート・ドッジ近郊の道路カメラが側道の休憩帯で停車中の彼のトラックを捉えていたとされる。画像公開はなくカメラの位置は分からないが、20号のロードサイドは下のストリートビューで分かる通り、延々と畑が続く一本道で店や自販機も見当たらない。

深夜にこんな場所でヒッチハイクがあったとも思えず、事故などがあれば何らかの痕跡が残されていたはずだ。考えられるとすれば、電話応答、便意、何かトラブルを察知したのか、不意な用事のために停車したと考えるべきだろう。

 

本来ならそこから1時間もあれば届け先に到着できたはずだが、彼のトラックは一向に到着せず、電話をしても応答がない。心配した家族が警察に通報したのが21日午前2時23分だった。

しかし見つかったトラックは、目的地から7~8マイル、車で10分程の位置に乗り捨てられていた。下のストリートビューはトラック発見現場とされる交差点付近。車体は「路肩」ではなく「走行車線上」に停まっていたという。

またジャケットが見つかった「溝」の位置ははっきりしないが、日本でしばしば自転車の転落事故や高齢者の転落死などが聞かれるような「コンクリート護岸の大きな用水路」は見当たらない。おそらくは幅40センチほどの細いコンクリート用水路か、土岸の溝を示すものと思われ、デビッドさんが転落して埋もれたり流されたシチュエーションは考えにくい。

 

 下の地図は、届け先の農家があったサック・シティと車両が発見されたダグラスのおおよその位置関係。サック・シティから更に16マイルほど南進したウォールレイクに自宅があった。なぜトラックは20号線から目的地のある「南」に向かわず、「北」に進路を取ったのか。地元出身の彼が道を誤ったとは到底考えられない。

 

GPSの照会により、20号線から「北」へ向かった時刻は「午前0時18分」、交差点付近で停車したのは「午前0時40分」とされている。この予期せぬ動きは、やはり何かしらの事件性を疑わないことには説明がつかない。

 

もうひとりの失踪者

デビッドさん失踪の3週間前、アイオワ州カルフーン郡の中心部ロックウェルシティ在住のマーク・リーズバーグさん(54歳)が消息を絶っていた。警察は両事件の関係性を否定しているが、地理や二人の年代が近いことからも当初何かしらの関連があるのではないかと注目された。

下の地図で右上の☆がイーグル・グローブ、青◎がデビットさんのトラック発見現場、その下の二つの☆がサックシティと彼の自宅があったウォールレイクの位置関係である。

赤で囲まれた地域がカルフーン郡〔google map〕

リーズバーグさんは10月28日から勤めに姿を見せなくなり、同僚たちが自宅を訪ねたが彼の姿は見当たらず、11月1日、勤務していた医療機器メーカー「エッセンシア」から行方不明の届け出が出された。ハイウェイ20号沿いの自宅には財布と携帯電話が残されていたが、自家用車のクライスラーPTクルーザーが車庫からなくなっていたため自発的失踪と考えられた。

連絡を受けて駆けつけた妹のメアリー・ブラウンさんは「兄が仕事を放り出していなくなるとは考えられない」と述べ、財布や携帯電話を残して車だけがなくなっている状況について記者から問われると「たとえば夜中に誰かが玄関で助けを求め、それに応対しようと思って、何も持たずに外に出たのかもしれません…なぜ車がないのか、彼が見つからないのか、理由は私にもわかりません」と困惑した様子で答えた。

 

3週間後のデビッドさん失踪を受けて、アイオワ州捜査当局も捜索に本腰を入れ、「ケイジャン連合海軍」の協力により一帯の合同捜索に乗り出した。

12月1日午後、カルフーン郡の「木々に覆われた放棄地」の奥でリーズバーグさんのPTクルーザーが発見された。車内からリーズバーグさんの遺体が見つかり、「一発の銃創」を死因とする予備調査の結果が報告された。

不正行為(犯罪の証拠)は確認されておらず、遺体は検視局に送られたが事後報告がないことから自死と断定されたものと思われる。

 

検討

デビッド・シュルツさんの妻サラさんによれば、夫は「きみは僕の妻、僕の人生そのものだ」といつも愛情を注いでくれる家庭人で、家族を捨てて自ら失踪したとは思えないと語る。また泊りや遅くなるような時は必ず家に連絡を入れていたと言い、逆説的に電話が掛けられない状況に置かれていたのではないかと危惧している。

夫婦関係、家族仲は円満だったという

運送業という職業柄、遠方や地方では現金支払いが必要とされる場面が多く、彼は日頃から千ドル以上のまとまった現金を持ち歩いていた。一週間分の現金をまとめて財布に入れておく習慣があり、「月曜日に入れた分」が手つかずで残されていたという。

また自発的失踪説を遠ざける根拠として、デビッドさんは新しいトラックを購入したばかりで乗り換えのための整備に励んでいる最中だった。根っからの「トラック野郎」だった彼が、新車に乗らずにいなくなるなんて考えられないと妻は語る。

 

アイオワ州は人口約320万人でその85%を白人種が占め、ヒスパニック6.8%、アフリカ系5.2%、アジア系3.0%、ネイティブアメリカン1.4%と続く(2020年国勢調査)。州としては製造業、バイオテクノロジー、金融保険サービスなどの経済活動に優れ、失業率も平均より大幅に低い4%前後である。またブタ、牛、卵、トウモロコシ(エタノール)、大豆の生産も国内最大規模である。

行方不明となった周辺エリアは豊かな自然に囲まれた酪農や牧畜業が盛んな一帯で、皆無ではないだろうがおよそ犯罪には似つかわしくない土地に思える。

仮に自発的失踪をするのであれば、空港や駅など交通アクセスのよい場所まで出向いたり、残金もあることから愛車で遠方まで行くこともできたはずである。

また氷点下にもなる11月の深夜、上着を脱ぎ棄てての失踪というのも理解しがたい。にもかかわらず「凍死」という結果も報告されていない。能動的な失踪であれば、財布や携帯電話のように車内に置いていってもよいものを、なぜかトラックの近くで落としていった。それが本人によるものか第三者によるものかは断定しえないが、どこか作為的な印象を受ける。

仮に自死を想定したとて、自宅から30分程の何の変哲もない農道脇で決行する理由がない。仕事の合間、しかも生き物を放置したままにしてというのはあまりに不釣り合いな状況に思われる。最後の仕事を完遂してよきタイミングを見計らうか、トラック野郎として最期を車中で迎えるというのならばまだしも、深夜に畑の真ん中から一体どこへ姿を消したというのか。

失踪時の愛車は赤白ストライプ。新車は黄色だった

失踪当初、サラさんが絶望に駆られる中、彼女の弟は、ひょっとすると心臓発作か何かで病院に向かおうとしたのかもとアイデアをくれたが、救急搬送は記録されていなかった。デビッドさんの性格を知るトラック仲間は、もし車にトラブルがあって緊急避難させたのだとしたら、彼は積載していたカラーコーンを車両の周りに並べて周囲に異常を知らせるだろうと予測した。だがカラーコーンは置かれておらず、車体のトラブルも確認されていない。

サラさんは状況の不自然さから、トラックを放置したのは夫ではなかったのではないかと捉えており、彼はだれかに連れ去られたのであろうと主張する。「彼は素早いし屈強だし愚かではないので難しいとは思うけれど」と前置きしたうえで、どこかでちょっとした休憩をした際に「彼は何か見てはならないものを目撃して、相手に脅されて連れて行かれた」か、「ひょっとすると優秀なドライバーを必要としていた集団に拉致されているのではないか」とも口にしている。

いずれにしても危険な状況に置かれているように思われるが、彼女は夫の生存を固く信じている。きっと家族に安否を知らせたがっているに違いないが、それができない状況に置かれているか、相手に家族の居場所が知られることを恐れて「家族を守るために」あえて連絡してこないのかもしれない、と。

 

サラさんのアイデアから想像されるのは、デビッドさんがイーグル・グローブから南下して20号線に入るまでの区間ですでに運転者が入れ替わっていた可能性である。

夜7時に自宅を出てから、真っ直ぐ行けば片道1時間半のところ、荷積みの現場に到着した時刻は「10時半」とあまりに遅い。用事があったのか、食事でもしていたのか、寄り道した場所があったのかは明らかになってはいないが、「行き」の道中ですでに何らかのトラブルに遭っていたのではないか。しかしデビッドさんは何とか現場にたどり着き、荷積みを終えて、再出発したところをすぐに見つかって襲われた、と筆者は考えている。

 

ハイウェイ20号線・フォート・ドッジ近郊の道路カメラが午後11時15分に「停車中のトラック」を捉えていたとされているが、その運転手が誰だったのかまでは言及されていない(公表されていない)。このときすでに入れ替わっており、停車したのは、仲間と連絡を取り合っていたか、後方からくる仲間の遅れを待っていたのではないかと推測する。

運転技術に長けたベテランドライバーのデビッドさんならば仮に方角を誤ったとしても切り返すことは容易である。畑に囲まれた道にトラックが残されていた状況は、犯人がひと気のない場所まで運転して、文字通り「乗り捨て」、追尾してきたか呼び出したかした仲間の車に乗り込んで去っていったようにしか思えない。

読めないのはその発端と、動機の部分である。たとえば貨物窃盗団のようなグループに目を付けられて、デビッドさんが降車させられたとしても、コンテナの中味が大量の仔ブタというのはすぐに分かりそうなものである。また強盗団が相手であれば、財布や現金に手を付けないというのもどこか腑に落ちない。

地理的に見て、よそからやってきた「流れ者」による犯行の可能性はやや薄いだろう。彼は地元出身者であることから、長年の内に仲違いやトラブルになった相手も周囲に少なからずいたと考えられる。だが仮に恨みを持つ相手がいて付け狙われたとしても、連絡を取り合う「業務中」を狙った犯行は賢明な判断とは思えない。逆説的に、地元民かもしれないが旧知ではない相手という見方ができる。長きにわたって恨みを買うような相手であれば、聞き込みからも浮上しそうなものである。

最も当てはまりやすいのは、煽り運転や迷惑駐車などの交通トラブル、あるいは薬物取引や強引なナンパ行為などをデビッドさんから注意されて報復に及んで拉致したケースである。トラックの運転に第三者が介入したとすれば、不可解な発見場所の説明や、側溝で見つかったジャケットは偽装工作という解釈も成り立つ。しかしおそらく近郊の素行不良者もその数は限られており、案外、普段は問題行動の目立たない社会適応性の高い人物や中高年者かもしれない。

自発的失踪や自死、殺害の可能性さえ見極めにくい不可解な事案である。

 

家族

夫が失踪して1か月もするとクリスマスがやってきて、子どもたちは捜索活動の支援者や心配してくれた人たちから山のようにプレゼントをもらった、とサラさんは振り返る。例年とは全く違ってしまったクリスマスは彼女に夫の不在を一層強く感じさせた。それは思いがけないかたちでたくさんの贈り物に囲まれた子どもたちにとっても同じ気持ちだったであろう。

そんな子どもたちを見守るサラさんの複雑な心中を察したのか、支援者のひとりが「あなたにはティディベアをつくってあげる」と提案した。彼女はテディベア制作の素材として、デビッドさんのお気に入りだったトラックメーカー「ピータービルト社」のワッペンが入ったキャップやいくつかの古着を提供したという。

「それは私にとって、たった一つの、最高のプレゼントになるに違いありません。だって、お父さんだと思って、いつでもハグできるでしょう」

www.youtube.com

サラさんはフェイスブックで頻繁に近況を報告している。事態に進展があれば警察から連絡してもらうことにはなっているが、身元不明男性の遺体発見のニュースが耳に入ると、いてもたってもいられず自ら当局に確認してしまうと綴っている。自分の夫ではないことが確認されると、そうした見ず知らずの死者に対しても居たたまれず、日々祈りを捧げているのだという。

サラさんたちは定期的にメンタルセラピーを受けながら警察や弁護士らとのやりとり、情報発信や取材対応をされている。記事を読むと、家族にできることは限られていることが実感され、悶々と悩み、悲しみ、それでも子どもの成長と家族を支えて生きる姿に胸を打たれる。

https://www.facebook.com/sarah.bogue.96

地元サック郡防犯協会の出資と支援者からの寄付により、発見につながる情報提供には最大で28,000ドル近い懸賞金が設定されている(2024年2月末現在)。懸賞金の額がどれだけ情報提供や犯人逮捕につながるのか具体的には分からないが、事件の周知や風化阻止のためには有効な手段である。

一方で一家の大黒柱を失ったシュルツ家には小学生の子どももおり、事態の長期化により財政状況の逼迫が懸念される。捜索活動の継続に向けて以下のリンクからドネーションを受け付けている。

www.gofundme.com

 

家族の思いがデビッドさんの元に届いていること、一日でも早く家族が再会できる日が来ることを祈ってやまない。

死を免れる死刑囚——連続殺人犯トーマス・クリーチ

「43年間続いた悪夢を終わらせるときがきました」

連続殺人犯にして米アイダホ州最長死刑囚のひとりトーマス・クリーチ(73歳)の執行が目前に迫り、被害者遺族の一人はウォールストリートジャーナル紙の取材にそう語った。

2024年2月28日(水)、男は「最期の食事」としてチキン、マッシュポテトのグレービーソース添え、アイスクリームを所望した。

しかし同日午後、州矯正局(IDOC)は、あろうことか死刑執行が失敗したことを報告した。同死刑囚は執行室の台に拘束され、医療チームが薬物注入のためにまず静脈ラインの挿入を行う手順になっていたが、腕と脚に8回、およそ1時間にわたって繰り返し試みたられたが見つけられなかったという。

 

クリーチの犯罪

アイダホ州では12年ぶりの死刑執行となる“はずだった”クリーチの犯罪とはどのようなものだったか。彼の塀の外での行動記録は限られており、犯罪記録についても大半が自白(手紙を含む)が元となっていることに以下留意されたい。

 

1950年、トーマス・ユージン・クリーチはオハイオ州ハミルトンで口論の絶えない不安定な家庭に生まれた。両親が離婚すると幼いクリーチは父親と一緒に暮らすこととなる。厳格だった父親は少年に体罰を与えたが、クリーチは銃やアウトドア、釣りなどの手ほどきをしてくれる彼をとても愛していた。

だが父親の素行不良は子どもたちに悪影響も与え、クリーチは15歳頃から家出を繰り返すようになった。サンフランシスコに滞在した時期に「悪魔教会」に出会い、同性愛者の男性を手始めに、儀式のために100人近くを殺害してロス近郊の2か所に埋めたと主張している。後年、当局は埋葬地とされる場所を捜索したが、見つかったのは牛の骨だけだった。端的に言えば、クリーチは「信用できない語り手」なのだ。

悪魔教会(the church of satan)…1966年4月30日、アントン・ザンドール・ランヴェイにより設立された団体。一般的にイメージされるような悪魔を神仏のごとく崇拝するのではなく、既存の宗教や奇跡(超自然的現象)をフィクションと捉え、肉欲の獣たる人間の本質を追求するサタニスト自身を宇宙の中心(神)とする。信仰のアプローチは一義的ではないが、懐疑的(冒涜的)自己中心主義、肉欲的自己崇拝、「私有‐神」論と称されている。

www.churchofsatan.com

クリーチは「はじめての殺人は16歳だった」とも語っている。結婚するつもりでいた恋人を交通事故で亡くし、その責任はニューマイアミに住んでいた男友達にあると考えての報復だったという。死因は溺死。小学生の頃に喧嘩でボロボロにやられて帰ると「やられたらやり返せ。周囲に押し流されるな」と父親から説教されていたためだと報復に至った遠因を述べている。

また地元紙はクリーチの手紙での告白を基に、同時期「ヘルズ・エンジェルズ」(暴走半グレ集団)に所属し、依頼されてハミルトンのオートバイギャング5人を血祭りにしたとも伝えている。

警察に残されていた記録によれば、1969年に非武装強盗の罪で逮捕され、12月に懲役刑を受けている。70年5月20日、家族が服役するクリーチの面会に訪れた際、目の前で父親が心臓発作に見舞われた。だが常駐看護師が医療機関に届けるのに手間取り、父親は息を引き取った。事情を知って激怒したクリーチは、葬儀の後、件の男性看護師に刃物で襲いかかり20回近く滅多刺しにした。だが男性看護師は奇跡的に死を免れ、14か月入院したとされる。当のクリーチはこの件で起訴されることはなく、2年の服役で仮釈放とされている。そんなことが現実にありうるのだろうか?

出所後のクリーチは流れ者として越境を続け、アイダホ州で出会った当時17歳のトマシン・ローレン・ホワイトと73年に結婚する。翌74年、アリゾナ州ツーソンのモーテルで起きたポール・C・シュレーダーさん(70歳)刺殺の容疑で二人は指名手配を受けた。ユタ州ビーバーで逮捕されたが、審議の結果、起訴は見送られた。彼らを公判に掛けることができない、刑事責任能力がないと見なされたためである。

オレゴン州セーラムの精神病院に強制入院させられ、妻トマシン・ホワイトは入院中の79年に首を吊って自ら命を絶ったとされる。後年のクリーチの説明によれば、麻薬密売組織から足を洗おうとしてメンバー達とトラブルになった際、彼は取引の帳簿を奪って組織犯罪対策課に引き渡すと言って脅し、強引に組織を抜けた。だがクリーチが服役した隙にメンバーがアパートを訪れ、手帳を奪い返された。何も知らされていなかった妻は集団レイプに遭い、建物の4階から突き落とされて心身に深刻な後遺症を負ったという。それが自死に至った決定的要因であろうと言い、彼はレイプ犯のうち2名を殺めたと話している。

病院での拘束期間を終えたクリーチは、オレゴン州ポートランドでたばこ13カートンを窃盗し、仮釈放違反で逮捕される。州当局は精神病院での長期収容になると見越して起訴手続きを行わなかったが、診療に協力的でスタッフや他の患者とも友好的に過ごしたクリーチは「疾患の疑いなし」と診断されてほどなく退院の許可が下りた。ポートランドのセント・マークス教会で墓守の職に就いたが、居住区内でウィリアム・ディーン(当時22歳)の遺体が発見されたのと時を同じくして、17歳の新恋人キャロル・スポルディングを連れてアイダホに移動した。

アイダホ州ジャーナル紙(74年11月21日付)の記事によれば、11月5日頃、2人は州内をヒッチハイクで移動中、テキサスから巡行中だった画家のエドワード・トーマス・アーノルドさん(34歳)とジョン・ウェイン・ブラッドフォードさん(40歳)の車に拾われると、二人を射殺してカスケード近郊を通るハイウェイ55号沿いの溝に死体を遺棄したとされる。遺体は寝袋とキルトで覆い隠されており、車両は同じ道の40キロ先に乗り捨てられていた。

ほどなく男女への疑惑が浮上して指名手配がかけられ、グレンズ・フェリー近郊で逮捕された。クリーチは逮捕当初こそ「現場近くにはいなかった」と主張したが、その日の内に「私がやった。2人を殺したのは私だ。助けてくれ」と犯行を自白。彼らが刃物を見せて恋人のスポルディングがレイプされそうになったため、衝動的に銃で応戦したと供述する。1週間後、クリーチは割れた鏡で手首を切ったが、すぐに取り押さえられて軽傷で済んだ。

75年6月16日には同房で口論となったウィリアム・O・フィッシャーを襲って負傷させたが、容疑事件以外で裁判に影響を与えるおそれのある情報を公表してはならないとして緘口令が敷かれた。

 

審理の行方

〔1〕クリーチの裁判

1975年10月に始まった裁判で証言台に立ったクリーチは、13州で起きた42件の殺人が自らの手によるものだと発言して全米に衝撃を与えた。

だが当局は自白の大半が虚偽であり、悪魔教会の話にしても「一言一句すべてプレイボーイ誌の受け売りだ」と反駁。当時関与の疑いがあるとして当局が追及した殺人事件は合わせて9件で、いずれも悪魔教会とは無関係で主に強盗目的と見られていた。

数多の余罪を告白するクリーチだったが、一方で直近のアーノルド&ブラッドフォード殺害については無罪を主張していた。だが事件直後に偶々クリーチから声を掛けられて親しくなったという男は、クリーチからショットガンを渡されて遺棄するように頼まれていた。

追加証人や再調査により審議は長期化したが、今日のような記録媒体に乏しい当時のことで事実確認の困難な事象があまりにも多かった。陪審も混乱を極めたが、1976年3月25日、2件の殺人によりクリーチに絞首刑の判決が下された。

尚、恋人のスポルディングは一部の殺人幇助を認め、懲役2年の判決を受けた。その間、男児を出産している。

独房で自作の歌を唄う31歳のクリーチ [KTVB]
〔2〕死刑制度をめぐるうごき

アメリカでは法律や裁判制度について連邦(国)と州の二元的な仕組みが採られ、死刑の有無や執行の手段、量刑の判断基準などは州によって異なる。アイダホ州では1957年の執行以来、死刑制度は事実上凍結されていたが、60年代後半から死刑をめぐる国民的議論が再燃していた。

 

1967年8月、ジョージア州サバンナでウィリアム・ヘンリー・ファーマン(24歳)が強盗殺人で逮捕された。いかにも金持ちそうな豪奢な建物だった訳でもなく、事前に計画された犯行でもない。酔っぱらったファーマンはラジオでも手に入ればというつもりで物色を始めたが、物音に気付いて起き出してきたウィリアム・ミッキさんに見つかり強烈なタックルを受けた。怯んだ強盗はミッキさんに銃を向け、後ずさりしたところ、洗濯機のワイヤーにつまづいて転倒し、その拍子で一発誤射してしまう。慌てたファーマンはすぐにその場から逃走したが、弾丸は図らずもミッキさんに命中し、その命を奪う。

情緒障害、精神障害と判定され、過去に4度の前科持ちだった黒人ファーマンの「転んだはずみ殺す気はなかった」という証言が素直に認められるとは思えなかった。黒人弁護士クレランス・メイフィールドは殺人罪適用の可否をめぐって争い、電気椅子の回避に努めた。しかし過失とはいえ発砲は犯罪の最中に生じており、結果的に人命を奪った事実は揺るがず、69年に死刑判決が下される。

当時の社会情勢として公民権運動とその反発が続いていた。テキサスに基盤をもつジャクソン大統領の後押しにより1964年に公民権法が制定され、アフリカ系アメリカ人への差別解消に向けたアファーマティブ・アクションが推進されたものの、差別解消は一筋縄には進まなかった。65年に公民権運動のデモ行進と警官隊との衝突によって死傷者を出した「血の日曜日事件」、68年4月には差別に対して非暴力による抵抗を唱えてノーベル平和賞を受けたキング牧師が暗殺されていた。

弁護団はファーマンの判決についても差別感情や恣意的介入があったのではないかと訴え、公平性を欠いた状況で死刑を下すべきではないと疑義が呈された。これにより法律や裁判は成熟社会の進歩と人道的正義による啓発を反映すべきだとする世論が広がりを見せた。社会正義を求める市民たちが「異論の余地がある」犯罪について死刑という可塑的刑罰を与えることそのものに疑義を抱いたのである。

1972年6月、連邦最高裁判所は「死刑は、差別的な結果をもたらす恣意的かつ気まぐれな方法で課される場合、残酷で異常な刑罰を禁じる憲法修正第 8条に基づき違憲である。」との訴えを評決5対4で可決した。この「ファーマン対ジョージア州判決」は、各州でばらつきのあった死刑適用に法的一貫性を持たせるために、事実上、全米の死刑制度を一時的に無効化させた。ファーマン本人は勿論、当時の588人の死刑囚は死刑適用が失効され、終身刑に改められるという前例のないできごとだった。

(※ファーマン自身は死刑制度への批判や国を相手取る裁判を主導していなかった。84年4月に仮釈放が認められ、目を患って障害者保障や生活保護で部屋を借り、缶拾い等をしながら暮らしていた。2004年に窃盗で逮捕、2016年に再び仮釈放された。)

 

死刑制度無効の「猶予」はそう長くは続かなかった。

1973年11月、ジョージア州グウィネット郡のハイウェイ20号脇の排水溝で頭部を銃撃された男性2人の遺体が見つかり、フレッド・エドワード・シモンズさんとボブ・ダーウッド・ムーアさんと特定される。生前彼らはフロリダ州を走行中に車が故障し、ハイウェイパトロールの助けを借りて近郊の中古車ディーラーに送ってもらっていた。そのとき2人は多額の現金を持ち合わせており、旧車を購入。旅を再開させた直後に殺害されたものとみられた。

新聞報道を見た旅人のデニス・ウィーバー氏は「ヒッチハイクで彼らの車に乗せてもらった」として情報を提供した。彼は北フロリダからジョージア州アトランタまで同乗し、殺害された2人のほか、ヒッチハイカーの先客グレッグと16歳の少年アレンがすでに同乗していたという。同乗者2人はノースカロライナ州アッシュビルを目指しており、グレッグが運転役を買って出ると、シモンズとムーアは深酒したが、5人でいたときにトラブルの予兆はなかったと語った。

当局からの連絡を受けて、アッシュビル警察は車両とヒッチハイカーたちを追跡。ほどなく中古車を奪ったトロイ・レオン・グレッグとアレン、その他3人が同乗しているところを逮捕された。証言台に立ったグレッグは、道路脇で休憩中にシモンズさんとムーアさんに暴行されそうになったと述べ、銃撃は正当防衛だったと主張する。

グレッグが逮捕時に100ドル以上の現金を所持し、ヒッチハイク時とは別の服に着替えていたが、旅行前は手持ちが8ドルだったことが判明。グレッグは「当たり屋行為でタクシー運転手から金を巻き上げた」「服は元々持っていたか、モーテルで拾ったか、アレンが買ってきたもの」と曖昧な証言を繰り返した。

しかしアレン少年は、獄中でグレッグから口裏合わせをするように指示する手紙を受け取ったと暴露し、泥酔した2人を車から降ろした際に「強盗するぞ」と指示があったと証言。また検視官は、3発の銃弾がこめかみや後頭部、右頬に撃ち込まれていたとして、襲われて応戦する場面での反射的な射撃ではないことを示した。グウィネット高等裁判所では先述した「ファーマン対ジョージア州判決」以来の死刑判決が下された。

弁護側は死刑適用に疑義を唱え、1976年3月、連邦最高裁で「グレッグ対ジョージア州判決」の可否をめぐる審理が行われ、7対2で判決の妥当性が支持されることとなる。評決日に因み「7月2日訴訟」とも呼ばれるこの決定で、死刑制度の一時凍結は解除された

死刑に科すべき要素、判断手順のプロセスが明らかとされ、いつ科されるかを決定する合理的基準さえあれば「残酷で異常な刑罰」とは言えないものと判断された。また死刑凍結に対する反発で「死刑は違憲ではない」とする世論が強まっていたことも背景にあろう。

最高裁は死刑制度について「憲法修正第8条の中核となる人間の尊厳の基本概念に適合している」と認定。「社会の道徳的怒りの表現」であり、人道に対する重大な侮辱に対する「唯一の適切な対応」であるかもしれない、との見解を説いた。死は重篤で取り返しのつかないものであるが、意図的に他人の生命を奪う犯罪と不釣り合いであるとは言えず、「最も極端な犯罪にふさわしい極度の制裁である」とした。

死刑制度は半恒久的な不文律として存在するのではなく、有史以来、その場所そのときどきの人権意識や社会情勢に照らしてその必要性が議論され、適用基準や処刑方法などが定められてきた。今日でも州によって死刑の可否は異なる。

余談になるが、死刑囚となったグレッグも「死刑執行」を免れている。1980年7月、ジョージア州刑務所にいた他の3人の殺人死刑囚と共に脱獄を計画し、独房の鉄格子を金ノコギリで破り、壁沿いに非常階段へと伝い、駐車場に準備されていた仲間の車に乗り込んで逃走に成功したのである。グレッグが新聞社に脱獄の成功を知らせるまで発覚していなかった。しかしその晩、ノースカロライナ州のバーで深酒し、ウェイトレスにちょっかいを出していたところをアウトロー・バイカー集団に因縁をつけられて袋叩きにされ近くの湖に遺棄された。享年32。バイカー集団の容疑者は逮捕されたが証拠不十分により告訴は取り下げられた。

 

〔3〕死刑回避と二度目の死刑

クリーチの裁判に話を戻そう。

アイダホ州では翌73年7月7日に死刑制度自体は復活しており、死刑判決の下された76年3月は最高裁でまさに「グレッグ対ジョージア州判決」の審理が行われた直後だった。評決の結果次第で刑の即時執行が予想されるなか、弁護団はそれを回避するため、ひとまずクリーチを他州での余罪に関する裁判へと送り込んだ。

74年にカリフォルニア州サクラメントの自宅で発見された税監査官ビビアン・ロビンソン(当時50歳)の遺体は腐敗が進行して当初は死因の特定も困難な状態だった。だが徹底した鑑識の結果、検出された指紋がクリーチのものと一致し、捜査を経て窒息死と判明した。またクリーチが墓守として勤めていたオレゴン州セイラムの教会で射殺されて見つかったウィリアム・ディーンについても犯行を認めた。最終的にアイダホ、カルフォルニアオレゴンの3つの州で5件の第一級殺人による有罪判決を受けた。

その間、ブルース・ロビンソン弁護士は、「グレッグ対ジョージア州判決」の議論や最高裁の下した判断を精査し、「クリーチは死刑の適用基準を満たしていない」と判決への不服を申し立てた。

79年、「グレッグ対ジョージア州判決」に対する最高裁決定よりも前に制定された当時の州法における死刑制度は「違憲」であり法的正当性はないことが州最高裁で認められた。クリーチへの断罪が白紙撤回されることはなかったが、終身刑への減刑に成功する。弁護人の尽力と時勢によって紙一重で死刑を免れたのである。

 

クリーチの身柄はアイダホ州厳重警備施設に送られた。凶悪犯罪者でありながら反抗的態度を示すことなく、詩や音楽を好み一見温厚そうな様子から所長の信用を得、独房を出て所内清掃などに携わる用務員役を任されることとなる。彼の危険性を知るエイダ郡保安官や裁判で死刑を主張してきた検事、囚人らが抗議したこともあったが担当を外されることはなく、やがてそうした懸念は現実のものとなる。

1981年5月13日、クリーチは電池入りの靴下を凶器にして、自動車窃盗で懲役3年の刑を受けたデビッド・デール・ジェンセンを撲殺した。ジェンセンは元々は警備の手薄なコットンウッド矯正施設にいたが、脱走騒ぎを起こしてクリーチのいたボイジャーの厳重警備の刑務所に身柄を移されていた。当人の弁によれば「麻薬取引」を持ち掛けられて口論になったことがあり折り合いが悪かったとされる。

量刑公聴会に掛けられることとなったクリーチは、運動と入浴のために独房から一時解放されたジェンセンから先に脅迫や攻撃を受けたため応戦した正当防衛だったと説明し、ジェンセンの父親に謝罪した。だがマスコミの前では「残りの人生を独房で過ごすくらいなら死んだほうがマシだ。死を受け入れる準備はできている」と死刑を望んだ。

死亡したジェンセンは数年前に自殺未遂で脳の一部を切除しており、言語や運動能力に障害を持っていた。正当防衛の範囲をはるかに超えて一方的に攻撃し続けたとみなされたクリーチは、82年に生涯二度目となる薬物注射による死刑判決を言い渡され、死刑囚監房へと戻された。

84年、クリーチはジェンセン殺害について連邦最高裁に控訴請求し、即日却下された。訴えによれば、身元は明かせないが「受刑中の第三者」にジェンセン殺害を依頼されたことがあり、自分がその依頼を断ったため「第三者」がジェンセンに刃物を持たせてクリーチを襲わせ、トラブルを誘発させたのだという。つまり「第三者」によって仕組まれた罠によってジェンセンを殺してしまったというのである。

その後も、独房の暴力性を訴えて人身保護令状を提出するなど10年近くにわたってあらゆる上訴や動議を繰り返した。

Thomas Creech, mugshot [Idaho DC]

アイダホ州最高裁によれば、2019年までに「クリーチは少なくとも26人の殺害及び過失致死を認めており、犠牲者のうち7州から11遺体が収容された」と声明を出している。89年の開設以来、キース・ウェルズ、ポール・エズラ・ローズ、ジェームズ・エドワード・ウッドら重度精神疾患が認められた連続殺人犯たちを収容してきたアイダホ厳重警備研究所(IMSI)で専用ベッドの一床を割り当てられてきた。その内なる凶悪性と被害の甚大さはもはや疑いようもなく、長年にわたる経費負担の大きさからも迅速な死刑執行が求められてきた。

1977年以降、全米で1500件以上の死刑が執行されてきた。23州とワシントンD.C.では死刑廃止、3州が執行停止、24州で存続しており、近年は減少傾向にある。80年代以降、全米で死刑執行手段として「薬物注射」が注目された。連邦法による規定はないが、通常は3種類の薬剤を静脈注射する。麻酔薬ペントタールナトリウムで意識を失わせ、臭化パンクロニウムにより心臓以外を筋弛緩状態にさせ、最後に塩化カリウムで心停止させる。だが生産量が厳しく管理されていることから供給が追い付いていないことから、死刑囚たちの長期収容が問題となった。また看守らが投与に不慣れなことや麻薬常習者の場合、静脈注射が難しいといった直接的な課題も指摘されている。

ジェンセン殺害以来は模範囚として過ごし、詩と音楽、対話によって多くの長期収容者、死刑囚の心的ケアを担ってきたクリーチの存在は「獄中の神父」とも例えられる。州の恩赦・仮釈放委員会は、もはや社会的脅威ではないとして男の死刑執行停止を唱えてきた。州が執行の動きを見せるごとに、減刑や恩赦を求める動議が請願され、連続殺人犯の命をめぐって緊迫したシーソーゲームともいえる膠着状態が長年続いてきた。

2023年の減刑を巡る公聴会は3対3で過半数に達しなかったため死刑判決は維持され、これ以上の長期化を避けたい矯正局は薬物の確保を明言し、州知事は「先延ばし」に対してを公然と批判した。2024年1月、ジェイソン・D・スコット判事は2024年2月28日の執行を約する令状に署名。ジェンセン殺害当時、4歳だった娘は恩赦の嘆願を強く非難し、「これまで自分は決して恩赦を受けてこなかった」「父が亡くなって長い年月が経ったのに今なおクリーチが存命であることに憤りを感じます」と述べた。

 

下は二度目の死刑判決を受ける直前にクリーチが受けたインタビュー。落ち着いた様子で整然と語る様子、「娘も私がしてきた過ちを知っており、それによって彼女にも深い痛手を与えてしまったことを後悔している」といった家族への思いは、とても「精神異常者」「凶悪犯罪者」とは思えない。

www.youtube.com

「目に見えない脳の病気」と言われてしまえばそれまでだが、精神病者と健常者、凶悪殺人犯と前科のない一般市民、死刑囚や神父の間に、私たちが思い描くほどのちがいは存在しないのではないかという気にさせられる。

 

被害に遭われた方々のご冥福をお祈りいたします。

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1981 interview with Thomas Creech, Idaho's self-proclaimed serial killer - YouTube

The men who escaped their fate on Death Row | The Independent | The Independent

『ガール・イン・ザ・ピクチャー』—フランクリン・フロイドの大罪

2023年1月23日、フロリダ州ユニオン矯正施設に収監中だった79歳の確定死刑囚の死亡が確認された。明確な死因は特定できなかったが自然死とされている。男の名は、フランクリン・ロイド。

前年にNetflixで公開された映画『Girls in the picture』が世界的に高い評価を集め、嘘と犯罪にまみれたその半生が再注目された世紀の凶悪犯である。

 

あるダンサーの死

1990年4月、深夜のオクラホマシティ郊外を車で走行中の若者たちが道路沿いにブロンズヘアの若い女性が頭から血を流して倒れているのを発見し、まだ息があったため救急に通報した。

女性は外部から重度の打撲傷を負い、頭蓋底に大きな血腫が生じており、集中治療室へと担ぎ込まれた。彼女の身元はオクラホマ州タルサに住むトーニャ・ドーン・ヒューズと判明。近くのストリップ酒場「パッション」でダンサーとして働き、家族には年配の夫クラレンスと幼い息子マイケルがいた。

 

夫のクラレンスは翌日病院に駆けつけた。昨晩、滞在中の「モーテル6」(北米に展開する格安モーテルチェーン)で買い物に出た妻の帰りを待っているうちに寝入ってしまったと語った。発見現場には購入したばかりの食料品が散乱していたため、警察は彼の証言を踏まえて女性はモーテルへの帰り道でひき逃げに遭ったものと判断した。

 

年配の夫

同僚のカレン・パースリーさんは、89年の秋にトーニャと知り合った。ダンサーとしては一番下っ端で、活発で目立つ女性というよりはおとなしい優等生タイプだった二人はすぐに親しくなった。彼女は知識欲に富んだ読書家でよく語り合ったと振り返る。楽屋ではトーニャの痣まみれの背中を目にしたと言い、「転んでできた」と彼女は言い訳したが、癒えるよりも先にその数は増えていった。

カレンさんは暴力夫の存在を察して逃げるようにと勧めていた。あるとき「夫が私に生命保険を掛けた」と語ったトーニャは死の恐怖に晒されて怯えていた。だが夫に愛する2歳の息子マイケルを半ば人質に取られ、精神的に囚われの身だった若い母親は逃げのびる決心がつかずにいた。夫は警察友愛協会(FOP)にコネがあり、たとえ逃げ出してもすぐに見つけ出すことができると彼女に伝えていた。

トーニャが集中治療室に担ぎ込まれたと連絡を受け、カレンさんは病院に急いだ。看護師のひとりは、全身の痣や古傷を不審に思い、ひき逃げではなく別の犯罪行為だと漏らしていた。カレンさんが不審に感じたのは、首元のひっかき傷でまるで喧嘩でできた傷のように見えたという。帰宅すると、病院から電話が入り、トーニャの訃報を告げられた。まだ20歳だった。医師もひき逃げにしては外傷が比較的おとなしいこと、また術後の容体が急変したことを不可解に感じていた。

カレンさんはともかく彼女の死を家族に伝えてあげなくてはと考え、トーニャの実家と思われる連絡先を調べて電話を掛けた。だがトーニャの親と思われた人物は「娘は20年前に生後18か月で亡くなった」と返答する。それは亡くなった同僚が偽名を教えていたこと、彼女がトーニャ・ヒューズではなく別人であることを意味した。本名は明らかにならず、墓銘には「TONYA」とだけ記すことになったという。

カレンさんの知るかぎりでは、マイケルは年配の父親にはなついておらず母親の傍を片時も離れなかった。また何より父親によるDVが懸念されたため、カレンさんは病院にマイケルの今後について相談した。看護師は「坊やは無口で塞ぎ込んだ表情をしている」と伝え、福祉局(DHS)の資料を手渡した。福祉局は育児不適正を理由に父親からこどもの身柄を引き離し、すぐに里親さがしが行われた。

 

里親の証言

幸い里親はすぐに見つかった。マイケルは90年5月からオクラホマ州コクトービーン夫妻のもとに預けられ、6歳の小学校入学まで共に生活した。アーネスト・ビーンさんによれば、当初は哺乳瓶を手離そうとせずペプシしか受け付けない難しい子だったという。どうにかしつけようとすると、赤ん坊は頭を床に打ち付けてヒステリーを起こした。だがそれも一週間もすると落ち着いて、2年が経つ頃には赤ん坊から少年へと身体も情緒も目覚ましい成長を見せた。

養親ビーン夫妻のもとで育てられたマイケル

ビーン夫妻はマイケルを正式な養子に迎え入れることを決断し、94年に公的手続きが開始された。だが仮釈放違反で裁判中だった父親は一方的に息子を取り上げられるのは不当だと訴え、親権譲渡は難航した。クラレンスは審問の場で、福祉局がマイケルを引き取った当時、マイケルのおむつが濡れたままだったり愛情の欠如が見られたのは、妻の急死で自身も衰弱していたためだったと主張。父親は養育は不適格とされたが、息子との定期的な面会が認められた。

里親ビーン夫妻も息子との再会を求める父親と面会させること自体はやぶさかではなかった。だが少年はかつての父親を「意地悪な人」だと言って椅子の下に身を隠して面会を拒絶し、夫妻を困らせた。マイケルは当然クラレンスとトーニャの子どもだと思われていたが、福祉局が法的手続きのため親子関係の調査を行うと、驚いたことにクラレンスとマイケルの間に生物学的な親子関係が認められないことが判明。裁判所により男の親権は完全に抹消された。

事はそれで収まるかに思われたが、翌週、夫妻の家の前に見慣れないFordのピックアップトラックが徘徊するようになった。車は低速走行で家屋に近づくと、運転席の見知らぬ中年男が夫人を凝視してきた。男は「ものをたくさん持って死んだ者の勝ちだ」と彼女に言い放ち、そのまま去っていった。

意味は分からなかったが嫌な予感がした夫人は福祉局に、少年の“元・父親”が乗っていたのはどんな車かと尋ねた。再会を強く望んでいた元・父親クラレンスが“息子”を取り返しにきたのではないかと思ったのである。担当者は考えすぎではないかと話したが、伝えられた車の特徴は夫人が目にしたものと完全に一致を示した。

 

運命の日

1994年9月12日、森の中で木に手錠を掛けられ、口をテープで覆われた男性が発見され、ほどなく近くのインディアン・ミリディアン小学校の校長であることが判明した。校長は「保護者らしき男に銃で脅された」「男児が連れ去られた」と話した。

「マイケルを迎えに来た。協力しなければ何をするか分からないぞ。連れてこい」

校長は背後に死の恐怖を感じながらマイケルを1年生の教室まで迎えに行き、校長の車で山間の未舗装路へと移動を命じられた。男は車を停めるように指示すると、校長はしばらく歩かされ、目立った暴行被害こそなかったものの山中で拘束されたという。

児童誘拐は発生から48時間が生死を分けるとされ一刻の猶予も許されない。地元保安局はFBIに捜査を依頼し、特別捜査官ジョー・フィッツパトリック氏はすぐに少年と父親を名乗る誘拐犯の手配書を周辺の捜査機関に交付。直ちにマイケルの“元・父親”クラレンスに関する情報収集が行われた。

児童誘拐の広域捜査を知らせる通知

90年にトーニャ・ヒューズを名乗る女性が死亡した際、夫は生命保険金受給の手続きを行っていた。だがその書類に記載された社会保障ナンバーは、クラレンス・マーカス・ヒューズ本人のものではなくフランクリン・デラノ・フロイドのものだった。フランクリン・フロイドは、他にもトレントンデイビス、ウォレン・マーシャルなどの偽名を持ち、いくつもの犯罪歴があった。

逮捕記録では、まず1960年、フロイド16歳のとき、カルフォルニア州のデパートで拳銃を盗んで逮捕されていた。逃走中には警察との銃撃戦を繰り広げ、腹部に銃撃を受けたが回復して少年矯正施設に入った。

施設を出てアトランタでドライバーを始めた62年には、ボーリング場で4歳児を誘拐しての性的暴行により逮捕され、裁判で10年以上20年以下の服役を言い渡されている。だが精神検査のためジョージア州で病院に移送された際、逃走したばかりか銀行強盗に及んだ。脱走や強盗の加罪によりオハイオ州チリコシ―矯正院に収監されるも、再度脱獄を試みてペンシルベニア州ルイスバーグ刑務所へと収監された。

72年11月、社会適応施設に移った。2か月ほどの訓練期間を経てようやく社会復帰が認められるも、1週間後には性的暴行未遂で再び逮捕される。審問は73年6月に予定され、囚人仲間に保釈金を支度させてその間の拘留は解かれたが、フロイドはそのまま出廷することなく行方をくらませた。逃亡し、別人になりすましてそれから17年もの偽装人生を歩んでいたのである。

若き日のフランク・フロイドのマグショット


捜査員たちは男の前科を知って頭をもたげた。フランクリン・フロイドは子どもの父親でないばかりか、銃を所持していて何をしでかすか分からない元強盗の性犯罪者であり、逃亡犯で潜伏生活の“プロ”でもあった。男の素性が知れると、当然その“若妻のひき逃げ”についても疑問が抱かれた。彼女の死は、夫による保険金目的の「殺人」だったのではないか。

マイケルを誘拐した目的ははっきりしないが、いざというときの「人質」として攫ったものか、あるいは奪われた獲物を力ずくで取り返そうとする所有欲の強い熊のような男の「習性」なのか。とにかく男に子育てなど期待できない、一週間もすれば負担に感じて男児を殺害するのではないか、とフィッツパトリック特別捜査官は危惧した。

 

奇妙な父娘

捜査機関は広く情報提供を求め、児童誘拐とトーニャ・ヒューズ殺害の嫌疑はニュースでも大きく取り上げられた。ジョージア州に暮らす女性フィッシャーさんはホットラインに通報を入れた。

「テレビで“トーニャ”と呼ばれている女性の、生前の情報を持っています。彼女の名はシャロン・マーシャル。高校の同級生で私の親友でした」

 

シャロン・マーシャルは84年から86年までジョージア州のフォレストパーク高校に通っていた。男子からも注目される美貌の持ち主で成績も優秀、同年代より少し大人びていて常に弱者の味方だったと親友は語る。彼女は母親を亡くしており、料理や家事の一切を任されていた。科学部に所属したが毎日夕方にはまっすぐ家に帰った。

PCや携帯電話も普及していなかった当時、若者たちは夜中まで電話を占有してしばしば家族に渋い顔をされたものだった。だがシャロンは「こちらから掛けるから、急にうちに掛けてこないでね」とフィッシャーさんに求め、父親に通話を気づかれると怯えてすぐに電話を切った。家事もさせられて電話も許してもらえないとは余程厳しい父親なのだとフィッシャーさんは思っていた。だがそんなシャロンの父親ウォレンとの初対面は、彼がフィッシャー家に借金を申し入れに訪れたためだったという。

86年、シャロンジョージア工科大・航空宇宙工学科に全額奨学金を獲得しての合格を果たした。父親は卒業文集の広告枠を買って娘の快挙を祝うメッセージを寄せたが、親友は「なぜ父親が娘のセクシーな写真を載せるの?意味が分からない」とばっちりメイクを決めた彼女の写真を見て違和感を覚えた。

父親が卒業文集に寄せたメッセージ。合格を祝し、夢を応援しているようにも見えるが…

フィッシャーさんはマーシャル父娘の家に泊りに行ったことが一度だけあった。シャロンの部屋にドアはなく、カーテンで仕切られた一画だった。彼女は整理棚を開けて「父から貰ったものなの」とセクシーなランジェリーを見せて親友を驚かせた。「なぜこんなものを着るの?」と驚く親友に、シャロンは「きれいだから」とだけ答えた。

その後、二人が着替えをしている最中、父親ウォレンが銃を手に部屋に入ってきた。仰天したフィッシャーさんは叫び声をあげて慌てて身を隠した。ウォレンは「出直そう」と言って部屋を後にし、シャロンは「お父さんたらバカね」と言って笑った。だが再び銃を手に部屋を訪れた男は、フィッシャーさんに寝袋に籠って枕を頭の上に被せるように命じた。恐怖に打ち震える親友の隣で、男は娘をレイプし始めた。

翌朝、シャロンは言った。「彼はああいう人なの」「私は大丈夫だし、あなたも無事だった。だからこのことはもう忘れましょう」。親友は恐怖のあまりこの出来事をだれにも打ち明けることができず、青春時代に暗い影を落とした。

いつしかシャロンは「妊娠が発覚した」と言って泣きながら電話を掛けてきたことがあった。彼女は「子育ては父親が許さない」「出産して養子に出す」と話した。フィッシャーさんは以前から彼女の夢を後押ししており、大学合格時には一緒に泣いて喜んでいたが、シャロンは「父親の世話がある」と言って進学を断念した。別の友人は「大学への進学が彼女の目標であり生きる支えだった。だから道が閉ざされて打ちのめされていた」と語る。卒業後、アリゾナで出産すると言い残し、シャロンジョージアから姿を消した。

 

「違う!彼は夫ではなく、彼女の父親だった」

1994年、通報したフィッシャーさんはジョー・フィッツパトリック特別捜査官と面談し、トーニャと報道された女性はシャロン・マーシャルに間違いないこと、更にトーニャの年配の夫クラレンス・ヒューズの写真を見てシャロンの父親ウォレン・マーシャルであると断言した。だが親友はジョージアを発ってからの彼らの人生を知らない。

男女は父「ウォレン」、娘「シャロン」というマーシャル父娘の人生を捨て、89年6月15日にニューオリンズで結婚することになる。90年に彼女が亡くなるまでの間、アラバマの墓石から採用した「クレランス・ヒューズ」「トーニャ・タドロック」という二人の死者の名を騙った男女は、ヒューズ夫妻として生活を送っていた。

 

“父娘”が“夫婦”になる直前の88年、男女はジョージア州から南下し、フロリダ州タンパへと流れ着いていた。当時活況を呈していたストリップ劇場「モン・ヴィーナス」にはじめて現れたシャロン・マーシャルは明らかに場違いに見えた。ゴージャスな高級ランジェリー姿で練り歩く女性たちを前に、シャロンは白い総レースの上着を羽織って「お人形さん」のように縮こまっていたという。働き出してからも裸同然で歩き回るようなことはせず、恥ずかしがり屋で「昔話」を好まなかった。

同僚だったダンサーのヘザー・レーンさんは、彼女と父親の奇妙な噂を記憶していた。当時、店のダンサーたちは富豪が催すパーティーに招かれることがあった。そうしたパーティーの客は上品で“おさわり”を求められることさえなく、少ない踊りでチップを弾んでくれるため、楽で実入りのいい営業だった。シャロンは初舞台の場にそうしたパーティーを志願したが、その晩、「あの娘をつまみ出せ」と客からクレームが入った。トイレの前で性的サービスを持ち掛けたためである。彼女が言うには、父親に避妊具を持たされて“商売”するように命じられたのだという。

「娘にそんなことをさせる父親なんて、信じられなかった」

シャロンは妊娠しており、88年3月にマイケルを出産。赤ん坊を愛しむ若い母親のまなざしが忘れられないとヘザーさんは振り返る。

当時近所で暮らしていたミシェル・カップルスさんは15歳でマイケルのベビーシッターを頼まれ、マーシャル父娘の暮らすトレーラーハウスに出入りしていた。父娘に友人はほとんどなかったが、シャロンのダンサー仲間シェリル・コメッソが週に何度か車で遊びに来ていた。おしゃれで美貌のシェリルから声を掛けられるとドキドキして嬉しかった、とミシェルさんは振り返る。ヘザー・レーンさんによれば、シェリルはミスコン優勝歴を誇るイタリア娘で「モン・ヴィーナス」を踏み台に『プレイボーイ』モデルを夢見ており、派手な見た目だが根は純真な女性だったという。

ある晩、ウォレンがテレビのプロレス中継を録画しようとビデオテープを漁っていた。彼がテープの中身を確認しているのを盗み見たミシェルさんはその映像に驚いた。あのシェリルと娘のシャロンがトップレス姿でビーチで踊っている内容だった。(娘の裸を撮っているの?)と少女は困惑した。ベビーシッターの視線に気づいたウォレンは「誰にもいうな。冗談で撮っただけだ」と言い逃れをした。

ビデオ撮影の話はヘザー・レーンさんの耳にも入り、シェリルを叱った。シェリルは「ウォレンに頼まれたの。『プレイボーイ』に送ればデビューできるって言われて」と答えた。またシェリルは彼からセックスを求められたことも明かした。関係を拒むと男は“スイッチ”が入って暴力的になり顔を殴られたという。ヘザーさんは「私では守ってあげられない。あの父娘と距離を置くように」と諫めていた。89年5月、シャロンは職場に現れなくなり、“奇妙な父娘”はいつの間にか町から姿を消した。

 

捻じれたタイムライン

夫婦はかつて父娘関係を騙っていた。ジョー・フィッツパトリック特別捜査官は集められた情報を基に事件と男女の時系列を整理し直した。またオクラホマシティではかつて隣人だったという人物から父娘の古い写真が得られた。70年代に撮影されたと見られ、写っている少女は5~6歳のように見えた。

1990年にトーニャ・ヒューズが死亡したときの年齢が20歳。逆算すれば彼女の出生は70年前後と推測される。だが前述のようにフランクリン・フロイドは4歳女児への性的暴行などにより63~72年の間、その身柄は獄中につながれていた。つまりDNA型鑑定をするまでもなく、彼らが実の父娘でないことは自明だった。

犯罪学者によればこうした写真は性犯罪者に顕著な「記念品」と分析され、理想の「娘」を手に入れたときの記念撮影と考えられた。元「娘」で「妻」となり、死亡した彼女もまたフロイドによる誘拐被害者のひとりだったとする見方が成り立った。

70年代に撮られたとみられる「父娘」の写真

フィッツパトリック特別捜査官は一計を案じる。犯罪者には必ず独自の修辞法や行動パターンが存在する。「逃げ場」を求めるのに彼らは以前と同じことを繰り返す、土地鑑のある場所に戻ってくると考えられた。男が使用したことのある全ての偽名、運転免許証を全州に通知して、あぶり出しに生かそうとした。

誘拐から2か月後、男は網にかかった。免許更新のためにケンタッキー州ルイビルの車両管理局を訪れたのである。配達員が新しい免許証を届けに来たように装い、自室から出てきた男を取り囲んだ。過去には警察と銃撃戦を繰り広げたこともあり、SWATまで投入しての盗りものだった。

現場アパートの住人に聞き込みが行われ、フロイドは6週間そこで暮らしていたが、マイケルやほかの人間の出入りはなかったという。職場などでも確認が行われたが、少年の存在を知る者はだれもなかった。アトランタからのバスチケットも発見されたが、「子ども分」はなくフロイドは単身で移ってきたものと見られた。男は「こどもはアトランタに置いてきた」と捜査員に告げた。

俺は息子を愛してる。見つけてほしい

フロイドは取り調べに対し、「自分はマイケルを愛している。彼は存命で、金持ちの家に預けた」と供述した。しかし該当する人物はなく虚偽と判断された。さらに詰問されると「国外に逃げたとき残したままだった」と俄かには信じがたい供述へと変遷した。もはや言い逃れと捉えられ、捜査陣はすでに殺害されたとの見方が多勢を占めた。しかし自白も証拠もないまま少年の死を確定するわけにはいかない。

「会いたいです、彼は実の息子同然です。マイケル、愛しているよ。居場所さえ分かれば飛んでいくのに」「彼の大きな瞳が愛を伝えている、ひと目見れば本人だと分かります」

里親だったビーン夫妻はマイケルの写真をプリントしたTシャツ姿で記者会見に臨み、カメラ越しに情報提供を呼び掛けた。同じ髪色の少年を見かけたとの情報は全国から寄せられたものの、結局本人にはたどり着かなかった。

「そうと確認されるまでは、また会えることを期待してしまう」とビーン氏は捜索当時の思いを振り返る。

 

裁判

フランクリン・フロイドは男児誘拐、車両の強奪、銃器不法使用の罪で起訴された。

「裁判所で彼の姿を目にした。空虚で死んだような目をしていた。チャーリー・マンソンの目だ。恐ろしかった」とジョージア州での捜査に当たった保安官は被告を初めて見たときの戦慄を語っている。

一見どこにでもいる大人しそうなおじさんにも見えるが…

 

心証では限りなくクロに思われた「マイケル殺害」だが、現実の立証は困難を極めた。裁判では自白や直接的な証拠がなくとも有罪をとることは不可能ではないが、「合理的に疑う余地がない」水準にまで情況証拠を積み重ねる必要がある。しかしそもそも少年の遺体は見つかっておらず、移動中の二人の姿や殺害現場を目にした者もいない。いつどこでどんな犯行が行われたか、所在を含めて何も明らかにはなっていなかった。

フロイドにとって検察や裁判官とのやりとりも手慣れたものだった。彼は弁論の機会を与えられる度に、尊大なパーソナリティと自己愛性性格、反社会的人格によって彩られた反論を延々と繰り返した。

証言台に立ったフィッシャーさんは「男は親友のシャロンの父親で、彼女に“Daddy”と呼ばせていた」とジョージア州時代の男女の関係について述べた。だが被告人の男はうろたえもせず「あんたの言ってることはFBIの資料に基づいたでっちあげだ」と言い放ち、被告人の弁護士も呆れた様子で書類を宙に投げた。

たしかに耳を疑いたくなるような話だが、捜査資料やフィッシャーさんら男女の過去を知る者にとっては紛れもない事実だった。フロイドは「マーシャル父娘」「ヒューズ夫妻」の全てを実在しなかった出来事であるかのように“卓袱台返し”を繰り返し、まともな質疑応答はなされなかった。

 

被告弁護側は、校長の拉致や拳銃の不法使用といった事実は争わず、マイケルの殺害を徹底して否認した。また被告の統合失調症の病歴や不憫な生い立ちを説明して情状の余地を求めた。

フランクリン・フロイドは1943年6月、ジョージア州バーンズビルで5人兄弟の末っ子として生まれた。綿工場に勤めていた父親はアルコール依存症で臓器不全を起こし、フランクリンが1歳のときに亡くなった。29歳の母親は経済的に自立しておらず、親許を頼ったが祖父母も大家族の面倒まで見切れないと母子に退去を求めた。

子どもたちは児童養護施設に預けられたが、フランクリンは「女性的」だとしていじめを受け、6歳のときから性的暴行の標的、少年たちの玩具、奴隷にされた。喧嘩や盗みに加担させられ、施設の職員からも目を付けられることとなった。自慰行為を見つかって手に熱湯を浴びせられるといった厳罰を加えられたことも彼の人間不信を強固なものにした。1959年、彼は施設を脱走したが食料盗で拘束される。施設側は、すでに結婚してノースカロライナ州で暮らしていた姉に連絡を取り、彼への保護観察を交換条件として刑事告訴を取り下げた。

姉夫妻の家を追い出されると、フランクリンは母親デラと再会するためインディアナポリスへと向かったが、彼女は流浪の果てに売春婦になっていた。デラは息子に陸軍への入隊を薦めて手続き書類の改ざんを手伝い、フランクリンはカルフォルニアへと向かった。だが実際には15歳の未成年のこと、書類の改ざんも明るみとなって半年足らずで除隊となる。

母親の元に戻ったが再会は果たせず、16歳以降は前述の通り、刑務所と外を行き来する。刑務所でも受刑者からいじめやレイプの標的とされ、自殺未遂の記録もあった。事実とすれば、後に審問を免れて逃亡者となった背景には獄中で味わった絶望の日々を恐れていたためかもしれない。母デラは68年7月に亡くなり、イリノイ州シカゴのグレース墓地に埋葬されていた。

 

少年の遺体や殺害を裏付ける確証こそ出てこなかったものの、検察側はアトランタ地域での複数の知人を出廷させ、「マイケルをモーテルの浴槽で溺水させたと聞かされた」「埋葬するのをこの目で見た」との証言を引き出すことに成功する。

被告の横暴且つ独善的な振る舞いは陪審員の心証に悪影響を及ぼしたと見え、カージャック、児童誘拐、銃器不法使用の有罪により仮釈放なしの懲役52年の判決が下される。男は実質的に残りの半生を獄中で過ごすことが決したのだった。

 

糸口

マイケル誘拐から半年後の95年3月、強奪されていた校長のトラックがカンザス州で発見された。オークションで購入されたトラックを点検中の整備士が、荷台とガソリンタンクの間に分厚い封筒が詰め込まれているのを見つけ、中から97枚の異様な切り抜き写真が出てきたことから警察に通報した。

写真の大半は裸の若い女性が被写体だったが、彼女たちには明らかな暴行被害の様相が見て取れた。シャロンが含まれていたことからもフロイドの所有品であることは明らかだった。これまで認知されていなかった若い女性の写真もあり、彼女はどこの誰か、今どうしているのか、新たな謎が浮かび上がった。写真のコピーが各州に送られ、過去の失踪者、身元不明遺体などとの照合が進められた。トラックは94年10月にフロイドがテキサス州で乗り捨てたものだったことが後に判明する。

 

95年3月29日、フロリダ州ピネラス郡を通るハイウェイ275号線脇の林で造園業者が人間の頭蓋骨を発見する。付近を捜索の結果、全身のおよそ9割が見つかった。後頭部に2発の弾痕、目の下に骨折が確認されたことから直ちに殺人事件と断定され、豊胸手術の痕や衣服の一部などから被害者は若い女性と推定された。しかし植物の浸食状況から見ても5年以上は経過しており、該当者はすぐに浮上せず、女性身元不明者ジェーン・ドウ「I-275」としてリストに記載されることとなる。

約1年後、FBIから連絡が入る。フロイドが所持していた写真の「謎の女性」の首に巻かれたシャツと、「I-275」の現場で見つかった衣服片が合致したというのである。FBI当局では頬骨の比較、歯型鑑定などからも「謎の女性」とほぼ一致すると確認された。さらに女性の写真に映り込んでいた家具や背景からフロリダ州タンパ時代に「父娘」が暮らしていたトレーラーハウスでの犯行と特定され、女性の装飾品からフロイド周辺で失踪が疑われていた元ダンサーのシェリル・アン・コメッソと特定される。「モン・ヴィーナス」時代の同僚シェリルも、シャロンたちが失踪する間際の89年4月上旬に消息を絶っていたのである。

 

89年3月下旬、マーシャル父娘とシェリル・コメッソが店の外で激しく口論する姿が目撃されていた。同僚ヘザー・レーンさんによれば、その口論の前からシャロンの父親ウォレンがシェリルの所在を追っていたという。シェリルが書類に誤った記載をしたせいで、マイケルのメディケイド(低所得者・高齢者・障害者向けの医療保険制度)資格が認められなかった、と非難していたという。

シェリルは口論直後の4月初旬に「来週、親戚に会う」と告げて荷造りを行っていた。その後、空港で見つかった彼女の車は4月7日から駐車されたままになっていた。以来、彼女の姿を見た者はなかった。

マーシャル父娘の失踪は翌5月のこと。ウォレンはトレーラーハウスの隣人に「休暇で家を空ける」と話し、芝刈りや郵便物の面倒を任せて出掛けた。男女は「マーシャル父娘」の人生を捨て、89年6月15日にニューオリンズで結婚し、「ヒューズ夫妻」となる。6月16日には留守にしていたトレーラーハウスが爆発性火災で全焼する。後日、隣人のもとに「ウォレン」から電話が入り、火災があったことを伝えると「もう戻らないので貯まった郵便物も燃やしてほしい」と話した。近隣ではウォレンが人を雇って爆発させたと噂が立った。

 

フランクリン・フロイドの考えは短絡的だが合理的だった。シャロン失踪が大事になればトラブルのあった「マーシャル父娘」にも真っ先に捜査の手が及ぶ。そのため「父娘」を捨てて、今度は「夫婦」になったのである。そうまでしなければならなかった理由があるとすればただ一つ、男がシャロンを殺害したとしか考えられなかった。

遺体と犯行途中とみられる写真までもが見つかり、口論を目撃したダンサー、男女の生活状況に詳しいベビーシッターもいる。捜査機関は「妻」殺し、「子」殺しについて後塵を拝していたが、シャロン殺害によって今度こそフロイドを殺人罪で有罪に、死刑にできると確信した。

 

陪審投票は…12対0。2002年11月22日、フランクリン・フロイドはシャロン殺害による第一級殺人により死刑判決を言い渡される。

フロイドは証拠不十分などでフロリダ最高裁に直接控訴したが、2005年10月12日、控訴棄却となり有罪が維持された。

その後、リンチなどがあったのか、あるいは死刑回避の目論見か、2006年6月以来、人身保護礼状の請願を繰り返したが認可されることはなかった。アメリカでは「サーキット・コート(巡回区裁判所)」が日本で言う二審に相当し、フロイドは2007年に審理を申し立てたが、2009年までに審理継続の能力がないと判断され、罪状を否認する機会を一切失った。

だが捜査当局は、マイケル発見に至っておらず、その母親トーニャ・ヒューズことシャロン・マーシャルがどこの誰なのか特定することができずにいた。

 

本当の名前

ジャーナリスト作家マット・バークベック氏が事件を調べるきっかけは、2002年に知人から男と少女の写真を見せられたことだった。幼い少女は、凶悪な逃亡犯の元で「娘」として育ち、周囲からは賢く美しい善良な友人と見なされ、その後、「父親」の「妻」となった。彼女は周囲から愛されていたが、だれも彼女の真実を知る者はなく、実際にはどこの誰なのかも分からない。長い間、彼女の一番近くにいたあの男を除いては。

バークベック氏はフィッツパトリック特別捜査官に助力を求め、獄中のフロイドと面会する機会を得た。男は彼を味方と感じたのか、饒舌に喋りまくったという。

「何を書こうがどうでもいい。“真実”を伝える手助けをしてやろう」

彼の口から出てくるのは、不幸な人生への恨み節と、人々に対する否定感情だった。過去の少女暴行さえ否認し、シャロンについても「自分からついてきた」「俺に惚れこんでいた」と述べ、シャロンとマイケル、シェリルについても殺害を全否定した。

マイケルの行方とシャロンの謎を残したまま2004年に出版された『A Beautiful Child』は大きな話題となり、西欧諸国での翻訳出版、ウェブ上でも「シャロンは何者か」を主題としたサイトやスレッドが多数誕生した。2005年、一通の匿名メールがバークベック氏の元に届いた。

シャロンの娘のDNAは役立ちますか?

シャロンは三度妊娠・出産しており、マイケル以外は養子に出されていた。メールから見つかったシャロンの実子は三人目の子で、名はメーガン。『A Beautiful Child』を読んで心当たりのあった親類がメーガンの養母に連絡を取った。

89年当時、男は金銭目的で産前の養子縁組を求めていた。メーガンの養母は訝しく思ったが、天のお告げがあって生まれてくる赤ん坊を引き取ることを約した。養母は産後のシャロンと対話する機会もあったが、彼女は赤ん坊との面会を拒んだ。男が来ると女同士の会話は途切れる様子だったが、彼女から助けを求めるような様子もなかったという。

メーガン本人も生物学上の母親が事故死したことは聞かされていたが、本でその背景を知るまで出自について深く考えることはなかったという。産みの母親に関する記憶は何もなかったが、シャロンの人生の苦難はメーガンに怒りと悲しみと混乱をもたらした。シャロンやマイケル、そして自身の写真を見比べていると、やはり血縁者であることが実感された。

「ひょっとすると自分と同じような立場の、シャロンの子が見つかるかもしれない」

2011年、メーガンはDNA型鑑定に協力することを決めた。

国際的反響にも後押しされ、バークベック氏は国立行方不明児童搾取センター(NCMEC)とコンタクトを取り、現役を退いていたフィッツパトリック氏とも連携して「シャロン」の再捜査が開始された。折しもフランクリン・フロイドの立て続けの裁判が収束した時期でもあり、再び死刑囚とのインタビューがセッティングされる見通しが立てられた。だが相手は精神病質に嘘八百を並べ立てる曲者であり、一筋縄に行かないことは明らかだった。

2014年、新たにFBIから事情聴取のスペシャリストであるスコット・ロッブ、ネイト・フウ特別捜査官が派遣された。彼らに託された任務は次の3つ。

シャロンの正体は?」

「マイケルの行方は?」

シャロンの死への関与は?」

面会室で黙り込むフロイドに自己紹介をしようとすると、男は一方的に45分間喚き続けた。彼は二人を弁護士だと勘違いしていた。

「我々はFBIだ。再捜査を開始する」

不意を突かれる格好となった男はうろたえ、彼らをあしらおうとしたが、捜査官たちは間髪入れずに核心を突いた。

「お前はマイケルをシャロンの身代わりにしようとしていたんじゃないのか」

フロイドは泣き始め、二人は感情的になった今が好機と判断した。机を叩き、「嘘泣きをやめろ」と詰め寄り、「どうやって殺したんだ」と返答を求めた。

すると遂に男は「後頭部を二度撃った」と漏らした。誘拐から17年ぶりにもたらされたマイケルの情報は、殺害の自白という最悪の報告だった。証言からオクラホマとテキサスの州境で遺体捜索が開始されたが、大捜索も空しく遺体や遺留品の発見には至らなかった。

 

フロイドへの聴取は続けられ、落ち着きを取り戻した男は流浪時代の自分語りを長々と繰り返すようになった。「若い頃はイケメンだった」「あの辺じゃ一番のバス運転手だった」「こんな少女と知り合った」…

両捜査官は気分よく喋り散らす男の饒舌に便乗して「で、その当時のあんたは何て名前だったんだ?」とタイミングよく尋ねると、男は素直に「ブランドン・ウィリアムスと言ったかな」と答えた。

初耳だった。捜査本部で把握しきれていなかった別の偽名が飛び出したのである。その別の「人生」をたどっていけば、これまで分からなかった新たな事実につながるかもしれない。男は長期服役を終えて、74年、ノースカロライナ州で3人の子を連れた女と結婚したという。「“長女”はだれだ?」と口を挟むと、男は「お前たちが捜してるやつだ」と答えた。

長女の名はスザンヌ・マリー・セバキス。フロイドは出生証明書で「ミシガン州リボニア生まれ」と確認したと言う。それが20年以上失われていたシャロンの名前だった。

スザンヌ・セバキス

当局が出生届を検索すると、サンドラ・フランシス・ブランデンバーグとクリフォード・レイ・セバキスの実子と分かった。スザンヌの両親は存命だった。

高校時代の同級生だった二人は卒業とともに結婚し、翌年、スザンヌを授かった。

だがクリフは結婚からまもなくベトナムに従軍し、スザンヌと会うことができたのは生後半年経ってから得られた僅かな休暇の間だけだった。従軍期間を終えて戻ると、サンドラは別の男性と交際していた。二人は離婚し、サンドラは別の男性との間に新たに2人の娘を宿した。だが新しい家族も長続きせず、彼女は幼い娘たちを連れてトレーラーハウスでの4人暮らしを余儀なくされた。

あるとき竜巻が母子の暮らすトレーラーに直撃し、家が横倒しになる悲劇に見舞われた。サンドラは自分を探し求める子どもたちの声を遠くに耳にしたが応答することができなくなっていた。命は無事だったがショックで精神を病み、PTSDを発症した。このままでは子どもたちを守っていくことができないと考えた彼女は福祉局の助けを借りることにした。

クリフの元に連絡が入り、元妻の家族状況と養子縁組の話を聞かされる。相手先は、仲良し三姉妹を引き剝がすのは忍びないとして三人一緒に引き取りたいのだという。いきなり自分が三人の子を引き取るか、諦めるかの決断を迫られた。23歳のクリフは当時ベトナムで受けた心的外傷の混乱から立ち直れておらず、手に職もなく親元で暮らしていた。自分のことでも手いっぱいのなか、子育てをしていける自信は持てなかった。

PTSDのダメージとわが子を手離した罪悪感に苛まれたサンドラは、福祉局職員から教会に行くように勧められた。彼女は嘆き、懺悔し、祈り続けた。

泣き続ける彼女の隣に一人の男が腰を下ろし、落ち着いた声で言葉を掛けた。

「何があったんですか」

「きみの助けになりたい」

「子どもたちを取り戻そう」

「結婚して僕がきみと子どもたちの面倒をみるよ」

男は教会で嘆くシングルマザーに近づいた

サンドラは男に言われるがまま、夫婦となり、娘たちを家に引き取った。気づいたときには時すでに遅し、男は四六時中ナイフを持ち歩き、彼女にこう囁いた。

「逃げられると思っているのか」

男にまともな稼ぎはなく、生活は困窮した。サンドラは偽の小切手でおむつを買おうとして30日間の拘束を受けた。勾留が解けて家に戻ると、男と三人の娘はどこにもいなくなっていた。彼女は警察に駆け込み、娘を連れ去られたと訴えたが、民事不介入を盾に捜索を拒否された。大声で事情を訴えたが署からつまみ出されて相手にされなかった。

正確な時期は不明だが、二児は養護施設に入れられていたのが発見され、男はスザンヌ一人を連れ去ったことが分かった。

サンドラは「自分が早く気づいて男の許を逃げ出せていれば、あの子に何も起きなかった。母親としてあの子を守ることができたはず」と後悔する。

 

「モン・ヴィーナス」時代の同僚ヘザー・レーンさんは「シャロンの母親には腹が立つ。彼女の話は信じられない、だって自分の子どもを見つけられなかったんだから」と厳しい見方を示す。彼女自身もかつて誘拐被害に遭い、5年越しで母親との再会を果たした経験があるという。その間、決して裕福ではなかったが彼女の母親は全財産を投げうって捜索活動に充て、議員や知事に捜索協力を訴え、捜索番組への出演などできることは全身全霊を懸けて何でもやった。

ヘザーは言う。「なぜもっと頑張らなかったの?」

メーガンの養母は、スザンヌに関する話を聞こうとサンドラに電話でコンタクトを取ったことがあったが失敗だったと語る。彼女は自分の娘について興味がなさそうな反応しか返さず、疑問を感じたという。

スザンヌ・マリー・セバキス

 

2017年6月、オクラホマ州タルサで新たな墓標が建てられ、ささやかな告別式が催された。スザンヌ・マリー・セバキス銘での新たな墓石に立て替えられたのである。彼女は「トーニャ」という死の僅か一年ばかり前からの偽名ではなく、死後27年が経ってようやく自分の本当の名前を取り戻した。

人生の3/4を凶悪犯の元で想像もしがたい過酷な日々を過ごしたが、本来の家族ばかりか友人たちに慕われ、スザンヌも周囲の人々に、そして息子マイケルに愛情を捧げてきたという事実はまさに驚くべきことだ。捜査員やジャーナリストの奔走、多くの友人たちの証言によって、彼女の偽りのない人生が回復されたのである。家族や友人たちは各々の知るスザンヌについて語り合い、自分たちの知らない彼女を知り、その冥福を祈った。

彼女の娘メーガンは墓標に刻む銘文に次の言葉を送った。

「DEVOTED MOTHER AND FRIEND(献身的な母親、そして友人)」

メーガン自身も子どもを授かり、母親となって、スザンヌが自分たちをやむにやまれず手離したときに感じたであろう断腸の思いや、愛息に注いだ深い愛情が理解できたと語る。メーガンは長男にマイケルと名付けた。スザンヌの息子、そしてメーガンにとって亡き兄の名前である。

 

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