かくてアニメ沼に片足を突っ込む

 それなりに参考書や問題集を揃えても、一冊たりともやり遂げたためしがない子どもだった。自我の芽生えを迎える頃にはすでに“飽きっぽい”という自覚はあった。14歳の時分、周りで釣りが流行ったときも、どうせすぐ飽きるからという理由でタックル(竿、リール、ルアーなど釣り道具の総称)を揃えず、現地調達の“竹”と“ミミズ”、友人たちからの“お恵み”によって出費とブームをやり過ごした記憶がある。

“飽きっぽい”をポジティブな自己分析風に言い換えれば、物事に対して“浅く広く”興味を示す人間ということもできる。私はそういうタイプ、オタク能力に欠ける者と自負して生きることにした。それでいて反目するではなく、ときには羨望のまなざしすら織り交ぜながら、文化としてオタクやアニメを横目で流し見していたのだ。たとえばファーストガンダムは教養として、エヴァンゲリオンは終末論やアダルトチルドレンといった当時の社会を反映するテキストとして。

私はオタク的没頭を経ずしてやがて“おっさん”に進化した。そして、いま“アニメ”という深遠なる“沼”に自ら片足を突っ込もうとしている。

 

 

 

 もちろん予兆のようなものは多分にあった。たとえば仕事でこども向けの音源が必要になって、新旧アニソンを聞きまくる時期があった。そのなかで、アイカツプリキュアけいおんらきすた楽曲に感銘を受けることがあった。人気タイトルとは知っていてもアニメの中身は全く知らない。

また時を同じくして、スマホで遊ぶゲームアプリをあれやこれや探していて(飽きっぽいし得意ジャンルがない)、“デレステシンデレラガールズスターライトステージ)”に中ハマりした。端的に言えば、アイドルを育てる音ゲーである。音ゲーといえば、BeatManiaビーマニ)や太鼓の達人のようなアーケードゲームを見知ってはいたものの(飽きっぽいし)触れることなくゲーセンは卒業していた。かつて友人達が苦闘していた音ゲーとはいかなるものか、と眠っていた野心が疼いていた。すでにリリースから月日が経っていたため、多くの楽曲が出揃っていた。自分の限界を知るには1年半の月日を要した。私がゲーマーとして未熟なことはもちろんだが、それでもキャラクターたちに魅力とバラエティ、なにより楽曲のクオリティが想像以上に高かったため、なかなか飽きがこなかった。推しができたり好きな曲がコンプできると感慨もひとしおだった。

なにより私の中で、好きな音楽ジャンルは10代でハマったテクノ(ミニマル、トライバル)を軸に、20代でジャズ、民俗音楽、ハウス、ディスコ、ダンス寄りのR&Bへと嗜好は変化拡大しており、一部アーティストを除けば邦楽にもながらく触れてこなかった。それが、よもやアニソン、しかも萌えキャラが唄う楽曲に食指が動くとは思いもよらなんだ。最終的に芽兎めうの唄う電波ソングめうめうぺったんたんを愛聴する日々に感謝である。

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自分はアニソンにも好きな系統があるらしい、ということに気付いてこの楽曲にたどりついたが、いま現在も日向美ビタースイーツ♪(バンド)や『ひなビタ♪』については多くのことを知らない。私の中で(cv.五十嵐裕美)はデレステ双葉杏のままなのである。

 

 8月某日、ふと浜辺美波が腹黒アイドル役のNHKドラマ『ピュア~一日アイドル署長の事件簿~』(全3回)を見る機会があった。まともに彼女の演技を見るのは初めてだったが、表向きは清純派を装うも裏で腹黒な(全然売れない)アイドルという役柄からして、演技が巧いのか下手なのか全然分からない。堤幸彦監督の『TRICK』を彷彿とさせるコメディ調の推理サスペンス劇で、かつて仲間由紀恵がおかしみを醸した棒演技を彷彿とさせるものだった。それもそのはず作・脚本の蒔田光治、演出藤原知之らは『TRICK』堤組の門下生であった。役柄的に、ホンモノのアイドル(元アイドル)は生々しくて使えなかったであろうし、たとえ美少女でも広瀬すずのような演技派ではシリアスすぎる裏設定さえ予感させてしまったのではないか。共演の東出昌大が「ミステリーですが実にばかばかしくて、後に何も残らない」と笑って紹介するように、表面的なカラッとした演技、ある意味“ピュア”な部分が物語のコンセプトであるとすれば、罪の意識など微塵も感じることなく邪悪なことができる天使ビジュアルの浜辺はコメディ起用にぴったりだったと思わざるを得ない。

すると余計に浜辺美波の他の演技が気になる。主演作は…と探してみると、『咲』『膵臓』『賭ケグルイ』とある。どれも原作を知らない私は、ここで『賭ケグルイ』を選択する。どうしてか、アニメ版を。

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アニメ『賭ケグルイ』および第2期『賭ケグルイ××』は賭博狂の女子高生・蛇喰夢子の学園賭博バトルで、心理戦での駆け引きと緊張感で見応えは存分にあるものの、立て続けに見てしまうとマンネリや価値観のインフレが生じ、さすがに胸焼けするというのが賭博に興味がない私の正直な感想だ。しかしOPの耽美な絵柄は丸尾末広が描く世界のように怪しく、物語からEDへの入り方はシティハンターのように美しい。処方される薬の量が毎回微量ずつ増えていることに気付かない患者のような気分で興奮と鎮静を繰り返す。さらに段々と本性をあらわにし、淫らな欲望を満たすためだけに生きる獣のようにギャンブルを繰り返す蛇喰夢子のおぞましくも美しいこと。その虜になるや視聴者はどうすれば蛇喰夢子が賭け狂ってくれるか、何を賭せば滾ってくれるのかしか考えられないようになる。清廉で品のある美しい女子高生が狂気を覗かせることで私たちを骨抜きにする。そのcv.こそ早見沙織であり、デレステで旧知の超人気アイドル高垣楓とは似て非なるものなのである。

 

その後、本望だったドラマ版賭ケグルイを一通り見てすっかり浜辺美波を味わうことができたが、視聴者層の違いなどもあってか、物語の世界観そのものからしてかなりマイルドになっている。私の中で蛇喰夢子は早見沙織のものになった。おそらく先にドラマ版(浜辺美波版)に触れていたら、アニメ版に食指が動くことはなかったと思う。それほど圧倒的な演技の力、アニメだからこそ出せるキャラクターの魅力を味わってしまった私は、早見沙織さんの出演する他作品にも関心を広げようと思った。Wikiには2007年以降の出演作がつらつらと羅列されていた。その中にアニメに疎い私でも知る名前があった。

 

 『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』 通称“あの花”

 

アニメに疎い私には、そのタイトルから物語を察することなぞ敵わなかったが、誉れ高い名作とは聞き知っていた。“つるこ”がどんな役どころかは分からないけれど、凡作よりは名作、駄作より傑作を見るに越したことはない。

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名作だった。

最後まで“あなる”という至高のあだ名には慣れることができなかったけれど、つるこは“みんな”の中にいた。2014年FNS27時間テレビ明石家さんまがお気に入りの女性ベスト7に挙げる等局地的に愛されている。萌え要素の権化たるめんまに比べれば、メガネ以外ほとんど武器を持たないつるこがなぜ愛されるのか。スパイラル上にこじらせた愛情と友情、不器用さと健気さは(作中最もフレーム外に)だれよりも責任を感じて過去へ過去へと向かっているからだ。今更名作についてあれこれここで書くこともないが、死んだ人(めんまの幽霊)と生きている仲間との心理的距離感の描き方がとにかく素晴らしい。

 

 『心が叫びたがってるんだ。』 通称ここさけ

 

続編ではないが、超平和バスターズの3氏があの花と同じ秩父を舞台に描く青春ストーリーということでこちらも拝見した。正直グッと来ない。それならば、と超平和バスターズ結成前に監督長井龍雪、脚本岡田磨里、キャラデザ田中将賀の3氏が絡んだ

 

 『とらドラ!』に飛び込むことにした。

 

武宮ゆゆこ原作のラノベは未読。うる星やつらめぞん一刻のような付かず離れずなラブコメとして下地を組みながら、なんとなく盛り上がってフェイドアウトではなく、家族関係を主軸にすることでキャラのアイデンティティを際立たせ、最期には家族のかたちについて様々な解答を出そうともがいている。個人的には北村祐作と狩野すみれ(生徒会長)の関係性が最もキュンキュンさせられた。取っ組み合いのシーンなど素人目にも随所に神作画を感じさせられたドライヴ感の素晴らしい作品だった。なるほど岡田磨里脚本とはどういうものなのか薄々感じ始めたところで、

 

 『さよならの朝に約束の花をかざろう』に取り掛かった。

 

岡田磨里初監督作品である。

ファンタジー世界が苦手分野でもある私には荷が重いかに思われたものの、その世界観は想像以上のクオリティでまんまと迷い込んでしまった。年をとらない少女が人間の赤ん坊を拾う、というシチュエーション、母子として年月を経てからの近親相姦モード(血縁ではないけれど)。岡田監督の家族・親子に対する執念は恐ろしいものがある。すでに相当量泣いてきたが、あの花やここさけが“泣かせようとして作られている感”も拭いきれないと頭の隅で感じながら泣いていたのに対し、本作はただただもう涙が抑えきれない(大体全部泣いてますけどね)。過去作が「カサブタを自分で剥がす」感覚だとすれば、本作では「古傷を岩で殴っている」ようなものだ。

 

 お次は『ひそねとまそたん

 

またしても岡田磨里脚本、中毒性のある(ハマる人はハマる)作家あるいは見る人を選ぶ(苦手な人は苦手)作家なのかもしれない。『シン・ゴジラ』の監督・特技監督を手掛けた樋口真嗣が企画・監督、あまちゃんのファンイラスト(あま絵)で人気を博した青木俊直さんのゆるふわなキャラデザ、もしも空飛ぶドラゴンが空自にいたら、というファンタジックな設定と話題性はてんこ盛りだったものの、結果的には振るわなかった作品。個人的にはエンディングを全話飛ばさなかった数少ない作品。ドラゴンも含めキャラクターが固まり切っていない(ゆるふわ)感じと、物語の強引な「転結」がゆるふわさを削いでしまった印象。

 

 ふたたび早見沙織さんつながりで名前だけ知っている作品に戻って

俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に挑戦。

なるほどこれがハーレムものというのか、ふむふむ。電車男のようにオタク文化世相をかなり反映して(ときに諧謔的に)いて、NHKドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』も彷彿とさせる。アダルトゲームの分岐シナリオに準えた放映・配信のif展開とか、当時どれほど盛り上がっていたのかが分かる。とらドラと同じくけじめをつけた潔い終わり方も好感が持てる。

てゆかやっぱりあやせたん可愛すぎる。回し蹴られたい男子(おじさん)にはドツボじゃねーか。。。原作ラノベでも今年『あやせif』がリリースされたと聞くし、これは・・・むふふ・・・

 

もしや伏見つかささん原作がすきなのかもしれん、と『エロマンガ先生』にも手を伸ばす。キャラはかなり俺妹と重複する部分も多いが、属性は真逆の虚弱。紗霧がお兄さんを好きな理由が判然としないかな、と思いきや過去エピでしっかり回収している。放映時はTwitterでもちらほらその名を目にしたものだがいかんせんエロに振り切っている。。。

 

うむ。

あざとけしからんな。どぅふふ

 

 

 

 

以上、これが8月後半からの私の身に降りかかった悲劇だ。

内容を全く知らないまま夏の終わりに“あの花”見たあたりからヤバい気はしていたんだ。この先、飽きっぽい私がどうなるのかはまだ分からない。

私は純正二次オタにはならないし(そもそものきっかけが浜辺美波)、時間や体力的に毎シーズン多数の新作を追うような視聴もできない(なにせおっさんだから)。

ただ飽きるまで、楽しむのみ。

アニメは沼か、水溜まりか。。。

 

 

 

 

さて、

 

今夜は、

 

何を見よう?

 

【ネタバレ】最強おじいちゃんは今夜もあの娘の夢を見る 映画『ドント・ブリーズ』感想

 脚本監督フェデ・アルバレスはSF短編『Ataque de Pánico! Panic Attack!』(2009)をサム・ライミに評価され、『死霊のはらわた』リメイク版(2013)の監督に大抜擢されたものの、オリジナルの妙味であったユーモアの趣を排し、凄惨なスプラッター描写に徹した結果、旧来のホラーファンから大ブーイングを食らった前科あり*1。しかし本作では、前作での反省を生かして残酷演出を抑制し、肉迫するリアリティを探求した。一軒の建物に訪れた男女が得も言われぬ恐怖から逃げ惑うコンセプト、主演ジェーン・レヴィは踏襲されており、まさしく“はらわたリベンジ”を期す快作である。製作費10億円の低予算映画ながら160億円以上の興行収入を上げたアルバレス監督は、『ドラゴンタトゥーの女』シリーズをデビッド・フィンチャーから引き継ぎ『蜘蛛の巣を払う女』(2018)の監督脚本を担当した。

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女を引きずる老人の鳥瞰シーンから物語は始まる。

舞台は、荒廃した犯罪都市デトロイト。若い男女3人の窃盗団が、盲目の老人が隠し持つとされる事故死した娘の賠償金数十万ドルに狙いをつける。しかしその老人は驚異的な聴覚で人の気配を嗅ぎつけ、躊躇なく人を殺めることができる元海兵隊員の殺人マシーンだった。

 

窃盗団は、ホラーには定番ともいえる役割分担がなされている。妹を連れて育児放棄の母親からなんとかして逃げ出したいロッキーは“大胆さ”を象徴し、横暴な態度と暴力でロッキーを束縛しようとするマニーは“愚かさ”、悪いことだと理解しながらも犯罪に加担することでしかロッキーへの愛情を示せないアレックスは“臆病さ”を表している。日本でも貧困家庭は社会問題化しているが、即犯罪に結びつける論議が公には憚られることもあり、彼ら“招かれざる者”たちは観客の共感を得られにくい立ち位置でもある。だが貧困の連鎖から抜け出すことへの渇望は、彼女の若さと無垢な幼い妹の存在によって、想像以上に猛々しいものにちがいない。またデトロイトからの、貧困からの脱出こそが“自由”だとする彼女の指針は、そのまま“老人の家”からの脱出、“金庫”からの窃盗と入れ子構造になっている。はたしてロッキーは無事現金を奪い脱出することができるのか、自由を手にすることはできるのか。

 

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物語前半は、幾重にも施錠され、窓も板打ちされた家に閉じ込められて、暗闇の中を逃げ惑い、追い詰められていくシチュエーション・スリラーで、その名の通り観客も息ができなくなる緊迫感。カメラワークも秀逸である。

盲目×犯罪サスペンスという設定は、テレンス・ヤング監督『暗くなるまで待って』(1967)やリチャード・フライシャー監督『見えない恐怖』(1971)でも使われているが、ここではオードリー・ヘップバーンのような麗しい婦人でも、ミア・ファローのようなか弱いレディでもない。リアル・ジョセフ・ジョースターとも称される筋骨紳士スティーブン・ラングが演じる“絶対死なないマン”である。

 

後半、迷路のようになった地下室の奥に、真の恐怖が隠されていた。異様な空間に拘束される女、彼女こそ老人の娘の命を奪い、事故を金でもみ消した張本人・シンディだった。しかしロッキーたちの逃亡劇に巻き込まれ、老人が放った銃弾によって女は絶命。狼狽え、慟哭する老人。いよいよロッキーは捕まえられ、マウントを取られて鈍器のような拳でバチボコ殴打されるシーンなど、観客は擬似レイプされているような無力感と絶望を思い知らされる。老人はシンディへの報復と、それ以上におぞましい、神をも畏れぬ“計画”を託していたのだった。

 

「神などいないと受け入れることが出来れば、人はなんだってできるものだよ」

 

レイプはしない、としながら、倒錯した禍々しい“計画”を今度はロッキーの体で謀ろうとする。レイプという心身に傷を負わせる惨たらしい行為をイメージさせながら、その上を行く惨憺たる行為を是とする老人の発想は狂気以外の何物でもない。しかしそうした思考に至る原因は、最愛の娘を奪われる事件とその罪をだれも償わないことによるモラルの崩壊、神の不平等であり、傷痍軍人である彼自身も社会的立場からいえば“被害者”なのである。貧困の連鎖に陥るロッキーもまた社会が生み落とした“被害者”であり、観客は頼るべき精神的な支え(憎むべき敵)を全て奪われる。

 

アレックスの救出によって、最悪の事態は免れ、ロッキーは単身脱出に成功。外に出れば一安心かと思いきや、まさかのイッヌ!演出もあるだろうが、これだけ獰猛で荒々しい犬を手配したことで盲目の老人に足りないスピード感がプラスされている。

そして冒頭の引きずりシーンに戻ってくる。恐怖には立ち向かうことができても、絶望からは逃れられない。家のリビングへと連れ戻され、アレックスの遺体の横で、今度こそ死を覚悟するロッキー。そのとき彼女の手には、幸運の象徴・テントウ虫が、そしてアレックスの手には…

すかさずセキュリティマシーンを稼働させると、警報音が鳴り響き、間近にいた老人はその超人的聴覚が仇となり大パニック。ロッキーは老人を地下へと転落させ、九死に一生を得るのだった。

 

翌日、妹を連れて空港を訪れたロッキー。そこで目にしたTVニュースで、老人は命に別状なく、すぐに退院すると知って、何か不穏な気持ちがよぎる。ようやく彼女たちがたどり着いた“目的地”には、自由が待っているのだろうか。

 

 

 

つっこみどころは無数にあるものの(冷凍保存庫、切り裂かれたパンツ、セキュリティの意味…)、それを補って余りある恐怖と胸糞を堪能できる濃密な88分間だった。

別名『最恐じじいのホームアローン』は伊達じゃない(嘘)

 

*1:サム・ライミらオリジナル制作陣、ブルース・キャンベル主演によるドラマ版『死霊のはらわたリターンズ』(2015~2018。第3シーズンで終了)がHuluにて配信されており、こちらは主人公の30年後を描くコメディ・ホラーの装い。1stから見比べてみても面白いかも?

ドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』で呼び覚ませ!

 今更ながらNHKよるドラ枠で話題となった『腐女子、うっかりゲイに告る。』(2019年4月20日~6月8日放送)を鑑賞しました。昨今の民放ではなかなかお目にかかれない青春恋愛ドラマとして様々な感情を呼び起こさせてくれる傑作でした。

 

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主人公の男子高校生・安藤純を演じるのは、ドラマ『おっさんずラブ』(2018)でちずや武蔵の元嫁にぐいぐいイッてた「マロ」こと栗林歌麻呂役で好演を見せた金子大地さん。本作では打って変わってどこか陰のある男子高生を熱演しています。

女子高生のヒロイン・三浦紗枝を演じるのは、映画『ソロモンの偽証』(2015)で1万人規模のオーディションから主演に抜擢され、国内の新人賞を総なめにした藤野涼子さん。本作では恋する乙女の純情とパワフルさを瑞々しく演じています。

“質の高いドラマ”を表彰するコンフィデンスアワード・ドラマ賞(2019年4月期)では、金子さんが新人賞、藤野さんが助演女優賞、三浦直之さんが脚本賞を受賞しました。

 

 純は、偶然クラスメイトの三浦紗枝がBL(ボーイズラブ)を嗜好する腐女子であることを知る。学内での“腐女子バレ”を恐れる紗枝は、釘を刺すために純に接近。BLはファンタジー、本当のゲイは汚い、という純に対して、「ゲイの人に失礼」と怒る紗枝。

 

「真に恐れるべきは、人間を簡単にする肩書きさ」

「人間は、自分が理解できるように世界を簡単にしてわかったことにするものなのさ」

 

純はSNS上の親友Fahrenheitの言葉を思い出して、“腐女子”とラベリングをせずに紗枝と向き合おうとする。そんな純の態度に心を打たれた紗枝は、好意を抱いて猛アピールを掛ける。

しかし純にも、周囲の人間に明かしていない問題を抱えていた。同性愛者、それも年上妻子持ちの誠さんというセックスパートナーとの関係。それでも、ひとり親で懸命に自分を育ててくれた母の気持ちや自分の将来を考えたとき、異性を愛し、子どもを授かり、家庭を築く“ふつう”の幸せを手にしたい、と願っている。

同性愛者であることは知らないものの、自分のことを好きになってくれた紗枝となら、自分は付き合えるかもしれない。うまくやり遂げられる人間に変われるかもしれない。The Show Must Go On…純は紗枝の気持ちを受け容れ、2人は付き合うことに。

  Mr.Fahrenheitの言葉には、身につまされる思いを抱かされます。私たちは日常的に人や事物をラベリング・カテゴライズすることで、世界を簡略化しています。そこにはレッテルや偏見、差別意識をも孕んだ拡大解釈があること、ときにそうした認識が相手を苦しめたり傷つけることは、大抵の人が身をもって分かっていることでもあります。

純のように自分の性自認をクローズドにすることで無用な社会的軋轢を避ける同性愛者は少なくないでしょう。私が“ふつう”の恋バナや下ネタをすることで、そうした人たちを傷つけていたり負担を強いてしまっていたかもしれない。そして誠さんのように、鳥にも哺乳類にもなれない“コウモリ(性自認とは異なる結婚契約、いわば偽装結婚)”を選択する人もいる。純は、誠さんのような二重生活に憧れていたのでしょうか。はたしてそれは“ふつう”の幸せなのでしょうか。

 

 セックスを試みるもエレクトできない純。

 第4話では、純の精神が大きく揺らぐ出来事が起こる。

「いつか二人を認めてくれる国に行って、ずっと一緒に暮らそうと約束していたんだ」

「僕たちのような人間はどうして生まれてくるんだと思う?」

自分と同じようにクイーンを愛する親友、クローズドな同性愛者の生きづらさを共有し、多くの助言をくれたFahrenheitの自殺。

愛する従兄弟の死に動揺したFaherenheitは親に“ゲイバレ”し、葬儀に参列することも許されなかった。愛する人の死に向き合うことさえ許されなかった彼は、この世界に絶望し、自らこの世を去った。これからだれと困難を分かち合えばいいのか、何を頼りにして生きればいいのか、純は激しく動揺し、狼狽える。そんな純を受け止めることができたのは、誠さんだけだった。抱き合い、激しく接吻する二人。その姿を目撃してしまった紗枝。

  セックスに際し、気持ちに反して勃起しない、したいけれど濡れないなんて経験をしたことがあるひとは少なくないと思います。あらゆる情けない感情を煮詰めたような虚しさと、相手に対する申し訳なさが入り混じる瞬間ではないでしょうか。勃起や分泌液こそが愛情の象徴だったかのように錯覚し、自分にはこの人を愛する資格がないと神から宣告されたような失意。私は、純のエレクトエラーのシーンを見たとき、これはゲイの生きづらさが主題のドラマではないのだと確信しました。本作は、自ら腐女子やゲイの殻を被り、青春をおおっぴらに謳歌できない不器用な男女の青春ドラマなのです。

 ここまで恋愛下手な紗枝が空気を読まない強靭メンタルで皮肉屋の純に受け容れられようとする健気な行動が、物語をコミカルにポジティブな方向に引っ張られて推進していました。ですがMr.Fahrenheitの自殺によって、“闇落ち”してしまった純は一気に絶望へと駆られていきます。

 

 純の親友・亮平は、自分の気持ちを偽らない。紗枝を好きな気持ちはずっと変わらないけれど、大切な親友と幸せになることを願っている。そんな亮平の助言もあって、紗枝に、自分が同性愛者であること、なのにどうして付き合ったのかを打ち明ける純。

しかしそれを聞いたクラスメイトの小野は、亮平の気持ちを踏みにじるような純のやり方に怒りをぶつけ、純が同性愛者だと校内に噂を撒く。態度が一変するクラスメイト、気丈に振舞う亮平でさえ“いつも通り”ではなくなってしまう。純は、もう疲れた、と言ってクラスのベランダから飛び降りる。

「なんで僕なんか生んだんだよ」「なんで僕はまだ生きてるんだよ」

 純は死なず、親にも“ゲイバレ”した。ここではないどこかに行きたい。悶々とした思いで入院生活を送る中、紗枝と亮平が見舞いに訪れる。「純君、会いたかったよー!」「お互いのことをもっと分かった上で、また話そう」2人は純を放っておいてはくれなかった。それからも紗枝はBL本を口実に病室に通った。学校にはもう行かないかもしれないという純に、絵が表彰されるから終業式には来て、と念を押す紗枝。

 純の幼馴染・高岡亮平は切なくなるほどイイやつキャラでした。演じる小越勇輝さんは、ノリといいベイビーフェイスといいはまり役でしたが当時24歳だったと知って更に驚きました(若くね⁉)。

 またゲイバレしても動揺しすぎず取り繕い過ぎず、息子との絶妙な距離感を築く明るい母親・安藤陽子役・安藤玉恵さんも素敵でした。近しい母子関係は一歩間違えばマザコンへと解釈をゆがめてしまいますし、急に“同性愛”に迎合すれば途端にリアリティを失います。お母さんはよく分からないけど“息子”に寄り添う、というシンプルな愛情として描かれた点はとても良かったです。実際、高校大学生になった子どものこと全部分かっている親なんて気持ち悪いですから。

 また飛び降りについても、変に盛り上げ過ぎなかった結果、振り返ってみると第7話のスピーチが最も際立つという好演出に感じました。 

 

You can run, But not from yourself.

カフェバーを営む同性愛者のケイトは思い悩む様子の純に、逃げてもいいがどこかで戦う覚悟を決めなければ、生きにくいままだと諭す。純は終業式に出る決意をした。

「私は、BLが、大好きでーーーす!!!」

紗枝は表彰の壇上で突然のカムアウトを決行。ざわめく体育館、スピーチを遮らんと紗枝を取り押さえる教師たち。

「三浦、続けろ!」猛然と駆け付けた亮平が教師たちに抵抗し、義憤に駆られた友人たちが一気に加勢し、紗枝は大スピーチを強行する。

紗枝はすべてを語りあかす。腐女子バレで苦しんだ自身の過去、好きになった人がゲイだったこと、ゲイを隠して生きることを選んだ彼が味わってきた苦しみ、彼が求める“ふつう”の幸せを。「空気抵抗を無視する」ように、自分の性を異物として世界から切り離そうと生きてきた彼、そんな彼が好きで苦しい、と。

(世界を簡単にする。たったひとつ、大事なことだけ残す。大好きな子が泣いている)

純は壇上に駆け上がると、紗枝を抱きしめ、キスをした。

 その生き様から同性愛者のシンボルでもあったクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリー。原作小説でも章立てと物語の展開を示唆するものとしてクイーンの曲名が使われていますが、第7話に採用されたWe Will Rock Youブライアン・メイによる楽曲で、原作にはありません。しかし第7話の主人公は純ではなく紗枝であること、歌詞内容を社会が要請する“あるべき姿”“ふつう”を押し付ける世界に立ち向かおうと決起を表した応援歌だと解釈すると、大変符合した選曲に思います。クイーンはドラマティックな曲が多いためドラマを随所で盛り上げてくれました。

 しかし、第7話は“問題”も多く孕んでいます。自分の内的嗜好を周囲に晒すカミングアウトと異なり、他人の内的嗜好(秘密)を暴露するアウティングについては現実的には人権侵害に当たります。若者の暴走、青春の発露と括れば許される行為ではないので、視聴者は「ここまで晒す必要あるの?」とわだかまりを残して反面教師にする必要があります。また「同性愛者が全員オープンにすればOK」という類の話ではないこと、現実にはオープンにすることで被害が大きくなるケースもあること、理念としては同性愛に宥和的であっても現実には迫害する人や受け入れられない人も存在することには留意しておくべきでしょう。ドラマの体育館は祝福の歓喜に包まれますが、現実にはサイレントマジョリティが潜んでいるのです。

 紗枝の気持ちを真っ先に守ろうとした亮平や、紗枝と純を見守ってきたクラスメイト、ゲイ差別がしたい訳ではなく純の自分中心のやり方や自嘲的な煮え切らない態度に納得できない小野など、群像劇として大きなうねりを感じさせる大スピーチシーンは(内容に賛否はあれ)非常に見事でした。藤野涼子さんだからこそ“どこにでもいそうな腐女子”に輪郭と情熱と説得力を与えられた、今年最強のヒロインのひとりだと言って過言ではないと思います。

 

 海デートに誘われウキウキの紗枝。だが純が向かった先は、亡き心の友が暮らした家だった。

「僕が好きな男性を想う気持ちと、彼女を想う気持ちは、全く違います」

純はそう宣言し、Fahrenheitの部屋へと入る。そしていつも自分を支えてくれた彼が、その強さに憧れさえ抱いた彼が、実は年齢を偽った中学生だったことを知る。

「逃げたいんじゃなくて、自分を試してみたいんだ」

大阪でこれまでとは違う生き方をしたいという純に、紗枝は別れを告げる。そして純もまた追いかけてきたMr.Fahrenheitの影と訣別するのだった。

誠さんとの最後のデート。妻とのなれそめを語り終えると、弱いからそう生きることしかできなかった自分を鳥にも獣にもなれなかった“コウモリ”に準える。以前、純がした「もし2人がおぼれていたら」の質問に「僕は、妻を助けるよ」と答えた。

紗枝の受賞作品の展覧会に訪れた純。そこには、出会った当時の自分がモデルになった絵が飾られていた。

「僕をちゃんと見てくれて、本当にありがとう」

そして春、純は大阪の大学へ進学し、新たな一歩を歩きはじめた。

 原作未読の視聴者からすると、小野賢章さんのイケボ(イケメンボイス)にまんまと騙されていた驚きと痛快感がありました。 

 純と紗枝は、別れてからも連絡を取り合っています。フレディとメアリのように心の深い部分で通じ合ったかは分かりませんし、若い二人のこと、次第にお互いのことを忘れていくかもしれません。

しかし彼らは同性愛者として、腐女子として、二人が出会う以前よりも少し身軽になって生きていくに違いありません。これからどんな困難に向かおうとも「きっと神様も、腐女子なんじゃないかな(*‘ω‘ *)」というパワーワードで乗り切れるのではないでしょうか。

 

 

 

  原作は未読ですが、角川の小説投稿サイト・カクヨムにて連載されたweb小説、浅原ナオト『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(2018)。著者の浅原さん自身が性自認セクシャリティ意識について語っている記事・tweet群があったので転載します。

kakuyomu.jp

togetter.com

 

 昨今のLGBT界隈はかつての女性解放運動に似て、Twitterのような場では主義主張が分裂して当事者の方々にも様々な対立*1が顕著になっているように感じます。当事者コミュニティ内部でもまた別様の息苦しさに悩まされるジレンマは不幸としか言えません。

「ひとそれぞれ」で片づけるのはあまりに無責任ですが、人の数だけ性差がある、そのギャップによって制約や束縛を受けない社会ことが理想であることは皆共通していると思います(差別主義者は論外として)。ユニバーサルデザイン的発想でいえば、困難や苦痛を受けているひとが解放される社会設計がより広く、より多くの問題をシンプルでクリアーに変えていける。差別する人はいる、対応に困る人もいる、でも「ふつう」の許容量がもう少し広がっていけば、なくなるような悩みや苦しみもたくさんあると思います。

 

 「実は俺ゲイなんだけどさー」

 「へぇ、そうなんだ。じゃ、ちんこタッチやめるわ」

 「やめんな、学校辞めんぞ。ところで、こういうことで悩んでて」

 「それな。俺も似たようなことあったわ」

 「マジか」

 「皆はじめは結構戸惑うっしょ。俺の場合はこういうサイトで情報見つけて、みんなそんなもんかッて納得できたけど」

 「へぇ、ゲイ向けでもそういうサイトあるかな」

 「どうかな?あっ、幼馴染のゲイの友達がいるから聞いてみるわ」

 

 それくらいゆるふわな友達がいれば、許される居場所があれば、助かる命や小さなハッピーはもっと増やせるだろうと期待しています。だれだって自分が変態だ、と感じたことはあるし、変態をどこかで認めてほしい

そうした葛藤は、現在放送中のNHKよるドラ『だから私は推しました』で地下アイドル沼にハマったOLの物語にも継承されていきます。

 

 

*1:「オカマ」「オネエ」「女装家」などTVタレント化の進展によって、「同性愛者のイメージがー」と糾弾する方もいますが、一方で社会進出と言論の場を広げていることは確かです。ただそれが“目立たなければ生き残れない業界”というのは皮肉なことにも感じます

稲川淳二の怪談グランプリ2019 感想

 カンテレ夏の風物詩、昨今の怪談賞レースの代表格ともいえる『稲川淳二の怪談グランプリ2019』を後追い視聴(カンテレドーガにて8月22日まで無料配信中)。

令和初となった今大会は、下剋上バトルと題して、ニューカマーである令和怪談師たちが歴代チャンピオンに挑むという構図で5対5の団体戦形式により行われた。対戦相手は、令和怪談師がチャンピオンの中から指名する。審査員5名(稲川淳二大会委員長・山口敏太郎・2018チャンピオン大会優勝者島田秀平朝日奈央増田英彦)は「チャンピオン」「令和怪談師」いずれかの怪談師の札を上げて勝敗を決める。

 

www.ktv.jp

 

■第1回戦 

壱夜さん(一般公募枠。北海道の芸能事務所・ハッピーバレー所属の怪談師・占い師。怪談動画投稿歴10年。)

『逆さ緑さん』

霊感が強い方から聞いた話のためか、序盤はどこか飄々と、中盤以降も淡々と物語が進むためフックに欠けるものの、正攻法の怪談で番組を盛り上げてくれた。 気味の悪い声色は見事。

             ***

ありがとうぁみさん(2016チャンピオン。吉本CA所属芸人。ポスト稲川淳二と目される若手怪談界のトップランナー。)

『平行におばあさん』

金縛りの緊迫感、ぐぐぐぐっ、ぐぐぐぐっと接近してくる臨場感。曾祖母「からの」お姉ちゃん展開は見事な構成。圧巻。

 

 

■第2回戦

芳燈れいさん(タートルカンパニー所属。出家経験があり、霊視もできる怪談師キャバ嬢。)

『キャバクラ』

怪談師歴が浅いこともあり、このメンバーだと気負いや拙さが目立ってしまった。不必要な会話パートや声の抑揚が多すぎて、話の“山場”を分かりづらくしてしまった。Kさんについていた影の描写がはっきりなのか薄っすらなのか不明瞭。生死を彷徨ったほどの人なら急に病院に運ばれることもあるかなぁ、と感じる。

一方、「怖いじゃなくて気持ち悪い」というパワーワードで爪痕を残してくれた。

              *** 

田中俊之さん(2013チャンピオン。怪談と猥談を語り不気味なイラストを書くオカルトコレクター。)

 『予感』

遅刻魔のおばさん→遅刻の理由→不思議な能力、というサスペンスな展開と“声が聞こえる”というネタの面白み。

 

 

■第3回戦

旭堂南湖さん(一般公募枠。古典講談の継承、探偵講談の復活に加え、ホラー好きが高じてオリジナル怪談でも活躍する講談師。)

『ある事故物件』

事故物件、虐待といった現代怪談のネタを講談独特の間や緩急、ドラマティックな展開で盛り上げる。再現性の妙味は大会随一。感染・転移する話は、自分も巻き込まれそうな後味の悪さがあってよい。

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三木大雲さん(2014チャンピオン。説法スタイルの怪談を得意とし、“怪談和尚”の異名でも知られる京都蓮久寺住職。)

『金縛り』

展開は引き込まれるものの、ぁみさんと金縛りネタカブリ、最後が駆け足で不明瞭な点が残念。どうして住職は、亡くなったおじいさんを「寂しかったのだろう」と思ったのか。もし同様の体験をしたとしたら「あのとき掴んだ弾力のある感触が・・・」とか「あのとき掴んだものを引っ張らなかったら・・・」と色々な展開が想像される。

 

 

■第4回戦

ひで麿さん(タートルカンパニー所属、本態性振戦と向き合うトラック運転手芸人。)

『自転車』

活舌の悪さや震えが、不幸な生い立ちや心もとない中2の彼の心情にリンクしてプラスに働いていた。「あんた見えてんだろ」と姿を現した女が、彼自身知らない“生みの母親”だとしたらあまりに切ない。

                ***

早瀬康広さん(2017チャンピオン。タートルカンパニー所属、都市ボーイズとしても活躍する放送作家。)

『幸せのおまじない』

 潤んだ瞳に狂気が憑依。序盤で展開は読めるものの、岡山訛りの口汚さと迫力に人間のおぞましさを感じさせてくれた。

 

■第5回戦

山本浩之さん(元関西テレビアナウンサー。番組でカツラをカミングアウトする等、関西では“ヤマヒロさん”の愛称で親しまれる薄毛伝道師。)

『最後の伝言』

 “おくりびと”に託された老婆からのメッセージは、亡き息子への愛情だったというしっとり系怪談。「怪談をやったことがない」と言いながらも、安定したトーンの語りと完成度の高いストーリーで実力を感じさせてくれた。

               ***

竹内義和さん(2015チャンピオン。プロデューサー・作家・コラムニスト。伝説的ラジオ番組『誠のサイキック青年団』パーソナリティとして活躍。)

 『ベランダを走る男

「ピンクがかっている」というグロ過ぎない表現が、聴く人に生々しい想像を掻き立てる。心霊・オカルト系の話題では、基本的に「どうせラリッてたんだろ」という酒や薬物による幻視・幻聴という解釈はタブー(それを言ったらおしまい)なところに、“痴呆”という超高齢社会な切り口で迫った点が面白い。

 

 

 

 怪談バラエティでありながら、“勝負”のテイストを加え、明快かつ飽きさせない工夫が番組定着の要因と感じた。審査形式も点数ではなく審査員5人による2者択一、プロだけではなく女性アイドル枠・増田枠が賞レースながらも“真剣勝負になり過ぎない”安堵感を与えてくれている。だが大会の企画者の山口敏太郎さんが審査員席に座りながら、氏が代表取締役社長を務める山口敏太郎タートルカンパニー所属の怪談師ばかりブッキングするのはいかがなものかと感じる。ATRASラジオにて楽屋話として、自社所属タレントの審査はより厳しくしているとおっしゃってはいるが、同門対決までされてしまうと番組がタートルタレントの品評会のような印象に傾く。審査員・出演者の人選は難しいことと思うが、制作者にはより幅広い人選をお願いできればと。

大会は5対0で、チャンピオンチームの完勝。審査委員長・稲川御大の一存により、優勝は早瀬康広さんに決まった。

稲川さんもご存知の『岡山の霊能力者』というと・・・

www.nicovideo.jp

 

 

 

だれなんでしょうね。

 

 

 

「こわい」は、なぜ「たのしい」のか

創作かリアルかを問わず“こわい話を愉しむ”人間になった。

だが、ときにアンビバレンスで不可思議な感情に陥る。

こわいことはそもそも避けるべき、嫌なことではなかったか。

「こわい」は、なぜ「たのしい」のか?

さらに、こわい話を聞き比べるうちに、猛烈に面白いと感じるものもあれば、(パンチが弱いなぁ)だとか、あるいは(この人の芝居がかった語り口は好みではないなぁ)というように、自分の中で優劣や好みができてくることを気付かされた。私は「こわい」に何を味わっているのか。

  

             ***

 

哺乳類は、有害・危険とみなすものに対する生命保護のためのセンサーとしての機能、動物的本能として原初的「恐怖」(捕食者や苦痛からの回避本能)のようなものを備えていると考えられている。だが検知や測定が難しいこと、ひとの心的作用とどれほど近しく何が異なるのかといった判別がつかないため、ここではひとに係る「こわい」という感情に焦点を絞って考える。

  

 たとえば近所に野良ライオンや野良トラがいたら「こわい」。

急に噛みつかれたり襲われたりを想像すると「心配」になる。

だがあなたが動物大好きなムツゴロウさん*1ならどうだろうか

どんな子だろう?仲良くなれるかな?と興味が湧いて、「大胆」にも探しに出掛けるかもしれない。

  

 デジタル大辞泉によれば、「こわい」は、

1.それに近づくと危害を加えられそうで不安である。自分にとってよくないことが起こりそうで、近づきたくない。

2.悪い結果がでるのではないかと不安で避けたい気持ちである。

3.不思議な能力がありそうで、不気味である。

という意味が挙げられている。またブリタニカ百科事典fear の項を引くと、有害または危険な事態に対して有効な対処が難しい場合に生じるとされ、さらに、事態が具体化されておらず明確な(恐怖の)対象があるものを「心配」、明確な対象がないものを「不安」と分類している。総じて、ひとの想像力が、知識や経験からよくない結果を想像するとき、あるいはそれがどんな結論を導くのか想像もつかない対象を意識させられることで、「こわい」という感情が湧く。

 

 ではライオンやトラは、その存在自体が“こわい”のだろうか。

 「世界一危険な動物園」とも称されるアルゼンチンのルハン動物園。

ここでは、ライオンやトラ、クマといったいわゆる猛獣に直接触れ合うことが出来ることからそう呼ばれている。

ここの動物たちは、生まれたころから犬と一緒に生活しながら調教を受けることで、人の言うことをきく態度を身につけているため、襲ってこないのだという(1994年開園以来無事故であり、実際に「危険な動物園」という訳ではない)。観光客とハグやキッスをしたり、おなかをなでられてうっとりしたりと、猛獣たちもさながら自分は犬か猫とでも思っているようだ。

ここを訪れる観光客は、普段近づけないような猛獣に触れることや仲良くなることを楽しみにしている。決して自殺願望に駆られているのではなく娯楽として少しだけこわい思いをしに訪れている。動物が大好き、という人もいれば、スリルを味わいたくて訪れる人もいるかもしれない。このアトラクションには「危険」が排除されているからだ(無論事故は起こりうるもの、という「心配」がスリルを期待させる)。

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ジェットコースターやお化け屋敷といったアトラクションは言うに及ばず、心拍数が高まり、身震いするような高次の緊張状態にあえて身を置くことで「興奮」だけを味わう。たとえ危険を伴わなくても「恐怖」を感じることによって緊張を緩和させるための脳内麻薬が発生することを私たちは知っている。肝試しがまさしくそれである。かつてこのあたりでこんな事件があった、この廃屋にはこんな謂れがある、古地図によれば首切り場で…といった「不穏」なイメージに結び付くトッピングさえあれば、「暗い」「荒れた」場所を歩くだけで私たちは恐怖を生み出すことが出来る。さらにいえば、そうした恐怖のシチュエーションは、究極的にはトッピングさえも必要としないのかもしれない。恐怖の対象を想像し、逃げ惑うだけの“鬼ごっこ”という遊びをみなさんはご存知だろうか。

 

 怪談やこわいはなしを私たちは娯楽として、本や写真、音声や映像などを通じ、より危険性を取り払われた恐怖を享受することが出来る。メディアというフィルターを挟むことで、肉体に対する不可侵性は強固な「安全」を保障する。

だからこそ鈴木光司によるホラー小説『リング』で直接画面から這い出てくる長い髪の女が出現したことは画期的であったし、当時の記録媒体“ビデオテープ”による複製技術の特色を「増殖」や「連鎖」というイメージと重ねることで、読者もまた「逃げられない」そのループ(閉じたコミュニティ)に迷い込んでしまったかのような錯覚へと陥れられた。もちろん小説や映像作品から直接何かが3次元化するはずもない。しかしもしも現実にそのテープが、“呪いのビデオ”が、目の前にあったとして、ひとには「見る」か「見ない」かを選択する自由がある。それでも「恐怖を求める」読者には「見ない」ことが選択できないのである。それゆえに読者は“小説”に登場する“ビデオテープ”という、肉体からすれば二重に間接的な距離があるにも関わらず、自らの心的動機に駆られてその恐怖の仮想現実の中に身を置いてしまったのだ。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 上の記事で、こわいはなしの語り手(怖談士・こわだんし)のチャンピオンを決めるOKOWAで披露された三木大雲氏の『修業時代の怖い話』と石野桜子氏の『同窓会のお知らせ』という2篇を比較した。

言わずもがな会場の観客や配信視聴者は、こわいはなしを聞く気満々である。ともに幽霊やオカルト現象の類ではなく、“人怖(ひとこわ)”の体験談で、「昔私がこんな時期に」「こんな人が居りまして」と時系列に語られる。しかし物語は不穏だな、怪しいな、という空気を伝えるばかりで、あるはずの「恐怖」が明かされないまま「物語はここで一旦終わりなんです」と不意に閉じられる。手に汗握って前のめりに聞いていた者たちがそこでふっと緊張の糸を緩める。

「不安」を煽り、「緊張」がピークに差し掛かったところで事件が起こり、「緩和」して終わるのが一般的なこわいはなしの筋なのだが、この二篇は少し違った。

そこに物語の後日譚が再開し、前述の物語の裏側に潜んでいた真相が明かされて、はじめてその全容を理解するのである。物語に集中し「まだかまだか」と緊張する聴衆たちは、よもやの“肩透かし”に遭い、気が抜けた瞬間に“えも言われぬ狂気”が飛び出してくる入れ子構造のびっくり箱のような仕掛けに、増幅されたカタルシスを得ることが出来るのだ。「緊張と緩和」を逆手に取り、聴衆を手玉に取った名怖談だと私は思う。

 

                        ***

 

私たちは“怪”を“快”へと変換するイマジネーションを備えた生き物だ。はたして私はこの快の迷宮から抜け出せる日が来るのだろうか。

 

 

 

 

*1:動物研究家・畑正憲さん。東京大学理学部で動物学を学ぶ。1967年『われら動物みな兄弟』で文壇デビューし、以後動物に関するルポやエッセイを多数発表。1972年、北海道にムツゴロウ動物王国を開園。原則非公開だったが、1980年以降テレビ番組で取り上げられ、動物とじゃれあうムツゴロウさんの姿やスタッフたちとの共同生活がリポートされ、人気を博した

Nスペ『かくて“自由”は死せり ある新聞と戦争への道』についてのノート

 先だって昭和初期に発行された戦前最大の右派新聞がおよそ3000日分が発見されたと報道されたばかりということもあり、Nスペ『かくて“自由”は死せり ある新聞と戦争への道』を見た。

www.nhk.or.jp

ここで取り上げられた『日本新聞』は、大正から昭和初期にかけて司法大臣、鉄道大臣などを務めた政治家・小川平吉大正14年(1925年)に創刊した。発行部数は1万6000部と数の上では少ないが、後に総理大臣となる近衛文麿平沼騏一郎東条英機ら政財界や軍といった国の中枢部や地方の有力者から支持を集めていた。番組では、昭和10年(1935年)休刊までの日本新聞と、長野県下伊那(現在の飯田市)で音楽教師をしていた小林八十吉にスポットを当て、大正デモクラシーから急速な右傾化へと進む10年の歩みをたどっている。

なお当メモでは、番組内容で触れていない事象についても記述する。

 

             ***

 

公益財団法人無窮会*1所蔵。

 

日本新聞』

 日本主義———万世一系たる天皇中心の政治を主張

        反自由主義的立場

        共産主義的社会運動を赤化(危険思想)と糾弾

        「売国」「非国民」のレッテル

   

大正デモクラシー(1910年代から20年代ごろの自由主義思潮)

 ・普選運動、言論・集会・結社の自由

 ・男女平等、部落解放運動、労働権運動

 ・打破閥族・擁護憲政

 ・天皇機関説民本主義

 ・米騒動原敬内閣成立

 

長野県下伊那(現飯田市

 リベラルな風潮が盛んで“日本のモスクワ”と呼ばれた

 青年たちが自由主義に関する集会を活発に開催

 音楽教師だった小林八十吉は、自由主義的な教育のため自費でピアノを購入して使っていた

 

中谷武世

 日本新聞の社説担当、各地の有力者とつながり日本主義拡大の一翼を担った。

 1932年法政大教授、1933年大亜細亜協会結成。

 大亜細亜主義を唱え、美濃部達吉天皇機関説を批判した。

 戦中、翼賛選挙で当選。戦後、岸信介外交政策ブレーン。

 

大正14年(1925年)日ソ基本条約締結、普通選挙法制定、治安維持法成立*2

大正15年(1926年)1月加藤高明首相(護憲三派/憲政会)病没

         第一次若槻禮次郎内閣発足(憲政会)

         12月大正天皇崩御

昭和2年(1927年)昭和金融恐慌

         田中義一内閣発足(立憲政友会

         立憲民政党成立(憲政会+政友本党

昭和3年(1928年)張作霖爆殺事件

昭和4年(1929年)浜口雄幸内閣発足(立憲民政党

         世界大恐慌

昭和5年(1930年)ロンドン海軍軍縮条約締結(1936年脱退)

        →統帥権干犯問題に発展

         昭和恐慌

        (大量の失業者、民衆の困窮、農村部での身売り)

         浜口雄幸狙撃事件   

 

幣原外交

加藤内閣で外相を務めた幣原喜重郎は協調外交路線を唱えたが、軍部や枢密院とたびたび意見が衝突した。日ソ基本条約締結。対中として内政不干渉の立場を取り、南京事件(1927年)への対応について英米による最後通牒を断念させる。国内では田中内閣の対外強硬路線を批判し、浜口雄幸内閣で外相に復帰。政友会や軍部の反対を排除し、ロンドン海軍軍縮条約締結(1930年、全権は若槻)を支持。第2次若槻内閣では国内の対中感情が悪化し、恐慌の折もあって「満蒙は日本の生命線」とされ、満州事変となる軍部の専行を許してしまう。

 

田中義一

第2次護憲運動により分裂した政友会は第一党の座を失い、高橋是清が総裁を辞任。後任が決まらない中、請われて陸軍から転身し、政友会総裁に就任した。それまで高橋が唱えていた「軍部大臣文官路線」から、対立する憲政会(立憲民政党)の軍縮路線に対抗する対外強硬路線へ転換。また政友会本流の自由主義思想から一転して、鈴木喜三郎、小川平吉ら・反自由主義を唱える人材を入閣させ、親軍派や保守層の支持を集めた。1928年、張作霖爆殺事件の処理に際して軍部の反発に遭い、1929年「関東軍は無関係」と改めて奏上したものの昭和天皇の不興を招き、内閣総辞職する。

 

日本新聞は、浜口内閣に対し「統帥権天皇大権」であり、政府主導の条約締結は天皇の権限を侵した、と非難キャンペーンを張った

 

希望量が達成できなかったこと、また緊縮財政による大幅な予算削減により海軍内では条約派艦隊派が対立。海軍軍令部長加藤寛治天皇に奏上し辞職

大きな反発はあったものの浜口内閣は立憲民政党を推す世論と美濃部達吉の助言によって議会運営を押し切り批准。天皇がそれを認可した

野党・立憲政友会統帥権干犯問題として議会で提起

鳩山一郎「理由なしの政治、これは暴力政治である」

日本新聞「政党政治を排して天皇政治に復(かえ)れ」

 

中谷武世は国家改造を説く北一輝らとも気脈を通じ、革命におけるテロの必要性を感じていた。昭和恐慌によって困窮した若者たちの中には、中谷や北らの革命思想に共鳴する者もあった。昭和5年(1930年)11月、浜口雄幸狙撃事件実行犯・佐郷屋留雄もそうした若者の一人。中谷も示し合わせたわけではないが、狙撃の相談を受けていた

 

昭和6年(1931年)

第2次若槻内閣発足

満州事変(不拡大方針を取る若槻内閣に対し、満蒙問題の武力解決を推進する軍部によるクーデター)

内相・安達謙蔵が与野党と軍部を取り込んでの挙国一致内閣で難局を乗り越えようと画策するも閣内不一致により総辞職

犬養毅内閣発足

 

小林八十吉が暮らす下伊那地域では、恐慌の煽りで主要産業だった養蚕・製糸業が壊滅的に衰退。欠食児童に溢れ、芸術教育どころではない。給金の支払いもままならなくなり、昭和7年(1932年)3月に音楽教師を辞めた

ときを同じくして政党政治の弱体化が進み、収賄汚職事件が顕在化

既成政党への反発

「選挙と言えば買収・腐敗・堕落した選挙」と嘆いている

国内の閉塞した社会状況で民衆が満州侵攻へと傾倒していく

日本新聞「聖戦」「日本人礼賛」

八十吉も「自由」では人を救えない、と転向。日本主義を掲げる政治結社に参加

「国民精神の中心たる天皇 国民はその立場に立って 大生命たる大日本の完成に努力する」「侵略といえど侵略にあらず聖戦なり」

信州郷軍同志会(明治神宮に向かって機関説排斥を唄うデモ行進、陸軍省が経済的支援をしていた)にもその姿があった。

 

 

 

テロの連鎖

昭和7年(1932年)血盟団事件、5・15事件(以後、挙国一致内閣)

青年将校「祖国救済のための捨て石となる覚悟だった」

国民からの同情を集め、減刑を訴える声もあった

元海軍中尉古賀不二人「あのときだれが総理大臣になっとっても倒す、と。一つの転換のモーメントとして」

 

昭和10年(1935年)天皇機関説問題・国体明徴声明

憲法学の最高権威・美濃部達吉によって提唱された憲法解釈

反共主義国粋主義の思想家・蓑田胸喜日本新聞に31回にわたって批判記事を執筆

「生命の原理は生命 生命を支うる生命 その名は日本」(蓑田胸喜祝詞 全く新しきもの』)

陸軍大臣林銑十郎が議会で天皇機関説を否定

→野党立憲政友会・陸軍皇道派が政争に利用し岡田内閣退陣を迫る

 

美濃部達吉貴族院議員辞職、著作は発禁対象となり学説は排斥された

(翌年、暴漢による銃撃受け重傷)

 

1935年7月日本新聞休刊

    「日本転向の十年」「国運の進路は方向を決定した」

1942年小川平吉

敗戦から半年後、蓑田は自ら命を絶った

 

大政翼賛会に参加した八十吉は県内を周り戦争協力を呼び掛けた

戦後は会社員として6人の子を育てたが、戦中の思いを語ることはなかった

7月13日から終戦の日までその日記は切り取られていた

 

             ***

 

《感想》

 第2次安倍内閣発足以降、その政治風潮や世相を大正期になぞらえる言説を目にするようになった。それは単なる杞憂ではないと思う。左翼的に見れば貧困層の拡大や民衆の転向は目下進行中の危機と実感するであろうし、右翼的に見れば、維新遠からじ我も捨て石たらんと希望を抱く内容だったのではないか。

論壇・知識人や敵対する野党陣営に確たる主義や希望が見いだせない分、状況は現代の方がシビアかもしれない。政治離れした若者、困窮する民衆は、自分の力の未熟さに嫌悪を抱き、理想だけで飯は食えないことを身をもって知っている。それがゆえに劇場型政治家やカリスマのキャッチーな主張にとりこまれやすい。メディアの状況もさらに悪く、投票率を上げたくない、政治に介入してほしくない、と多くの国民の目を背かせてきた結果が「N国」だと私は思っている。政治家も本気で投票率上げるつもりがあるなら、普段の政治ニュースや事前特番を充実させるよう働きかける方が有意義だし、各党候補者らによる公開討論の場でも設けてくれた方が政治意識も高揚するというもの。国民の4割に満たない人々しか投票しないって結局「選ばれた人」しか選挙していないのとそう変わらない。さらに「天皇機関説事件」も、「憲法解釈」に沿って運用される危うさを感じざるをえなず、自民党改憲を進める真意も分かる。ここまできたら現代と比較した番組構成にしてくれよ、と思ってしまう。

視聴者の声には、朝日はじめその他メディアとの比較を求めるものが多くあった。たしかに大衆を戦争へと扇動していったのは大新聞の影響が大きい。番組としては、当時のエリートや有力者と大衆の階級差や、軍部でもなぜ青年将校らが憂国の士であるかのように「テロ行為」に走ったのか等の検証や説明があるとありがたかった。どうして発行部数1万6000部の小メディアが先導的地位だったのか、に関する説明がおろそかだったため、結論ありきで「日本新聞だけが悪者」のような見せ方になっていたのは残念に思うし、検証が待たれるところ。

高校日本史の授業も勉強も足りなかったな、と痛感しつつ、ここで取り上げられた10年間のように大正デモクラシー→戦争に至る政治のメカニズムみたいなものはもっと学ぶ必要がある。

戦後ではなく、戦前に生きていることを実感した。

*1:大正4年平沼騏一郎等により創設された研究調査会。現在は私設図書館、東洋文化研究所を運営

*2:ロシア革命後の共産主義の拡大、米騒動等社会運動の活発化、関東大震災の混乱などから、平沼騏一郎ら司法官僚による制定の意向がかねてより存在していた。2月横田千之助急逝の後、司法大臣に就任した小川平吉が制定を推進した

祟りにまつわるエトセトラ

 かつて人気を博したABCラジオの番組『北野誠サイキック青年団』(1988.4.~2009.3)で、お盆時期恒例の人気企画として真夏の怪談特集があった。

パーソナリティの北野誠氏とレギュラー竹内義和氏、ゲストに怪談蒐集家の中山市朗氏を迎え、リスナーの投稿から話題を広げて、関連する逸話を披露するといった内容だ。その2008年8月17日放送回で興味深いトークが展開された(42分ごろから)。


www.youtube.com

 

元Sugar(1980年代の日本の音楽グループ)のモーリ(毛利公子)さんが“お岩さんの祟り”に遭った、というリスナー投稿から話が膨らんでいき、“将門の首塚”などを迂回して、話題は「念」「怨念」へとフォーカスされていく。

 

・将門だけでなくさまざまな武士の怨念が集まっているのではないか

・ある一定のベクトルを持った多数の念が合流して“祟り”になるのではないか

・祟りがある、と大勢の人々が思い込むことで、効力を帯びるのではないか

・ひとは想念をキャッチしてしまう(祟りに怯える、祟られる)

・念を感知する・想起させるセンサーのようなものがある

・(祟りが)あるかもしれないと思った瞬間、(災いを)呼ぶ

 

 

 言葉として発した瞬間に、具現化させてしまうような霊力が宿るとする“言霊”の発想にも近い。だとするとモーリさんが先立たれることを予見していたかのようなインタビュー内容も妙に恐ろしく思えてくる。

 

 行為の報いとして神仏や怨霊が霊的な現象や制御不能な災いを引き起こすことを“祟り”と呼ぶが、かつてのそれは、飢饉や疫病、天災などを指し、神仏の怒りの顕現と解された。人々の悪い行いのため、禁忌を破ったためだと戒めの意味をこめて、「海の恵みに感謝せよ」「裏山に立ち入るべからず」と共同体に規範が成立する。

我々に罰を与えるのは神であり、我々が罪を犯すから罰を受けたのだ。人知では計り知れない恐怖・畏れに対して、受難の原因を自分たちの誤った行動に対する報いと考えることで、自分たちを納得させた。神は異界から我々の行いに目を配り、悪行は共同体の外(周縁)からやってくるものだった。

政治的背景や戦争、宗教の発達によって、祟りは自然界・生物界の枠を超えて、ひと、死者の恨みつらみが怨霊になり災いをもたらすと信じられていった。怨霊の鎮魂によって災いの終息と国家安寧を図る、日本でいえば、平安期の「御霊信仰」に連なる。為政者や宗教家はその災いを神ではなく“(死んだ)人の仕業”と仮託し、“鎮静化できる対象”と見立てることで、民衆の心の救済を図った。いわば共通の敵を立てることで、民衆の不満を逸らすのだ。災いが治まれば物語として共同体全体に、歴史として織り込まれることで後世へと伝えられた。

祟りには、理解の範疇を超える災いに対して、文脈を与え、共通認識させる安全装置の側面がある。

 

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見立三十六歌撰之内 藤原敏行朝臣 累の亡魂/三代歌川豊国(国貞)

  現在の茨城県常総市羽生の法蔵寺裏手、鬼怒川のほとりの農村で、17世紀半ばに実際に起こった事件として伝えられる“累ヶ淵”という奇談がある。

百姓の与右衛門と杉の夫婦があった。杉の連れ子・助は生まれつき醜い見た目で足が悪く、与右衛門から大層疎まれていた。夫婦仲が悪くなることを心苦しく思った杉は幼い助を川に投げ落として殺し、あくる年、与右衛門との間に新たな子を授かった。その子は累(るい)と名付けられ、やがて死んだ助と生き写しの醜い容貌へと成長した。助の悲劇を知る村人たちは彼女は助の怨念が重なって生まれたのだと噂し、累(かさね)と呼んだ。

病で相次いで両親に先立たれた累は、堂で病に苦しんでいた谷五郎という男を助けることになる。流れ者だった谷五郎だったが恩返しに農作業の手伝いなどしていると、村人もそれを見初めるようになり、累の許に婿入りすことになった。だが性根が出たのか、やがて累の醜さが疎ましくなり、他の女といっしょになろうと、累を川へ突き落して殺してしまう。

その後、谷五郎は幾度も後妻を迎えるが、早死にしたり離縁したりと長く続かない。やがて7人目の妻が娘・菊を授かるが、14歳を迎えると累の怨霊が憑依したのだった。菊の口を借りて、谷五郎の非道を、殺された真相を訴え続ける累の怨霊の凄まじさ。やがて話を聞きつけた祐天上人*1の法によって累の解脱に成功するも、菊は再び憑依される。それは村の古老の話から、菊にとり憑いているのは幼い頃に殺された累の姉・助だと分かり、祐天上人は懇ろに弔って解脱させた。

 

 

  この話は、元禄3年(1690年)『死霊解脱物語聞書』という仮名草紙に収められて知られるところとなった。のちに四代目鶴屋南北(『東海道四谷怪談』をはじめ怪談狂言のヒットメイカー)が歌舞伎『色彩間苅豆』、三遊亭圓朝が落語『真景累ヶ淵』を公演するなど、江戸後期にはだれもが知る怪談のモチーフとされた。

 

 現代風に解釈すれば、助と累の姉妹は遺伝性・先天性の病と考えるのが妥当である。二度の憑依にあった菊も、何がしか障害の種を受け継いでいたやも知れない。あるいは狭い集落にあっては、立て続けに災いの起こる「家」の悲劇を耳にしていたであろうことも想像できる。またそのような「家」の娘として、苛烈ないじめや年頃からし性的虐待の餌食にされていたとしても不思議ではない。もしそうだったとすれば私には憑依というより解離性同一障害(多重人格)のように受け取れる。流れ者だった谷五郎についても、今でいうDVのような粗暴な面があって後妻たちを苦しめたのかもしれない。

そういった解釈をしてしまうと、私には、“累ヶ淵”の出来事を怪談や祟りに括ってしまうことが憚られるのである。

 

 しかし当時はもちろんそういった医学的・心理的な研究やこどもに対する人権意識はまだまだ進んでおらず、「間引き」「子殺し」が頻繁に行われた時代にあって、この話は今よりもっと肉薄して感じられた問題だったはずだ。しかし糊口をしのぐため、望まれぬ間柄に授かってしまったため、といった“現実的に”やむにやまれぬ事情ではない。“生まれつきの醜さ”のせいで親や夫の身勝手な理由で、非業の死を余儀なくされた不憫な姉妹の哀しい祟り。ひとびとは与右衛門や谷五郎ではなく、少なからず姉妹の怨霊に同情していたに違いないのだ。

ひとがその災いを祟りという物語になることで、想像力の依り代となり、理解を助ける。そうやって祟りは人から人へ、次代へと伝播し、その効力の範囲を広げるのである。

*1:のち小伝馬の伝通院住職、将軍家菩提寺である増上寺法主を務め、徳川綱吉・家宣らの帰依を受けた高僧。没後に目黒・祐天寺が開山される